繋ぎ目の光陰   作:蛙野 心

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閑話 エプロン

 ある平日の夜の事。カウンターに座った梨香は、一人ちびちびとグラスを傾けていた。

 そのグラスの中身はもう半分ほどに減ったウイスキーで、隣の小皿に入っているのはおつまみのミックスナッツである。これが最近お気に入りの取り合わせなのだ。

 ふと時計に視線を向けると、もう十時を過ぎそうだった。今飲んでいるのが終わったら、そろそろ引き上げた方が良さそうだ。明日も何時も通り仕事なのだから。

 

 それはさておき。

 

 少々奇妙な成り行きでこのアパートに越してきてから、早い物でもう二週間が経った。最初こそ多少の不安もあったが、何だかんだ仕事に追われて居たらいつの間にか馴染めてしまっていたのである。こうして、一人でふらっと晩酌するぐらいの余裕も出来ていた。

 

 しかし最近、一つ気になるものがあるのだ。

 

 梨香の視線はその気になる物を追いかけて、グラスからゆっくりと持ち上げられていく。

 カウンター席に座っているのだから、上げた目線の先にあるのはまずカウンターだ。その中には、いつも通りマスターとモニアが居た。マスターは片付けをしながら、奥の席に座っている神尾の話し相手をしていて、モニアは話に加わることも無く、片付けを黙々と手伝っている。この、何の変哲もない正によく見る光景の中に、梨香の気になる物が一つあった。

 

 梨香が気になっている物とは、モニアがいつも着けているエプロンなのだ。茶色の少し古びたそれは、モニアの体格に合っていないのか、それとも上手く結べていないのか、よくずり落ちてしまっている。それが何だか不憫に見えて、どうにかしてあげたいと前から思っていた。

 

「ねぇ、モニアちゃん」

 

 少し心の準備をして、梨香はそう声をかける。すると、モニアは酷く慌てたような様子で勢いよく振り返った。その拍子に、また少し肩紐がずれる。

 

「そのエプロン、大分大きいけど、動きづらいんじゃない?」

 

 少し遠回しに話を切り出してみた。しかしモニアは、言い淀むばかりで中々返事をしない。

 

「良かったら、丈とか直そうか? あ、私裁縫とか得意なの。嫌だったら、良いんだけど」

 

 そう言って、梨香はモニアの返答を待った。ちょっと言い淀んでしまったのが恥ずかしい。が、しかし、モニアはウロウロと視線をさ迷わせるばかりで答えない。と言うよりは、どう答えたものか分からないようだ。迷いながらエプロンを見て、次に梨香を見て、そして助けを求める様にマスターに視線を向ける。

 

 話の行方を黙って見守っていたマスターは、視線を向けられて、苦笑気味に口を開いた。

 

「あー……梨香なら大丈夫だと思うぞ」

 

 言われて、モニアは迷いながらも意を固めた様だ。そっと腰の前で結んでいた紐を解いてエプロンを脱ぐと、畳んで梨香へと差し出す。それを受け取って、梨香は少し不安そうにしているモニアに励ます様な言葉をかけた。少し、笑顔が引き攣らないかどうかが気にかかる。

 

「大丈夫、可愛く直して見せるわ」

 

 まだ、モニアがこちらを信頼してくれたとは思えない。それでも頷いてくれたので、頑張らなくちゃと梨香は自分に言い聞かせたのだった。

 

 

 

 翌朝。モニアはエプロンを付けず、そわそわとカウンターの中で梨香を待っていた。やっぱり、エプロンが無いとどうにも落ち着かない。別に、具体的に無くて困る事は無い。でも、大事なものだから。

 

 モニアはまた、ちらりと時計に視線を向ける。普段通りなら、そろそろ梨香が起き出してくる時間だ。けれど、カウンター横の住民用の扉が開く気配は無い。

 バシャバシャと水音をたてて洗い物をしながら、モニアは待つ。しかし、十分、二十分と経っても、扉が開く気配は無かった。

 

「さて、そろそろ行きますかねぇ」

 

 そして遂に、ご馳走様と言って神尾が席を立った。いつも大体梨香と同じ時間に出発する神尾がだ。いよいよ不安になりだしたモニアの背中を、冷たい汗が伝う。すると

 

「おはよ!」

 

 酷く慌てた様子で、カウンター横のドアから梨香が姿を現した。と言っても、何時も通りに化粧も服もちゃんと整えているのは流石だ。

 

「どうした」

 

「寝坊したのよ! 見て分かるでしょ!! あ、朝ご飯は良いわ。食べてたら間に合わないし」

 

 慌てた梨香につっけんどんな様子で言われて、マスターはよそおうとしていた茶碗を下ろした。

 

「行く前に、これだけ渡そうと思って」

 

 そう言いながら、梨香はカバンの中から何かを取り出す。綺麗にアイロンまでかけられたそれは、間違いなくモニアが昨晩渡したエプロンだった。

 

「もう出来たのか。早いな」

 

「おかげで寝坊しちゃったのよ……ま、アラーム掛け忘れたのが悪いんだけどね」

 

 そんな事を言う二人を他所に、モニアは早速とばかりにエプロンを広げた。

 まずぱっと見で分かったのは、丈が短くなった事だった。モニアの背丈に合わせて切り詰められ、丸く可愛らしくなっている。そして肩にかけて結ぶ二本のリボンは切り取られ、首に引っ掛ける部分と、腰に回して結ぶ部分に分かれていた。

 具体的な事は良く分からないけれど、間違い無く着やすくなったし、随分手間が掛かっている事も、一目で分かった。

 

「って、こんな話してる時間無かったわ。もう行かないと」

 

 そそくさと、梨香が出発しようとする。その服の裾を、慌ててモニアは掴んだ。どうしても、言わなきゃいけない事があった。

 

「え、えっと……」

 

 でも、口は上手く言う事を聞いてくれず、言葉が詰まる。いつもの事だが、今日は何時にも増して焦りが募っていった。そしてそうなればなるほど、言うべき言葉も分からなくなってしまうのだ。

 

 急いでいるんだから、速く伝えなきゃ。その思いだけが先走って、モニアは服を掴んだまま立ち尽くしてしまう。すると、梨香は小さく笑った。

 

「大丈夫、ゆっくりで良いわよ」

 

 言われて、少しだけモニアの緊張が緩んだ。大きく息を吸って、吐く。大丈夫、たった一言、それだけ伝えられればいいのだから。

 

「…………あ、ありがとう、ござい、ます」

 

 その言葉を聞いて、梨香は本当に嬉しそうに笑った。

 

 

 




ハッピーバースデー記念にモニアちゃん(3/20)と梨香さん(3/27)の馴れ初めでした。梨香さんはお裁縫が上手なのでたまに他の住人の繕い物を引き受けてたりします。この前はミト博士の白衣にクマちゃんワッペンを付けて「外せ!」と言われてました。
「可愛いじゃないの、このクマちゃん」
「煩い。そんな物は不要だ」

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