1.あの子の笑顔
「ねぇマスター、“ははのひ”ってなーに?」
五月のある昼下がり。マスターは、宿題をしていた筈のヨツバに、そんな事を聞かれた。ヨツバの手元に広げられているノートは、真っ白なままである。セツが所用だと言って席を外した時から、全く進んでいない。
「ん? あぁ、母の日な。お母さんに、いつもありがとうって言う日だよ」
一応、聞かれた事に答える。そう言えば、母の日はカレンダーにも書いてあった。しかし、そんなに珍しい記念日では無い筈だ。てっきり、セツ辺りが教えている物だと思っていたのだが。
「おかーさん……」
そう、ヨツバがポカンとした表情で呟いたのを聞いて、マスターははっと気が付く。そう言えば、ヨツバの両親はどこに居るんだ? 考えてみれば、ヨツバの口から両親の話と言うのはほとんど聞かない。ヨツバが、毎晩のようにセツの部屋に泊まっている事に気付いてしまえば、想像は簡単に付いた。
「ま、まぁ、お前の場合は、セツに言った方が良いんじゃないか? 花屋でカーネーションでも買えば、喜ぶと思うぞ」
やってしまったかもしれないという焦りから、少し早口になってそう言う。そして、財布の中から五百円玉を一枚取り出した。カーネーション一本なら、簡単に買える金額だ。
「ほら、これで買ってこい。花屋は——」
五百円玉を渡しながら、マスターは花屋への行き方を教えようとする。しかしヨツバはその目を輝かせ、硬貨を手に握りしめるなり、
「分かった!! ヨツバ、かーねーしょん買ってくる!」
と言って、外へ駆け出して行ってしまったのだった。
「まぁでも、何回か行ったことのある所だし、そんな距離のある所じゃないし、多分、大丈夫だろ」
そう言って、マスターは事の次第を締め括った。それを聞いているのは、所用とやらから戻ってきたセツである。話を聞いて居る間中無表情のままで、ヨツバを心配しているのかいないのか、どうにも読み取りづらい。しかし、セツは話を聞き終わるなり、
「分かりました。迎えに行ってきます」
と言って立ち上がった。
「いや、迷子になるほどの距離じゃ——」
マスターは、迷子になるほどの距離じゃないと言ってセツを止めようとする。しかし、セツは全く話を聞かず、再び外へと出て行った。何となく、デジャヴを感じる光景だ。
「あいつも、大概過保護だよなぁ……」
またまた一人となってしまったバーの中で、マスターはぽつりと呟いた。
アパートの近くには、ちょっとした商店街がある。ヨツバが向かったのはそこの花屋だろう。そう考えたセツは、その商店街への道を足早に歩いていた。
頭の中をぐるぐると渦巻いているのは、ヨツバに対する心配——と言う訳ではない。頭の中にあるのは、ヨツバが起こしそうな問題に対する心配、である。
ヨツバは、無邪気な幼い子供だ。しかし、その無邪気さ故か、後先を考えない所がある。それが全力で災いした結果、一体今までどれほどの騒動が起きた事か。どれほど、自分がその騒動の収束の為に苦労する羽目になった事か!
そんな事を考えて思わず苦い表情になりながら、セツは目の前の角を右に曲がる。すると、目の前にヨツバが現れた。
「あ! セツ!!」
ヨツバもこちらに気付き、勢い良く駆けよって来る。それを危なげなく受け止めて、セツは安堵のため息をついた。問題は起きていなかった様だ。ひとまず安心して良いらしい。
「良いですか。次から、一人で知らない所に行ってはいけません。ほら、帰りますよ」
言いたい事は色々あるが、まずは帰るのが先だと、セツは歩き出そうとする。
「待って、セツ!」
しかし、そう言うヨツバに手を引かれて、直ぐに立ち止まった。そして、振り返る。
ヨツバは、セツへ、満面の笑みでカーネーションを差し出した。真っ赤な花は、ずっと握りしめられていたせいか、少しだけ元気が無いように見える。それでも、ヨツバは心の底から嬉しそうに、笑っていた。
「あげる!」
そう言われて、セツは右手を伸ばした。そして、どこかおずおずとした様子で、その花を受け取る。ありがとうございますと、言うべきだ。分かっている。分かっているのに、どうしてか、言葉が喉に突っかかる。
「いつもありがとう、セツ!」
『ありがとうね、セツちゃん』
ヨツバの声に引き摺られるようにして、脳裏に誰かの声が蘇った。高い、子供の声。
私の、良く知る、“あの子”の声。
どうして。
どうして、思い出したんだ。
どうして、こんなに胸が苦しくなるんだ。
ヨツバは、立ち止まったままのセツを置いて、アパートの方へ駆けていく。
その後ろ姿を黙って見送ったセツの手の中で、カーネーションの茎が、ぽきりと折れた。
ずっと昔の話だ。ずっと、ずっと。私が、ヨツバと同じか、それよりいくらか年上だった頃の話。
私の両親は、軍の将校だった。両親だけじゃない。祖父母も、そのまた両親も、軍人だった。私は、由緒正しい軍人の家に生まれた一人娘。当たり前の様に、私も軍人となる事が決められていた。
不満は、無い。誰かがやらなければいけない事を、私がやっている。ただそれだけの事だ。
けれど、軍人となる為には、それも将校を目指すのならば、一定以上の能力が必要だ。それを身に着ける為、幼い頃から私は教育と訓練に明け暮れていた。自分を、そして何よりも、人々を守るために。他の事をする余裕なんて、とてもじゃないが無かったのだ。
けれど、そんな私にも、友達と呼べる少女が一人居た。
“あの子”は、普通の家に生まれた普通の女の子で、ブランコが好きで、少し大人しい子だった。特別頭が良い訳でも、強い力がある訳でも無い、ただの女の子。
そんな“あの子”が、私の唯一の親友、だっのだ。
でも、あの子は死んだ。私のせいで。
静かな部屋の中で、私は布団の上に座っていた。隣には、ヨツバも居る。穏やかな寝息を立てて、眠っていた。洋服が閉まってある棚の上にあるのは、ガラスのコップだ。茎が折れて、短くなってしまったカーネーションが、生けてある。
「ヨツバは、“あの子”じゃない」
そう、自分に言い聞かせる。
だって、似ても似つかないじゃないか。“あの子”は、ヨツバみたいに騒ぎを起こしたりしなかった。“あの子”は、静かに私の名前を呼んだ。“あの子”は、“あの子は”————
「セツ……」
びくりと、肩が跳ねる。けれど、ヨツバが寝言を言っただけだった。手を伸ばして、そっとその額を撫でる。
“あの子”の事は、思い出してはいけない。
わぁーい、一章が始まりましたぁ!
そろそろキャラ絵を掲載したい。したいだけ。恐らくもう少しかかります。