地底人迷宮譚~迷宮を差し置いて遺跡に潜るのは間違っている~ 作:筆記者カレル
──それは、酷く冒涜的な姿をしていた。
人類の有する観念とは絶望的なまでにかけ離れ、さりとて神の戯れと称するにもあまりに歪んだ姿だった。よほど病的で破綻した空想力の持ち主でないことには、僅かに思いつけるものではない醜怪な形状をしている。
敢えてソレを一言で表すならば、蛸と人間の
だが何よりも恐怖感を与えているのは、その全体的な輪郭の凶悪さだった。その姿の凄まじさはリヴェリアの描写力を遥かに超えている。斯くも恐ろしき地獄の叫喚と永遠の狂気を語る言葉を彼女は知り得ない。
「な──」
「紹介しまーす。あれが地底人のオモチャげふんげふん、もといマラソン対象の一つ。『脳喰らい』君です!」
虚ろに落ち窪んだ眼窩が絶句するリヴェリアの姿を捉える。奈落の底のように黒々とした二つの穴に満ちるのは、途方もない悪意と飢餓の本能。およそ尋常な意思と呼べるものはソレには存在せず、ただ凶悪な害意のみを総身に漲らせていた。
『ヴォイイィィィ……』
粘性を帯びた気泡が弾けるような、この世のものならぬ不快な声が耳朶を震わせる。同時に悪臭と狂気に毒された空気の波が押し寄せ、異様なまでの生々しさで二人の墓暴きに迫った。
その時リヴェリアが感じたのは紛れもない恐怖だった。Lv.6という高みへ上り詰め、都市最強の魔導士とまで称えられた【
恐らく純粋な脅威としては然程のものではないだろう。体格はゴブリンやコボルトより少し大きいぐらいで、人とそう変わらない程度でしかない。膜の張った手足も頼りない程に細く、それなりのレベルにある冒険者の腕力ならば容易く圧し折ってしまえる程度に見えた。……少なくとも外観から窺える限りでは、だが。
しかしこの異形……脳喰らいの脅威はそこにはない。
ただ只管に醜悪。蛸と人間を合体させ悪魔的に歪めたような外形は、ダンジョンに息衝く如何なるモンスターでも及ばぬ悪夢めいて凶悪な輪郭を帯びている。斯様に悍ましき涜神と退廃の化け物を前にして、正気を保てるような人間が果たしてどれだけいるものか。
加えて、遺跡の内部に充満する呪詛が墓暴きの体力を蝕んでいる。まるで肺が片方失われたかのような息苦しさ、血液を半分以上抜かれたかのような怖気を伴う倦怠感がリヴェリアを襲う。
見る者の正気を削る異形の化け物に、追い討ちをかけるような体調の悪化。リヴェリアだからこそ辛うじて正気を保てているものの、常人ならば即座に発狂してもおかしくないだろう。
ここが聖杯ダンジョン──カインがマラソンと称し、毎日のように通い詰める地下遺跡。遺跡自体もそうだが、それ以上にこんな場所を楽園と称して憚らぬカインの精神性がリヴェリアには信じられなかった。
悍ましや聖杯ダンジョン。悍ましや地底人。リヴェリアが戦慄に身を震わせていると、カインは笑顔のまま信じられないような事を宣った。
「これからリヴェリアには、あの脳喰らいに啓蒙を吸ってもらいます」
「………………………………は?」
リヴェリアにはカインが何を言ったのか分からなかった。たっぷり十秒近く沈黙した後、ようやく出てきたのは間の抜けたような呆け声だけ。
無理もない。訳も分からぬままイズの碑に連れてこられたかと思えば、待っていたのは身の毛もよだつ異形の化け物。挙句の果てに“啓蒙を吸ってもらえ”?
意味が分からない。リヴェリアの脳は理解することを拒んだ。
「そ、そもそもお前が言う『啓蒙』とは神秘の智慧……知識のことなのだろう!? あくまで概念的なものであって、断じて物理的に吸われるような代物ではない筈だ!」
「うふふ、字面通りの解釈ならそうなるね。確かに啓蒙は物質的なものではないけれど、さりとて形而上のものとも限らない。
神秘学の初歩だよリヴェリア。そも啓蒙とは失われた叡智の断片であり──」
『ヴォイ゛イ゛イイィィィィィ ! ! 』
瞬間、何の前触れもなく脳喰らいが走り出した。獲物の品定めが済んだのか、その足取りに迷いはない。より与しやすい方……即ちリヴェリアを目指して疾走を開始する。
枯れ枝のように細く、水掻きのような膜の張った足は到底走るのに適しているとは思えない。だが、その走行速度は四足の獣にも劣らぬ見事なものだった。湿ったような足音を立て、脳喰らいは正に爆走と言うに相応しい勢いで距離を詰めてくる。
「きゃぁああああああっ!?」
「えっ、ちょ」
あまりの悍ましさにリヴェリアは少女のような悲鳴を上げ、咄嗟に隣にいたカインの身体を盾にする。
すると必然、脳喰らいの標的は矢面に立たされたカインへと向く。元よりこの異形に獲物を選り好みする程の知能はない。目の前で動く知的生命体は全てが捕食対象だ。その貧弱な外見からは想像もできない程の腕力でカインの頭を鷲掴みにすると、脳喰らいはまるで歓喜するように全身を震わせた。
『ギョォォオオオォォ゛ォ゛ォ゛…… ! 』
「あっあっあっ」
直後、粘液を滴らせる半透明の管が脳喰らいの頭蓋を突き破って出現する。それは蠕動と伸縮を繰り返しながら蠢き、カインの頭に突き刺さった。
悲鳴を噛み殺すリヴェリアの目の前で、半透明の管はカインの頭蓋に深く突き立っていく。まるでナメクジのように蠢き、水を汲み上げるポンプのように憐れな獲物の脳髄から青白く発光する何かを吸い上げていった。
『ゲフッ』
「うわらば」
たっぷり喰らって満足したのか、乱暴に管を引き抜いた脳喰らいは捕食の興奮と歓喜に身体をうち震わせる。
そしてカインは塵屑のように地面に投げ捨てられた。どう見ても重傷だが命に別状はないようで、白目を剥いているものの呼吸が乱れた様子はない。
人は痛みを感じた時、あるいは恐怖を感じた時などには著しく呼吸を乱すものだ。現に今のリヴェリアは生理的嫌悪感を伴う恐怖と遺跡の呪いによる息苦しさで激しく息を切らせている。
だが、今のカインにはそれがなかった。脳を貫かれたというのにまるで何の痛痒も感じていないかのように呼吸は穏やかで、しかも脳喰らいの冒涜的な外見にも全く動じた様子はない。
(こいつにとっては、この常軌を逸した光景でさえ日常に過ぎないとでも言うのか……!?)
「うごご……岩と交換したばかりなのに更に減った……」
「お、おい……大丈夫、なのか? いや見る限りは大丈夫そうなのだが、大丈夫なことがむしろおかしいと言うか……」
「うぬぅ、ちょっとクラクラするけど大丈夫」
むくりと起き上がり、平然と右大腿部に輸血液を打ち込み始めるカイン。そのあまりに堂に入った手際は、この程度の被害が彼にとって日常茶飯事であることを如実に示している。
一切の動揺を見せぬ姿には一周回って貫禄すら覚えるが、残念ながらリヴェリアにはその様に頼もしさを感じていられるような余裕はない。──空洞にしか見えぬ脳喰らいの
リヴェリアはカインの襟首を掴むと、脱兎の如く逃げ出した。恥も外聞もなくローブの裾を激しく翻し、脳喰らいの視線から逃れるように柱の影に隠れる。
『ヴォイィィ……』
「もう帰ろうカイン! 啓蒙を減らすだけならもっと別の手段があるだろう!?」
「えー、ワンオプ神秘の形状変化マラソンもできる一石二鳥の案だと思ったんだけど……あ、そうそう。あの脳喰らいこそが以前に話した『眷属』の一種だよ」
「あの気色悪い化け物が眷属!?」
リヴェリアの認識において、眷属とは
では、この脳喰らいもまた眷属だというのなら。この化け物は、果たして何から血を与えられたというのか。どれ程
だが、これを理解することで秘儀の体得に一歩近付けるのなら……リヴェリアは数秒の沈黙の後、意を決したように視線を上げた。
「お前が何の意味もなくこんな場所に連れて来たとは思えん。あの化け物の血に宿る神秘を紐解き、神……いや、上位者の叡智に触れること。それこそ私が神秘に近付く切っ掛けになると、お前はそう言いたいのだな?」
「え? いや、ここには単純に余分な啓蒙を吸ってもらいに来ただけだけど……それに眷属って言っても脳喰らいは枝葉末節もいいところだし、解剖しても大した勉強にはならないと思うよ?」
「
「あいたぁ!?」
白銀の魔杖『マグナ・アルヴス』が颶風を巻いて振るわれ、怒りの籠もった一撃がカインの胸を強打する。魔導士とはいえリヴェリアはLv.6の超人。耐久力に乏しいカインは衝撃に呻き、堪らずよろよろと後退った。
『ヴォイイィィィ…… ! 』
「あっ」
結果として柱の影から出てしまったカインは、うろうろと彷徨っていた脳喰らいに再び姿を捕捉される。
脳喰らいは獲物を見つけた喜びに耳障りな歓声を上げると、手の先から白い光球を射ち放った。
「み、見たかいリヴェリア! 今のが脳喰らいの拘束攻撃だ!
覚えておくと良い! 青い光が宇宙より降り注ぐ星からの徴だとするなら、この白い光こそ苗床の──」
『イ゛ォ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛! ! 』
「あーっ!! 困ります!! お客様!! 困りますあーっ!! 困ーっ!! お客困ーっ!! 困ります!! 困り様!! あーっ!!」
再び半透明の管が脳に突き刺さり、ビクンと大きく身体を痙攣させるカイン。うじゅるうじゅると気味の悪い音を立てて蠕動し、管は貪欲に彼の脳から啓蒙を吸い上げていく。
その唾棄すべき悍ましい情景を眺めるリヴェリアの目は、しかし氷点下にまで冷え切っている。それはセクハラに走る
「おや?」
「む?」
『ヴォイ ? 』
青白い霞が漂うイズの碑に、
音の発生源は今まさに脳を吸われているカインの懐から。脳喰らいに頭を掴まれたまま器用に胸元を漁り、カインはポケットから小さな鐘を取り出した。
それは酷く古びた
名を『共鳴する小さな鐘』──地下遺跡で発見されたトゥメル文明の遺物。外から内に収束する青白い波紋は、次元を跨ぐ共鳴の符牒である。
「……アイズの身に何かあったみたいだ」
「何だと!?」
アイズの名が出たことでリヴェリアが強く反応する。
『共鳴する小さな鐘』には対となる鐘がある。『狩人呼びの鐘』と呼ばれる大振りの古鐘が鳴らす神秘の音色に共鳴し、この小さな古鐘はその身を震わせ協力の求めを知らせるのだ。
カインは予め『狩人呼びの鐘』をアイズに持たせていた。何せつい先日、アイズのことを“アリア”と呼ぶ得体の知れぬ
故に少々過保護かとは思ったが、カインは現状二つとない神秘の鐘をアイズに託したのである。貴重品には違いないが、それでも仲間の命に代えられるものではないと。
「けど、まさかこんなに早く出番が来るとは。つい昨日渡したばかりだというのに」
「何故アイズに何かあったと分かる? その鐘は何だ?」
「これも神秘の賜物だよ。次元の断絶を超えて協力の求めに応じるための……あ、ごめん時間切れみたいだ」
「時間切れとはどういう……っ、カイン、お前身体が!」
見れば、今なお脳喰らいに拘束されているカインの身体が幻か何かのように消えかかっていた。足元から徐々に色が薄れ、存在そのものが消失しようとしている。
これが『共鳴する小さな鐘』が神秘の鐘と呼ばれる所以である。協力求めの音色に共鳴するのみならず、音の発生源を特定し、その座標まで狩人の遺志を転移させることさえ可能としているのだ。
因みに、一度始まってしまった協力の共鳴を止めることはできない。転移した先で共鳴を破ることはできるが、座標移動の最中にそれを行ってしまうと、最悪の場合遺志が次元の狭間に飛散してしまう恐れがあった。
「なのでボクにはこの鐘の音を止めることができません。ゴメンネ!」
「は? 待っ、おいどこへ行く!?」
慌てて手を伸ばすが、時既に遅し。リヴェリアの目の前で、カインは完全にその姿を消してしまったのである。
その場に残されたのは、手を伸ばした姿勢で呆然と固まるリヴェリアと、掴んでいた獲物が消え失せ手持ち無沙汰にしている脳喰らいの二人(?)だけ。そしてここは悪夢の霧に閉ざされた
『ヴォイイィィィ……(意訳:二人きりになっちゃったね……///)』
「ひ──独りでこんな所に置いてくなぁああああ!!」
だが、折角の権限も灯りがなければ意味がない。リヴェリアが聖杯ダンジョンから脱するためには、どうあっても
『ギョォォオオオォォ゛ォ゛ォ゛ ! 』
「帰ったら覚えていろよあの血狂いめ……ッ! 【間もなく、焔は放たれる】──!」
眦を決し、呪詛に蝕まれる身体の不調を押して詠唱を紡ぐリヴェリア。
果たして脳喰らいに捕まるのが先か、魔法が完成するのが先か。
以上、前回やたら大物ぶって登場したカインの裏事情ちゃんでした。