それはまさしく晴天の霹靂だった。
「今、何と?」
「二度も言わせるな。貴様にはワノ国へ潜入してもらう。第一目標は犬の大妖怪と接触。可能ならば籠絡、最低でも親密な仲になれ」
「犬の大妖怪と言うと、数百年前に〝獣の厄災〟を引き起こした……?」
「そうだ」
「犬を籠絡しろと?」
「見た目は優男だ。問題あるまい」
「そう言うことではなく。何故今になって? 犬の大妖怪と接触するのは第一級禁止事項だった筈ですが」
「貴様には伝えておくが、禁忌の牙が覚醒したようでな。鉄砕牙を誰が保有しているのか、それを調べ上げるのも任務の一つだ」
「…………」
「不満でもあるのか?」
「いえ、承知しました。今の任務を終えてからワノ国へ向かいたいと思います」
「今の任務は別の者に任せる。貴様は今すぐワノ国へ向かえ。事態は一刻を争うのだ」
「と仰られますと?」
「鉄砕牙が大海賊の手に渡っている可能性もあろう。ビッグ・マム、ロジャー、金獅子の手に渡っていれば違った対応を考えなくてはならん」
「それ程の代物なら奪取すべきでは」
「無駄だ。禁忌の牙は選ばれた人間の手に渡るとされている。保有者を調べるだけで良い」
「承知しました」
「犬の大妖怪は幼子を好むと聞く。だが、男であることに変わりあるまい。期待しているぞ」
「……はっ」
世界貴族直属の諜報機関である『CP0』。仮面の殺し屋とも称される一大組織に所属する『ステューシー』は、十日前に五老星と交わした会話を思い返して嘆息する。
天竜人の護衛、破壊工作、要人暗殺、世論操作、情報収集、裏社会の形成、上流階級に対する売春。女という武器を存分に活かして、数多くの任務を完遂してきた。世界の平和を陰から支え、自他共に認める功績を打ち立てた。
理不尽な任務も数多く存在したが、今回はその中でも選りすぐり。
ワノ国の住民に怪しまれないよう禁忌の牙の保有者を探索。加えて、犬の大妖怪に接近した上に籠絡しろなど。単独任務と思えない仕事量だ。過労死してもおかしくない。
ワノ国の大地を踏み締めながら暗澹たる未来に肩を落とす。
——いや、この任務を成し遂げれば〝総監〟に抜擢されるかもしれない。
先ずは情報収集だと気持ちを切り替える。
ワノ国の風土、文化、法律、歴史、習慣、流行の話題。いずれも任務遂行に必要不可欠な知識である。本来なら潜入前に習得しなければならないのだが、ワノ国は鎖国国家だ。
現地で習得するしかない。
ボロが出る前に身に付ける。訓練を積んだ諜報員といえど困難を極めるだろうが、CP0に属するステューシーにしてみれば児戯に等しかった。
ワノ国の服装に身を包み、化粧を質素なモノへと変更。一般庶民として溶け込める風貌となったステューシーは、言葉巧みに民衆から情報を引き出していく。
希美の侍曰く。
『犬の大妖怪? ……ああ、オロチとカイドウに尻尾を振りやがった犬畜生かよ。あんな奴、死んじまえばいい。ワノ国に住む資格なんてねェ! きっとおでん様が何とかしてくれるはずさ!』
兎丼の主婦曰く。
『犬神様なんて御大層に呼ぶ奴もいるけど、そんな奴の気が知れないねぇ。ワノ国を金獅子とかいう海賊から護ったらしいけど、そんなのこの国に住まわせてやってるんだから当たり前だろ。オロチに頭を下げたんだ、結局は同じ穴の狢だよ。今すぐ公開処刑すればいいのにねぇ。負け犬の泣き叫ぶ顔を見てみたいもんさ』
白舞の刀鍛冶曰く。
『刀鍛冶の俺に何の用だ? ……あん? 不思議な気配のする刀なんて、おでん様の持つ〝閻魔〟ぐらいしか知らねェぞ。噂だと例のクソ犬が二代鬼徹を所持してるらしいが、あんな臆病者が持ってるなんて宝の持ち腐れだよ。勿体ねェなァ』
花の都の研ぎ師曰く。
『閻魔は昔からおでん様が持ってる刀だ。誰が造ったのか知らないが、アレぐらい凄みのある刀もそうそう無いだろうよ。ほかに? んー、奥方様が見たことのない刀を差していたが、鞘も武骨で安っぽい物だったな』
鈴後の老女曰く。
『犬神様について聞きたいのかい? 若いのに物事の道理を理解しているお嬢ちゃんじゃないか。犬神様はね、この鈴後の大地を太古の昔から護ってくれたんだ。この前起きた暴動でも、お侍さんよりも早く動いてくれてね。多くの村が犬神様に助けられたんだよ。他の郷が嫉妬してるみたいだが、私からしてみれば笑止千万だね』
九里の老人曰く。
『若い者はオロチの件で犬神様を責めるが、あの御方は昔からワノ国を見守ってきた。何が起ころうと関係なくのう。この国で何があろうと、それは我々自身で解決せねばならぬ。神様に事態の解決を望むなど愚かにも程があるじゃろうな。儂はおでん様の決断を信じておるよ』
二週間を費やして集めた情報を分析する。
先代の将軍である光月スキヤキから〝合法的〟に将軍代理として認められた黒炭オロチ。そんな男の後ろ盾となった百獣海賊団。彼らは一年と半年に渡り、鈴後を除いたワノ国の大地を悪政と暴力で支配したらしい。
ところが、ロジャー海賊団の一員である光月おでんが帰還。カイドウは打倒された。オロチも失脚。権勢を誇った彼の一派は、その悉くが地下牢に囚われたとの事。
『百獣海賊団は壊滅したのかね?』
花の都と白舞の郷境に広がる紅葉の森。その奥にひっそりと建てられた祠——『閻魔堂』に身を隠しながら、ステューシーは五老星へ現状を報告した。
電伝虫越しから聞こえる男の声に、厳かな口調で返答する。
「そのようです。いずれ裁判が行われ、処刑されるでしょう。ロックスの残党が一つ潰れるのは僥倖ですね」
『光月おでんの危険性が跳ね上がったとも取れるがな。犬の大妖怪が金獅子を討ち取ったのは本当なのか?』
期待を孕んだ五老星の声。
気持ちはわかると内心で頷きながらも言葉を濁した。
「ワノ国の沖合で金獅子海賊団を討ち払ったのは事実のようですが、金獅子のシキを殺害したかどうかは不明です。どうやら意図的に流布された噂のようですね」
『そちらは別の諜報員に任せよう。もしも本当に金獅子が死んでいれば、フワフワの実を回収できる好機だ』
「ええ。空からの襲撃を防げるようになるのは大事かと」
世界政府加盟国だけでなく、海軍本部すらも空からの脅威に対抗する術を確保していない。単純な質量、例えば船を落とされるだけで壊滅的な被害を蒙ってしまう。
金獅子の気分次第で世界は大混乱に陥る。
シキの斃死、或いは弱体化をこの世で最も願っているのが世界政府高官たちであることは間違いなかった。
『報告によると、ワノ国の民から大妖怪は嫌われているようだな?』
五老星の声音には怪訝な色が有った。
「擁護しているのは鈴後の民と、犬神信仰に殉じる一部の御老人ぐらいでしょうか。他の民からは蛇蝎の如く嫌われています。恨まれていると言い換えてもよろしいでしょう」
『……逆恨みのような気もするがな』
「私も話を聞く分にそう思いましたが、調べていく内に一つの推測が浮かびました」
『つまり?』
〝先先代〟将軍である光月スキヤキは犬の大妖怪を尊崇していた。側近たちに対して粗相の無いようにせよと常々言い含めていたようだ。
まさしく神として崇めていたらしい。オロチの粛清を生き延びたスキヤキの家臣が色々と教えてくれた。
服を着崩して、安い酒を注ぎ、適当に褒めちぎるだけで口の緩くなる男にドン引きしたステューシーであった。
「将軍が頼りにしているということで、大妖怪に対する期待値も否応なく高まっていたのでしょう。にも拘らず、オロチとカイドウを排除しなかった」
『だから赦せない、か。よく有る光景だな』
「無知な大衆ならではかと」
『仕方あるまい。大衆とは自らの愚かさを自覚できず、無知で騙され易いものだ。ワノ国の民は他国よりも酷そうだが』
「お蔭で潜入調査も順調に進んでおります」
鎖国政策を続けて早八百年。
ワノ国の住民は外から人がやって来る事に慣れていない。そもそも認識できない。鎖国政策による弊害の一つだろう。
最近は外海で暴れ回るロジャー、白ひげ、カイドウなどの海賊がワノ国へ上陸してきたが、一般庶民の意識を改革するには足りていないようだった。
『鉄砕牙は見つからないか?』
五老星の問い掛けに、気落ちしながら答える。
「これといって有益な情報は何も。ロジャー海賊団が入港したままですが、そちらにも探りを入れますか?」
『やめておけ。諜報員だと看破されるだけだ。ロジャー海賊団の誰かが持っている可能性も有るだろうが、鉄砕牙の所在は一先ず不明のままで構わない。残りの任務をこなしながら並行して調べてくれ』
「では——」
確認の為に促すと、五老星は言葉短く勅令を発した。
『犬の大妖怪と接触しろ。方法は任せる』
簡単に言ってくれる。
ステューシーは心中で毒吐いた。
ワノ国の庶民から伝え聞くだけでも、大妖怪は気難しい性格だとわかる。
何を考え、何を求め、何を成したのか。一つとして理解できなかった。矛盾しているようで、どこか整合性が取れているようで。
化け物に相応しい精神構造といえる。諜報機関の人間でありながらも、二週間足らずの調査ではそれぐらいしか把握できなかった。
この状態で大妖怪と接触することは、相手を知らず、武器を持たず、目を閉じて戦うようなものだ。
可能なら情報収集の時間が欲しい。
願うことなら今すぐ任務を放棄したい。
「申し訳ありません。好物などの情報はありませんか?」
一抹の希望に懸けた。
ステューシーの誇る抜群の美貌と均整の取れた肢体、更に男を惑わす対話力が有れば、好物を知るだけでも親しくなる切っ掛けを掴めるだろう。
だが現実は非情である。
『何も無い。期待するな。今のところ、幼子を好んでいるという情報のみだ』
どれだけ幼子を愛しているんだ、大妖怪は。
「……了解しました。任務に移ります」
『定時連絡は欠かすな』
「はっ!」
早く帰りたい。
切実にそう思った。
大妖怪の屋敷は鈴後の片隅、吹雪に覆われる北東端に建っている。
花の都に聳え立つ将軍の城と比較すれば小さな建物。この国でいうところの『武家屋敷』と大して変わらない造りだ。
大妖怪が住む屋敷にしては威厳が足りていないと思う。ともすれば遊郭に並ぶ建物の方が豪華絢爛だった。
敢えて不思議な点を上げるとするなら、まるで建築されてから数日のような清潔さと秀麗さだろうか。
「暴動の折に助けていただき、貴方様に一目惚れしてしまいました。どうか妾でも良いので、お傍に置いてくれませぬか?」
「去れ。さもなくば死ね」
普段の服装より裾を短くした。生足を見せ付ける。豊満な胸を惜し気もなく披露する。娼婦のような扇情的な格好で枝垂れ掛かり、御寵愛を下さいと懇願した。
にも拘らず、大妖怪はステューシーを一瞥して無造作に振り払う。視線に内包された拒絶の意志はひどく強そうだった。
美人局と疑っているのか。
事実その通りなのだが、警戒を解かねば任務に支障が出てしまう。
最初から上手くいくなどと想定していない。色仕掛けが無理ならば別の手を使うだけ。ステューシーは殊勝な態度を保ったまま屋敷から立ち去った。
拠点へ帰る道中、複数の酔っ払った侍を見付けた。彼らが溢した愚痴によると、大妖怪に毎日お酒を献上しているらしい。
成る程。ステューシーは酒屋へ向かった。
「これが私の感謝の気持ちです。どうかお受け取り下さいませ」
「……この私に安酒を飲めというのか」
ワノ国の酒は外海と比べてわかりづらい。三週間足らずの短い潜伏だ。酒類にまで調査の手が及ばなかった。いや、これは言い訳に過ぎないと自分を戒める。
各地の酒屋を巡る。オロチの悪政による影響からか、どうやら上質な酒は少ないようだ。自分で探すしかないと腹を括る。
僅か数日で酒の良し悪しを把握したステューシーは、花の都で手に入れた逸品を片手に大妖怪の屋敷を訪れた。
「これならば如何でしょう。貴方様の御目に適いましたか?」
「悪くない。貰ってやろう」
「それは良うございました。私が酌婦になりましょう。屋敷に入れてくれませぬか?」
「不要だ。去れ」
唐突にステューシーの身体は宙を舞った。放り投げられたと気付いた時には雪の大地に顔から突っ込んでいた。
なんて男だ。有り得ない。女性を労わるという感性を持ち合わせていないのか。絶世の美女が酒を注いでやると言っているのに。
ステューシーは不平不満を飲み込み、踵を返した。
酒を献上するのは好感触だが、それだけでは足りない。犬の大妖怪は屋敷を殊更大事にしていると聞く。
掃除でも行って関心を引くことにしよう。
「何をしている?」
「お屋敷の掃除を。貴方様の御役に少しでも立てれば幸いです」
「下らぬ真似を」
数日繰り返しても屋敷に入れてくれない。
手応えは多少なり有るものの、大妖怪の言動は厳しいままだ。このまま続けても果たして心の雪解けに何年掛かるだろうか。
現況を五老星に連絡するステューシー。
どうしようかと苦悩する彼女に、五老星は語気を荒げて言った。
この段階で時間を掛けるな。毒と薬を使え。同情を引けと。
いくら特効薬を持っていようと、猛毒に冒された身体は信じ難い激痛に苛まれる。その上、大妖怪の苛烈な性格からして生死の淵に立たされた人間だとしても助けてくれると思えない。
だが、五老星の命令は絶対だ。
無視するなら死を覚悟しなければならない。
「ハァ、ハァ、ハァーーッ!」
「傍迷惑な」
不満気に顔を顰める大妖怪は、門前で毒に苦しむステューシーを抱き上げて離れの古屋に放り捨てた。布団を投げ込み、最低限の水と食料を枕元に置いた。
まさか助けてくれるとは。
焼け火箸に貫かれるような激痛に意識を朦朧とさせながら、ステューシーは大妖怪の意外な一面に驚嘆した。
気紛れか。寂しがり屋なのか。ぶっきらぼうながらも心開いていたのか。
何であろうとも構わない。布団に包まり、下唇を噛み締めながら、ステューシーは枕に顔を埋めた。隠れるようにして邪悪な笑みを浮かべる。
敷地内に入れた。付け入る隙も見付けた。これで任務を進められる。
翌日、奥歯に隠していた特効薬を飲み込む。
一日と経たずに治った。青白かった美貌にも温かな色が戻る。身体を起こす。全裸だ。透き通る肌を視認して、ステューシーは産まれたままの格好で離れ小屋から姿を現した。
感動した。感謝している。
どうか強く抱き締めてほしい。
愛情と恋慕を蒼い双眸に込める。
病み上がり。全裸の美女。そして、か弱い女を演じる為に庭の石に躓き、ステューシーは大妖怪へ抱き着こうとした。
「犬神、様ーー」
「触るな。穢らわしい。貴様のような女に興味などない」
だが、大妖怪は抱擁を躱した。悪態を吐くだけに飽き足らず、快復したなら直ぐに出て行けと手荒く放逐した。
ステューシーは屋敷が見えなくなるまで呆然と歩き続けた。雪が視界を純白に埋め尽くす中、ワノ国で着慣れた服の裾を固く握り締める。
五老星の言葉が脳裏を過ぎった。
曰く、犬の大妖怪は幼子を好むと。
まさかと鼻で笑っていたが、もしかしたら本当なのかもしれない。
築き上げた経験、女としての魅力。それらが全否定された気持ちに陥るものの、ここまできて五老星直々に下された任務を放棄する訳にいかなかった。
「また来たのか」
二日後、再び大妖怪の屋敷へ足を運ぶと、疑念を確信に変える驚愕の光景が視界へ飛び込んできた。
「そ、その幼女は?」
「鬼の子供のようだな。名前は『ヤマト』というらしい。先程拾った」
短い角が額から生えた幼女を抱きかかえ、優しく微笑む大妖怪。
それは一度たりともステューシーに見せたことのない慈愛の笑顔で、傷だらけの幼女に何故か嫉妬してしまう女諜報員なのだった。
ステューシー「幼女に負けた……orz」