「なぁ、本当にここで大丈夫なのか?」
一方その頃。ネクロは不安そうな表情で、目の前の何かをいじっているマスターに問いかけていた。
マスターに言われ三人が逃げ込んだそこは、まさかの畑だった。裏庭を囲うフェンスに空いた穴の先に行けと言われた時は何が何だか分からなかったし、今も少し不安だ。先程の問いは、そんな不安が現れたものだった。
「ここが駄目ならこのアパート全部駄目な時だからな、大丈夫だろ」
しかしマスターがさらりととんでもない事を言う。ネクロどころかモニアまでもが不安そうな表情になってしまい、マスターは慌てて付け加えた。
「つまり、そんな事態はそうそう起きないって事だ。安心しろ」
「そんな事言ったって、でも——」
言いながら、ネクロは辺りを見回す。上空に広がるのは綺麗な青空で、中庭で見た今にも振り出しそうな曇り空とは正反対だ。辺りには支柱に支えられた野菜やら何やらが立ち並び、緩やかに吹き抜ける風に青々と茂った葉を揺らしている。
普段なら素直に長閑な景色を楽しめるのだろう。しかし、この異常事態に照らし合わせてみれば、何時も通り過ぎる情景はかえって異常に感じられた。それに——
「——ただの畑にしか見えないんだけど、ここ」
曇り空の筈なのに晴れているだとか、季節じゃない野菜が実っているだとかは些細な事だ。それがこの異常事態を解決してくれる訳でも無いのだろうから。こんな所に逃げ込むくらいならとっとと外に逃げた方が良いのでは無いだろうか、とネクロが言うのに、マスターは
「無理だろうな」
と、あっさりと返した。
「まず、セツが単身で乗り込んできて来ている訳が無い。他の奴も絶対にいる。それなら建物の辺りを囲まれている可能性も高い。そうなると俺一人でそれを突破するのは結構無理があるな。それにな、ここは守りやすい造りなんだよ。そこをわざわざ捨てるのは悪手だ」
「でも、だからってセツの方をチャドだけに任せっきりにするのは……」
「あー、まぁ、しょうがねぇなぁ。他に相手できそうなやつも居ないし。まぁ、なんだかんだ生き意地汚い奴だし、死ぬことは無いだろ」
よく考えているんだか適当なんだかよく分からかない説明に、ネクロはなんとも微妙な表情になってしまう。
一方、マスターはさっきからずっと続けて居た作業が終わったらしい。立ち上がって膝を軽くはたくと、その足元に何かあるのが見えた。
「それ、何?」
「触んなよ、危ないから」
ネクロは少し大きな石の様に見えるそれに興味を引かれ、そう聞いてみる。しかしマスターは答えになっていない答えを返し、不意に畑の入口の方に視線を向けた。
釣られてネクロも同じ方向に視線を向ける。すると、入り口の方からチャドが歩いてくる所だった。少し目を凝らすと、その背に誰かが背負われているのが分かる。
「セツだ!」
ネクロが気付くのと同時に、蟻の行列をいじっていたヨツバがハッと気づいて駆けだした。ネクロとモニアもその後に続き、マスターは最後にのんびりと歩き出す。
「よ、お疲れさん。思ったより遅かったな」
「勘弁してよ。俺、結構頑張ったんだぜ? 報酬はきっちり貰うからな!」
どうやらそういう約束になっていたらしい。いつの間に、と言う顔をする周囲を無視して、マスターは「はいはい」と苦笑した。
「で、何で連れてきた?」
そう言いながら、マスターはチャドに背負われているセツの方にちらりと視線を向けた。チャドは思わずと言った様に苦い顔になり、気まずそうに口を開く。
「あー、その、さ。結構首尾よく片付けたんだぜ? 他の奴等も乱入してきたけどそいつらは気絶させて縛って置いたし。
でも、セツだけ倒れる時に頭打ってさぁ。結構良い音したし、不味いかなーって……」
思わず、と言った様にマスターが溜息を吐いた。そしてあはは、と誤魔化す様に笑うチャドの背から、気絶したままのセツの体を引き取る。
「一回戻って救急箱持ってこい。そしたらお前の手当てもしてやるよ」
「へーい。巻き込まれてなきゃ良いけどな」
踵を返し来た方向に戻っていくチャドを見送って、四人はセツの手当てが出来そうな所を探す事にした。
失敗した。
意識を落とす前、そう強く思った。
だからだろうか。意識を取り戻した直後、私は同じことを痛烈に実感した。
失敗した、失敗した、失敗した!
あの時と同じだ。でも、分からない。間違えてはいけなかったのに間違えた。見誤ってはいけなかったのに見誤った。それは分かっているのに、痛い程理解しているのに、どれだけ考えても正解が、答えが分からない。
私はどうすればよかった? どうすれば、命令を遂行できた? どうすれば、あの子は許してくれる?
答えてくれる人は居ない。考えろ、と鈍く痛む頭に命令する。動け、と横たわったままの体に力を込める。
立ち上がらなければ。考えなければ。それが出来なければ何も出来ないのだから。
けれど、脳みそは鈍い痛みを主張するばかりで、体を動かそうとすれば全身が軋む。暫く格闘して、出来たのはやっと瞼を持ち上げる事だけ。
ゆっくりと暗闇が薄れて、青い空が見える。不明瞭な視界を動かす事も出来ず、私は、どうして、と思った。
だって、今日は曇り空の筈だ。少なくとも、こんなに綺麗に晴れてはいなかった。
ここは、どこだ? あたりに充満している青臭い匂いを嗅ぎながら考える。私はバーであの吸血鬼に気絶させられたはずだ。そこからどこかに移動させられたのか? でも、こんな所が、あの辺りに——
私の思考はそこでぶつりと途切れた。視界を掠めた桜色の物が急速に私の注意を引いたからだ。そして、気付く。
まだ終わってなどいない。失敗してなどいない! だってモニアがここに居る。この少女さえ壊せば、私は——
腕が動く。気力だけでもなんとかなるじゃないかと、私は思わず笑みをこぼした。
どさりと音を立てて落ちたのは救急箱だった。モニアがセツの手当てをしようと持っていた、白くて大きい救急箱。
それを不審に思って、マスターは振り返る。セツが起きたのだろうかと単純な予想を立てながら。けれど、そこに広がっていたのはその予想の斜め上の物だった。
セツが、モニアの首を絞めている。
マスターは慌ててセツの腕を掴んだ。しかしその手は固く、引き剥がせそうにない。
いや、この言い方では語弊がある。正確には、穏便(・・)に(・)は(・)引き剥がせそうにない、だ。流石に躊躇いながら、マスターはモニアの様子を窺う。
白い首にはしっかりと指が食い込んでいた。細い腕が辛うじて抵抗する様にセツの腕を掴んでいるが、大した障害にはなっていない。その目から、苦しさに耐えかねた様に涙が零れ落ちた。
「チッ、恨むなよ……」
気はひけるが、やるしかない。セツの腕を掴む手に力を込める。まぁ、腕の一本程度なら後で治せるのだからと、心の中で言い訳したその時。
「セツ!」
そう言って、ネクロと居た筈のヨツバがセツに抱き着いてきた。一瞬、驚いたようにセツの力が緩む。その隙に、マスターは力強くセツの腕をモニアの首から引き剥がした。
首を抑えて咳き込むモニアを、マスターは慌てて受け止める。そして、細々とした傷の手当て中だったチャドを呼んだ。
「モニア連れて先に戻ってろ。こっちは俺が何とかする」
「りょーかい、ネクロも連れてく」
チャドが二人を連れて遠ざかっていく。それを横目で見送り、マスターはセツとヨツバの方に意識を向けた。
「放しなさい、ヨツバ」
「セツ、でも!」
流石にヨツバを力づくで振りほどくことは出来なかったらしい。藻掻くセツを、ヨツバは縋りつく様にして捕まえている。
肩で息をして、セツは息も絶え絶えの様子だ。それでも衝動に突き動かされる様にして、藻掻くのを止めない。一体どうしてそこまでと思いながら近づいていくと、その口が小さく動いているのが見えた。
「わたし、は」
掠れた小さな小さな声でセツが一体何を言うのか、素直に興味を引かれてマスターはヨツバの方に人差し指を立てて合図した。ヨツバは不安そうな顔になりながらも口を噤む。
「命令を、守らなければ、いけない」
「あの子に、償わなければいけない」
「私は、守らなければ——」
途切れ途切れになりながら、何とか絞り出した言葉。それを聞いたマスターは、思わず呆れ顔になった。いかにもセツらしい、クソ真面目な台詞じゃないか、と。
「なんだよ、いけないって。そればっかじゃねぇか」
とうとう限界が来たのか、セツはその場に崩れ落ちる。ヨツバはまだ口を噤んだままだ。よく我慢している。
「お前は、どうしたいんだ」
一瞬、その場が静寂に包まれた。聞こえるのは、風にそよぐ葉が立てる音ばかり。今の状況を忘れてしまえば、今日は、本当に長閑な日だという事を感じさせる。
「——私に、やりたい事なんて、無い!!」
それを破ったのは、初めて聞いたセツの怒声だった。
「私は、あの子と居たかった。それだけで良かった!」
地面に雫が落ちた。黒く地面を濡らしたそれは、セツの目から立て続けに零れ落ちる。
「でも、もうそんな事、叶いっこないんです」
立ち上がろうとし続けていた足から漸く力が抜けた。
クライマックス前編です。難産