イシュタル様のやり直し 作:プレーンからあげ
黒歴史、という言葉がある。
自身の記憶の古傷とでも言おうか、思い出すとその場で壁に頭を打ち付けたり、ゴロゴロと寝転がってしまいたい衝動に駆られる。夢であって欲しいと願う記憶。
マイナスのイメージが強い「黒」の色と、歴史の単語を組み合わせて作られたこの言葉は、日本語の素晴らしさ故に産まれた言葉だろう。
そして、黒歴史を抱えるのは何も、人間だけではない。
ここ、人理継続保障機関フィニス・カルデアにおいて、一人の女神が黒歴史に頭を抱えていた。
彼女の名前はイシュタル。
メソポタミア神話において豊穣と愛を司る神で、冥界の女主人であるエレシュキガルを姉に持っている。
さらに、100人を超える愛人を持っていたとも言われていて、シュメール神話においての人気はとても高い。しかしそんな彼女にも黒歴史という物はある。
現に彼女は、黒歴史に精神を攻撃され、自室のベッドに羞恥心を撒き散らしながらゴロゴロと体を渦巻かせていた。
きっかけは些細な事だった。
何故かの気紛れで自分がどの様に名を残したのかが気になった彼女は、カルデア内の図書館へと赴き、彼女の事が良く書かれているという、「シュメール神話大全」を手に取った。
……それが悲劇の始まりとも知らずに。
序盤こそ、ほーほーと、彼女の父や姉の事がつらつらと書かれている内容に面白みを感じたが、自分のページとなった途端、黒歴史が掘り返された。
「ギルガメッシュ叙述詩」という世界最古の物語において彼女は、主人公のギルガメッシュに一目惚れをする。
そしてそのまま求婚をするのだが、ギルガメッシュに彼女の残忍性を尽く挙げられ、侮辱にも近いフリ方をされた。それに怒った彼女は、天上の父に願って
結果的にグガランナは、ギルガメッシュとその親友のエルキドゥによって退治されてしまう。
と言った内容だった。
そして彼女の総評にはこう書かれている
「求婚を迫って断られたらガチギレして、挙げ句に実力行使に出て失敗する。正しく負けヒロイン」
その文字を見た途端、彼女の中で何かがプツリと切れた。
体をゾワゾワとした感覚が走り、羞恥心を伴った熱が頭のてっぺんから、足のかかとまでに伝わる。
図書館ではお静かにという道徳心はどこへどこへ、彼女は意味を成さない叫び声を上げて自室へと駆け込んだ。この時、何人かの英霊ともすれ違ったが、不幸中の幸いに出会った中でメソポタミア出身のサーヴァントは一人も居なかった。
ベッドの中でガンガンと頭を打ち付けて彼女は叫ぶ。それも「あ」に濁点を付けた様な声ばかりで、何の意味も為さない。ただ彼女の黒歴史を発散させる為だけの言葉だった。一度、思い出せば後悔の念が絶え間なく溢れ出てくるばかり。
莫迦イシュタル、何であんな男に求婚した。確かに圧倒的にイケメンで、財力も有って強くて美しいけど性格は最悪だぞ。過去の私、その男だけは止めておけ。その先は地獄だぞ。絶対に惚れるな
そんな不満を過去の自分にぶつくさと言うが、決して届く事は無い。過去に戻る手段という物は無いし、こんな事で過去は変わらないだろう。分かっていても文句を言うしか無い。
しかし、そうしていると今度は沸々と怒りが湧いてきた。著者に対する怒りである。
確かに前半部分は悔しいが事実だ、百歩譲って赦そう。だが最後だけは納得が行かない。誰が「負けヒロイン」だ。
最低な本だが、備品だし壊すのは流石に駄目だ。けれどこの本を次に読む者が居れば「負けヒロイン」が一斉に広まってしまう。せめて自分のページを切り取るくらいなら許されるだろう。プライバシーの権利だ。
「ふぐぐ……千切れなさいよ!」
しかし、何のバグだろうか。そのページをは全く千切れる様子がない。紙の耐久力を侮っていた事は認めるが、まさか英霊の全力を持ってしても破れない物なのか。
「あーもう!埒が明かないわね!」
このままでは無意味だと悟ったイシュタルは、足を鳴らして部屋を出る。
ハサミ、或いは何か鋭いモノを自分は持っていないが、このカルデアには多くの英霊が集められている。一人や二人、居て当然だろう。
そうして廊下を行き場のない怒りと、羞恥心を込めて強く地を踏んで進む。そうして廊下の風景が流れて行くと、イシュタルの前に一騎のサーヴァントが現れる。
「うげっ」と彼女は心の中で悪態をつく。そのサーヴァントは、最も会いたく無い英霊の一人だった。
金色の眩しい髪に、ルビーの様に美しい紅い瞳。そして一糸纏わぬ逞しい上半身。
きっと年頃の女であれば、好まぬ者は決して多くない一種の美の最終極点とも言える男。しかしイシュタルにとってはこの上なく苦手な相手でもある。
その名をギルガメッシュ。世界最古の王であり、イシュタルの黒歴史の根源でもある。本来であれば、会った所で精々軽い言い争い、もしくは無視で終わるのだが、この時イシュタルには過去の遺恨を掘り起こされた事によって、ギルガメッシュと顔をあわせる事が酷く憚れた。
過去に求婚したと言う覆りの無い真実が、彼女の心に負荷を掛けていた。
「ちょっと!」
そう言ってギルガメッシュに声を掛けたイシュタルだが、その二秒後に言葉に詰まる。a
純粋に怒る理由がないのだ。逆に言えばギルガメッシュは困惑していた。
見るからに怒っている様なイシュタル。日頃は心当たりが無い事はないが、今回に関しては本気でない。頭に疑問符を浮かべ、ギルガメッシュは呆れ半分、興味半分といった表情でイシュタルを見た。
「また何か用か?貴様にやる宝石は……ん?」
そこまで言いかけて、ギルガメッシュは声を止めた。
ふとイシュタルの方を見れば、手元に何か厚い本を持っている。そして良く見てみると自分に深く関係しているシュメールやメソポタミア関連の本ではないか。
「ほう、興味深いモノを持っているでは無いか」
興味に忠実に、ギルガメッシュはイシュタルの片手に持った本に手を伸ばした。咄嗟のことに、イシュタルは反応も出来ずに本を奪われてしまった。
手から感触が抜け落ちたその感触に少し遅れて気が付き、内容を見られる訳にはいかないと思い出して、ギルガメッシュに飛び掛かる。
「ちょっと!返しなさいよ!」
「別に良いであろう。暫し待て」
そう言って、ギルガメッシュはイシュタルを片手で押し返し、「ギ」の段でのとあるページに目を止めて、次に「エ」の段に移った。
紅い眼の中の玉が動き、眉と表情で僅かに心境が揺れ動くのが分かる。しかしイシュタルには「自分のページが見られませんように」と祈る事で精一杯だった。もしここで分かりやすく反発すれば、無駄に察しの良いギルガメッシュは気が付くかもしれない。
「ふん、中々であった。もう良いぞ」
最後まで感謝の言葉や謝罪の言葉なしにそう言って本をイシュタルの元に返却する。
イシュタルの心境としては不満が残るが、今は安心感の方が大きかった。
ギルガメッシュが、返すように突き出した本を荒々しく取り去る。一刻も早くハサミか何かでこの悍ましい黒歴史頁を切り取らねば。
そう思い、ギルガメッシュに背を向けようとすると何の力が働いたのか、イシュタルの小脇から本が滑り落ちた。
一瞬、時の流れが遅くなる。
イシュタルはそう感じた。
床に本が触れる乾いた音の後、ページが勝手にパラパラと凄い勢いで捲れて行く。その動きは次第に遅くなり、やがて、あるページで止まる。
それは自分のページだった。
忌々しい。正に葬り去りたい黒歴史。誰か宝具の使用を許可しなさい、本当の意味で葬り去るから。そんな収まりかかっていた怒りが、ふつふつと再燃しだす。
しかし、その怒りは間もなく焦りへと変貌した。
「ほう?其れは貴様か?」
もうこうなってしまっては打つ手が無い。数秒後にも彼は内容を読破して、黒歴史を延々と掘り起こしながら大爆笑するだろう。
それだけで済めばまだ良いのだが、最悪の場合は他人にも広まる事である。
もしもその様な状況になってしまえば、カルデアの廊下を歩く度に「負けヒロイン」と後ろ指を指されて生きていく羽目になるのだ。
絶対にイヤ!!
最早、イシュタルの心の内はそれしか無かった。
血の通りに影響が出るほど強く握り締めた拳を開き、親指と人差し指を立てる。そして魔力を躰から循環させて指先に神経を集中させる。
その姿は、過去に見た「あかいあくま」の魔術と瓜二つだったと、後に偶然通り掛かった赤服の弓兵は言う。
そして、彼女の指からソレが放たれる事は無かった。
「……さま」
何処からか、声が聞こえる。そして視界が暗い。
何事か、と考える様な事はしなかった。それは偏に現状が心地良く、思考する能力が鈍化していた為だろう。
まるで、皮膚が潤ける事の無い微温湯に浸かっている様な気分で、出来る事ならこの心地良さに微睡んで意識を手放したいとすら思った。
しかし、その時間は唐突に終わりを告げる。
覚醒、つまりは起床だ。
「……え?」
彼女の思考が纏まるのに、時間は少しでは到底足りなかった。
彼女は、目を開けた時に映る光景はカルデア内の自室、その真っ白い天上だと信じて疑わなかった。しかし、彼女が目にしたのは、黄土色の土壁の一端だった。
寝台から躰を勢いよく起こし、ギョッとして部屋の四隅に視線を交差させる。それでも光景は変わる事なく、仄かにする土の乾いた空気と香油のにおいが、夢ではないと言う現実味を帯びさせていた。
「どうなってんのよ!!」
思わず声を荒らげ、慌てて寝台を蹴り飛ばす様に跳ね起きる。部屋の中にはある程度の豪華な内装が施されており、彼女の趣味と非常に良く似通っている。と言うより好みそのものだった。
イシュタルはこの部屋に見覚えがある。カルデアに召喚される前、数千と言う遥かな太古に自身が女神として君臨していた頃、この部屋は自分の自室として使われていた。
「レイシフトの暴発?でもそれだと私がここに居る訳は?」
思わず両手で頭を抱えて悩みこむ。カルデアの設備、それも最重要と言っても過言では無いレイシフト周辺機器は、非常に重要なため、慎重に慎重を重ねたメンテナンスが行われている筈だ。暴走したと考えるのは可能性が低く、自分が過去の場に戻る理由も無いだろう。
「あのう……イシュタル様?」
そんなイシュタルの思考の渦に、一人の声が割り込んだ。声を発したのはイシュタルに使える神官の一人、とは言え彼はごく普通の人間なので、イシュタルの関心が薄いとっくの昔に死んでしまった。
それなのに、今この場に居ると言う事はどういう事か、イシュタルの困惑と疑念はより一層深まり、謎が謎を呼んでいる展開だった。
ガラスなど無いこの時代、窓代わりの部屋に空いた縦穴が在る。そこから弱く、柔い日差しがイシュタルの目を突く。それに向かってイシュタルはほぼ反射的に歩き出し、何の躊躇いも無く顔を縦穴に突っ込んだ。
そして、外は吹き荒れる吹雪でない事を確認し、再び言葉を喪った。
「えーっと……お目覚めでしょうか?」
「ええ起きたわよ!最悪の目覚めね!」
自分の姿に様子に半ば当惑した様な神官を横目に、イシュタルは焦りに焦りを重ねて思案する。
懐かしい自室、自分の神殿、そして過去に居た神官。
これらから導き出される答えはただ一つ。
「戻った……の?私?」
イシュタルの長い黒歴史修復の旅が、始まろうとしていた。