今宵は月が綺麗ですね   作:とりゃあああ

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殺生日記 壱 裏

 

 

 

 

 

 

 

 約五年前、鈴後にて大飢饉が発生した。

 元々、食糧豊富と言えない土地柄だ。何しろ毎日の如く降雪する。人間だけでなく、自然を謳歌する逞しい肉食獣ですら、日々の食糧を命懸けで求めて闊歩している程に厳しい環境である。

 飢饉など日常茶飯事。

 されど五年前はまさしく異常だった。花の都、白舞、希美、兎丼から多大な食糧援助を受けても尚、人骨が獣道に散乱している有様だったのだから。

 人々は飢えに苦しんだ。当然ながら獣も。故に大型の肉食獣が徒党を組み、小さな山村へ押し入るのも至極当然の帰結と言えよう。

 原初の理。弱肉強食の世界。飢餓に苛まれた肉食獣が、山村の人々を尽く食い散らかすことなど火を見るよりも明らかだった。

 しかし、結果として彼らは助かった。

 では、果たして誰が助けたのか。侍ではなく。浪人でもなく。若い者たちには意外な者であり、年老いた者たちからしてみれば納得のいく御方であった。

 

「お主、果たして何年生きているのだ?」

「妖怪に歳を尋ねるのか。莫迦め。下らんな」

「おおよそで構わぬ。単純に気になっただけよ」

「八百を超えた辺りから数えておらぬ」

「八百!?」

 

 鈴後を治める霜月家の跡取り、霜月牛マルは目を丸くした。口蓋を全開で広げた。まさしく驚愕の表情を浮かべた。

 最大でも三百年ぐらいだろうと軽く考えていたのだが、まさか容易に二倍を超えてくるとは。武士に有るまじき感情の発露である。

 眼前に佇む中性的な美貌の持ち主、五年前の大飢饉に於いて人知れず鈴後の各地を救った心優しき犬の大妖怪は眉をひそめた。

 

「何を驚いている」

「驚くに決まっておろう。最低でも八百歳など理解が追いつかん。到底信じられぬ」

「嘘を吐いているとでも?」

 

 大妖怪は目を細める。

 

「いやはや。拙者の言葉足らずであった。この矮小な脳だと信じられぬ事柄と思っただけの事よ。そなたの言動を疑ったのではない」

「ふん」

「しかしな。何故、と問うても構わんか?」

「理由など無い」

「莫迦な。八百年も生きているのだろう! 何か目的でも持たないと自我を保っておられる訳なかろう!」

 

 未だ二十歳の身だが、霜月牛マルにとって人生とは目的の積み重ねだと認識している。達成する時も有れば、失敗する時も有る。だからこそ面白いのだ。こうして笑っていられるのだ。

 だが、この大妖怪には存在しないらしい。

 只生きているだけ。鈴後の片隅で、小さな屋敷に身を置き、世捨て人の如く。それは地獄ではないだろうか。

 牛マルは老人たちから聞いた。この妖怪は遥か昔から鈴後を、そしてワノ国全土を見護ってきたのだと。噂では犬神様として崇め奉っている地域も有るとか。大飢饉の際に助けられた山村など特に顕著らしい。

 人知れず牛マルは激怒した。この大妖怪を『神』という存在に昇華して、思考停止しているワノ国の住人に対して憤怒を覚えた。

 

「二度も言わせるな」

「では、やはり――?」

「理由などない。大妖怪であるこの身、死なぬから生きているだけ。貴様ら人間と違い、生きる事に目的など不要だ」

 

 犬の妖怪はぶっきらぼうに応えた。

 腹立たしい限りである。腸が煮えくり返りそうだ。

 五年前、大妖怪の悪い噂を鵜呑みにして、彼の屋敷に突撃を敢行した牛マル。若かった。正義感の塊だった。光月おでんに負けたくなかった。妖怪退治だと、武者修行だと声高に叫んだ。そして無様に敗北した。

 けれど、命を奪われなかった。傷の手当てまで施された。なのに相手を逆恨みする始末。今思い返しても恥ずかしい限り。時々、布団の上でのたうち回るぐらいには抹消したい記憶だった。

 そうだ。彼は優しい。態度は尊大で、言葉はぞんざいな上、無意識に他者を見下している。それでも人間を襲わない。獣から護ってくれる時さえあると聞く。

 この妖怪に生きる楽しさを教えてやりたい。目的を与えてやりたい。余計なお世話かもしれないが、霜月牛マルにとってこの大妖怪は尊敬に値する存在だから。赦されるなら『友』と呼びたいぐらいに親しみを覚えているから。

どうしたらいいのだろう。

 お世辞にも賢いと称せない頭で答えを探る。

 チラリと視線を動かす。大妖怪は大樹の幹に背中を預け、腕組みしたまま瞑目していた。その美貌はこの世の物と思えず、流桜すら使わずに侍を圧倒する力量は規格外の一言。人間という枠組みに囚われず、遙かな高みに君臨する相手の欲する物など考えも付かない。

 

「――――ッ!」

 

 彼の意識を一気に変えられないのなら。

 霜月牛マルでは彼に目的を与えられないのなら。

 

「次は七日後に来る。良いな!?」

「来るなと申しても無意味であろうに」

 

 妖怪の嘆息を背中に聞きながら、牛マルは相棒のオニ丸と共に駆けた。鈴後に聳え立つ城を素通りして、花の都まで一目散に。大量の紙、墨、筆を買い占める。他に必要な物はあるだろうかと数日悩み、彼の妖怪は文字を書けるのかと今更ながらに疑問視して、八百年も生きていれば大丈夫かと阿呆な己を納得させた。

 七日後、大妖怪に直接手渡す。

 

「なんだ、これは」

「見てわからぬか?」

「物を尋ねているのではない。理由を問うているのだ」

「そうさな。その前にお主、文字を書けるか?」

「莫迦にするな。殺すぞ」

「おお、怖い怖い」

「――これで良かろう」

「やけに達筆だな。うむ、これならば問題あるまいて。お主、日記を書いてみぬか?」

「無駄だ」

「そう捨て鉢になるな。日記を書いてみよ。お主の存在を世に残すのだ。きっと、いつか、お主のやるべき事が見つかる筈よ。お主のやりたい事が見つかる筈よ」

 

 胡乱な目で贈り物を見詰める大妖怪。

 最悪な場合、問答無用で捨てられるかもと想定していた牛マルにとって、今の状況は中々に手応えを感じた。

 此処が攻め時だと判断する。

 

「外の者たちは皆、日記を書いているそうだ」

「阿呆が。有り得ぬ」

「何と。お主は外の世界を知っておるのか?」

「知らん。だが、貴様の言う通り全員が日記を付けているなど有り得ん。どれほど几帳面で神経質な奴らの集まりなのだ。少しは考えろ。莫迦か?」

「拙者の考えではない! おでんの奴から聞いたのだ!」

「――まぁ、良かろう。三日坊主になっても口煩く干渉するな。それで構わぬなら貰ってやろう」

「うむ。それで良い!」

「何故そんなに嬉しそうなのだ、貴様」

 

 大妖怪は珍しく肩を落とした。

 やれやれと首を振り、贈り物を受け取る。

 これで今日の目的は達成した。おもむろに踵を返す。

 

「おい」

 

 ぶっきらぼうに呼び止められる。

 

「今日は父上から呼び出しを食らっていてな。お主と稽古する暇が無いのだ。すまぬが、これにてお暇させてもらうぞ」

「勘当か」

「その時はお主の屋敷に住むとしよう」

「戯け。人間如きを住まわせるほど気安い建物ではない」

「わははは、そうか。それで?」

 

 改めて問う。

 彼は無駄を嫌う。わざわざ呼び止めたからには理由があると考えるべき。犬の妖怪は西の方角を眺めながら忠告した。

 

「気を付けるのだな。最近、森が騒がしい」

「忠告、感謝しよう。将軍殿にも伝えておく」

「好きにしろ」

 

 今度こそ立ち去る。

 鈴後の片隅、ワノ国の北東端。大妖怪の構える小さな屋敷。犬神と称される男の住まう其処は、将軍であろうとも侵入禁止区域となっている。

 誰も彼もが大妖怪を特別扱いする。

 異族だから。桁外れに強いから。怒らせたら怖いから。高嶺の花だから。神々しいから。至高の存在だから。

 下らないなと吐き捨てる。

 大妖怪とて心を持つ。喜怒哀楽を懐に抱いているのだ。狛狐のオニ丸と同じ。ならば友になれる。なってみせると意気込み、霜月牛マルは意気揚々と駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光月おでんにとって祖国は窮屈だった。

 最初に確信したのは、犬神の伝説を聞いた時だったか。

 成長するにつれて、外海への恋慕は増すばかりだ。周囲の人間を胡乱な眼で見詰める。大海原の向こうには未だ見ぬ景色がどこまでも広がっているだろうに、何故ワクワクしないのか。どうして心が奮い立たないのか。

 出て行くことを赦さない法律、頭の固い親族、航海術の才能を有しない自らに苛立ちを募らせる毎日。山の神と呼ばれる白猪を一刀の下に斬り伏せた後、実の父親から絶縁状を叩き付けられ、花の都を後にしようとしたその時、光月おでんは思わず身震いした。

 苦節十八年、おでんは漸く犬神に出逢った。

 

「貴様が白猪を斬り伏せた者だな?」

 

 犬神は空中に浮かんでいた。

 どうやって浮遊しているのか。

 いや、そもそもどうして此処に現れたのか。

 光月おでんは腕組みしたまま、犬神の容貌をくまなく視認した。

 右肩から靡かせている巨大な犬の毛皮。絹のような白銀の長髪は花魁のような艶やかさを誇り、白を基調とした壮麗な着物に包まれた妖怪は、誰もが息を呑む美貌の持ち主だった。

 多くの爺婆が犬神様と崇めるのも理解できる。

 

「もしかして、お前の仲間だったのか?」 

 

 そいつはすまねぇ事をしたなと顎を摩る。

 地面に降り立った犬神は目付きを鋭くした。何も言わずに刀を抜く。尋常な気配ではない。犬神だけでなく、刀身を顕にしただけの得物からも大瀑布の如き圧力を感じた。

 拙い。殺られる。本能で察する。

 一歩後退した。天羽々斬と閻魔を同時に鞘から解放。二刀流の構えを取る。取り敢えず、初手を受けてみよう。会話するとしてもその後に。如何な豪撃が襲い掛かろうとも防御してみせる。

 その確信は、瞬く間に消し飛んだ。

 

「――――」

 

 何秒だろうか。完全に気絶していた。

 頭上から迫る凶器に対して、自然と身体が動いたからこそ起き上がれた。脊髄反射だけで防いだと言っても過言ではない。

 犬神の刀を弾き返し、立ち上がり、全身に走る鈍痛を誤魔化すように首の骨を鳴らす。視線を前に向けると、犬神は弱者と相対するような自然体で立っていた。

 おでんの口から無意識に笑い声が漏れる。

 

「何を笑っている?」

「これが笑わずにいられるか! これを喜ばずにいられるか!!」

 

 天まで届けとばかりに哄笑する。

 二刀を構えた。流桜を用いて黒刀へと変化させる。一足で間合いを詰める。おでん二刀流、桃源白滝。山の神と恐れられる白猪すら一撃だったのに、犬神は慌てる素振りなど微塵も見せずに容易く弾く。

 

「ありがとう、ワノ国の護り犬! おれは井の中の蛙だった。お前は強い。一番強い。ワノ国ですらこうだ。やっぱりこの世界は広いんだ!」

「何を当たり前のことを。貴様如きが調子に乗るな。人間よ、先ず蛙に成りたくばこの我に一太刀でも浴びせてみせろ」

「勿論だ!」

 

 生まれて初めてかもしれない。

 燃え盛る高揚感に心底から全身を包まれた。鬱屈した想いなど弾け飛べ。楽しい。楽しいんだ。今だけは窮屈さを感じない。どんなに手を伸ばしても届かない君臨者に対して、縦横無尽に刀を振るえる爽快感から思わず笑みが溢れた。

 数十分、いや数分だったか。稽古をつけられている感覚に終止符を打ったのは、犬神の発した艶のある低い声音だった。

 

「貴様、名乗れ」

「おれを認めたってことか!?」

「阿呆が。頭の片隅に置いといてやるだけだ」

「それで充分。おれは光月おでん。いずれは外海に出る男だ!」

 

 犬神は僅かに口角を吊り上げた。

 

「――ほう。この国を窮屈と思うか」

「お前もそうなのか!? なら、おれと一緒に外へ行こう。お前みたいに空を飛べるようになったら、航海術を持たないおれでも外へ行ける!」

「笑止。笑わせるな、小僧。今の貴様で、私の隣に立てると思うたか」

「これから強くなってみせるさ!」

 

 宣言一喝。繰り返される斬り合い。

 花の都にすら轟く剣戟の音は、周囲に無数の観客を呼び寄せた。野次馬全員が犬神に姿を見られないようにと木々に隠れながらだが。

 光月おでんは有象無象を意識外に放り投げ、鍔迫り合いの最中に尋ねる。

 

「お前、名前はあるのか?」

「当然だ」

「教えてくれ!」

「黙れ。貴様に名乗るなど笑止千万。人間如きと馴れ合う気などない。鍛錬を積み直してくることだ、光月おでん」

 

 恐るべき腕力で二刀を弾かれた。

 無防備を晒す。両足は踏ん張ったまま。両腕は万歳状態。致命的だ。横薙ぎ、袈裟斬り、刺突。全て躱せない。

 くそ。ここまでか。

 奴を一人にするのか。

 孤独な犬神。光月家の後ろ盾。

 誰よりも窮屈な世界に囚われている犬神は、微かに呟いた。

 

「弾けろ、爆砕牙」

 

 右肩に叩き付けられた斬撃。

 全身に駆け巡る爆音と爆撃の嵐。

 再び意識を刈り取られた。両手から刀が零れ落ちる。

 それでも手を伸ばした。目標へ。ワノ国へ封じ込められた犬神へ。可哀想な狛犬へ。寂しそうな妖怪の胸倉を掴み、

 そしてーー。

 

「おっ。目が覚めたか」

「大丈夫っすか、おでんさん!」

 

 次に目が覚めた時には犬神の姿など泡沫の夢のように消えていた。

 錦えもんと傳ジローが心配気に顔を覗いている。

 何で此処にいるんだと疑問に思いつつ、どうしてこのような道端で仰向けに倒れているのか考えて――。

 

「アイツは! 犬神は何処に行った!?」

「え? 化け犬の妖怪ならあの後直ぐに立ち去りましたよ」

「あの野郎――。結局おれは遊ばれてただけか」

「し、仕方ないですって。相手は化け犬だったんすから。何か良からぬ妖術でも使ってたに決まってますよ」

 

 傳ジローの頭に拳骨を喰らわす。

 涙目で見上げてくる子供に反して、光月おでんは地面に突き刺さったままである愛刀を引き抜いて鞘に戻した。

 

「二度とアイツを妖怪なんて呼ぶなよ」

 

 ドスの効いた声だったからか、錦えもんと傳ジローが何度も首肯する。

 光月家に代々伝わる犬神の伝説。八百年以上に渡ってワノ国を護り続けた存在。口外を許さないルールに苛立ちを覚えつつ、おでんは服に付いた汚れを手で払い落とした。

 取り敢えず白舞にでも行くかと切り替えた直後、傳ジローが慌てて口を開いた。

 

「そ、そうだ。おでんさんに伝言がありました」

「伝言? 誰からだ?」

「いや、それはさっきの――」

「犬神からか」

「はい。え、と。私に会いたくば、霜月牛マルという侍の下を訪ねろとの事でした」

 

 霜月牛マルとは、順当に行けば鈴後の次期大名になる男だ。どうして奴の名前が犬神から発せられるのか。疑問は尽きないものの、奴の居場所になら心当たりがある。

 もしかしたら犬神もワノ国から飛び出したいのかもしれない。使命や役割に縛られた身体を脱ぎ捨て、裸一貫で大冒険の荒波に飛び込みたいのかもしれない。

 犬神すら牢獄に閉じ込める祖国に辟易しつつ、おでんは楽しげに笑った。

 

 

「全く。この国は窮屈でござる!」

 

 

 

 

 


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