今宵は月が綺麗ですね   作:とりゃあああ

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殺生日記 伍 裏 急

 

 

 

 

 

ワノ国近海。

白舞と兎丼の沖合いは地獄の様相を見せていた。

海上に青白い獅子の大群が犇く。

凶悪な海賊船が所狭しと浮かんでいる。

何よりも恐ろしいのは、都合五回目となる飽和攻撃を物ともせず、轟く爆発音と咲き乱れる炎の華を尻目に、自由自在に空中を飛び回りながら熾烈な戦闘を繰り広げる化け犬の大妖怪と金獅子のシキの姿にあった。

Dr.インディゴは旗艦の甲板で夜空を見上げる。

金獅子海賊団による斉射を片手間で回避しながら突貫する化け犬。一秒と掛からずにシキの間合いへ侵入して、右手に持つ爆砕牙を振り下ろした。

使い物にならない鉄砕牙を鞘に戻した後、再び桜十と木枯しを得物とした金獅子は万全の構えで防御してみせた。

愛刀は武装硬化済み。

見聞色の覇気も未来予知を行なっている筈だ。

にも拘らず、インディゴの慕う大親分は押されている。

袈裟斬りを防ぎ、刺突を躱し、横薙ぎを受け止めて尚、金獅子のシキは反撃する機会を作れないでいた。

信じ難い光景だった。

シキは決して弱くない。むしろ最強に近い。

新世界にて覇権を競うビッグ・マム、白ひげ、ロジャーと互角の戦闘力を保有している上、海賊団としての総兵力なら間違いなく一歩抜きん出ている。

現状、海賊の王に最も近い存在。

いずれ全世界の海を支配する男。

インディゴは常々そう考えていた。

金獅子のシキに仕える幸せを噛み締めていた。

当然ながら今も大親分に対する敬愛は喪失していない。

故に歯を軋ませる。

理不尽の権化へ恨みを募らせる。

どうして倒れない。

どうして死なない。

海軍基地を木っ端微塵にする飽和攻撃を五回も食らって、どうして五体満足で飛行できるのか理解できなかった。

 

「インディゴ、どうする!?」

 

幹部の一人が肩を掴む。

どうするかって。

そんなもんオレが知るか。

怒鳴りたい。頭を抱えたい。

だが此処は戦場である。

油断できない戦場に変わり果ててしまった。

圧倒的な有利さから『狩場』だと嘲笑していた者たちほど、金獅子を圧倒する大妖怪の荒唐無稽さに困惑しているだろう。

インディゴもその一人だった。

 

「シキの親分を援護するしかねェだろ! 一瞬でもいいから時間を稼ぐんだ!」

 

違う幹部が唾を飛ばして一喝する。

 

「いやいやいや。そもそも大艦隊の一斉砲撃を食らって無事で済んでる訳がねェ。そうさ、痩せ我慢さ! 体力を削り切れば、シキの親分が倒してくれるッ!」

 

自分へ言い聞かせるように叫んだ。

幹部の言うことは正しいと思う。

空を飛べない以上、行えるのは援護だけだ。

一回目の斉射を食らい、化け犬が満身創痍なのも事実だろう。

しかし、現状をご覧あれ。

五回目の飽和攻撃など容易く突破された。

右足と左手の傷もどこ吹く風。胸の裂傷による流血も、何故か時間と共に勢いを落としている。意味がわからない。普通は失血死するか、血を流し過ぎて平衡感覚を失うだろうに。

人間と比べて体組織が異なるのだろうか。

大妖怪だと自称しているが、まさか人間と根本から別の存在なのでは――。

インディゴが頭を悩ませている間にも、旗艦から伝達された信号に従い、四十二隻の海賊船が第六次集中砲撃を敢行した。

シキも艦隊の動きを察知していたらしい。

 

「獅子威し『内裏地巻き』ッ!」

 

獅子の大群を形成。

その数、二十個以上。

全身全霊を掛けて敵の動きを封じた。

四方八方を獅子に塞がれた化け犬へ、金獅子海賊団の総力を込めた一斉攻撃が炸裂した。

衝撃波が大気を伝播する。海面を激しく振動させる。

手応えあり。

この目で見た。

届いた。確実に直撃した。

インディゴは確信を得る。

これで終わりだと。

たとえこの一撃で倒せていなくても、痩せ我慢を貫く化け犬如き、金獅子のシキに任せれば勝利は確定すると。

歓声に沸く大艦隊。

どうだ見たかと中指を立てる。

我ら金獅子海賊団。

新世界に於いて最強と名高い海賊団である。

 

 

 

「何度繰り返せば気が済む」

 

 

 

恐る恐る天を仰いだ。

まさかなと戦慄しながらも、聴き慣れた声に意識を引かれた。

炎の海から現れるは不条理の塊。

化け犬の大妖怪は爆炎の中心地で優雅に佇んでいる。華奢な肉体。燻んだ着物。一振りの刀。紛れもなく化け犬であり、身体に刻まれた傷は何一つ更新されていなかった。

そんな筈はない。

確かに直撃した筈だ。

この目で捉えた。

はっきりと視界に収めた。

なのに――。

 

「それが、爆砕牙の力か?」

 

肩で息をするシキが問い掛けた。

金獅子に傷は見当たらない。恐らく無傷だ。

翻って、化け犬は右足と左手を痛めている。胸板の裂傷も流血こそ留められているものの、傷痕自体は痛々しい限りである。

現状だとシキに軍配が上がっている。

外見だけで判断するなら誰もが賛同するだろう。

それでも、化け犬に勝てる展望が微塵も思い浮かばなかった。

 

「斬った対象を永続的に爆発させる。逃れる術などない」

「ジハハハハ。こりゃ傑作だ! そんな馬鹿げた牙を持っておきながら、こんなナマクラを欲しがるのか!」

 

鉄砕牙の柄を握り締める金獅子。

化け犬は顔を顰めて、淡々と吐き捨てた。

 

「貴様に鉄砕牙は扱えぬ」

「お前だけが使えるって言いてェのか!」

「好きに解釈しろ。そこまで教える義理はない」

 

化け犬が足を進めた。

一歩。二歩。三歩と。

緩慢に。されど着実に。

まるで断頭台へ登る処刑人のようだ。

死刑囚と断定したシキの首を刎ねる為に、右手に構える爆砕牙を不気味に鳴らした。

尋常ではない威圧感。

金獅子海賊団が恐怖に慄く。

どうする。どうする。どうする。

インディゴは科学者としての頭脳を総動員する。

勝てない。

勝てるわけがない。

ならば逃走の一手か。

果たして金獅子が飲むだろうか。

化け犬が見逃してくれるだろうか。

考えてる暇などなかった。

上空では戦闘が再開されている。

シキは諦めていない。

剣術を駆使して、能力で翻弄して、経験で補って、化け犬の首を獲るのだと息巻く。鉄砕牙を扱えないならば、爆砕牙を奪取するまでだと傲岸不遜にも啖呵を切った。

それでこそ不屈の男。

海の支配者たる海賊の姿。

だが、事態は刻々と変化する。

 

 

「金獅子ィィいいいッッ!!」

 

 

唐突な雄叫びが戦場を駆け巡った。

全員の視線を一箇所に集める。

誰もが目を見開いた。

幹部さえ度肝を抜かれたように立ち尽くした。

有り得ない海賊船が航行している。

有り得ない海賊旗が潮風を浴びて靡いている。

船首に仁王立ちする男は、腕組みして大喝した。

 

「その喧嘩、俺も混ぜろッ!」

 

ゴール・D・ロジャー。

金獅子のシキと同格の怪物。

どうしてこの海域に現れたのか。

偶然か。それとも必然なのか。

インディゴには到底判別できなかった。

誰もが口を噤み、ロジャー海賊団の出方を窺う。

シキは憤怒の表情で鍔迫り合いを押し返し、遥か高みから猊下した。

 

「何の用だ、ロジャー!」

「わっはっはっは! 犬神は俺の友達なんだ。多勢に無勢とありゃあ助けてやらねェといけないだろうが!」

 

高らかに宣言するロジャー。

戦場全体の注目を浴びながら剣を振り翳す。

金獅子海賊団は身構える。

数で圧倒していようとも楽観できない。

一触即発の中、化け犬が仏頂面を浮かべた。

 

「おい」

「なんだ!」

「私と貴様がいつ友になった?」

「三年前だ! 一緒に宴会しただろ!」

「阿呆か」

「わっはっはっは!」

 

不愉快だと舌打ちする化け犬に対して、ロジャーは怯みもせずに哄笑した。

インディゴからしたら酷く能天気な男に見えた。巷間の噂通り、無鉄砲で、無頓着で、無計画な男なのだろう。事前の計画を重んじる彼にしてみれば苦手な部類の人間といえる。

どうやら副船長も苦労しているようだ。

ロジャーの隣で『冥王』が肩を竦めている。

 

「ロジャー、いい加減にしとけ」

「えー!」

「あの大艦隊が相手だぞ」

「わかってるさ。金獅子がいなくても厄介だってことぐらいな。犬神、そっちは任せたぞ!」

「貴様に言われるまでもない」

 

化け犬だけでも苦戦していた。

断じて認めたくないが、我々の敗色濃厚だった。

この状況下で四強の一角であるロジャー海賊団が敵対するとなれば、金獅子海賊団の勝利する未来が無くなったと判断できる。

撤退する以外の選択肢などなかった。

万が一を考えて、用意しておいて良かったと安堵する。

インディゴは部下に指令を与えてから、迫り来るロジャー海賊団を迎え撃った。

 

 

 

 

 

 

 

四十三隻の大艦隊を誇る金獅子海賊団。

これが彼らの総兵力ではない。

縄張りに駐屯する兵士は労働者を酷使している。

傘下の海賊たちは今も新世界の各地で縦横無尽に暴れている。

五万を軽く超える兵力の中でも、この大艦隊に乗船を許された者は選りすぐりの精鋭たちだ。新世界で生き残った海賊団でも、僅か一隻足らずで粉砕できる実力を有していた。

対して――。

ロジャー海賊団は自由気ままに航海して、特に縄張りも持たず、傘下も増やさず、それでも新世界の四強に数えられる強者だった。

どちらが強いのか。

単純な兵力差だと金獅子の圧勝だ。

天候と地の利を得て、互角といった所だろう。

だがそれも、金獅子のシキという戦略級の怪物が最前線に立った場合である。

ロジャーやレイリーを抑え込み、フワフワの実の能力で戦場を支配する化物が存在するから、金獅子海賊団は曲がりなりにも結束している。一致団結して四強に立ち向かっている。

ならばもし、金獅子のシキがとある理由で戦場を牛耳れなくなってしまったらどうなるのか。

その答えは、ワノ国の沖合いで見事に証明された。

 

「クソッ! 強ェ!」

「おい、テメェらも戦え!」

「うるせェ! シキの大親分もいねェのに、ロジャー海賊団を相手にして勝てるわけねェだろうが!」

「む、無理だ。勝てるわけねェ」

「馬鹿野郎、逃げんなッ!」

「シキの大親分はまだ化け犬に勝てねェのかよ!」

「無駄口叩いてる暇があったら手を動かせ! 敵はたった一隻なんだ。囲んで砲撃すればカタが付くだろうが!」

 

阿鼻叫喚の地獄絵図。

数十分と経たずに、四十三隻を有した大艦隊は半分にまで数を減らしていた。

船体が見るも無惨に両断された物。複数の砲弾を浴びて大破炎上した物。度重なる損傷から修理が間に合わず、船内に海水が溜まって沈没していく物。

残った艦船も連携など取れず、有効的な抵抗を行えずにいる。

 

「ロジャー。後は俺が指揮を執る。いいな?」

「俺たちの被害が大きくならないように頼むぞ、レイリー。おでんの意志をできる限り尊重するつもりだが、もしもの場合もあるからな」

「わかっている。任せておけ」

 

ロジャーは海戦の行く末をレイリーに任せ、自身は視線を上空へ移した。

あちらもそろそろ終わりそうだな。

シキは身体の至るところから血を流している。

胸を激しく上下させ、得物を持つ両腕は疲労と激痛から痙攣していた。

どんなに甘く見積もっても長く保たない。

決着は直ぐに付くだろう。

長らく切磋琢磨してきた海賊の末路を凝視しながら、約半年前にとある島の奥深くで発見した『歴史の本文』に記載されていた文章を反芻する。

謎極まる犬神の正体。禁忌の牙が存在する理由。

おでんの嘆願により、この真相を知るのは他にロジャーとレイリーだけである。

数時間前、伊達港で事情を聞いたおでんは何秒か沈黙した後にカイドウ討伐を決断した。

ロジャーは言った。俺たちも手伝うぞと。

おでんは答えた。これは俺たちで解決しなければならないと。

犬神が空飛ぶ海賊と戦っていると知り、そちらの救援へ向かってほしいと頼み込まれ、ロジャーは笑顔で快諾した。

おでんの気持ちがわかったからだ。

ワノ国の問題は、ワノ国の住民による意志と力で解決しなければならないという想いを。

犬神を絶対に死なせてはならないという誓いも。

ロジャーに可能なのはおでんの妻子を守ること。そして、犬神の行く末をこの眼に焼き付けることだけだった。

ふと背後から人の気配を感じた。

振り返る。見知った仲間が立っていた。

 

「どうした、トキ?」

 

光月おでんの妻。

三年前に人売りから助け出した天月トキ。

危ないから船内にいろと忠告したにも拘らず、お転婆な彼女はモモの助を懐に抱きながら甲板に現れた。

夜空を見上げて人知れず呟く。

 

 

「アレが、犬神様――。ようやく会えた」

 

 

 

 

 

 

 

懐かしい匂いが鼻腔を擽った。

戦闘の最中だが、殺生丸は芳香の元を辿る。

化け犬の大妖怪であるこの身、簡単に薫りの発生源を見つけた。ロジャーの指揮する海賊船、その甲板をチラリと一瞥する。

一瞬だけ目を疑った。

似ていると思った。

りんと目許がそっくりだと懐かしさを覚えた。

爆砕牙がカタカタと震える。

シキが佩帯する鉄砕牙も細かく振動している。

やはりそうかと確信する。

アレは、りんの血縁者だと。

 

「そろそろ限界のようだな」

 

何はともあれ。

殺生丸は眼前の敵へ声を掛けた。

金獅子が強い男だからこそ言葉を投げかけた。

鉄砕牙に触れた罪は万死に値する。赦すつもりは無い。だが、人間の限界を踏破した強者に対して敬意を表する。

どうしてか。

強さは美しさ。

強さは正しさだからだ。

白ひげに匹敵する実力は、殺生丸の痛覚を久々に機能させた。流血も数百年振りだった。久しく感じなかった痛みに、思わず笑みが溢れてしまったのも無理なからぬことだった。

 

「まだだッ!」

「その気概、見事だ」

 

黒眼から勝利の執着は消えていない。

全身から醸し出す覇気は微塵も衰えていない。

勝ちへの執念。

人間を超えた生命力。

なるほどなと納得する。

故に『金獅子』の異名を授かったのかと。

シキは舌打ちする。

 

「チッ。余裕ぶりやがってッ」

「貴様との戦闘で覇気の要領も掴めた。礼を与えよう」

 

殺生丸は天空を駆けた。

白い流星は瞬く間に敵の間合いへ到達する。

息も絶え絶えなシキは、全身から流れ落ちる紅血を無視して力を込めた。武装硬化。黒刀に変化した桜十を握り締める。上段から振り下ろす。

空を切る。当たらない。

半歩横に移動して回避した殺生丸は、シキを文字通り一蹴した。

只の前蹴り。武装色の覇気を使用していない蹴撃だが、金獅子は後方へ飛行しながら血を吐いていた。

数十メートルも後退したシキは苦悶の表情を浮かべる。口内に溜まった血を飲み下し、戦闘は終わっていないと言わんばかりに視線を戻して――。

 

「なっ!?」

「これが、本来の鉄砕牙だ」

 

殺生丸が所持する大刀。

先程の攻防で容易に取り返した。

鉄砕牙の見た目は巨大な牙を彷彿させる。

武骨な刀身に、鍔の部分は犬の毛皮に覆われており、爆砕牙や天生牙と比べれば優雅さに欠ける造形だろう。

だけど好きだった。

八百年以上も昔、何か起きる度に使用した。

久し振りの邂逅に喜びつつも、殺生丸は鉄砕牙を構える。使用する技は決まっていた。忘れていないだろうか。己に問う。大丈夫だ。覚えている。

大気の裂け目を嗅ぎ分け、鉄砕牙でなぞるように斬り裂く。

 

「風の傷」

 

瞬間――。

極大の波動がシキを飲み込んだ。

八百年ぶりだからか。

鉄砕牙も喜んでいるのか。

想定よりも遥かに巨大な衝撃波を生んだ。

数百に及ぶ犬の鋭爪を食らい、金獅子は鮮血を撒き散らしながら落下していく。死んでいないだけ驚きだ。タフを通り越して、最早不気味に近い。

幸か不幸か、シキの落下先は艦隊の中心だった。

トドメを刺そうと殺生丸は滑り落ちる。

視界の端で、ロジャー海賊団も突喊している。

 

「あれは」

 

鏖殺しようと鉄砕牙を振り被った直後、海面から大量の煙が噴出した。朦々と立ち込める濃緑の噴霧は、まるで切り立った崖のように十数メートルの高さにまで聳え立っていた。

斬り払っても無意味。次から次へと放出される。

海面自体に何か細工でもしたのか。もしくは金獅子の能力で断続的に散布しているのか。どちらにしても追撃を阻む代物らしい。

前方を見渡す限り、どこまでも緑のカーテンで覆われている。

進むか、退くか。

注意深く近付いてみる。

毒ガスか。広範囲に分散したせいで、即死するような毒性は無さそうだが。我武者羅に突破するのも不可能ではないかもしれない。

噴煙まで残り数メートルの距離にまで接近した瞬間、殺生丸は思わず鼻に手を当てた。脳髄を突き抜けた刺激臭が端正な顔を酷く歪ませる。

臭い。痛い。苦しい。嘔吐しそう。

危険を感知する。毒ガスも似た類の性質か。

殺生丸と同じく距離を詰めようとするロジャー海賊団の船へ乗り込み、問答無用で舵を切らせた。

 

「近付くな。毒ガスだ」

「やべェのか?」

「貴様らなら問題ないかもしれんが、非戦闘員も乗っているだろうに」

 

視線を背後に向ける。

漆のような黒髪を靡かせた女性が立っていた。

ロジャーは確かにと首肯する。

剣を納め、銃を懐に仕舞い、毒ガスを指差した。

 

「空を飛べるお前なら追えるんじゃないのか?」

「悪臭の中に飛び込む趣味はない」

「悪臭?」

「耐え難い苦痛を感じた」

「成る程、ダフトグリーンだな。動物の嫌がる臭いを発する樹だ」

「毒ガスにその成分でも含めたのか。下らん」

「それはそうと、金獅子は死んだのか?」

「知らん。少なくとも片腕を一本斬り落とした。多少物足りないが、今日のところはこれで充分としよう」

 

殺生丸は鉄砕牙を納刀した。

右手に携行したまま、黒髪の女性へと近付く。

ロジャー海賊団の面々は負傷者の手当てや船体の修理に忙しなく動き回っている。殺生丸から離れたロジャーやレイリーもその手助けに奔走し始めた。

その片隅で、りんの匂いを纏った女性と対面を果たす。

 

「名前は?」

 

おもむろに問い掛ける。

黒髪の女性は姿勢を整えて答えた。

 

「天月トキよ、犬神様」

「りんを知っているか?」

「天月りんのこと? 両親から聞いた話だと私の祖母らしいけど」

「そうか」

 

嘘ではないだろう。

匂いの薄さから、殺生丸も孫か曾孫だと見当を付けていた。彼女の言葉と合致する。如何なる理由が有って、八百年前に死去したりんの孫が生存しているかわからないけれど、殺生丸の成すべきことは決まっていた。

 

「これは貴様の刀だ」

 

鉄砕牙を渡す。

刀が嬉しそうに震えた。

天月トキは唖然とした表情で尋ねる。

 

「これは?」

「りんに譲った刀だ。孫の貴様が持っておけ」

「そんな! 祖母の話はよく聞いていたけど、私は直にお会いしたことなどないわ!」

「知っている」

「なら」

「人の守り刀だ。貴様が持つに相応しい」

 

異論は認めない。

言外に込められた意思を汲み取ったのか、トキは不承不承ながらも鉄砕牙を受け取った。

禁忌の牙は歓喜の声で騒いでいる。封印から解けて、本来の役目を果たせるからだろうか。先程から血気盛んだ。

金獅子に握られている時は酷くげんなりしていた癖に現金な物である。

用件は済んだ。長居は無用だ。

踵を返すと、ロジャーに肩を掴まれた。

 

「犬神、お前も治療していけ!」

「いらん」

「そう言うな。クロッカスの医術は世界一だぞ」

「明日にでも治る。余計なお世話だ」

 

面倒そうに払い除けて、殺生丸は空中に浮かぶ。

長い一日だったと嘆息する。

ロジャー海賊団が再びワノ国を訪れた理由。光月おでんが船に乗っていない理由。気になることは多々あれど、今日は一目散に屋敷へ帰って寝ようと決意する。

背中にトキの声が届いた。

 

「犬神様。夫を、おでんさんを見守ってくれてありがとう!」

 

『殺生丸様。わたしが死んじゃっても、この国の人たちを見守ってあげてね?』

 

懐かしい声音。

脳裏に響く言葉。

頭痛がする。約束を守れと叱責される。

殺生丸は頭を振り、振り向かずに言い捨てた。

 

 

 

 

「勘違いするな。只の気紛れだ」

 

 

 

 

爆砕牙が小刻みに震える。

それは喜ばしくも、どこか悲しいと訴える鼓動だった。

 

 

 

 

 

 

 






おでんとカイドウの描写は次回になります。

収めきれなかったorz




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