少々緊張した心持ちで、セツは扉の前に立ち尽くしていた。目の前にある木製の扉はこの基地にある殆どの扉と同じデザインで、セツの目線の少し上に付けられているプレートにはただ、『執務室』としか書かれていない。
しかし、この部屋はただの執務室じゃない。ここはこの基地の中で最も権力を持つ最高責任者、フジモト大将の執務室なのだ。そう、セツを呼び出した張本人であり、セツの直属の上司でもある。
セツは覚悟を決めると、軽く張りつめていた息を吐いた。その身に少しの緊張を纏ったまま、そっと握りしめた右手で軽く扉をノックする。
「入りなさい」
三回きっかりのノックの後、すぐに低い声での返事が返ってきた。セツは銀色のノブを軽く捻り、扉を開ける。
「失礼致します」
そして入り口で軽く一礼してから、セツは部屋の中に足を踏み入れた。黒光りする軍靴が、緑色のカーペットを音も無く踏み締める。部屋の中は薄暗く、静かだ。
大将の執務室は、やはりほかのどの部屋よりも広く上等に作られていた。その中でも、正面にある窓を背にして置かれた大きな執務机が一際目を惹く。そして、その机に座り書類に目を通す男が一人。当然、この部屋の主である大将だ。
大将はセツが部屋に入って来るのを目にするとすぐに立ち上がった。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。まぁ、座りなさい」
応接用のソファとテーブルがある方を示されて、セツは大人しくその言葉に従った。その間に、大将は紅茶の準備を始めた。本来ならそれ用の係でも設置するべきなのだろうが、フジモト大将は紅茶が趣味らしく、こうして部屋に客がある度に自ら振舞うのだ。今では慣れてしまったが、最初の頃は酷く恐縮したのを覚えている。
「君は、ミルクはいれないんだったね?」
「はい、ありがとうございます」
暫くすると、大将はセツの前に湯気の立つ紅茶のカップを置いた。そして自分も同じく紅茶が入ったカップを持ってセツの向かい側に座る。セツはその一挙手一投足を窺いながら、話を切り出すタイミングを計っていた。が、しかし
「紅茶が冷めてしまうよ」
と柔らかな声で言われてしまい、渋々カップに手を伸ばす。本当の事を言えば、紅茶を味わえるほど余裕のある気分では無いのだが。
「味はどうかな?」
「……美味しいです」
「それは良かった。さて、それじゃあ本題に入ろう。今日、君を呼び出した訳だが」
セツの答えに満足げに頷いて、ようやく大将は本題について話し始めた。セツはカップを置き、口を開く。
「提出された報告書について、と伺っていますが」
「あぁ、確か伝言にはそう言ったな。しかしより重要なのは、報告書と言うよりもその任務についてなのだ」
「任務、ですか」
セツは大方予想通りの内容に、やはりと内心で呟く。
任務。それは、あのアパートを見張る任務の事だ。
これは帝国民なら誰でも知っている話なのだが、例え自分が所有する敷地内だとしても、建物を建てる際は政府に対する詳細な届け出が必要となる。つまる所それは、この国にある建築物は全て政府が間取りなどの詳細を把握しているという事だ。
しかし、あのアパートは違った。届け出が無かったどころか、近くの駐屯地の職員でさえ存在を知らなかったのだ。明らかな異常事態である。その為何度か調査部隊も送り込まれたのだが、人の気配は全く無く、報告書の写真に写っていたのはまるで何十年も放置された廃墟だったのだ。
そうしていよいよこの建物を怪しみだした軍上層部が送り込んだのが、このセツである。未成年であるその見た目と少佐を務める能力を買われ、アパートの実態、そして現れた目的を探るために、セツはあのアパートへと赴いたのだ。
「まずは、あの場所に対する、君の率直な意見を聞かせてほしい」
そう言われて、セツははっと背筋を正す。この質問は何気ない様に聞こえるが、きっと大きな意味を持っているだろう。恐らく、上層部は本格的にあのアパートに対する対処法を考えようということしているのだ。
何を言うか、頭の中で整理するのに少し時間がかかる。そのせいでシーンと静まり返った部屋の中で、セツはゆっくりと口を開いた。
「率直に申し上げますと、私は、あの場所がそこまで危険だとは思えません」
こんな意見、絆されたのかと難色を示されるのも覚悟のうちだった。けれど、大将は何も言わず、静かに続きを待っている。もう一度大きく息を吸い込んで、セツは続けた。
「確かに、1部の住人は危険要素足り得ます。しかしその他の住人はあくまで一般人であり——その世界においての一般人であり、我々を害そうとする意思は全く持って見られません。加えて、軍事的利用価値も大して見い出せませんでした。他の世界と比べても、我が国の軍事技術における水準は非常に高いためです。防衛的観点に置いても、技術的観点に置いても、あの場所を制圧する意味はほぼ無いと言って良いでしょう。その為、今後も監視を続けるのが最善かと思われます」
報告書に書いたこととほぼ変わらない内容をそのまま述べる。セツの話を聞き終えると、大将はふむ、と小さく頷いた。
「成程、一理ある。しかし、問題はその危険要素に成り得る一部だ。まさか、君がそれを考慮していない訳では無いだろう?」
そういった大将の口調は、いっそ穏やかとも言える。けれど、ここの返答次第であのアパートに対する対処は大きく変わってくるだろう。微かな緊張を感じて、セツはその手をぐっと握りしめた。
「……彼らが持つ力の実態は、未だ私が把握しきれていない所でもあります。しかし、彼らは烏合の衆であり、統率された敵軍ではありません。恐らく、我が軍が彼らを制圧する事はほぼ間違いなく出来るでしょう」
「つまり、その気になれば制圧出来るから放っておけば良いと?」
「それは違います」
セツは真っ直ぐに大将の目を見つめ返した。
「制圧出来るというのは、我が軍が全精力をつぎ込めば、と言う事です。これは知りえた情報からの推測ですが、一部隊程度では返り討ちにされる可能性が高いでしょう。そして、彼の敵国と戦っている我が国に、その様な余裕はありません。幸いにして、私は彼らの信頼を得ることが出来ました。彼らに我が国と争う意思が無い以上、こちらから争いを仕掛けるのは得策とは言えません」
「……成程。君の考えは良く分かった」
口元に微かな笑みを浮かべて、大将は頷いている。分かって貰えたのだろうか。胸の中で渦巻く不安に混じって、僅かに期待が芽ばえる。けれど、続く大将の言葉にそんな微かな期待は吹き飛ばされてしまった。
「しかし、それはあの場所に軍事的利用価値が無いと仮定した場合の話だろう」
セツは大将の発言に違和感を覚え、不可解な顔をする。あのアパートに軍事的利用価値は無い。それは仮定だが、限りなく事実に近い仮定だった筈だ。
「それは——」
何かがおかしい、間違っていると感じる。けれど、大将は全くおかしいと思っている素振りは見せない。まるでこう思っているようだ。あの場所に——
「——あの場所に、何かがあるという意味ですか」
「そうか、君は知らないのだったな」
間接的な肯定に、セツはその目を見開いた。そんな事、ちらとも知らされていなかったし、当然あそこにいる間にそれらしいものを見た覚えも無かった。立地さえ除けば、セツの目から見てもあそこはただのアパートだったのだから。
しかし、大将が全て冗談だと言い出す気配も当然なく、淡々とした調子で話は続いた。
「君の報告書の中に、モニアと言う少女が居ただろう」
「……彼女がカギを握っていると?」
「いいや、彼女自身がだ」
「!?」
まさか、信じられない。あんな普通の少女が? そんな様な文言が、セツの脳裏で渦巻く。一方大将はセツが驚くのを予想していたらしく、少し待って言葉を続けた。
「君が知らないのも無理は無い。あれは十数年前に彼の敵国から確保された兵器なのだよ。非人道的な実験の産物ではあるが、強力な力を秘めている。従って、彼の国に対する切り札となり得ると判断され、何度か運用もされたのだ。しかしどうにもコントロールが難しく、不安定でね。暴走の末行方不明になっていたのだ」
「……この任務の最終目的は、彼女の奪還だったのですか」
「いいや? あんな所にいるとは、上層部も予想していなかった様だ。しかし彼女の存在がある以上、君が言ったような判断を上層部が下すことは無いだろう。それ程までに上層部はあれを、いや、あれが他の勢力の手に渡ることを恐れているのだ。度々の暴走の結果を思えば、無理もない事だが……」
セツは黙したまま視線を伏せた。すんなり呑み込めない事実が多すぎて、考えが上手くまとまらない。何よりも、モニアが恐ろしい兵器だなんてとてもじゃ無いが納得できなかった。
「本当に、あの少女が? 人違いの可能性は無いのですか?」
抑えきれなかった疑問が立て続けに飛び出していく。不躾だと小さな理性の声が囁くが、それを受け入れられないほどにセツは混乱していた。
「仮に彼女がそうだとしても、暴走をするような兆候は全く持って見られませんでした。マス——彼女の保護者が彼女を兵器の様に運用する可能性も非常に低いと思われます。上層部が懸念するような事など、何も——」
「君は、あの場所と争いたくないのだね」
しかし大将の小さな呟きにも近い言葉に、反射的にセツの口は閉ざされた。本音を見抜かれてしまった事に酷く動揺するが、努めてそれを表に出さない様にする。しかし出来たのはそれだけだった。混乱は助長され、言うべき言葉は全く持って見つからない。
「……そう言えば、十年前のあの事件を覚えているかい?」
不意に大将がそう切り出した。唐突な話の切り替えに怪訝な顔になり、セツは聞き返す。
「あの事件、とは?」
「あっただろう、この近くの公園で……あぁ、公的にはガスの爆発事故として処理したのだったか」
「……まさか、それは」
公園、そして爆発事故。その二つのワードによってセツの記憶の中に一つの事件が浮かび上がってきた。今度こそ、隠し切れなかった動揺が表情に出てしまう。それを見た大将は、微かに人の悪い笑みを浮かべた。
「彼女が、あの事件を引き起こした張本人だ」
セツはその目を大きく見開いた。まさか、有り得ないと思う一方で、もしかしたらともう一人の自分が囁いている。
「こう言えば、その危険性は理解できるだろう?」
セツは肯定する事も否定する事も出来なかった。しかし大将は「決まりだ」と呟き、椅子から立ち上がった。窓から差し込む日差しが遮られ、机の上に人型の陰が落ちる。
「第二部隊部隊長、カンザキ少将。命令だ、あの建物を制圧し、“モニア”を確保しろ」
有無を言わせぬ命令にセツが返した敬礼は、いつになく覇気の無い物だった。
ようやく話が動き始めます
いよいよ投稿頻度が下がりだします