自分の部屋の隣のドア、つまるところ梨香の部屋のドアの前で、チャドは立ちつくしていた。握りしめた右手をノックでもするようにそっと上げ、そして下ろす。かれこれ10分ほどこれを繰り返しているのだが、未だに決心はつきそうになかった。
ちょうど後ろに広がる空は茜色に染っている。時刻はちょうど夕食時。何時もなら、バーまで降りていってマスターの晩御飯が出来上がるのを待っている頃だ。
しかし、今日は月に一度、のバーの定休日なのだ。定休日は当然バーに入れないし、マスターは姿を表さない。従って、晩御飯も自分で調達しなければならない。普通に考えるならその辺のファミレスにでも行けばいい。
が、金が無い。
そんな訳で、チャドは梨香の夕食に便乗しようとしているのだった。何か分かんないけど料理上手そうだし、手先器用だし。
しかしこの通り、チャドはさっきから二の足を踏んでいる。だって、梨香の部屋を訪れるのはこれが初めてなのだ。緊張しないはずがない。立ち尽くしたまま、脳裏ではぐるぐると思考が渦巻いている。
けれど、そんな事をしている間にも時間はどんどん通り過ぎていってしまう。この調子では、夕食時何てとっくに通り越してしまいそうだ。
空腹に押されて意を決したチャドは右手を握りしめ、ドアを軽く叩く。ドキドキしながら暫く待っていると、軽い足音と共にドアが開いた。
「はーい……って、チャド?」
ドアを開けた梨香は、チャドを見るとちょっと驚いたような表情をする。そんな梨香に向かって、チャドは軽く右手をあげた。
「なぁ、もう晩飯終わった?」
「まだだけど、何か用?」
聞かれて、へへっとチャドは笑った。
「晩飯たかろうと思って!」
「帰れ」
つれない態度はちょっと心にくる。ひでぇ、と大袈裟に騒いでみせると、梨香は呆れたようにちょっと笑った。
「晩御飯ねぇ……まぁ、取り敢えず上がれば」
部屋の中を指し示されて、チャドはその言葉に従った。
「態々来て貰って悪いけど、家、今何も無いわよ?」
「え、そなの?」
「そ。冷蔵庫空っぽだし、面倒だからカップラーメンでも買ってこようかと思ってた所」
へぇ、と相槌を打ち、チャドはちょっと意外だなと呟いた。
「何となく自炊してんのかと思ってた」
「……悪かったわね、料理は苦手なの」
苦手なのか。これまた意外だ。しかもちょっと気にしているらしく、腕を組んでいる梨香の表情はちょっと不機嫌そうになってしまっている。これはよろしくない。
「と言うか、そういうあんたはどーなのよ?」
「へ、俺?」
不意に話の矛先が自分に向いて、チャドはパチクリと目を瞬いた。
「料理、出来るの?」
「……まぁ、出来なくはないけど」
「へぇ、意外」
まぁでも、あんた結構器用だしね、と、梨香が言う。しかし、何を思っているのかチャドは微妙な表情だ。梨香はそれに気づいているのか居ないのか、あ、そうだ、と呟いた。
「それならさ、今日の晩御飯作ってよ」
そして、飛び出たのはこんな言葉である。思いもよらない提案に、チャドはその緑色の目を丸く見開いた。
「まさか、俺が?」
聞き返されて、梨香はあんた以外に誰がいるのよ、と笑う。
「材料代は私が出すからさ。それならwin-winでしょ?」
チャドは微妙な顔のままだったが、ね? と言われてまぁ、と頷いた。
「じゃ、スーパー行きましょ。冷蔵庫空っぽだし」
決まりだと言わんばかりに、梨香は部屋の隅においてあった鞄を手に取った。そして玄関に向かう梨香の後にチャドも続く。
「そんならビール買おうぜ。ツマミも」
「いいわね、何が良い?」
「あれが良いな。何だっけ、前バーででてきたチョコレートの奴」
「それじゃあおつまみじゃなくてお菓子でしょ」
そんな他愛ない会話に被さるようにして、玄関が音を立てて閉まった。
十数分ほどで到着したスーパーの中には、あまり人がいなかった。丁度ピーク時の少し後の様だ。
「で、何作るの?」
入口近くに並んでいる銀製のカートを1つ引き寄せるチャドに、梨香が聞く。
「んー、ある物見てから決める」
でも、込み入ったものを考えるのは面倒だから、多分炒め物になるんだろう。まぁ、一日限りの自炊だし、適当でいっかとチャドは内心でそんな事を考える。
「そーいや、梨香、なんか食べらん無いものは?」
「特に。あんたよりかは好き嫌い少ないと思うわ」
「それは余計なお世話な」
そんな事を言い合いながら野菜コーナーに向かう。そこには特に長居せず、もやしとにんじん、セロリを手早くカゴに放り込んで次に向かった。
「手前のやつの方が綺麗じゃなかった?」
「そう? ま、炒めちゃえば変わんないって」
「相変わらず適当ねぇ」
そしてそのまま、二人は隣接する肉類のコーナーへ歩を進める。並んだパックの中から、チャドはぱっと目に付いたものを手に取った。
「肉は……これでいっか」
「ストップ」
「何だよ?」
「それ、高い奴でしょ。しかも牛じゃない。隣の豚肉にして」
「相変わらず細かいなぁ」
「煩いわね。お金出すのは私なんだから当たり前でしょ?」
「じゃ、その分ちょっと良い酒買おうぜ」
「なんのための自炊よ」
そんな余裕があったら普通に食べに行くと言われて、チャドは肩を竦めた。腹の立つ仕草に、思わず梨香の足が出る。
「いって! 何だよ、踏むこと無いだろ?」
「ハイハイ、次の所行くわよ」
「次って、酒?」
「お米よ」
「えー、それくらい家にあれよ」
「だって普段自炊しないし。パックのレトルトでいい?」
「れと……? まぁ、食えりゃなんでもいいけど」
カゴに入れられたお米のパックを、チャドは物珍しげに眺める。何でも、電子レンジで温めるだけで食べられるらしい。相変わらず、この世界は色んなものが便利だ。
「あ、一応聞くけど、食器はあるよな?」
「馬鹿にしないで、それぐらいあるから……結婚式の時に貰った引き出物だけど」
でも、それも平皿ばかりで、茶碗と箸は一人分しかないらしい。仕方がないので、チャドの分はここで適当に見繕っていくことにいた。
「大きめのスーパーで良かったわね」
「なんでも売ってんだなぁ」
「何が良いの?」
「何でも良いや」
「じゃ、これね」
「……流石にそれは冗談だろ?」
子供用のアニメのキャラクターが描かれたものを指さされて、思わず表情が引き攣る。そんなチャドを見て、梨香はニヤッと笑い、それを棚に戻した。
「流石にね。これで良いでしょ」
そして結局カゴに入れたのは、隣にあった空色の茶碗だった。シンプルなデザインではあるが、優しい色合いは何となく晴れた空を思わせる。箸もそれと同じ様なデザインのものを選んだ。
「じゃ、次こそお酒ね」
「そーだな、ツマミも買おう」
結論を先に言ってしまうと、酒とツマミを選ぶのに一番時間がかかった。
「……物が増えた」
冷蔵庫の中を見て、思わず梨香は呟いた。冷蔵庫の中には、今日買ったばかりの調味料やら何やらが並んでいる。
普通の家庭に比べれば全然少ないのだろうが、いつもビール数本しか入っていなかったこの冷蔵庫にとっては大きな進歩だ。
横に視線を向ける。流しの横の台に置いたまな板の上で、チャドが野菜を刻んでいた。リズム良く包丁を動かすその後ろ姿は、馴れた手つきのせいか妙に様になっている。
「で、結局何作るの?」
「野菜炒め」
サクサク音を立てながらセロリが輪切りにされていく。その様子を邪魔にならないように見ていると、ちょっと前から思っていたことが自然と口から零れ落ちた。
「さてはあんた、料理得意でしょ」
「別に? 親父に一通りのこと教わっただけだしなぁ」
親父。その言葉に、梨香は思わずその目を瞬いた。チャドの口から家族の話題が出るなんて珍しい。
「梨香、フライパンってどこにあんの?」
けれど、その話題を掘り下げようとする前に、チャドがそんな事を聞いた。どこにやったっけ、と思い出すのに数秒時間がかかる。
「確か……流しの下の所にあったと思うんだけど」
「無いぜ?」
「え、嘘。あ、上の棚だったかも」
「こっち?」
「そう。あった?」
「……お! あったあった」
よいしょ、なんて言葉とともに、上の棚からフライパンが引っ張り出された。重くて黒い、いつ買ったかも覚えていない奴だ。
チャドは埃を被ったそれを軽く水で注ぐと、さっと布巾で水滴を拭い、コンロの上に乗せた。
「油はあるよな?」
「そんな物ある訳ないでしょ」
「無いのかよ」
「買ってくる?」
「んー……バターとかは?」
「あ、マーガリンならあるかも」
食パン用のやつだけど、と言いながら梨香は冷蔵庫の中からマーガリンのケースを取り出す。そのケースを受け取り、大きなスプーンで削り取ったマーガリンをフライパンに落とす。ツマミを捻ると、チッチッチッ、と小さな音を立てて火が付いた。
「そーいや、梨香は何で料理苦手なんだ?」
じんわりと溶けだすバターを、菜箸を駆使して広げながら、チャドが話を切り出す。
「何でって……苦手だから苦手なのよ」
「切っ掛けがある訳じゃ無いんだな」
昔から、と言いかけた声が、フライパンに入れられた野菜の立てる音に遮られる。その音が収まるのを待ってから、梨香はため息をついて続けた。
「昔から、料理に挑戦して無事に終わった事が一回も無いの」
「具体的には?」
「クッキー作る時に絆創膏5枚使った」
「何がどーなったらそーなるんだよ?」
思わず、と言ったようにチャドが苦笑混じりにそう言う。梨香は私が聞きたいわ、と、憮然とした表情だ。
「どーせ私は料理に向いてませんよ。はい、もうこの話終わり」
丁度いいタイミングで電子レンジがピーピー鳴り出した。中のレトルト米のパックを取り出そうと、梨香はそっちを振り返る。
「あ、鍋つかみとって」
「はい」
「ありがと」
取り出したパックのビニールの蓋を開けて、自分の茶碗と、買ったばかりのチャドの茶碗にそれぞれよそう。それを持っていき、食器なんかを並べて食卓の準備を終わらせた頃には、野菜炒めの方も出来上がったようだった。
「全部よそっちゃっていいよな?」
「良いと思うわ。もうビール飲むでしょ?」
「飲む!」
元気に返事をしながら、チャドはフライパンの底に張り付いたもやしを菜箸でつまみ、皿に落とす。これで盛り付けは終わりだ。
「俺こっち?」
「こっち」
「野菜炒め真ん中?」
「真ん中」
「もう持ってくる物無いよな?」
「無い」
白い平皿をローテーブルの中央に置き、梨香の向こうに腰を下ろす。示し合わせた様に、2人は同時に手を合わせた。
「「いただきます」」
そして、2人の手は全く同じようにビールの缶に伸びる。プシュッと小気味いい音が、2回部屋の中に響く。スムーズな手つきで缶の中からコップに黄金色の液体を注ぎながら、そう言えばさ、とチャドが話を切り出した。
「野菜炒め、別に残してもいいからな」
「へ? 何でよ」
「上手くいったか分かんねぇし」
「味見しなかったの?」
「したけど……」
何とも言えない表情で、チャドは言い淀む。
実の所、チャドは料理は出来ると言えば出来るが、クオリティに関しては全く自信が無いのだ。そんな事もあって、何だかいざとなって不安になってきた。特段、何か失敗したという訳では無いのだけれど。
「不味そうには見えないし、大丈夫じゃない?」
そんなチャドの葛藤を察しているのかいないのか、梨香は軽い調子でそんなことを言う。そして箸で取った1口分の野菜炒めを、ひょいと口の中に放り込んだ。
「あ、おいし」
ふっと、梨香の表情が明るくなる。
何だ、やっぱり上手なんじゃない、なんて言われて、チャドも自分で作った野菜炒めに箸を伸ばした。放り込んだ野菜を咀嚼して、飲み込む。感想は、味見した時と何ら変わらない。特別不味くも美味くも無い。当たり前だけど、マスターの料理の方がずっと美味しいだろう。
ただ、それでも。
「次の定休日もまた作ってよ」
「えぇ〜、どーしよっかなぁ」
その申し出に苦笑いで答えるのは、相変わらず自分の料理に自信が持てないから。断らないのは、それでも、美味しいと言って貰えて嬉しかったから。
「次はちょっと良いお酒買おうと思うけど」
「何作って欲しい?」
現金な反応に、梨香が分かりやすい奴と笑う。柄にも無く、次までに料理を練習しておこうなんてチャドは思った。
普段は省略している2人の会話をできるだけ書き表すとこうなる。
因みに日本文学において男女2人きりの食事はs…xを意味するとかいう話を聞いた事があったりなかったり(ソース無し)。まぁまだ付き合ってないので流石に……ね?