ハリウッドの映画業界あるあるだが、有名な書籍が映画化の権利だけ買われて、映画化しなかったなんていうことはザラにある。その本がベストセラーで、割と売れそうだからという理由で、青田買いされ、なんだかんだと塩付けされていつの間にか計画事頓挫するなんていうのは結構ある話だろう。
だから、まさか殆ど20年越しにあの時、映画化の権利を買った陣営によって、まさかちゃんと映画化されるとは思わなかった。この報告をネットニュースで見たときは、自分の目と液晶パネルを疑った程だ。ただ、キャストの決定も同時に発表されていて、コレが嘘じゃないと分って喜ばずには入られなかった。
ただ、日本にこの作品が入ってくる時に公開規模がどのくらいで放映されるかというのはまた全く別の話だ。この作品は内容がやや難解なテーマの為に、上映規模は大きくはなかった。そのため、かなり遠出はしなければ、見に行くことは難しい。さすがに、映画を一本見るために、高い交通費と映画の上映時間よりも長い移動時間は高校生には厳しいものがある。
だからようやく、念願のネット配信が決まったと知って、入ても立ってもいられなくなり、もう一回、原作のその本を読み直していた。もちろん、いつもの図書室で。そうするとある意味、いつも通りに「町田さわ子」がちょこまかと足音を立てて隣の席にやってきて、そしてこう言った。
「ねえねえ、神林、何読んでいるの? 何か、結構古そうだし、図書室の本でもなさそうだね?」そう訊ねてきた。確かに、この本は自分の物だ。やや焼けはあるが、初版のまだ帯が付いているものを随分と前に、ネットショップで購入した。それの帯には、20年前の情報でもある映画化決定の文字が刻まれていて、ある意味希少価値がある。私はやや自慢気な気持ちを抑えながら、声のトーンを調整して、軽く本の紹介をした。
「ああ、これは自前の本だ。タイトルは『博士と狂人:世界最高の辞書OEDの誕生秘話』ていう辞書編纂について書かれた物語だ」そうややぶっきらぼうに言うと、予想通りの反応が返ってきた。
「なんか、難しそうな本読んでるね。あんまり興味ないな~」と町田さわ子はかなり正直に答えるが、まあそこはコイツの悪い所でもあるし、良い所でもあるし、好ましい所でもある。さて、此処からがこの会話で重要なところだ。こいつにどうやってこの本に興味を持たせて、面白そうと思わせるか……取り敢えず、こんな質問を投げかけた。
「なあ、この辞書『オックスフォード英語辞典』通称『OED』ていうんだが、いったいどのくらいの年月で、初版が完成したと思う?」そうなんてことないように訊ねた。彼女は、少し考える素振りをして答えた。
「そうだなぁ……辞書って、作るの大変そうだし、英語の辞書ならアルファベット一つに半年だとして、全部で26個だから……まあ13年から15年くらいかなぁ」と案外、妥当なラインを引いて喋ってきたから驚いたが、残念ながらその程度じゃない。私は出来るだけ淡々と事実を述べた。
「この『OED』は、初版で、単語数は約41万語収録、用例は約182万使用、文字数にしては驚異の約2億2700万字が使われたんだ。ちなみに、完成までには約70年もの歳月が掛かっていて、この本の主役の二人の死後に完成することになる」
私はややゆっくりと事実を言いながら、町田さわ子の様子を伺っていた。一つの事実を言うたびに面白い程に、コイツの反応は良くなっていくのが、痛快だった。
「うわぁ……実は掛かった年月、割と盛った計算で答えたのに、それの4倍強以上なんだ。そりゃあ『狂人』ってタイトルが入るよね」と本当に驚いたように素直に答える。この辺りの変な裏表なさは、相手していて楽しいから、もっとからかいたくなってしまった。
「いや『狂人』の方は実際に精神病棟に入院していたアメリカの軍医だ。ちなみに入った理由は殺人だ」
そう出来るだけ、素っ気なく、答えた。さて反応はどうだ。そうすると、これまたなかなか食いつきが良かったようで、町田さわ子はやや、語調を強めて聞いてきた。
「へぇ……でも、殺人ってことは、なにか相手の人と特別な事情でもあったの?」これはこれで良い反応だ。ここからは、やや溜めるように、語調を濁して話すのを意識する。
「いや、彼はアメリカの軍医なんだ。つまり、この辞書が作られた時代の戦争、有名なアメリカの南北戦争での北軍側での従軍経験があって、それによって、世間一般の見方が変わってしまった……と考えられてる。実際に、自分自身が『味方』の軍の罰則規定、まあつまり戦線からの『逃亡』に当てはまった『アイルランド系』の人を傷つけた事が、PTSDつまり心的外傷となったんだ。それが、病院に入るまでの妄念を引き起こしたんだ」
私がやや、悲し気な言い回しをして、町田さわ子の反応を待つ。彼女は、犬が尻尾を振っているように、私の話の結末を待っているのが分かる。勿論、最後まで殺人の理由を述べる。
「そうして、取り敢えず南北戦争が終わったが、自身が行った、医療行為ではない『アイルランド系』への軍務的な罰が、いつしか『アイルランド系』の人々が、自分自身に復讐するという考えに変っていったんだ。そうして、一度、アメリカの精神病院に入った後に、ある程度回復が認められて、月日が経ち、療養の為にヨーロッパ旅行に行くんだが、イギリスで『アイルランド系』の思い込みから、護身用に持っていた拳銃で『人違い』で殺人を犯してしまうんだ」
私が出来るだけ感情的にならずに語っていたが、これには彼女もとても常識的な見解で、返答した。
「で、でも殺人って、流石に『人違い』で起こすものじゃないんじゃないの?」そう、当たり前の疑問を投げ掛ける。
「だからこそ、この話はなんとも奥深いんだ。いってしまえば、彼はその時、そこまでの錯乱状態だったんだ。それと同時に、割と早くに警察に投降しているんだ。それで確かに、彼は人を殺したし、それは事実なんだが、別にその人物を殺したかった訳じゃないんだ。この殺人は精神病からくる妄想からの『人違い』だから、下された判決は、この錯乱した精神状態を鑑みての『無罪』ただし、精神病棟での経過観察、さらにその期間は『女王の思し召しがあるまで』まあ、事実上の『無期懲役』だな」
なかなかにハードな展開にどういう表情を見せるか気になったが、彼女はなんとも言えない表情をしている。故に、ここでもう一押し、と思った。やや、芝居がかった声で、解説をした。
「アメリカの元軍医であるが故に、病院内でもある程度恵まれた生活、他人と比べると悪くはない精神病棟の一室、しかし、それでも本当に閉じ込めるだけの精神病棟。何時までも外に出ることが出来ない現実、あるのは時間を潰すための壁一面の本棚、そんなかで、ただ時間を、本の知識と向き合うだけで、無為に捨てていた絶望の中、彼に舞い込んだのが、ある一冊の本に出会うんだ。いや正確に言えば、その本に挟まれていた8ページの広告に出会ったんだ」
ここまで、語れば、本当に食いつきが良いのが、分かる。
「何の広告か、分かるか?」とても簡単なクイズだ。町田さわ子の目線は、今、私の手の中にある本のタイトルを見ている、おそらくきっと副題の方だ。
「ああ、そこで『OED』と出会うのか……」
「そう、そこで辞書の編纂者募集の広告、つまり『OED』を作成する人々の募集に、触れて、彼は動き出すんだ。それが、唯一社会と繋がれ、認められ、自身の尊厳を失わない仕事だったんだ」
この町田さわ子の反応はなかなか悪くない紹介になったと思ったが、一つ疑問に思ったのか、ある事を聞いてきた。
「でも、権威ある辞書なら、辞書編纂者の身元とか階級とか気にして、精神病院の入院中の患者を編纂者に受け入れるのはちょっと意外だなぁ」とぽつりと呟いた。今度は私が食いついた。
「いや、まさにそこなんだ。実はこのやり取りは、ずっと長い間、手紙だけでやり取りされていて、この時の辞書編纂の中心人物だった、マレー博士は長年不思議に思ってたんだ。それは、辞書を作るというとても大変な行為で、物として『必要』にはされていたが、その分多くの協力者が必要だったんだ。そんな中で、積極的な協力を行ってくれる数少ない存在に不思議な人物がいた」
此処までいえば答えのようなものだが、勢いまかせて、敢えて最後まで語った。
「その相手は驚異的な数の辞書編纂に関する手紙を送り合った間柄だ。しかし、たった約40マイル先、汽車で約一時間の距離しか離れていないのに、連絡を取り合ってから10年以上の長い時間、実際に合うことなく協力してくれている謎の医者は不可思議な存在だった。そして、実際に会いに行く事になる」
「それが、さっき話した『狂人』なんだねぇ……」と町田さわ子は一人で呟いた。私はコレは貰ったと思い、少し自信あり気にこんな事をいった。
「なあ、この後の展開、二人の物語の結末どうなるか気にならないか?」そう言って、本を差し出した。勿論、コイツに貸して、感想を聞くためだ。町田さわ子は「わあ、いいの?」と真っ直ぐに見つめてくる。
「勿論」と答えて、渡そうとした時に、ある物が本から落ちた。それは、あの初版の帯だ。それを彼女は当然のように、拾ってくれるのはありがたいんだが、どうか今だけはこの帯に書いてある煽り文句を読まないでくれ……と願ったが、当然のようにこう聞かれた。
「ねえ、この結構くたびれた帯に、映画化決定ってなってるけど、この話、映画になってるの?」酷く当たり前に、そう聞かれた。
私はしどろもどろになりながら、何とか答えた。正直、言わなくてもいいような事をいくつか答えてしまった。二十年前の企画が復活したとか、でも日本では小規模公開だったとか、だから私は見れていなくて、ネット配信が決まったから読み返しているんだと、ああ、これでは、町田さわ子がこの本をわざわざ読まないだろう。
「そっか、じゃあとりあえず、この本はまあいいや」そう言って、せっかく此処まで勧めたのにあと一歩の所で、勧めきれなかった。ただ、その後に意外な事を言ってきた。
「それで、二人で映画見ようよ、今度、家で!」まるで、とても良い思い付きのように強引に彼女の考えに引っ張られた。もはや、断り様がなかった。
個人的にはしっとりとした雰囲気で、ゆっくりこの作品は味わうつもりだったが、まさか「町田さわ子」の家で鑑賞する事になるなんて思っても見ていなかった。
ああ、これでは余計に、原作を読み込まなくてはいけなくなってしまった。そして、余計にネット配信がされるのが、待ち遠しくなった。
参考文献一覧 「博士と狂人:世界最高の辞書OEDの誕生秘話」 サイモン ウィンチェスター (著) 鈴木 主税 (翻訳) 出版社 : 早川書房 (1999/4/1)