呪霊の子   作:充椎十四

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pixiv分の1から9に当たります。
なお、拙作は呪胎九相図と元禪院フィジカル男を全力で推しております。




 旧財閥系企業の中で抜きんでる、八咫グループ。その創業者一族には守り神がいるという。童女の姿をしているというその守り神を、彼ら一族の者はこう呼ぶのだ――八咫姫、と。

 

 

 

 うっすらと明るい水の中でまどろんでいる私の耳に、膜の外から声がする。

 

 ――夫もいないのに孕むだなんて。

 ――誰の子だ、言え!

 ――阿婆擦れを育ててしまった。私は恥ずかしい。

 

 罵られ、怒鳴られるたびに、同じ声が訴える。

 

 ――誰ともいかがわしいことをしてなどいません。

 ――私にだって分からないうちに孕んでいたのに、誰の子だなんて分かるはずないじゃない!

 ――私は阿婆擦れじゃない。どうして信じてくれないの、お母さん。

 

 水に満たされた袋の中から押し出されて外界へ出た私ともう一人を待っていたのは、信じられない物を見たと言わんばかりの目をした人々。

 

「みっ、三つ目!?」

「なんだこの化け物どもは……本当におとよの腹から出てきたのか!?」

 

 それと、厨の柱に掴まり汗だくで死にそうな顔色をした母と、スタンドを禍々しくしたような容姿の怪物。怪物は私が床に転がっているのも気にせず母に覆い被さると、出産の為開き切った母の会陰に怪物の性器らしきものを突っ込んだ。私を見下ろす人々も、母も、この怪物が見えていないのだろう――この場で怪物が見えているのは私だけなのだ。

 母が呻いた。出産の疲労によるものなのか、見えない怪物に犯されているからなのか。

 

 私の脳内を巡ったのは、吸血鬼ハ○ターなどの悪魔祓いに関する小説でよくある設定だった。

 私は人から驚き恐れられる容姿をしていて、人には見えない怪物が見える。――ということは、私は怪物とのハーフブラッドなのではないか。そしてこれはなんとなく……私の思い込みかもしれないが、私の方がこの怪物より強い。

 

「悪魔よ、退け。この人の許から出ていけ」

 

 試しに口を開けば驚くほど滑らかに声が出た。羊水でふやけた腕を持ち上げ、放り投げるように腕を動かせば、怪物は爆発四散して消えた。

 母がぐしゃりと床に倒れる。支えを失ったからかもしれない。

 

「この人は魑魅魍魎に好かれやすい。ただ人の目には見えぬ恐ろしい者共に、彼女は知らぬ間に犯され、私たちを生んだ。彼女を守りたいなら、徳の高い僧侶や神主のいる寺などに預けるのが良いだろう」

 

 きっと私の祖父母に当たるのだろう中年の男女が、私をまじまじと見下ろす。

 彼らの服装は布を何度も当てて直した跡のある着物で、他の者達――親戚や産婆だろう老婆も同様の恰好をしている。

 

「今の陛下はどなただ? この数年内に起きたことは?」

「陛下の名前は存じ上げんが、三年ほど前に、将軍様が天皇陛下に将軍の地位をお返しになった」

 

 一番身ぎれいな恰好をした親戚が口を開いた。年を食っているが男なので産婆ではないだろう。

 現代日本語が通じて将軍が地位を返上したということは、今は明治時代だ。学校では近代史をほとんどしないから記憶があやふやだが、明治時代は数十年ほど続いたはず。その次の大正は十五年くらい、昭和は六十四年、平成三十一年、令和と続く。私の知る時代まで百年以上ある……。

 

「長介のおっさん、三つ目の化け物に何を」

「馬鹿かぃおめえは。一つ目だろうが三つ目だろうが、天皇陛下に仕えているならわし等と同じじゃねえか。お天道様のお使いの烏も足が三本ある。ならお使いのヒトは目が三つなんだろうよ。おい太兵衛。おつねさんもだ。おとよが生んだのはお天道様のお使いだったんだから、決しておとよを責めるんじゃねえぞ」

 

 長介と呼ばれた男は太兵衛とおつね――私の祖父母をじっと見つめながら、ゆっくりと言い聞かせた。

 

「お使いさんよ、寺へやればおとよは無事なのかい」

「憑き物祓いで知られた寺や神社が良い。商売繁盛なら稲荷、厄除けなら八幡を詣でるように、悪いモノに憑かれやすいなら憑き物祓いだろう」

「そりゃあそうだ」

 

 長介は納得顔で頷く。

 私はそろそろ寝転がったままの状態に飽いて、両腕を後ろに突っ張ってみた。体格の問題か起き上がれなかった。

 

「長介さん、貴方に頼みたいことがある」

 

 おとよ――母は、私の存在を知ることなく寺へ行った。私とともに生まれた片割れは死産で、頭ばかり大きく胴が小さかった。栄養状態の悪さ、現代では考えられないような衛生状態、未だ猛威を揮う病、親からのストレスその他……死産の原因は一つではないだろう。その死んだ子だけを連れて、母は寺へ行った。

 知らぬうちに孕まされた子だとは言っても、彼女は命をかけて生んだ子を愛しく思わない女ではない。胎児の時分、日に何度も彼女から掛けられた声は優しく、愛に満ちていたからだ。

 

 彼女がもし私の存在を知れば、自分の手で育てたいと考える可能性がある。しかし私の父親はどこの誰とも分からない、悪霊だか悪魔だかだ。寺の坊主らに「うっかり」殺されては堪らない。

 彼女が寺に行くまで長介の家で過ごさせてもらい、彼女が行った後、祖父母の元に戻りたい。そう願った私に、長介は「なら、ずっとうちで過ごしゃいい。下の孫息子ももう十歳ちょっとだ、赤ん坊に悪さすることはあるめえよ」と胸を叩いた。――私を神の使いと言い出したのは長介だ。祖父母の許にいるより、長介の許にいる方が安全だろう。私は頷き、頼むと答えた。

 

 ――しかし二年後、母との連絡が取れなくなったと祖父母が相談に来た。預けた寺に行っても「我々より強い憑き物祓いの下に移った。そのうち本人が手紙を寄越すだろう」と言うばかりだが手紙を待ってもう三か月になる。彼女がどこに行ってしまったのか、神の使いなら分かるのではないか、と。

 額にもう一つ目があるとはいえ、私は千里眼持ちではない。血縁だから分かるにおいで見つけることもできるだろうが、私のこの異形では外出が難しい。

 預けた寺が教えないのなら、その寺と仲の悪い寺に相談を持ち掛けてはどうか。あら探しのための正当な理由を欲しているだろうから、調べてくれるかもしれない。そう伝えて、それからまた五年。

 七歳になった私の許に届いた情報は――母が、悪霊の子を孕む実験に使われていた、というものだった。犯人の名は加茂憲倫。京の都で先祖代々悪霊祓いをしている、呪術師。母が実験の結果どうなったのか、今どうしているのかは不明。しかし母が孕み、堕胎させられた九人の弟妹は、その男が持っているらしい。

 

「憎い――ああ、憎い。加茂なにがしが憎い。呪術師とやらが憎い」

 

 何の為に寺へ預けた。守る為に寺へ預けた。

 人の心を知らぬ屑のオモチャにさせる為などではない。

 

 ――早く生まれておいで、可愛い子。私は貴方を待ってるからね。

 

 羊水の中で聞いた愛に溢れたあの声に苦しんでほしくなくて、守りたくて、それが最善だと思い別れたのに。泣き崩れるのは、ああ、こんなにも息苦しい。

 

「八咫姫様、泣かないでください。きっと我々が伯母上の仇を討ってみせます」

「カモだかハモだか知らんが、何するものぞ」

 

 長介の孫息子二人――義介と正平が飛んで来るや否や、私を抱き上げ揺らし始める。義介の体温に冷え切った体が温められ、時間はかかったが涙が止まった。

 

 先祖代々の呪術師と言う。つまり、加茂憲倫は一族で呪術師をしている。特殊な武術なども修めているだろう一族を、若者がたった数人しかいない我々が襲撃しても踏みつぶされるだけだろう。復讐は難しい。

 

「義介、正平。我々は、まだ歴史が浅いとはいえ商家だ」

 

 二人ははいと答えて頷く。

 

「我々の戦場は商売だ。憑き物祓いではない。――奴らが膝を折って謝罪に来るほどに、家を大きくしよう。許してほしいと、額に砂利が付くほどに頭を下げさせよう。それが我らの出来る仇討ちだ」

 

 殺してしまいたい。呪ってしまいたい。だが、加茂憲倫を殺すことで、他の呪術師とやらから目を付けられては困る。私は悪霊の種から生まれたのだ、加茂憲倫と違い真っ当に悪霊と戦っている者から危険視されては困る。

 私だけなら良いが、長介らが巻き込まれたら……きっとその時は悔やんでも悔やみきれない。

 

「そして、私の弟妹を。弟や妹になるはずだった子らを、取り戻してほしい」

 

 ――百五十年待った。長介を、義介を、正平を、義介の子を孫を見送った。

 

「においがする」

 

 東京都内だ。同じ母から生まれた子の強いにおいが、東京都内に突然現れた。

 迎えに行かねば。私の可愛い弟妹。同じ血を分けた子。家の子に声をかけるのも忘れて街へ出る。

 

「ねえお前、私の弟だね?」

 

 長い剛毛を二つに括った男を見つけて声を掛けた。男はゆっくりと振り返り。

 

***

 

 正一郎はふと顔を上げた。廊下を軽い足音が通り過ぎていったような。読みかけの本にしおりを挟んで横に置くと、はまり込んでいたソファをぴょんと飛び降りて廊下に顔を突き出す。誰の姿もない。気のせいだったのだろうか?

 私室以外は扉を開けっぱなしにする決まりの我が家だ、さっきの足音が気のせいとは思えない。――確か足音は奥の部屋から玄関の方へ向かったはず。既に去った足音の主を追って廊下を進み、階段を下りてぐるりと周囲を見回す。誰もいない。

 

「母さんいるー?」

「どうしたの、オヤツ?」

「ううん。なんか、図書室の前を誰か通り過ぎていったから。母さんかなと思って」

 

 居間にいた母はテレビを見ながらランニングマシンで走っていた。間違いなくさっきの足音は母ではない。

 

「図書室の前を?」

 

 母がマシンを止め、テレビも消して正一郎と向き合う。

 

「いま家にいるのは私と一郎ちゃんだけのはずよ。之ちゃんは遊びに行ってるし、奈々は友達の誕生会だし。可哀想なお父さんは休日出勤だもの」

「じゃあなんだったんだろう、あの足音。まさか泥棒とか」

「まさかぁ。八咫姫様が守ってる我が家に泥棒なんて入れやしないわよ」

 

 タオルで汗をぬぐいながら笑う母に正一郎も「そうだよね」と頷く。八咫姫が守るこの家に、悪意を持った外部の者が入れるはずがないのだ。

 

「気のせいだったのかも」

 

 正一郎は台所から麦茶と煎餅を何枚か皿に取り、元居た部屋に戻る。三兄弟で共有の図書室は紙の匂いに満ちていて居心地が良く、百年以上前に書かれた古い本からつい最近発売された漫画まで揃っている。いま正一郎が読んでいるのは、彼の家が会社を興すきっかけとなった出来事が書かれた本だ。この本には少年漫画に出てきそうな話が「実話」として書かれており、読むたびワクワクする。

 

「やっぱ八咫姫様ってすごいや」

 

 図書室よりも奥の方向に顔を向ける。――顔を向けたところで正一郎には透視能力などないので本棚しか見えないのだが、正一郎が見る方向には八咫姫の部屋があるのだ。

 

 八咫姫は格好良い。なにしろ三つ目、額に第三の目がある。正一郎も額に目が欲しい。額に第三の目があれば学校でヒーローになれること間違いない。

 正一郎たちの守り神だから、神通力でこの家を結界で覆っているらしい。凄く格好良い。正一郎は弟と一緒に毎日修行しているからそのうち結界を作れるようになるはずだが、父は何故か生温かい目で正一郎や弟を見ている。ちなみに父は結界を作れない。ザコキャラなのだ。

 そして千里眼を持っている。ぼんやりと全体を見るなら半径三十キロ圏内が見える範囲で、条件を絞ると日本全国どこでも見ることができるらしい。八咫グループの社屋がある場所の周辺なら海外でも薄っすら見えるとか。間違いなく強い。

 

 第三の目が欲しいし、結界を作れるようになりたいし、千里眼も欲しい。正一郎は小学校を出たら八咫姫に弟子入りして良いと父から許可を貰っている――どうしてか父は優しい目をして正一郎の頭を撫でたけれど。

 

 再びソファに埋まりながら本を読み、二時間近く過ぎたろうか。正一郎の耳に電話のコールが届いた。一階の親機と二階の子機が曲を奏でている。どうせ母が電話を取るだろうからと放っておけば、やはり母が電話を取った。

 

「はい、もしもし――え、八咫姫様? 何故外に? 姫様の弟が、はあ。お迎えを? え? ちょっとお待ちください、弟ってもしかして」

 

 正一郎はバネのように跳ねて立ち上がり、走った。

 八咫姫の九人いる弟妹――まさか見つかるなんて。それも正一郎が家にいる時に!

 

 これから何か起こる。正一郎は瞳を輝かせながら階段の手すりを滑り降り、百点の着地をした。

 

 漏れ聞こえた通り、八咫姫の九人いる弟妹のうち三人が一度に見つかったらしい。あと一時間もせず帰宅するだろう正一郎の弟妹に説明する係が必要だからと留守番を頼まれ、八咫姫とその弟たちを迎えに行った母が帰るのを待つ。電話口で、八咫姫は弟たちについて「酷い目に遭わされたせいで恐ろしい見た目になってしまっているが、兄弟想いの優しい子たちだから安心してくれ」と言っていた。八咫姫の弟なら正一郎にとっての大祖父のようなもの、多少見た目が怖くても身内だからきっと平気だ。

 母が出て五分も過ぎない頃から尻がそわそわとし始め、時計をちらちらと見ながらお菓子の準備をする。すぐお茶を淹れられるように瞬間湯沸かし器に水をセットし、人数分の湯飲みなどを台所に並べる。あと何分で帰ってくるだろう。もう母が出てから二十分だ。まだ帰って来ないのだろうか。

 

 母が出てから四十分ほど過ぎ、家のチャイムが鳴った。インターホンに駆けよれば映っていたのは双子の弟、その弟の後ろには妹がいた。

 

「なんだよ、正之と奈々かよ」

『なんだよってなんだよ。鍵開けて』

 

 家に入るや洗面に真っ直ぐ向かった二人が、手洗いうがいを終え居間に入ってくる。

 

「ただいまぁ母さん」

「ママただいまー」

 

 ソファに戻り座っている正一郎を見もせず台所に向かって声を張り上げた二人に、正一郎は「母さん今いないよ」と言って対面のソファを指さす。

 

「まあ座れよ」

「なんで母さん居ないの? 買い物?」

「なんか正一郎お兄ちゃん変だよ。何かあった?」

 

 とりあえず説明するから座れよ、と二人を正面に座らせて、正一郎は一度唾を飲み込んだ。

 

「母さんは八咫姫様と――八咫姫様の弟三人のお迎えに行っているんだ」

 

 目を丸くした二人が口を開こうとしたその時、家のチャイムが鳴った。玄関の開く音がして母の声が廊下に響く。

 

「ただいまー」

 

 正一郎が飛び上がるように立ち上がり玄関に向かえば、弟妹も遅れて走りだす。

 

「おかえり!」

 

 母と、八咫姫と――その後ろに並んだ、ツインテールの兄ちゃんに全裸系芸人、進化をあと一回は残しているだろう四足歩行人類(?)。正一郎は三人目に特に心躍らせた。ゲームや漫画では、醜い奴が進化すると超絶美形になる。正一郎はそういうことも知っているのだ。

 

「俺、正一郎! 貴方の名前は!?」

 

 そう言って満面の笑みで血塗に飛びついた正一郎の姿に、脹相と壊相は目を見開いた。まさか一番人間らしい見た目をした脹相ではなく、一番人とかけ離れた姿の血塗に飛びつくなど。

 

「おれ! おれおれ正之! ねえ兄ちゃんたち八咫姫様の弟って本当!? あの『奪われた九人の弟妹』って本当か!?」

 

 正之は正之で、血塗一人ではなく脹相ら三人を見比べ、壊相の指先を躊躇なく掴んだ。――芸能人に壊相と似たような恰好をした色物がおり、正之がその芸能人を好きだったためだとは、今の脹相らが知る由もない。

 

「ちょっと! お兄ちゃんたち! お爺様たちが靴脱ぐの邪魔しちゃ駄目でしょ! ごめんなさい、兄が失礼しました。すぐお茶を用意しますね!」

 

 まだ小学校中学年だろう年齢の奈々が兄二人を叱りつけるのは良いだろう、だが、いかにもな見た目をした血塗を見て悲鳴を上げないのは予想外だった。

 

 ――奈々が三人を怖がらなかったのには理由がある。八咫姫を祀るこの家の女児は「八咫の姫」だ。家族以外の者、八咫グループの社員らなどの一部はこの「八咫の姫」を八咫姫と呼んでいるものと思っている。

 呪いとは、想いであり、願いであり……胸を満たす感情によるものだ。八咫の姫を八咫姫と混同する者が増えれば、それはある種の「呪い」となり現実に影響を及ぼす。

 

 八咫の姫には第三の目がある。

 八咫の姫には神通力がある。

 八咫の姫には千里眼がある。

 

 奈々には第三の目はないが、呪霊を視認でき、ある程度までの強さの呪霊を祓える力を持ち、ある程度の範囲内であれば遠くを見通せる。

 兄らが持たない力を奈々は生まれた時から持っている。もっと恐ろしく禍々しいものを見慣れた奈々は、血塗の見た目を恐れたりしない。

 

 なにより彼らは視認した瞬間飛びかかってくる呪霊とは違っていた。正一郎や正之の言動に戸惑う、心が傷ついた「ヒト」だった。そして、八咫姫が探し続けてきた彼女の弟だ。奈々が三人を恐れる必要がどうしてあるだろう。

 

「お帰りなさい、さあどうぞ居間で休んでくださいな」

 

 居間の方へ促すように腕を開いた奈々を見て、八咫姫がにっこりと微笑んだ。

 

***

 

 特級呪物『両面宿儺の指』。四つの目と四本の腕を持った――人間の、計二十本の手指だ。

 そのうち二本を飲み込み体内に取り込んだうえで正気を保っている虎杖悠仁はまさに千年に一人の逸材、高校に入学したばかりの十五歳という幼さで『執行猶予付きの秘匿死刑』が決まった。

 全ての両面宿儺の指を取り込み、指と共に死ね。人としての心を前世で捨ててきたのかと疑いたくなるような呪術界の決定はこれでも、悠仁の担任教師となる五条悟の尽力によりだいぶん条件が緩和されたものなのだ。五条の手配がなければ即死刑だったのだから。

 

 虎杖悠仁は一般家庭で育ち、呪術の界隈での常識を知らない。彼には先ず、決してしてはならないこと、触れてはならないことを教える必要が有った。

 それは悠仁と同じく地方出身で東京の事情に詳しくない釘崎野薔薇にも。教えるべきは東京に暮らす呪術師、呪詛師の両方にとってのアンタッチャブル――陣野一族。

 

 四月から東京呪術高専に入寮していた伏黒恵を除く悠仁と野薔薇の二人にとって、これは初めての上京だ。本日の目的地への道すがら、悠仁、野薔薇、恵の呪術高専一年生三人に、銀髪メカクレ軽薄高身長という要素を詰め込んだ不審人物ならぬ五条悟は丁寧に説明を始める。

 

「東京都内の、特に渋谷駅から北西方向にある住宅街は呪術師も呪詛師も――ああ、呪詛師って言うのは簡単に言えば『自分の為だけに呪術を使いたいから人助けなんてやーんぺっ^^ うひょひょ人殺したのしー!』って、他人の迷惑顧みない呪術使いのことね。呪術師も呪詛師も大人しくするしかない土地なんだ。なるべく渋谷には近づかないようにね」

「なんで!? 渋谷とか原宿とか観光する気満々だったのに!」

 

 田んぼか家か山しかないような土地で育った野薔薇は、呪術高専で支払われる給料で東京を満喫する気でいた。渋谷は東京の代表的な場所だ。行くなと言われても困る。禁じられても行く、絶対に行く。

 

「東京と京都……歴史ある呪術師一族のほとんどが暮らすこの二都府以外では知られてないけど、渋谷に居を構える陣野一族から呪術関係者は嫌われているんだ。特に、加茂っていう一族は滅茶苦茶憎まれてる」

 

 陣野家は、かつては東京都内においては二十三区の土地の三パーセントを有していたほどの地主であり、都内に限らず山林から住宅地から様々な土地を今も所有している。また、明治時代初期に陣野嘉右エ門が興した『三眼電機』を祖とする八咫グループは戦後の財閥解体後も規模拡大を続け、今では医療から重工業まで様々な業種のグループ会社を持つ世界的企業だ。

 八咫グループには野薔薇もこれまでお世話になって来た。家電製品、農業用機械、除雪機等々。悠仁の家にも八咫のロゴ入り電子レンジなどがあった。誰にとっても身近で聞きなれた名前だ。

 

「加茂家がその八咫グループに何かしたってことか? クソみたいな性格の奴がいて、そいつが八咫グループの人に呪霊をけしかけて遊んだとか。そういうことをするいじめっ子いるだろ」

 

 そういう虐めをするのは小学生や中学生だけではない。大学生や社会人になり世間を知り一般常識を身に付けた後でも、ただ自分が楽しいからというだけで人間の屑と呼ぶべき所業を犯す者は幾人もいるのだ。

 子供がやったにせよ、大人がやったにせよ、質の悪い行為に陣野家が怒髪天で呪術関係者を身辺から締めだした――あり得る話だ。

 

「いや、そういった事実は無い。でも陣野家が呪術関係者を嫌っている理由は分かってるよ。呪術関係者に対して誘拐犯とか強姦魔、拉致監禁している十人の身内を返せって、陣野家は百年ほど前からずっと同じことを言ってるんだよ。でも百年前の当時、加茂家にも他の家にも陣野から浚われてきた人なんていなかったし、今もいない。冤罪だと思うんだけどさ……全然聞く耳を持たないんだよね」

 

 陣野家が加茂家その他呪術関係の一族に対し「誘拐した十人を返せ」と言い出したのは百年前だ。今も同じ数の「十人を返せ」と言っている。もし本当に百年前に陣内家の十人が誘拐されたとして、とっくに死んだだろう彼らについて「返せ」と言い続ける理由が分からない。

 

 十年以上前だが、一般家庭出身で呪術の一族ではないからという理由で夏油傑――五条の親友だった青年――が陣野家にアポイントメントを取ろうとしたことがある。結果は惨敗、「無関係の君を使うとは、君を選んだ人は頭が良いね。加茂家によろしくと言っておいてくれ」と掃きだされた。

 お茶漬けの素を渡されて帰って来た夏油を見て「京都人より京都してるね」と家入――夏油と同じく五条の同期――は呆れ、五条もそれに頷いた。いけずの極みやな。

 

「世代で伝言ゲームミスったとかそういうのじゃないの? 百年前って言ったら大正とか昭和とかあたりでしょ、十人も誘拐なんてしたら事件よ。新聞記事になってない方がおかしいじゃない。その陣野って人達、何か思い込みしちゃってるんじゃないの」

 

 野薔薇の発言に、三人とも頷いた。

 

「誤解だとしても陣野家が呪術関係者を嫌っていて、拒絶している。渋谷にいるのが陣野一族に見つかったらリンチ待ったなしだし、奴らはほぼ十割の確率で呪術師や呪詛師を見つけ出す謎の技術を持っているんだ。だから近づかないのが一番、分かった?」

 

 ――誤解だと思われていた。加茂家が陣野家から十人も誘拐した事実は無く、事実無根の冤罪だと誰もが思い込んでいた。

 

 夏油の皮を被った「誰か」が民間人を巻き込み、ハロウィンのため人が溢れる渋谷に帳――結界――を張ったとき、三体の濃い気配が渋谷駅前に現れた。

 気配は五条も知る特級呪物、呪胎九相図のそれだ。呪胎九相図とは明治初期、加茂憲倫が呪霊の子を孕む特異体質の娘に妊娠と堕胎を九回――もしくはそれ以上の回数繰り返させたことで生まれた、現在九つ現存する、直径七センチもない胎児らの遺体の総称をいう。

 初夏に行われた京都呪術高専と東京呪術高専の交流会初日、夏油や夏油と目的を同一にする呪霊らが東京高専を襲撃そして奪取した呪胎九相図の「一番」「二番」「三番」つまり「脹相」「壊相」「血塗」。それらが渋谷に持ち込まれた。否、持ち込まれたのではない、肉体を持って現れた。

 

 呪胎九相図の名は仏教絵画の九相図による。野外に打ち捨てられ腐るに任せた死体の経過を九段階に分けて描いている。

 脹相――ガスにより死体が膨張する様。

 壊相――腐敗が進んだことで皮膚が割れ、破れる様。

 血塗相――腐敗し液状化した内臓等が体外に溢れる様。

 

 名は体を表すという。名はその人を形作り、縛る。

 受肉した当初、脹相と壊相は比較的人らしい姿だったが、血塗はとみに酷かった。脂ぎった赤黒い体液を流す人面と、その顎下にもう一つある巨大な口には乱杭歯。体毛はなく膨らんだ上半身に細い下半身、真っ直ぐ立つことが出来ず前のめりに立つ姿は獣に似ていた。

 壊相も背中の皮が割れ、人面瘡のようなその割れ目から絶えず血が溢れているという姿だった。

 

 名に縛られ、名の表す通りの姿を手に入れた結果だった。ヒトとして生活できるはずもない姿だった。

 

「チョウソウ、エソウ、ケチズと言うのだが――正一郎、正之、奈々、頼みがある。三人の名前に良い字を当ててはくれないか?」

 

 数か月前、防水シートの上にタオルケットをのせたソファーに三人並んで座った脹相らを、腹を同じくする姉が子供たちに紹介した。

 

「え! じゃあすっごくカッコいい漢字付けて良いの!?」

「もちろん」

「やったあ! 漢字辞典持って来る、ちょっと待ってて。凄くカッコいい漢字選ぶから!」

「正之、夜露死苦みたいな字は選ばないようにな」

 

 子供たちがより良い意味を持つ漢字はないかと探し――選んだ字のそれぞれが、今、三人の体を作り、縛っている。

 

「チョーソーは、『澄壮』! 澄み渡って濁りのない男! で、エソーは『景壮』で、立派な男。ケチズは『景智澄』。光と智慧を以て澄ます。ケチズはチョーソーとエソーの弟だから、二人と同じ字を入れたよ」

 

 脱皮や羽化をしたわけではない。だが、数か月かけ三人は変わっていった。嬉しそうな顔で字の説明をした正一郎らが三人を変えた。

 ずっと弟妹の行方を捜していたという種違いの姉と、脂にまみれた体液を厭わぬ三人の子供たちと、次々チョウソウらに会いに来ては泣いて喜ぶ親類縁者と。人の味方も呪霊の味方もしたくないと考えていたチョウソウの心を揺り動かしたのは「家族」だった。

 

 家族を守りたい。だが、家族だから、親族だから守りたいというわけではない。

 実際の所、三人は姉の八咫姫以外の親族とはほとんど血が繋がっていないのだ。八咫姫を引き取った陣野長介は、八咫姫の祖父である太兵衛と十五離れた従兄弟だ。民法では親族とは6親等までを言うが、現在生存している一番親等が近い親族でも8親等、正一郎らは10親等になる。もはや他人だ。

 真心を返したい。愛してくれるから、愛を返したい。好きだと思う人たちを守りたい。

 

「困るんですよね……我が家の近くでこの様な騒動を起こされては」

「ゲトー、俺たちと遊びたいって誘ってるのかぁ?」

 

 普段から明るく夜のない街はハロウィン当日とあって眩しいほどだ。ペンシルビルの屋上から眼下の混乱を見下ろしながら、エソウとケチズが冷えた声で呟いた。

 

「奴らの目的など知らないし、もはや知りたくもないが――親父さんたちが巻き込まれていては困る」

 

 地上の光が届かない奥から――先端へ。中央に長男、次男と三男がその脇を固める。数十メートルは下の地上から届く光に顔を白く輝かせながら、チョウソウは言った。

 

「ゴミ掃除だ。行くぞ、エソウ、ケチズ」

 

 人の出入りを阻む帳も、半分が呪霊の三人を拒めない。袖をはためかせ宙を舞った三人は、何に阻まれることもなく渋谷駅へ向かう。家族が巻き込まれているかはまだ謎だが、問題の源を放置していては近々巻き込まれること必定。人のごった返す道を行かず街路樹や街灯を足場にしつつ、三人は中心部へ走る。

 

 呪詛師と呪霊、呪術師の対立構造に――今、第三勢力が侵入した。

 

***

 

 ミーム汚染という言葉があるように、同じ言葉を聞いたとしても、各々の持つ知識や常識によって同じ認識を持ったり、別の判断を下したりする。

 

 例えばだが、戦国時代をモデルにしたゲームが二種類あるとして、片方がムキムキの筋肉ばかり登場するPvPゲーム、もう片方が偉人女体化の脱衣麻雀ゲームだったとしよう。前者に戦国バトル、後者を戦国・麻雀という仮名を付けておこう。戦国バトルしか知らない者に「織田信長は好きか」と訊けば、彼は「うん、強くて好きだよ」と答えた。戦国・麻雀しか知らない者に「信長は好きか」と訊けば、彼は「うん、エロくて好きだよ」と答えた。どちらのゲームも知らない者に訊けば、「昔の人だよね? さあ、良く分からない」と答えた。ちなみにどちらのゲームも知っている者は「どの信長?」と答えた。信長が登場するゲーム等の創作物はゆうに百を超える。

 ミーム汚染とは、自覚を伴わず、言葉や画像などに対する認識が変わってしまうことを言う。知らないうちに思考が塗り替えられる――ある種の洗脳だ。

 

 呪胎九相図の三人は、呪霊の子として生まれてから百五十年、呪物として封印されていた。呪術師になるには呪力が足りない窓なども含め、呪術師や呪詛師の数は国内だけで二千人足らず。これは呪術高専の京都校、東京校を合わせても一学年につき十人もいないこと、窓も含め呪術師の死亡率が高いことからして当然の数だ。

 ――その二千人が「呪物であり、危険な存在だ」と思い込み、念じ、定義づけている「呪胎九相図」をどのようにして浄化すべきか? 陣野家が取った手段はたった一つだ。善いモノとして一般の認知度を上げれば良い。

 

 今は陣野家の守り神として神格を得ている八咫姫だが、始めの五十年程は呪霊の気配をまとっていた。未来の知識という予言により陣野家――そして三眼電機を発展させてはいたものの、まだ「呪われた存在」だったのだ。

 それが変わるきっかけは大正十二年九月、関東大震災だ。予言を信じ被災を逃れた三眼電機社員ら、被災後に三眼電機から支援を受けた民間人らからの三眼電機創業者一族への信頼は高く、新聞記事で社長が「うちには八咫姫という守り神がいて云々」と語ったことにより八咫姫の知名度が爆発的に上昇。震災から二年としないうちに八咫姫は神格を得るに至った。

 多くの者が八咫姫を「守り神」だと信じたから神になったのなら、多くの人にチョウソウらを「神に連なるもの」と思わせれば良い。二千人の強い呪力を持つ者達がチョウソウらを呪物だと定義していたとしても、十倍――いや百倍の数の一般人がチョウソウらを神だと信じればどうなるだろう。なにせ日本の人口は一億二千万人いるのだ、不可能ではない。

 

 最初は公式SNS。八咫グループのイメージキャラクター八咫姫ちゃんに弟がいたというアナウンスから始まった。八咫姫の下に弟妹が九人おり、八咫姫は十人姉弟の長女だ、と。先にそのうちの三人の名前と設定を公表し、イラスト投稿サイトでエソウとケチズのイラストを公募した。採用されればそれぞれのキャラにつき五十万ずつが賞金となる。公式キャラクターイラストとして採用されなくても、優秀作品に選ばれれば十万円が手に入る。名前が売れる。

 そして、イラストと同時に開始されたのが八咫姫小説大賞。メインキャラでもサブキャラでも良いが八咫姫とその弟たち四人のうち一人を必ず作中に登場させることのみを募集要項として、イラストと同じ投稿サイトの小説部門で公募がなされた。大賞の賞金はイラストと同じく五十万。

 

 知名度が上がれば良いのだ。良い意味の知名度が上がれば、チョウソウらの負を正に転じさせることが出来る。チョウソウと聞いて脹相ではなく澄壮の字を思い出すように、人々の思考を塗り替えるのだ。

 

「人間社会では顔が良ければ異性を扱きおろしても許されるのですねぇ」

 

 人間社会の一般的な認識を学ぶためにエソウらが先ず見せられたのは――クレヨン○んちゃんとちび○子ちゃんだ。幼児は幼稚園や保育園という施設で同世代の子供と一緒に過ごし、対人能力を磨くようだ。しんのすけが頻繁に母親に怒られているため、「してはいけないこと」を学ぶことが出来る。○子もよく怒られているため反面教師として良い。

 他にもドラ○もんやらサザ○さんやらというアニメもあるが、ドラえ○んは「この世に存在しない道具が実在するものと誤解する可能性がある」ため少なくとも半年は禁止で、サザ○さんは「現代の一般家庭とは異なる家族の形態を描いているため誤解する可能性がある」ため同じく半年は禁止だ。その代わりに、スポーツ漫画やアニメはどれでも好きに見て良いと言われており、いま三人はテニスの○子様というアニメを見ている。さっき顔の良い部長が観客の女子生徒らを「雌猫」と呼んで扱きおろしていた。

 

「顔は優劣を付けやすいからな。より良いものを、より優れたものをヒトが求めるのは当然だろう」

 

 頷きつつそう言ったチョウソウに、エソウは「そうですね」と大振りに頷いた。身体能力が優れているかどうかを外見からは判断できず、勉強ができるか――頭が良いかどうかも外見からでは分からない。チョウソウだけでなくエソウもケチズも高い身体能力を有しているが、初対面の他人が見るのは顔だ。顔が判断基準になるのは仕方ない。

 この中で一番顔が良いのはチョウソウで、今この兄弟三人を横に並べれば異性は誰もがチョウソウを選ぶだろう。

 

 だが。

 

 ――イラストの公募が終われば、エソウとケチズの容姿は大きく変わる予定だ。キャラクター公募の際、概要にエソウは「黒髪でモヒカン、筋肉質の大男。一人称は『私』」、ケチズは「スキンヘッド。性格に獣じみたところがあるが口調は緩い。一人称は『俺』」とだけ書かれた。これだけの情報からどのような容姿が生まれるのか、エソウもケチズも楽しみにしている。もしかすると兄よりもイケメンになるかもしれない。

 様々な人がエソウとケチズの容姿をどのようにするか悩み、思い描き、情熱を傾けている。募集の締め切り日までまだ二ヶ月以上あるが、既にエソウらの体は組み変わり始めているのだ。絶えず溢れていた血が止まり、エソウの背中の人面瘡は薄れ始めた。ケチズは更に変化が顕著だ。落ちくぼんだ目にはだんだん肉が盛り上がり始め、乱杭歯は整列し、溶けていた鼻もこけていた頬もふっくらとしてきている。風船に手足を生やしたようだった体には首が、肩が、胸部が、腹が――体の各部位がそれぞれ独立して明確になり始めている。

 

 この調子なら、チョウソウらの体を巡る力は一年とせず呪から祝に変わる。低位ながら神格を得る。大切な相手を守る、守り神になれる。

 

「あと数カ月もすれば私たちの容姿が定まります。私とケチズも、跡部のように異性を『雌猫』と呼んでも歓声を上げられるような男になるはず。兄者よりイケメンになるかもしれませんよ」

「そうなったらどうするかなぁ。困っちまうなぁ……俺、女より猫の方が好きなんだぁ」

 

 心底困ったと言わんばかりの顔をしたケチズの頭を、チョウソウが笑いながら小突く。

 

「気が早いぞ、ケチズ。そういうことはイケメンになってから悩めば良いだろう」

「ああ! そっかぁ、兄者の言う通りだぁ!」

 

 ――まだ公募の締め切りは来ていなかった。

 ――まだ三人とも、体内を巡る力は呪に傾いていた。

 ――まだ彼らが神格を得るには様々なものが足りなかった。

 ――いまだ、呪霊と同一視される存在だった。

 

 十月三十一日、多くの人がハロウィンに沸く日。あと一押しが足りない三人は、それでも渋谷駅に走った。大切な人たちが巻き込まれたかもしれない。大切な人にとっての大切な人が傷つけられているかもしれない。だから、渋谷を監視し続けるため動けない状態の姉に言ったのだ。

 

「姉者、俺たちのできることをして家族を守りたい」

「私たちも姉者の力になりたいのです」

「俺も出来ること増えたんだぞぉ」

 

 口々にそう言う三人に、彼らの姉は三つの目を瞬かせた。そして嬉しそうに微笑む。

 

「お願いしても良いか――私の守るべき子らを」

 

 渋谷周辺の巨大液晶画面が切り替わる。一定時間ごとに表示されるようシステムされている企業名、CM等は一斉に途切れ、代わりに映ったのは三つ目に三本足が生えたシンボルマーク。八咫グループのコーポレートロゴだ。

 

 まるで生き物のように眼下を見回すロゴに、しかし人々は気付かない。見えない壁に閉じ込められているという現状により、視覚狭窄に陥っている。

 目の指し示す方向に走りながら、三人は自らの目でも眼下の人々を確認する。大切な人にとっての大切な人を取りこぼすことがないように。悪意が彼らを襲わないように。

 

 三人に自覚は無かったが、もはやその姿は悪意の子のそれではなく、祝福された者の――愛された子のそれだった。

 羽化の時は、今。

 

***

 

 八咫姫は現在陣野家を束ねる当主の家で暮らしているが、八咫姫の住まう家が陣野家の本家――というわけではない。彼女は「一族のなかで最年少である娘がいる」家に住むのだ。理由は単に、術を教えるためには同居の方が便利だから。

 

 陣野の娘は生まれたとき、朱で額に三つ目の目を描く。その子が呪術師や呪詛師によって連れ去られないように。おとよの悲劇を繰り返さないように。神通力をその身に宿しますように。

 このためもあってか、人により方向性に多少の差異はあるが、陣野家に生まれる娘は必ずとある能力に目覚める。後方支援に特化した、前衛を強化し敵を弱体化させる特殊能力。――ゲーム的な表現を用いるならば、彼女らはバッファーなのだ。

 この能力なくして渋谷近辺の治安を守ることは困難だ。呪術師や呪詛師らを陣野の男達がタコ殴りにできるのは女性陣によるバフ・デバフがあればこそ。術式が使えなくなるよう弱体化させられた敵の皆様は哀れ、バフを掛けられ凶悪になった陣野家の熱い拳でリンチされる。だが一方的な私刑を受けた呪術師も呪詛師も特殊な凶器を所持していることがままあるため、大抵の場合、陣野が主張する正当防衛が認められる。お陰さまで陣野の男は老いも若きも筋肉質だ。

 なお、リンチから無傷で生還した呪詛師は一人だけいる。バフ重ね掛けの三十代から七十代マッチョメン五人とたった一人で渡り合い、何故か最終的に駅前の呑み屋で仲良く打ち上げをして帰っていった。今でも頻繁に渋谷駅付近の呑み屋で呑み会をしているうえ家にもホイホイ着いてくる。快楽主義の呪詛師の中では肝の据わった野郎だ。

 

 ところで。八咫姫はこれらの私刑の際に何をしているのだろうか。陣野家の者ばかり働いていて彼女が何もしていないようにも見える。

 だが実際はそうではない。彼女は呪術師や呪詛師らの侵入がないか常にその千里眼を用いて地域全体を監視しており、もし侵入があれば男性陣に場所や人相などの連絡をし、また女性陣のバフを男性陣に届ける中継器の役割を担っているのだ。

 ゆえに、八咫姫ほか陣野の女は動けない。

 

 畳敷きの八咫姫の部屋には梁から布鈴緒――赤白紺の三色の絹布を編まずに垂らしたものが垂れ、その布の端を握る陣野の女たちは誰もが額に朱で描かれた目を開いている。

 人で溢れる渋谷が帳に閉ざされるなど陣野家の者にとっては空前絶後と言うべき大事件。誰がやったかは分かっている。チョウソウらを受肉させた夏油とその仲間の呪霊だ。だが夏油らは何故、何のために帳を下ろしたのか? 分からないから、いつ何が起きても良いように全力で対応する。

 

 ――渋谷駅周辺の電光掲示板の上では三つ目がギョロギョロと動いている。陣野の者が誰かいないか。帰宅途中だった者はいないか?

 いた。陣野の男だ。車で帰ってきていたのが立ち往生し、仕方なく車を出たようだ。まだまだ若い四十代前半、正一郎らの叔父にあたる。そして運転席から下りてきたのは免許を取ったばかりの彼の従弟、やはり陣野の男だ。八咫姫の部屋には彼らの母達や祖母もおり、二人の顔を確認するや「でかした」「よし」「おまんがヒーロー」と歓声を上げた。

 先に年若い男、信正が電光掲示板に気づいた。従兄の正輝に声をかけて上を指差す。じっと自分達を見つめるコーポレートロゴにハッと目を見開いた。

 

「信正、拡声器を使え。避難誘導だ」

「あいよ。どこに誘導するよ?」

「地震じゃないなら建物の中で良いだろう。スクエアならここから近い。フロアも広いから、これだけの人数がいても余裕で入るんじゃないか?」

「りょーかい」

 

 運転席に戻った信正が取り出したのは無線の拡声器。信正は車の上に軽々と土足で飛び上がるや、足元にスピーカーを置いてマイクを握った。

 

「あってんしょんぷりーず。こちら八咫グループでっす。現在原因不明の混乱が生じておりますが、皆様が地上におられますと人口密度が高くなり、とても危険です。とりあえずスクエアに入ってください。こちら八咫グループです。とりあえずスクエアに避難してください。地上が大変混雑しております。寒い格好をしている皆さん、スクエアなら暖房が効いていますのでスクエアで暖まってください。こちら八咫グループです」

 

 今は何をすべきなのかすら考えられないほど混乱と不安で思考が鈍化していた人々の耳に、八咫グループを名乗る信正の声は天啓のように届いた。とりあえず暖まりに行けば良いんだ。とりあえずスクエアに行けば良いんだ。とりあえず。

 

「スクエア内では各フロアに分散しましょう。一階に留まると後続が詰まります。スクエアに入られましたらエスカレーターで上の階を目指してください。一階に留まらず、エスカレーターで上を目指してください。この原因が判明し、事態が解決するまでしばらく掛かると予想されます。暖かい場所でお巡りさんを待ちましょう」

 

 人々がざわざわと動き出す。とりあえずスクエアに入って、待とう。言われてみれば確かに外は寒い。

 

 信正と正輝の二人は案内を十分も続けたろうか、道路を覆い尽くしていた人混みはほとんど消えた。

 広い空白ができたそこに上から三つの影が飛び降りてくる。とっさに身構えた二人だが、大男二人に挟まれた中背の男の姿を見て警戒を解いた。見上げるような大男を従えているのは、少し癖のある剛毛を二つ括りにした塩顔――チョウソウだ。大男の片方はエソウか? しかし髪型や基本的な造作こそ以前と変わらないが、美化300%と言おうか、漫画で言うならモブ顔から準主役級のイケメンになったような違いがある。

 

「そっちはエソウ、で良いよな?」

「そうですよ」

 

 チョウソウの右にいるムキムキの美男がエソウなら、左にいるのはケチズだろう。ケチズは――見た目が物騒になっていた。スキンヘッドは変わらず、笑んだ口元では鋭い八重歯が目立つ。太い首、広い肩、裸の上半身は筋骨隆々としており、パンチ一つで人を殺せること間違いない。正輝の脳内でスイカが汁を撒き散らしながら割れた。

 

「じゃあ左のラオウか烈海王みたいなのはケチズか?」

「ああ、そうさぁ」

 

 世紀末伝説から出てきたようなこの男がつい数か月前まではハンプティダンプティとカオナシを合体させたような異形だったなど、にわかには信じられないことだ。昨日の時点でも首らしき括れがあるハンプティダンプティだったのに……たった半日かそこらで姿が変わりすぎではなかろうか。

 アヒルの子も驚きの大変身。

 

「情報を擦り合わせたい。どういう目的でスクエアに人を集中させた?」

 

 チョウソウの問いに答えたのは正輝だ。

 

「見えない壁に閉じ込められた。出られない。といった話し声が聞こえたので、帳に閉じ込められたものと考えた。俺たちを狙ったにしては襲撃されないことから無差別の犯行だろう。守らねばならない対象がバラバラに散っているよりまとめておいた方が楽なので、収容人数がここらで一番多いスクエアに誘導。出入り口を我々で固めれば良いという判断だ」

「分かった。こちらは渋谷に大規模な帳が下ろされたことを確認した姉者の指示で、身内が駅周辺にいる場合の保護と犯人どもの抹殺のためここに来た。正輝と信正には人々の誘導と、スクエアにいる人々を外敵から守るのを頼みたい。ケチズをそちらに付けよう」

「分かった。敵の抹殺は頼んだぞ」

「りょーかい。ケチズちゃん昨日ぶり。マジでやべーゴリマッチョんなったね」

 

 ふつふつと腹の底から湧き上がる力を感じ、五人揃って上を見上げる。数えきれないほどのコーポレートロゴは複数の電光掲示板を縦横無尽に走り回り、目を皿にして人々を確認している。その一つが五人をじっと見つめていた。目で繋いだ線と血の繋がる縁を辿った、女たちによる支援――バフだ。

 神もどき二人と、人類二人に神もどき一人の二組に別れる。誰かが乗り捨てていった二人乗りの大型バイクに正輝とケチズ、原チャリに信正がまたがる。

 

 これは緊急避難なので他人のバイクに乗っても罪ではない、そういうことにしよう。免許を持っていないケチズに運転させないだけマシだろう。

 ケチズが後部座席でスピーカーを掲げながら「困ってるならスクエアに行けー。とりあえずスクエアに逃げろよぉー」と唱え、正輝はバイクを右へ左へと走らせる。できるなら遠くにいる人々もスクエアに回収しておきたい。二人の後ろを走る信正も、ホイッスルをビリビリと吹き二人に注目が集まるよう動いている。

 できることはやった。駅や電車内、他のビルにいる人々を助けるには戦力が三人だけでは足りないし、そこまで責任は持てない。また、三人にスマホを向けてゲラゲラ笑っている馬鹿についてはどうなろうが知ったことではない。三人のできる範囲のことはやったのだ。

 

 スクエアの正面入口、ガラスの自動ドア前に立つのは正輝だ。情報を擦り合わせる時間がなかっため、正輝は「敵」がどのような存在か分からない――呪詛師だろう。もし百鬼夜行を率いた呪詛師であればガラス張りの壁など破って中に入れてしまう。だがこちらには三人しかいない……人数不足にも程がある。次々ビル内に入っていく人々を一人一人確認しながら、正輝は足元に置いたスピーカーの音量を最大にして「とりあえずスクエアの中に入りましょう。一階に留まらずエスカレーターで上に行きましょう」というアナウンスを繰り返す。スピーカーの電池はいつまで保つやら。

 

 その地下。三つ目のコーポレートロゴの指示に従い駅と繋がった地下空間に立つのはケチズと信正だ。駅から逃げてきた人々がケチズの姿に目を剥きまた引き返そうとするのを信正が呼び止めてはスクエア内に誘導する。信正の負担ばかり大きいように見えるが、ケチズが威圧しているからこそ呪詛師や格下の呪霊がこの周辺に近寄らないのだ。

 

 駅の方から禍々しい呪力の高まりを感じる。自分も参加したい、兄達と共に戦いたい。だがケチズの任務はビルの人々を守ることだ。前線で暴れまわることではない。

 

 兄二人の無事を祈りながら、ケチズは筋肉を隆々と膨らませる。

 大きいこと、強く見えることは大事だ。ケチズは兄二人を、姉を守れる強さを求めた。

 

 長男のチョウソウは男三人の中で一番呪力が大きく、術式も利便性が高くて強い。強いのだが、ひょろりとしていて力強さより速さ、腕力より術式を優先した体格だ。

 次男のエソウは体格が良いが、見た目を裏切って動きがしなやかで柔軟性がある。体格に任せた無頼漢ではなくストレートもカウンターも得意な頭脳派なのだ。術式も使いやすいもので、兄弟の血であれば誰の血でも活用できる点は特に素晴らしい。

 長姉の八咫姫は強さの方向性が違う。サポートに特化した術式はなるほど神の一柱というだけあり桁外れで、長姉が届けるバフは今もケチズを温めている。

 

 ケチズに術式はなく(・・)、呪力も一番低い。もしかすると単に術式に目覚めていないだけかもしれないが、現状においてケチズは「これ」という術を持たない。代わりに、今にも口から溢れそうなほど身体の中で血が滾り、細胞一つ一つに栄養と酸素を届けている。

 ケチズは力を求めた。力が欲しいと願った。持っているかも分からない術式に無駄な期待を寄せず、ひたすらに力を望んだ。それが今の姿だ。姉や兄の壁となれる大きな肉体、相対するもの全てを打倒する筋肉。ふぅーっと吐いた呼気は白く、すぐに空気に溶けて消えた。

 

***

 

 駅の中に人が吸い込まれていったんだ――栓を抜いた浴槽みたいに!

 見えない壁を叩きながら、きっと犯人からのものだろう伝言ゲームで伝播した「五条悟を出せ」というセリフを繰り返す者達を街灯の上から見下ろす。どうやら犯人たちは人質を取ったようだとチョウソウらは頷き合って境界を離れ、陣野の二人と合流した後、チョウソウとエソウは駅へ走った。

 副都心線渋谷駅を囲っているのは、渋谷駅周辺を囲んでいるのと同じ一般人を閉じ込める性質を持つ帳だ。が、二人は人間の肉体を持った『呪霊』だ。出入りに困難はない。

 

 しかし一階に人の姿はない。地下一階に下りたがやはりいない。地下二階、いない。地下三階、いない。八咫のコーポレートロゴは地下一階から三階まで瞳を閉じている……敵がいないということだろう。

 

「まだ柔らかい。殺されてからそう時間が経ってはいないな」

「ご冥福をお祈りいたします……」

 

 地下三階に、食い荒らされた跡があった。壁を染める血はまだ鮮やかに赤く肉も柔らかい。一瞬の黙祷。地下三階で被害があったなら地下四階はどうだ? 急がねば犠牲者が増える。

 地下四階のロゴは奥を見ていた。この先に敵がいる。

 

「醜い怪物ですね」

「一応あれでも人間のようだが――犯行はショッカー軍団によるものか?」

 

 いま二人の目の前にいる怪物は上半身が巨大な赤ん坊のように肥大化しており、人間時代には身に付けていたはずのスーツの残骸が肉に埋まっている。赤ん坊のような甲高い声で意味をなさない言葉を発しつつ人を襲っているソレにエソウが出合い頭の蹴り。強度が低かったのか怪物は簡単に弾けた。

 

「弾け方が胡麻擦り団子みたいだな」

「止めてください兄者、これから胡麻擦り団子を食べる気を無くしてしまいそうです」

 

 その場にいた被害者三人組の女性のうち二人は五体満足で無事だった。――残念ながら一人は首があらぬ方向に折れ曲がり、誰が見ても死んでいると分かる姿だ。

 一瞬だけエソウと視線を交わせば頷き、エソウだけ先行する。一分一秒が惜しい状況だ、二人ここで止まるわけにはいかない。

 

「今は足腰が立たないかもしれないが、這いずってでも上へ逃げろ。俺とあいつは化け物退治に忙しいからお前たちを上へ連れて行くことは出来ない」

 

 スクエアを目指せ、と女二人に言い聞かせてチョウソウもその場を離れる。「嫌だ、助けてよ!」「どっか行かないで!」という悲鳴が背中を叩いたが、たった二人のために数千人を見捨てるなどという馬鹿らしい行為をするわけもない。

 エソウに追い付けば男女が三人騒いでいた。肉塊になった怪物らとエソウを交互に指さして「人殺し」と怒鳴っていた。聞くだけ無駄だと無視してその場を離れる。

 

 そして――バッタの呪霊がスーツ姿の男に食いつこうとしていたところにギリギリ飛び込んだ。

 やはり敵はショッカー軍団らしい。改造人間にバッタの怪人、惜しむらくはバッタの怪人が正義の味方ではなく敵役であることか。おそらくは蝗害の恐怖から生まれた呪霊であろうから細かいことを言うとバッタではないが、まあ似たようなものだ。

 

「おいあんた、上へ逃げろ! 今はまだ見えない壁があるせいで外には出られないが、地下三階から上に怪物はいない!」

「へ? え?」

「邪魔だと言っているんですよ。さっさと上へ逃げて頂けませんか」

 

 何が起きているのか分からない様子の男に二人でそう畳みかけ、背中を軽く押して階段の方へ向かわせる。男はエソウらを何度も振り返りながら早足で去っていく。

 

「ななんなんなんだよ? オマお前じゅじゅじゅ……じゅじゅじゅじゅ呪術師かァ? いや違うなァ、俺には分かるんだ。俺は賢いんだ。何で邪魔する?」

「呪術師などというおぞましいものと同一視されたくはないが、お前と同一視されるのも嫌だ」

「美しくありませんよ、あなた」

 

 バッタの怪人はスリコギのような声音でチョウソウをエソウをぎりぎりと詰る。

 

「お前ら呪霊だろォ? マヒトが帳守る俺に仲間呼んだのか? 邪魔するのなんでだァ?」

 

 マヒト、帳を守る仲間。床に打ち込まれた杭から感じる呪力はなるほど、ここ一帯に張られた帳に関係する呪具なのだろう。

 

「状況はだいたい分かった。礼を言う――だがお前の仲間になった覚えはない」

 

 チョウソウが両手を叩き合わせて撃ち出すのは赤血操術「穿血」。血を弾丸のように発射する技の一つだが、発射後においては鞭のように振るうことも可能。直径数ミリの鞭は狙い違わずバッタの怪人の額を撃ちぬいた。

 エソウが呪具を蹴りつけ壊した瞬間、足元の帳が解けていく。

 

「――行くぞ」

 

 地下四階で逃げまどっていた人々には上へ行くよう指示し、地下五階。副都心線のホームには一般人らが寿司詰めになっている。白髪の男が呪霊二体と切った張った――逃げられずにいる一般人らは雪山の猿のように体を寄せ合い、見えない何かによって殺されないよう目を血走らせている。

 空気を踏みしめて眼下を見下ろし、チョウソウが声を張り上げる。

 

「注目!」

 

 チョウソウらを見た人々に、歓声に似たどよめきが広がる。人が宙に浮いている。マジックか? ワイヤーアクションか?

 素直に自分たちに注目した人々に満足感を覚えながら、チョウソウは張りのある声で上へ向かうよう伝える。それと同時に構内全ての電子掲示板が八咫グループのコーポレートロゴと上へ向かう矢印マークを表示した。そしてコーポレートロゴを尻で押しのけるようにしてイメージキャラクターの八咫姫ちゃんが現れて両手の人差し指を立て、笑顔で上を指さした。

 

「上の階にいた怪物は我々で倒した。現時点ではまだ地下一階に見えない壁があるが、そのうち壊されるので心配する必要はない。我々は渋谷を見捨てない――安心してほしい」

「見えない壁が消えたらスクエアに向かってください。スクエアに我々の仲間がいますから、スクエア内で救助を待ってください」

 

 頭部が山頂のような呪霊、漏瑚がバッと階段――チョウソウらの方を振り向いた。

 

「呪術師の増援?……貴様ァ脹相か! 貴様が何故ここにッ……帳を解いたのも貴様だな!?」

 

 人が次々と階段で、エスカレーターで上へ消えていく。帳を解いたということはつまり、呪術師の侵入を阻むものが何もないということだ。上へ向かえば呪術師らが一般人を保護するだろう。

 漏瑚の罵声に白髪の男、五条悟がにやりと笑んだ。

 

「知り合いにしては敵対してるみたいね。まあ今は敵の敵は味方ってやつ?」

 

 五条悟の言葉にチョウソウは顔を盛大に歪める。

 

「味方? 気色悪いことを言うな。殺し合いなどそっちで勝手にやっていろ……俺達の目的は人命救助だ」

「もちろん騒動の元凶を抹消するのには助力しますよ。そうじゃないと私達が来た意味がない。でも、我々が貴方の味方だなどとは思わないことだ」

 

 床に降り立った二人に、柱から迫る影があった。細く小さい。女だ。黒髪と、その後ろに金髪。どちらも女子高生らしく制服を身に付けている。黒髪が美々子、金髪が菜々子だ。

 

「死ね!」

 

 美々子の手から縄が走り、こちらに飛び掛かろうとする蛇のように真っ直ぐチョウソウに向かう。腕で防げばこれ幸いと捕縛されるだろう、操った血で縄を上へ跳ね上げる。縄の途中を掴んで引っ張るも、美々子は体に呪力を巡らせてどっしりとその場で姿勢を保つ。

 

「呪霊と呪詛師の同盟対呪術師という対決なのではなかったのですか?」

「見た目で判断した? 残念でした、私達呪詛師だから」

「私達の邪魔をするならここで死ね!」

 

 呪力を巡らせれば人智を越えた力を発揮できる。彼女達の仕事――願いを邪魔している想定外の第三勢力を排除すべく、少女二人はなんらの助走もなくエソウらに向かって飛び掛かる。ホーム柵内部で二対二、線路上で一対二の接近戦が繰り広げられる間にホームからはどんどん人の姿が消えて行き、漏瑚が口汚く舌打ちをした。

 

「糞が、このままではッ」

「このままでは――なんだって?」

 

 巻き込まれる位置にいる一般人がいないではない。今この場では味方と言える相手もこの場にいる。しかし、少数の被害で多数の命が守れるならば。

 五条悟は取捨選択した。いや、ここに来た当初から取捨選択していた。多少の犠牲は仕方ない。既に幾人も巻き込まれて死んだ。

 ここでこいつらを殺さなければ、被害者の数は百人単位で増える。たった数人廃人にすることと、数百ないし数千人が殺されることと。天秤が傾くのは簡単だった。

 

 ――領域展開、無量空処。これは領域内にいる五条悟以外の他者に対し、無限の「知覚」と「伝達」を強制する。分かりやすく言えば、無量空処は自分以外の全員をごく短時間で「宇宙に放棄され考えるのを止めた柱の男」にする空間だ。空間内では無限の情報が舞い、しかしその数多な情報を認識できたとしても何もできない。行動をとれない。

 都心ではありふれた見た目の駅のホーム、無機質な地下五階の空間を無量空処が塗り替える。街明かりのない冬空のような、キリリとして澄んだ夜空が広がる。天の星々は眩しく輝き夜空を彩り、その中心に立つ五条悟を照らしている。――それを、一瞬。コンマ何秒だったのか、もしかすると数秒にもなる展開だったかもしれない。

 

 コンクリートと線路が伸びる場所で、漏瑚と目的を同じくする呪霊、花御のすぐ真正面に五条悟はいた。膨大すぎる情報量に呆けていた花御の顔面――人面で言えば目に当たる部分から伸びる木の幹を五条悟は勢い良く引き抜く。花御の口から人語ではない悲鳴が上がる。

 

「――花御!」

 

 一拍遅れて正気を取り戻した漏瑚が花御に手を伸ばす。その背後から走る弾丸は赤く……咄嗟に軌道から逃れた漏瑚の腕を貫通した。

 術師はチョウソウ。真っ青な顔色だが目だけはぎらぎらと輝き、しっかりと二本の足で立っている。彼の足元には気を失った少女が二人。

 

「この、きさッ――脹相ォォォォ!!」

「お前はもう、死んでいる」

「えっ何? 北斗の拳読んでんの? っとなぁ!」

 

 チョウソウの決め台詞と同時にエソウが発動したのは彼らの術式。蝕爛腐術「朽」。これは兄弟の(・・・)血を粘膜ないし傷などにより摂取した者を腐らせる。発動者は三人のうち誰でも良い(・・・・・・・・・・)。なお一番毒性が強い血を持っているのはエソウだ。

 漏瑚の腕から広がる腐食の術式はまるで花のタトゥーのように肌を彩る。モチーフは薔薇か、カーネーションか。

 

 無量空処で弱ったところに感覚器官も奪われよろめいた花御に、五条悟は迷わず止めを刺す。肉体を持たない呪霊は脆く崩れ消えた。

 

「そちらの白髪の御仁ばかり気にしていてはいけませんよ、漏瑚。貴方はご存じでしょう、我々の得意とするものは『分解』です。骨も残せぬほど溶かし尽くして差し上げます」

「お前、もしや壊相か!? まさか――見た目が違いすぎる」

 

 真っ青な顔色ながらふふと笑む男の姿は、漏瑚の知るそれとは大きく異なる。なにせ歩く不健全と呼ぶべきすっぴんのSMドラァグクィーンが、全年齢対象のスポーツマンになっているのだ。漏瑚の動揺も当然だろう。

 

「ええ、私がエソウ。立派な男という意味を持つ、景壮です」

 

 エソウは胸を張り、右手をそこに添えた。渋谷に出るにあたり八咫姫が三人に掛けた言葉がエソウの頭に思い出される。

 

『お前達を腐らせておくのは勿体ない。暴れておいで』

 

 エソウは……景壮は笑みを獰猛に変える。まるで縄張り争いの獅子のごとき表情、捲れ上がった薄い唇から覗く歯は鋭い。

 ああそうとも、姉者の言うとおりだ。私達は『腐るがまま』にはならない。

 

「私達は決して(ふく)れない。壊れない。(まみ)れない。腐らない」

「何故なら俺達は――生きている」

 

 チョウソウの顔を横に走る、濃い血の色をしたインクのようなもの――タトゥーではなく赤血球が板状に貼り付いたそれの色がじわりと変わり始める。ワインレッドだったそれは濃さを増し、じわじわと……もはや赤みがかった黒という色だ。

 エソウの背から広がった翼も黒く、まるで鉄筋を編んで作ったアゲハチョウの羽にも見える。

 

「肉体すら持たぬ貴方に魂はあるのですか?」

「死人は死人らしく土に還れ」

 

 副都心線渋谷駅、地下五階にあるホーム。呪術師と呪霊もどき――否、神の末席に足を踏み入れた二柱が共闘する。

 

「三対一、これは負ける方が難しそうだね」

 

 にやりと五条悟が笑んだ。

 この非常時でも、あらかじめ設定されたアナウンスがホームに響く。

 

 六番線に電車が参ります。

 

***

 

 口許に傷のある男は、通話相手に自分の居場所を伝える。――ヘリポートのあるビルに移動すっから指示してくれ。区立病院の屋上? わーった、連絡はそっちで頼んます。

 

 男は呪詛師だ。アウトローで、根無し草で、金を一発どかんと稼いでは馬や艇ですかんぴん。女に家を追い出されれば呑み仲間に連絡をして二日ほど泊めてもらい、次の女を見つけて転がり込む。この十年ほど殺しはしていないが、誘拐から脅迫から、犯罪行為は多々やった。呪術師殺しの名が泣くぞと何度か言われたが、男は別に人を殺したいから殺していたのではない。強いやつと戦えるうえ儲かるから殺していただけで快楽殺人鬼と思われるのは心外だ。

 この十年、人殺しの依頼を受けていないのには理由がある。一つ目、呑み仲間からまあまあ実入りの良い依頼が継続的に入っていること。二つ目、名前を捨てたため以前の知名度が使えないこと。三つ目、大々的に活動すると「お前生きとったんかワレェ」と殺しに来られる可能性が高いこと。四つ目、呑み仲間が皆肉体的にも強いため、実力者と戦いたいという欲求が満たされていること。

 

 呑み仲間やその家族からは身内の判定を受けており、渋谷駅周辺をうろつけば呑み屋に連れ込まれるか家に連れ込まれるかだ。家に連れ込まれた時など、その家の婆さんから「帰ってくるなら先に連絡しろ」と怒られた。もちろんその婆さんは実家のでも婚家のでも遠い親類のでもない、戸籍を江戸まで遡っても繋がりがない他人だ。

 

 ヘリポートの利用を頼んでる陣野ですけどと受付に声をかければ、職員用エレベーターで屋上に案内される。都市部らしい、星一つ見えない明るい夜だ。しばらく待つと遠くからヘリが近づき、ポートに降りてくる。

 風を受けて飛ばされそうになり、四つ足の生き物のように身を屈めつつヘリに近づき扉を開けてするりと中に入る。

 

「とーじクン乗った?」

 

 『運転』と付く資格ならほとんど網羅している男、安本が後部のシートを振り返った。呪詛師の男、とーじクンは「乗った乗った」と返しつつ扉を力強く閉めた。ヘリ内の嵐が止む。

 

「得物は大丈夫だよね」

「ああ、常に持ち歩いてらぁ」

「上空から落とすけど良い?」

「んな簡単にゃ死なねえよ、気にすんな」

 

 ヘリは揺れながら浮き上がり目的地へ飛び立つ。しだいに揺れは安定し、とーじクンにも地上を見下ろす余裕ができた。ネオンがキラキラと輝く地上はまるで星空のようだ。

 地上のなんとかとかいう歌があったはずだ。中島なんとかとか言う歌手の……そうだ、地上の星だ。空ばかり見つめているから地上の星を見失ったとかなんとか、馬鹿馬鹿しいととーじクンは内心で吐き捨てた。

 

 地上の星なんてものは、どんな物か分からないまま探したところで見つかるものではないし、ましてや他人に見つけてもらうものでもない。遠くにあるから星が星だと分かるのであり、身近にあってもそれが星だとは分からない。

 誰しも、失ってから、遠くに来てから、ようやっと自覚するのだ。あれが自分にとっての星だったのだと。

 

 とーじクンはかつて禪院甚爾として生まれ育ち、数年間だけ伏黒甚爾であり、今は別の名を名乗って生きている。片腕を失ったあの時までのありとあらゆるものを捨てて、振り返ることもできず、生きている。

 かつて伏黒甚爾だった男が、すぐ側にあった、手の中に握っていたものが星だったのだと気付いたのは、それを失ってからだった。

 

 ――もう十年ほど前のことだ。五条の跡継ぎ……相伝を二つも継いだ糞ガキ相手に全力を出して、負けた。片腕や腹の一部を持っていかれてもはや死に体、このまま放置されれば死ぬという状態に追い込まれた。

 冷えていく体を自覚して、酒が呑みてぇなと呟いた。渋谷に行けば必ず現れる爺共の秘蔵を、一口で良い。いや、爺一人につき一口ずつ貰いたい。秘蔵というだけありどれも旨かったから、この意識が失せる前に呑めるだけ呑みたい。

 

 死が怖いわけではないのだ。ただ、まだやりたいことがたくさんあった。禪院へ嫌がらせすること、禪院の地位を貶めること、禪院その他御三家の屑どもを殴ること、陣野の奴らと酒を呑むこと。やりたいことを数え始めれば両手両足の指の数でも足りない。

 

 残った腕で懐から紙片を取りだす。陣野が親しい相手にだけ渡す名刺だそうで、これを持っていれば渋谷をうろついても陣野に襲われないという代物だ。呪術師や呪詛師が避けて通る渋谷の陣野家と甚爾に繋がりがあることを呪術師らが知ったら、どんな顔をするだろう。目を剥くことは間違いない。それを想像してケケと笑った。

 だが……陣野がこの暗殺騒ぎの裏にいると思われては、困る。陣野には関係ないのだ。甚爾と同じで呪力を全く持たない、バフとデバフで呪術師を殴り倒すあいつらを巻き込むのは……嫌だな、と思った。タダで酒を呑ませてくれて、一族の誰ぞの家に転がり込めばタダで布団を貸してくれて、うるさいババアは甚爾を裸にひん剥くと風呂場に閉じ込めるのだ。肩まで浸かって百数えるまで出てくるな、と命じられた時は唖然としたものだ。

 

「なあババア、百数えたら何かあるのか」

「百数えられる良い子には風呂を出たあとにアイスがあるね」

 

 甚爾はゆっくり百まで数えて湯を上がり、ほかほかと熱い体に冷たいアイスを流し込んだ。

 八咫姫にも会った。口うるさいババア共とは対照的に静かな奴だったが、同じ線香の匂いがした。鼻垂れの糞ガキ信正に修行をつけろと追い回され、いくつか年下の正輝とはあちらへこちらへとツーリング。正輝の十離れた妹の初恋をうっかり奪って集団リンチを受けたが逆に全員のした。

 

 血の繋がりなどない相手だ。呪術師や呪詛師と見れば襲いかかってくるヤバい奴らだ。この名刺を呪術師らに見られても、この事件の黒幕だと犯人だと疑われても、陣野には痛くも痒くもないかもしれない。

 だが。

 

 立つ鳥跡を濁さずと言う。

 

 名刺を端から噛み千切り、原型を失くすようにと咀嚼する。彼らとの繋がりを残すわけにはいかない。死に向かっているせいか唾液の分泌が悪いが、噛んでいればちょっとは出るもので、くちゃくちゃと口の中が潤っていく。

 唾を飲み込んだ。その瞬間、額がカッと熱く燃える。額を勢い良く手で押さえるも掌は冷たい。熱いのはきっと――額の内側だ。

 

 頭の中に低い女の声が響く。

 

『伏黒甚爾。お前がそのような姿になるとは……何があった?』

 

 石畳に引きずり込まれるような、背中から落ちるジェットコースターのような、独特の浮遊感の後。

 甚爾は屋内にいて、八咫姫に見下ろされていたのだ。

 

 そして禪院の家出っ子は、伏黒甚爾は生きていないことになった。あの大怪我では生きているわけもない。遺体は誰ぞに盗まれたが、相伝を継がない肉体だ。探す必要性は薄かろう。ただあいつが持っていた禪院の武器は探さねばならぬ。

 そうやって一年が過ぎ、二年が過ぎ、十年近く過ぎた。かつて甚爾に蹴りを入れては喧嘩を売ってきていた信正は小学校を卒業し中学、高校を出て大学生になり、運転免許まで取った。甚爾のことをオッサンと呼んで憚らなかった子供たちは甚爾を「とーじさん」と呼ぶようになった。

 恵は――俺の子供は、いくつになったろう。生年月日は思い出せるのに、今いくつになったのかは指を折らねば分からない。今年高専に入学したから、十六か。でかくなったものだ。

 

 甚爾の腕を奪ったあいつ、五条の糞ガキに恵を預けたせいで、甚爾自身が伏黒家に帰ることはできない。代わりに陣野が卒業アルバムを作っている写真屋を買収して入手した恵の姿は幼い頃の甚爾そっくりで、見るたび笑ったし陣野の爺どもにも笑われた。ますますお前に似てくるが嫁さんの遺伝子どこ行った、と。

 

 ヘリは渋谷駅上空。扉のロックを外せば、髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる強風がヘリの中に襲いかかる。安本が甚爾の前に片腕を突き出した。

 

「健闘を祈る」

 

 誰に言ってんだと鼻を鳴らして、宙に身を踊らせる。

 星を探す誰だかに、ツバメなんぞよりもっと高い空から教えてやろう。地上の星(おれのむすこ)は――この下にいる。

 

***

 

 空から星が落ちてきた。首都高渋谷料金所の上階――渋谷駅を望むベランダから、家入硝子はそれを見た。

 

「高専の増援じゃないはず……一体何が」

 

 首にかけていた双眼鏡を目に当て、先ずは帳の表面、星が落ちた地点を見る。

 帳に、しっかりと人が立っている。呪術師ではないのか? 輪郭からして男、体格は良さそうだ。手に持っている棒状の物は武器だろうか。

 

「学長、あれは」

「わからん」

 

 双眼鏡を上へ向ける。人影を帳に落としたのはあのヘリだろう。ボディに何のマークも描かれていないため、あれがテレビ局のものなのか他の組織のものなのかも分からない。舌打ちが漏れた。

 

「見ろ!」

 

 鋭い叫びに、家入は双眼鏡から目を外して学長を振り返った。しかし学長は双眼鏡を目元に当てたまま――高さからして帳の上の人影を見ているようだ。家入は再び帳の上にレンズを向ける。

 帳の上で男が舞っていた。否、舞うようにして棒を奮い、帳を削っていた。

 

「なにあれ」

「帳が壊れた……いや、一人分の穴を空けたのか」

 

 男が帳に消える。あの高さから落下して無事とは思えないが、落下の衝撃を殺せる何らかの手段があるのだろう。

 

 家入は唇を噛んだ。あの男が敵なのか味方なのか分からないけれど――敵でなければ良いのに。過酷な戦いを強いられている仲間たちが、これ以上無茶と無理を重ねませんように。死にませんように。

 帳の外で祈るしか出来ない自分が嫌で、煙草の箱をトントンと叩いた。

 

 ああ、なんて、ままならない。

 

 

 

「何が悲しくててめえ自身の顔を見なきゃいけねーんだ」

 

 帳を砕き甚爾が降り立ったのはとあるビルの屋上。そこには覆面の男と数珠を握った老婆、十年ほど前の自分がいた。

 

「ぜ、禪院甚爾……! 死んだはずではなかったのか!?」

「禪院じゃなくて伏黒だっつーの。まあその名前も捨てたわけだけどよ」

 

 老婆の顔には見覚えがある。血や髪などを媒介にして『子』や『孫』を対象者に変身させ、彼らを便利な戦闘人形として操る屑だ。

 どうやって遺伝子情報が盗まれたのだろうか。九年前に贔屓にしていた散髪屋か? 髪に残存する個々の呪力から髪の主の特定など容易だろうし、この老婆はコソコソと動くタイプのはずだから、そうやって盗まれたのかもしれない。

 

「伏黒?」

 

 覆面の男から困惑したような声。――そうだろうとは思っていたが、覆面の男は呪術師らしい。

 

「ぐううぅ……」

 

 しかしそれに答える前、若い甚爾の顔をした男が苦痛の呻き声をあげながら顔を掻きむしりだした。

 

「くっ……! 『孫』、戻るのじゃ!」

「うぁ、ばあちゃ」

 

 どろりと溶ける男の顔。老婆が「生きている」と認識している者には変身させられないのかもしれない。『孫』は全身をブンブンゴマのように振り回し悶えている。

 甚爾はそれにニヤリと笑みを浮かべた。老婆は搦め手が得意で、『子』や『孫』を後ろから操るのに長けているが……本人の持つ攻撃力は低い。

 

「てめえら知ってて渋谷に来たんだろ?……ま、死に晒せや」

 

 家出の際に実家、禪院家から盗んだ三節棍『游雲』との付き合いは二十年近い。より強く、より鋭く、磨き上げんと棍同士を擦り合わせて研ぐ。

 

 帳に空けた穴を通り、陣野の女らの念――バフがビリビリと届いている。だから甚爾は陣野の依頼が好きなのだ。まるで体に羽が生えたように軽い。知覚できる世界が拡大してゆき、全てが鮮やかに輝いて見える。

 スポーツで例えるならば「ゾーンに入った」状態といえる。脳内麻薬がはじめからフルスロットルだ。最高のコンディション、最高の気分。届く声援(バフ)のなんと心地良いことよ。

 

 八咫姫もとい陣野が甚爾に依頼したことはたった一つだ。渋谷を脅かす敵性存在を抹消せよ。

 陣野は社会的地位を持ち、金も持ち、気っ風が良く、バフ掛けが便利で、入浴時間と睡眠時間については口うるさく注意してくる――常に優良な依頼人だ。その陣野からの依頼を完遂せんと、タメもなく、予備動作一つなく、甚爾は動いた。

 

 それはまるで瞬間移動に似ていた。覆面の男、猪野が気づいたときには『孫』は全身を滅多打たれて宙を吹き飛び、老婆は下顎と両肩が砕け倒れ伏すところだった。二級呪術師として幾多の現場を乗り越えてきた猪野の目をして、空から落ちてきた乱入者が瞬間移動したようにしか見えなかった。一瞬で二人を戦闘不能にするその実力に生唾を飲み込む。

 禪院甚爾と呼ばれ、伏黒を名乗ったこの乱入者。顔は確かに伏黒恵と似ているが彼には呪力がなく、また猪野は伏黒某という中年の呪術師の話など聞いたことがない。なにせ呪術師というものは狭い業界だ、猪野が知らないなら存在しないとほぼ同じ。それに加えて『知ってて渋谷に来たなら』云々という言葉――この男は何なのだ。禪院なのか、伏黒なのか、それとも渋谷を支配する陣野の手の者か。いや、名前など今はどうでも良い。今この場に置いて重要なのは彼が敵か否かだ。

 

「おい、覆面のお前」

「あ?」

「渋谷の帳についてお前の知ってること全部ゲロゲロ吐け。……『こう』なりたくなけりゃな」

 

 口から赤い泡を噴く老婆を蹴りつけ、甚爾は猪野に向かって『游雲』の先を突き出した。

 猪野は唇を歪めた。この男は少なくとも襲撃者ではない。しかし味方でもない。敵でも味方でもないということは、これからの出方次第で敵にも味方にもなりうるということだ。脳内の算盤がパチパチと上へ下へ、珠を弾く音が響く。

 

 全ては猪野の双肩に掛かっている。言葉を間違えれば猪野は死ぬ。

 

「答える前に、一つ質問がある。あんたは恵と……俺の仲間である伏黒恵と何か関係があるのか?」

 

 果たして猪野は賭けに、勝った。

 

 さて、時は十数分遡る。スクエアビルと渋谷駅が繋がる地下階、ケチズは体格に見合った太い声で「っしゃあ!」とガッツを決めた。これまでに増して筋肉が隆起し、表面に血管が浮き上がる。

 帳に穴が空いた。陣野の女たちによるバフもデバフも阻んでいた帳に穴が空いた。視線で繋いだだけの弱く細い糸が、帳の穴のお陰で強く太い縄に変わった。

 

 ブロアーを思い出させる轟という音はケチズの吸気によるもので、ケチズの肺は風船のように大きく膨らみ胸部の体積を倍増させる。

 膨らんだ胸が萎めば、燃えるように熱い鮮血がケチズの口から押し出され勢い良く噴出する。バシャバシャと床に広がる大量の血液は自立した意識を持っているかのように動きだし、床から壁を這い上下へ走る。

 

 ケチズの血が、ビルの上へ下へと根付いていく。

 

 ――女たちのバフ・デバフは、今回の帳のような例外を除いて、原則として陣野という縁を辿って届けられる。その場に陣野の一族がいればその者が受信機となり、本人にはバフを、周囲の敵性存在にはデバフを届ける。

 むろん『一族』であることは血の繋がりだけに限らない。それが養子であれ、他家から迎えた嫁や婿であれ、陣野の者が『身内である』と認めた者は陣野の一族だ。

 

 現在受信機となる者は、六名。八咫姫の弟三名、陣野の子二名、身内と認められた者一名。たった六名で数千――やもすれば万を数える渋谷の人々を守り、人々を危険に晒す夏油の一味を打ち砕かねばならない。

 

 ケチズの血は網となり、ビル全体を覆った。

 

「姉者ァ!」

 

 ケチズの声に合わせてビルが一瞬発光する。コンクリートを縫って根付いた血を媒介に、陣野の女たちによる守りの結界が作られたのだ。

 

 ケチズの血には特殊な要素などない。エソウのように触れれば痛いわけでもなく、チョウソウのように変幻自在に武器として盾として操れるわけでもない。しかし、ケチズは三人のうちで一番「血の気」が多かった。多量の血を吐き出しても何ら困らない血液量とその補充能力の高さは兄二人を遥かにしのぐ。

 だからケチズがビルを守るのだ。誰よりも多く血を流せるケチズだからこそ、ケチズにしか出来ないからこその人選だった。

 

「ねね、ケチズちゃんだいじょーぶ? どー見ても致死量の血吐いてるけど」

「平気平気、むしろちょっと体が冷えて気持ちいいぞぉ」

 

 カッカと燃えるように熱かった血が減り、今は体も頭も適度に冷めている。心配だと顔に書いている信正にケチズは「安心しろ」と胸を叩く。

 

「俺は血が多いんだぁ」

 

 現にケチズの体内では既に、さっき吐き出した量の三割にあたる血液が補充されている。

 ケチズは強い。けして兄二人に劣らぬほど強い。だがこの渋谷で求められているのは個として敵を誅する強さだけではなく――守るための力も必要だ。

 

 ケチズにはそれを叶える手段があった。だから遠くでケチズを見ている姉に要求する。

 

「姉者ぁ、もっと……もっとバフだぁ。一重の結界じゃ特級の攻撃に耐えられるか分からん。二重に、三重に……かさねがけするんだぁ」

 

 さあ、この身よ煮え滾れ。魂よ燃え盛れ。ケチズの双眸から口許から黒い血が流れる。これは決して肉が溶け出ているのではない――情熱が沸騰して、出口たる穴から溢れ出ているのだ。

 赤い血を塗り替えるように、闇よりも黒い血が走り出す。

 

 この地下に、駅のホームに強大な呪霊の気配が近づいている。悪意に満ちた気配だ。早くしなければ……急がなければビルごと人が死ぬ!

 

「俺は!」

 

 急く胸をドンと殴り、ケチズは吼えた。

 

「俺は人を守れる! 俺にはそれが出来る!」

 

 はっと目を見開いて信正が合いの手を入れる。

 

「そうだ! ケチズちゃんは強い! 人を守れる!」

「そうだろぉっ!?……だからぁ、だから応えろ、俺の呪力!!」

 

 求めるのは呪霊も呪術師も通さない、無辜の人々を守るための壁。守るための力が欲しい。大人数を一人で守るための力が欲しい。

 沸く胸に湧く力を感じ、それを力強く引っ張って手元に手繰り寄せる。

 

「『闇より出でて闇より黒く』!」

 

 巨大な帳を下ろすには起点とすべき呪物が要るなら。

 

「『その穢れを禊ぎ』」

 

 特殊な帳を下ろすには触媒とすべき呪物が要るなら。

 

「『祓え』ッ!!」

 

 ここには呪物がある。ケチズの血には呪力が宿る。

 ならば出来る。

 

 ――そら、出来たじゃないか。

 

***

 

 陽子は母に聞いたことがある。どうして私は家の中にいて、お兄ちゃんたちがお外に出るの? 私たち陣野の女には祓う力があるんだから、女が出れば良いんじゃないの。

 母はその質問に微笑んだ。

 

「陽子、おとよさんのお話は何度も聞いたから知っているわよね。うちの女の子はね」

 

 母は陽子の頭を撫でながら、ゆったりとした口調で話す。

 

「呪術師たちに連れ去られたらお父さんやお兄ちゃんたち、みんなが悲しむから外に出ないのよ」

 

 そう、呪術師は危険だ。第二第三の加茂憲倫が現れないとは限らず、今無事だからといって五年後や十年後も平穏無事であるという確証はない。

 だから陽子は「凄い権力を持った男」と結婚すると決めた。何年前だったか、又従姉の幸恵は甚爾と結婚すると言って目をハートにしていたが――陽子は知っている。幸恵は「肉体的に強い男」を狙っていたのだ。陣野の男衆五人を楽々倒した強さに惹かれただけで、絶対に甚爾でなければ……というほどの拘りはなかった。強く見た目が悪くないから惚れかけた、それだけだ。現に幸恵が結婚したのは爽やか系イケメンスポーツトレーナーだ。

 陽子は、自分を守って欲しいから権力を持つ男と結婚したいと考えていた。だって我が身が一番可愛い。泣く子も黙る絶大な権力の主なら、マネーパワーでなんでも解決できるだろう。そう考えていた。

 

 八咫姫が繋いだ視覚の一つ。頭がちょっと足りないバカ従弟の信正と、八咫姫の弟で――数時間前まで別の意味で異質な見た目だったケチズ。そのケチズの想いに当てられて陽子はひっくり返った。

 

『俺は!』

『俺は人を守れる! 俺にはそれが出来る!』

 

 今のケチズの見た目はバキに登場しそうなゴリマッチョで、はっきり言って全く陽子の好みではない。今まで好きになった相手は痩せ型か細マッチョだったし、これからもそういう相手を好きになるだろうと考えていた。

 だから、おかしいのだ。こんな筋肉達磨はお呼びではないはずなのだ。求めていたのは泣く子も黙る権力であり、泣く子も黙る怖い筋力ではない。

 

「嘘でしょ……」

 

 身を引き絞るように呪力を練り上げ、多人数を守るための帳を――結界を張ったゴリラにときめくはずなどない。呪力はあっても権力など持っていない。なのにどうして頬がこんなに熱いのか。

 

「嘘でしょお!?」

 

 布鈴緒を離さぬまま顔を真っ赤に染めて畳の上をじたばたと暴れる陽子を見て、祖母や母、幸恵までケラケラと声をあげて笑い出す。「八咫姫様も言ってたじゃない。恋はいつでもハリケーンって」と言う親戚の誰だかの発言に、むかし母から聞かされた言葉の続きを思い出す。

 

『でも、連れ去られるかもって萎縮してちゃいけないわ。陽子が不幸になったら悪い奴らの思う壺だし、お父さんたちだって陽子に幸せになって欲しいからああして戦ってるのよ。自分の思うまま、願うまま生きれば良いの。恋だってなんだって、貴方の自由なのよ』

 

 ――権力者と結婚すれば、不安を抱えて生きなくても良くなると思っていた。誰も彼もを黙らせる圧倒的な権力があれば安心だと思っていた。

 陣野の女に生まれたことを不幸だとは思わない。でも、「ただ好きになっただけ」で誰かと結婚することはないのだろうと思っていた。一族にとって得になる人と結婚するのが自分にとっても皆にとっても良いことなのだと思っていた。

 

 だが陽子は今、ケチズのことを「好きになった」。権力者ではないし、全く趣味ではないどころかむしろ命の危険を感じるほど怖い見た目だし、しゃべり方はバカっぽい。

 陽子にとって、この恋は青天の霹靂だった。想定外の極みだった。はしゃぐよりも困惑が強かった。

 

「ああああああああ」

 

 布鈴緒を握りしめたまま頭を掻きむしり、唸る。

 

「『恋はいつでもハリケーンなのじゃ』、陽子」

 

 八咫姫の笑みを含んだ声に応える気持ちの余裕がない。

 恋に落ちる姿を家族に見られて恥ずかしくないわけがないのだ。こんな羞恥プレイの環境で開き直る以外にどんな態度をとれば良いのか。陽子は真っ赤な顔でわめき散らした。

 

「あーはいはい認めるわよ、認めりゃ良いんでしょ!? そうですよ、私はケチズのことを好きになりました!」

 

 室内に歓声と指笛、拍手が響く。暗過ぎるほどに暗い渋谷の現状を吹き飛ばせとばかりに祝福が飛んだ。

 

「うううううるさいうるさいうるさい!」

「ルイズかな」

「ツンデレちゃんめ」

「こーい、しちゃったんだ、たぶんー」

「若いっていいわねぇ」

 

 年嵩の者たちは若者が恋する姿(ハリケーン)を眩しげに眺め、年下の少女らは身近な恋バナに沸き立つ――が、再び気持ちを引き締める。渋谷駅構内はほぼ地獄の様相を呈しており、チョウソウらは今も生か死かの淵で戦っている。恋バナにはしゃいでいる場合ではない。

 ただ、先ほどまでと違う点が一つある。彼女らの胸に灯る炎が、彼女らの背中を押す嵐がある。陽子の恋を応援する。だからケチズらに死なれては困る。彼らには、生きて五体満足で帰って来て貰わねばならぬ。

 

 始まったばかりの恋には、その時にしか存在しない熱量と、周囲を巻き込み肥大化する風量がある。

 

 ごうごうと燃え盛る嵐は渋谷に狙いを定め、動き出した。

 

 

 

 

 三対一とはいえ、気絶した一般人や何故かこの場にいた夏油の養い子を巻き込み事故で死なせるわけにもゆかず、五条の動きは精彩を欠いていた。夏油の仇である五条に襲いかかるならまだしも、何故彼女らはチョウソウらを襲ったのか。

 彼女らを尋問するには生かしておかなければ。片方のみ選んで生かしておくのも問題はないのだが、二人いれば証言を突き合わせられる。

 

「さっきからやる気がないように見えますが、それならお帰りになってはどうですか?」

「やる気はあるよ! ただ好き勝手暴れまわっちゃうと事後処理が面倒になるからさぁ!」

 

 領域展開とは、ある特定の範囲に自分の世界を展開するから『領域』展開と呼ぶ。敵味方を選別して取り込むという芸当は不可能だ。

 一応は味方であるはずのエソウとチョウソウまでも無量空処に取り込んだ五条を二人は怒っても良いのだが、親切なのか恩を売るつもりなのか、今のところ五条は無事だ。

 

「余裕でいられるのは今のうちだけだ! こちらには――」

 

 怒鳴り合いながらぶつかり合っていた漏瑚が言葉を止める。なにか変だ。五条と向かい合う漏瑚は十メートル近く飛び退いて三人から距離を取ると、何が起きたのかと目を大きく見開き周囲をぎょろりと見回している。

 さっき、突如として空気が重くなった――この感覚には覚えがある。渋谷に呪術師や呪詛師が侵入するとどこぞから向けられる、陣野の威圧だ。

 

「甚爾が着いたか」

「でしょうね」

 

 トージというのが何なのかは分からないが、このチョウソウとエソウ……脹相と壊相と漢字を当てるのだろう呪胎九相図二体、彼らの知るナニカが渋谷を覆う帳に侵入したようだ。

 見れば、五条が彼らごと巻き込んだ無量空処のせいで青白く染まっていたチョウソウとエソウの頬は血色良く、両脚にしっかりと力が入っている。威圧を受けているどころか回復している様子だ。

 

 ということはだ。チョウソウとエソウは陣野の派閥としてこの場に来ている。

 普段であれば面倒で迷惑なあの連中が、今この場だけだろうが、何より頼れる存在に変わった。

 

「渋谷を選んだ自らの無知を嘆け」

 

 にんまりと悪どい笑みを浮かべるチョウソウの体内で練り上げられた呪力は、もはや体内に留め置けぬほど濃く強まったのだろう。粘着質の糸のように指先から漏れ始める。間違いない、チョウソウは先程までより一層強くなっている。

 ここに来て、五条は陣野が渋谷から呪術使いを排除できている力の一因を知る。チョウソウらは回復しただけではない。強化されたのだ。

 敵対していなくて良かった。流石にこの二体を相手取り戦うのは五条をしても「大変」だろう。

 

「あーこわ。流石は陣野ってところかな?」

 

 呪力を持たない一般市民の拳で、呪術師や呪詛師を血に沈める。それがどれだけ呪術使いを恐怖させることか。ふんぞり返っているだけのホワイトカラーのくせに、術式どころか呪力すら持たないくせに、呪霊を見も祓えもしないくせに。ただの拳で、呪術使いの心を折るのだ。

 敵であれば恐ろしいが、味方となればこれほど心強く思える相手がいるだろうか。

 

「何をした、脹相! 壊相!」

 

 漏瑚の叫ぶような問いに、エソウは軽い口調で答えた。

 

「帳に穴を空けました。それだけですよ」

 

 その「それだけ」がどれほど困難なことか知っていながら。

 そして、花火よりも強く鮮やかに爆ぜる乙女の恋心(パッション)が、二人に今――発破をかけた。




五条が封印される未来が見えぬ。
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