トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。その成り立ちはどうなっているのか?
時は1900年代に遡る。当時はトゥインクルシリーズは存在せず、ウマ娘レースと呼ばれていた。
バ券禁止令が発令された後、政府公認でレースができるようになったレース場は、レースをするウマ娘を集めるため「ウマ娘倶楽部」を設立し、同時にウマ娘鍛練学校を開校した。
文武両道を掲げ、レースのない日は学業に努め、レース日はレースで勝利に全力を尽くすという、清く正しく美しい学園生活をテーマにしていたという。
その後、バ券復活や日本ダービーの誕生などウマ娘レースが発展していき、1937年に「日本ウマ娘レース会」が発足。
同時にウマ娘学校を東京で統一する計画もあったが、交通面や土地の都合で断念している。
戦中はレース場は軍に接収され、その代わり軍ウマ娘の育成、並びに優秀なウマ娘の選抜として能力検定競走としてウマ娘レースは存続していた。
戦前戦中にかけて活躍していたのはクモハタ、セントライト、クリフジである。
終戦後、軍から返還されたレース場や新たに移転されたレース場の元、ウマ娘レースは再開。出走ウマ娘の年齢下限の引き下げや新レースの創設、ハンデキャップレースの増加等、あらゆる事でレースを盛り上げようとした。
しかし、GHQが日本ウマ娘レース会の解散を命じ、国営での開催へと切り替えられる。
その国営開催の時期に、トキノミノルというスーパースターが誕生し、ウマ娘レースが盛り上がった。
1954年、特殊法人「日本ウマ娘レース協会」が発足(当時の略称はNUK、1987年よりURAに変更)、この組織の元、ウマ娘レースは開催されることになり、地方のレースと区別するために中央とも呼ばれるようになる。
1965年に、ウマ娘レースの愛称を募集。
その結果、ウマ娘レースは「トゥインクルシリーズ」と呼ばれるようになる。
同時に、ウマ娘鍛練学校は、トレーニングセンター学園(通称トレセン学園)と名称変更した。
1969年、京都、阪神、中京、小倉のトレセン学園を一本化する為、栗東トレセン学園を開校。
1977年には、トゥインクルシリーズで素晴らしい成績を修めたウマ娘のみが挑戦できる「ドリームシリーズ」を創設、翌1978年に第1回のレースが行われた。
1978年、東京、中山、新潟、福島、函館、札幌のトレセン学園を一本化する為、美浦トレセン学園を開校。
1980年、東京府中市に、日本トレーニングセンター学園を施工。当初はドリームシリーズのウマ娘の合宿所として建設され、1982年より開校。これにより、美浦と栗東に分かれていたトレセン学園は統一された。
それに伴い、それぞれトレセン学園美浦分校、トレセン学園栗東分校と改称。トレセン学園のウマ娘の合宿所として使用されることになった。特に栗東分校は、週末に関西のレースに出走するウマ娘がコンディション良く臨める為の施設としての機能も兼ねている。
また、トレセン学園の寮は美浦寮、栗東寮と分かれているが、かつて美浦トレセン学園と栗東トレセン学園があったという名残であり、トレセン学園新設時は以前所属していた学園によって分かれていた。
1982年、以前から都内にあったトレーナー養成所を千葉県白井市に移転、トレセン学園白井分校となり、外国のウマ娘の合宿所としても機能している。
1984年、トレセン学園と栗東分校にウッドチップコースを新設。
1985年、トレセン学園と栗東分校に坂路コースを新設。
1988年、トレセン学園で競走ウマ娘のプールトレーニングの本格運用を開始。
なお、坂路コースは府中市内にあるトレセン学園より、郊外にある栗東分校の方が距離と高低差がある。なお、美浦分校も坂路コースを将来的に栗東分校に匹敵する設備に改造する予定である。
そして、トレセン学園の施設は現在に至る。
今や府中のトレセン学園はウマ娘の憧れの場所。これからもトレセン学園の門を叩くスター候補は後を絶たないだろう。