繋ぎ目の光陰   作:蛙野 心

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序章 温泉旅行
1.夜道


 カツ、カツ、カツと、ヒールがコンクリートを叩く音が道に響いていた。冷たい風に背中を押されて、思わず身震いをする。

 

 今日も疲れたなぁと、五日市梨香は一人夜空を見上げた。真っ暗な都会の空に浮かんでいるのは、細く尖った三日月だ。雲もない代わりに星も見えない空で、ぽつんと所在無さげに佇んでいる。

 

 そんな月を見上げていると、尚更疲れが身に染みて、梨香ははぁと溜息を吐いた。疲れているせいか、どうにも気分が沈んでしまう。もっと、別の事を考えよう。例えば……そう、今日の晩御飯とか。

 

 そう言えば、昨日のきんぴらごぼうは美味しかった。今日も出てこないだろうか。他の住人にも評判が良かったから、ひょっとしたら出てくるかもしれない。ああ、それに、今日は金曜日だった。それはつまり、明日は休みという事だ。

 

 その事を思い出して口角が上がり、家へと向かう足が自然と速くなる。

 

 それなら今日は、いつもより遅くまで飲んでも良いかもしれない。更に言えば、明日はずっと前から行ってみたかった毛糸の店に行くつもりだった。ネットで見かけてから、ずっと気になっていた可愛いお店。そんな事を思い出したら、気分が上を向いた。

 

 さっきよりも大分上機嫌な足取りで、梨香は曲がり角を左に曲がる。バラバラなデザインの家が立ち並ぶ住宅街の中に、古びたアパートが一つあった。無個性な直方体の側面に並ぶ、全て同じパターンのドアの列。そこの一室が、梨香の家だ。

 

 しかし梨香は自分の部屋のドアには向かわずに、建物の通りに面した壁へと向かった。

 

 普通のアパートなら、そこには何も無い。しかしこのアパートのその壁には、黒いドアが一つついていた。そしてその横にあるのは、『BAR 焔火』と書かれた看板だ。地面に置くタイプのそれは、内側にある電球に照らされて、夜道にぼんやりと浮かび上がっている。

 

 そのドアを押し開けると、中には階段が続いていた。その階段を照らし出している灯りは小さくて、扉の中は外と変わらない程に薄暗い。けれど梨香は特に躓く事も無く、慣れた様子で階段を下っていった。

 

 階段を下った先には、また扉があった。さっきの物より少し重いそれを押し開ける。中から漏れ聞こえてくるのは、誰かの話すざわめきだ。

 

 一歩足を踏み出した店の中は、随分と賑わっていた。夕食時のこの時間帯としては、少し不自然なほどだ。しかし、その全てが客という訳ではない、というか、この中に客は一人も居ない。ここに居るのは全員、上のアパートの住人なのだ。そして実を言うと、ここは普通のアパートじゃあない。

 

 

 

 もしあなたが普通の人間なら、恐らくアパートと言う単語を日常的に目にしている筈だ。それほどアパートと言う物は、日本中に無数に存在する、普通な物の一つだ。言うまでも無いことかもしれない。きっと、バーと言う類の店についても、同じ事が言えるだろう。

 

 しかし、そのアパートとバーが一緒になった所と言うのは、中々聞かない。少なくとも、ちょっと気になって調べた範囲では無かった。それもここは、単にバーとアパートが同じ建物にあるという訳ではなく、アパートの経営者が趣味でバーのマスターをやっているのだ。

 

 で、これはちょっと余談になるが、そのバーのキッチンは、バーのマスターが自分の食事を作るのにも使っていた。それにある時、自炊の出来ない住人が便乗しようとしたらしい。そしてそれに更に他の住人が便乗した結果、今では朝晩の食事がバーに行けば食べられると言う学生寮の様なシステムまである。

 

 まぁでも、それくらいだとちょっと珍しいの範囲を出ないかもしれない。実際、このアパートが普通じゃない一番の訳は、別にあるのだ。

 

 このアパートは、他の世界に繋がっている。

 

 そう最初に聞いた時、私はどういう事か全く持って分からなかった。でも、事実なのだ。世界は私が居るここ以外にもたくさんあるけれど、物理的には繋がっていない。しかしこのアパートは、そのいくつもある世界と繋がっているのだと言う。私に理解できたのはここまで。マスターに何度かそうなっている“仕組み”も聞いたけれど、一ミリも理解できなかった。

 

 まぁ、繋がっている仕組みも、他の世界がある事も、実際は大して重要じゃない。大事なのは、このアパートには色々な世界から来た住人が居て、それぞれの世界で暮らしているという事。それが分かっていれば、何も問題は無い。他の世界の存在なんて、意外とどうでも良い物だったりするのだ。

 

 

 

「おかえりー」

 

 そう言って椅子に座ったままこちらを振り返ったのは、他の住人からチャドと呼ばれる青年だった。その隣の席に座って、梨香は「ただいま」と返す。

 

「いつもより遅かったな、なんかあった?」

 

「電車の遅延。原因は知らないけどね」

 

 駅の人混みが何時にも増して酷くて、大変だったのだ。そんな話をチャドとしていると、不意に左側からそっと茶碗が差し出された。

 

「お疲れ、さまです」

 

 そう言って夕食を運んできてくれたのは、桜色のふわふわ髪の少女、モニアだ。バーの手伝いをしている少女で、いつも着けているエプロンはマスターのお下がりらしい。少々人見知りが激しい子だが、ちょっとした事から、梨香はこの少女と仲が良くなっていた。

 

 梨香はモニアにお礼を言って、夕食を受け取る。残念な事に、きんぴらごぼうは無かった。

 

「マスター。昨日のきんぴらごぼうって、もう無くなっちゃったの?」

 

 カウンターの奥に立って他の住人と話している男——マスターに向かって、そう声を掛ける。

 

 このバーのマスター兼アパートの管理人は、本名を焔火狛也と言うらしい。左右で白い長髪と黒い短髪に分かれた髪型が特徴的な男だ。声を掛けられて、マスターはこっちへ振り返る。

 

「あ? 昨日お前らが酒のつまみに全部食べただろうが」

 

 返って来たのは、そう言う若干呆れた声だ。昨日は比較的早い時間に引き上げた筈なのだが。まぁ、あのきんぴらごぼうが美味しかったのが悪い。そう結論付けて、梨香は一人で頷いた。

 

「あれ美味しかったから、しょうがないわね。また作ってよ」

 

「ごぼうが安かったらな」

 

 その気があるのか無いのか良く分からない返事だが、恐らく数日の内に、またきんぴらごぼうが出て来るだろう。さて、今日のメニューは白米、お味噌汁、ブリの照り焼きに、ほうれんそうのお浸し。思いっきり和食だ。手を合わせて、食べ始める。

 

「ああ、そうだ。他の奴等にはもう話したんだけどな」

 

 それと同じタイミングで、マスターがそう話を切り出した。口の中に物が入っていたので、梨香は頷いて続きを促す。

 

「温泉旅行に行こうと思うんだ、全員で」

 

「へぇ、良いんじゃない? いつ?」

 

 白米を飲み込む。そして、何気ない調子で、梨香は聞いた。マスターも、何気ない調子で返す。

 

「明日」

 

「……明日!?」

 

 つい、素っ頓狂な声が口から飛び出した。明日という事は、明日である。日付が変わるまでにあと四時間も無いのだ。しかも聞けば、既に宿は予約済みだと言う。控えめに言って何言ってんだこいつと、梨香は思わず胡乱気な視線を向けてしまう。しかしマスターはそれを気に留める事も無く、さらりとこう言った。

 

「何だ、行かないのか。箱根は有名な酒処だぞ」

 

「………………行く!」

 

 お酒には勝てない。

 

 

 

 




序章はキャラ紹介を兼ねているのでサクサク行きますよ〜
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