光月家にとって、彼は特別な存在である。
化け犬の大妖怪。ワノ国に住む全ての侍や動物が束になったとしても、絶対に敵わないとされる伝説の霊獣。迷信深い場所では犬神とも称されている。
本名不明。年齢も不明。出身すらわからない。それでも判明している事実が一つだけある。
彼の目的だ。約束とも言い換えられよう。
将軍職を継いだ者だけが、先祖代々口伝として後世に残してきた。
光月スキヤキも次代に受け継がなければならないのだが、果たして絶縁状を叩き付けてやったあの馬鹿息子に教えても良いものだろうか。
「光月スキヤキと申します。今代の将軍を務めている者です」
鈴後の片隅。
年中、吹雪に覆われる北東端。
荒れ狂う波の音が響き渡っている。
将軍一行は、犬神の住まう小さな屋敷に足を踏み入れた。
事前の連絡が功を奏したらしい。
犬神は琥珀色の双眸で全員を一瞥した後、付いてこいと背中を見せた。
生活感のない屋敷を進むこと数十秒。謁見の間と思わしき部屋に通された光月スキヤキは下座に腰掛け、上座の犬神に頭を下げる。
警護目的で侍る家臣たちが須らく息を呑んだ。至極当然の反応だろう。ワノ国に於いて最も高貴とされる将軍が、あたかも大妖怪に媚びるかのような様子を見せられているのだから。
さりとて、これが現実である。
将軍といえども犬神に逆らえない。
将軍だからこそ犬神に逆らえない。
「光月スキヤキか」
「はっ」
「偽名か?」
「本名で御座います」
途端、犬神は笑い出した。
大口を開き、肩を揺すって哄笑する。
名前を伝えただけで何故笑われてしまったのか見当も付かないが、どうやら良い印象を持たれたらしい。
犬神の目付きがほんの少しだけ優しくなった。
スキヤキは顔色を一切変えない。憤怒の感情すら湧いてこなかった。逆に胸を撫で下ろした。今回の逢瀬は、馬鹿息子である光月おでんの進退にも関わる故に。
だがーー。
「な、なんと無礼なッ!」
「スキヤキ様に対して非礼が過ぎるッ!」
「そもそも何故、貴様のような妖怪風情が上座に腰掛けているのだ! スキヤキ様にお譲りするべきであろう!!」
家臣たちは一様に憤慨した。
刀に手を掛けている者まで存在する。
鈴後へ向かう最中、充分に言い聞かせていた。何があろうとも口を挟むなと。犬神に敵意を見せるなと。口酸っぱく注意していた筈だったのに。
主君に対する不敬は赦さないとばかりに激昂する家臣一同。まさに一触即発。流桜の使い手ばかり選んだのも悪手だった。己の力量に対する驕りから酷く好戦的になってしまっている。
「私は妖怪だぞ。礼を求めるな。下らん」
犬神は静かに述べた。
圧倒的な強者から放たれる視線に、家臣は一歩後退した。無意識だったのだろう。額からこぼれ落ちた冷や汗が深緑の畳に跳ねた。
「貴様らと何もかもが違うのだ。時の流れ、物の価値観、善悪すらも。将軍だからどうした。そんなもの、私の前で何も意味を成さぬ」
事実その通りだ。
将軍と犬神の関係性は希薄そのもの。
ワノ国全土を治める将軍に対して、各地の郷を任された大名家が仕えるという御恩と奉公の関係性すら保持していない。
化け犬の大妖怪は己の身一つで鈴後の片隅を奪い取ったのだから。
「去れ」
眼光が強まる。犬歯が伸びた。
光月スキヤキはもしやと目を見開く。
この様子は『変化』を行うつもりなのか。数百年前に百鬼夜行を率いた霊獣の姿になるつもりなのか。
どうにかして止めようと片膝を上げた瞬間、犬神から放たれた大瀑布の如き威圧は家臣一同を物の見事に卒倒させた。
流桜の一種だ。選ばれた者だけが扱える。馬鹿息子も一度同じような事をしていたなと思い出した。
「かたじけない」
「私の屋敷だ。下賤な者の血で汚したくない」
「この者達には今一度強く言い聞かせる所存。どうか御命を奪わないで貰えませぬか?」
「私の前に其奴らを二度と連れてくるな」
「承知」
どうやら許されたようだ。
気絶に留めてくれたのは面倒だったからか。それとも優しさからか。
いずれにせよ助かった。もしも家臣一同を斬られていれば最悪の事態に陥っていただろう。将軍としての面子を保つ為に、不可能と知りつつも犬神と抗争する可能性すら有った。
馬鹿げた話だが、国を治める為に面子は必要である。例えそれが張りぼてだとしても。虚飾に満ちていたとしても。
光月スキヤキはホッと胸を撫で下ろす。
安堵感からか、人知れず溜め息が溢れた。
「昔から変わりませんな、貴方は」
「何の話だ」
「やはり覚えておりませぬか。十九年前、この屋敷を訪れた事があります」
「記憶に無い。嘘を申すな」
「将軍職を継いだ挨拶に出向いたのです」
亡き父から将軍職を受け継いだスキヤキは、若人特有の恐れ知らずから鈴後へと赴いた。家臣も連れずに。誰にも伝えずに。単身で犬神の下へ乗り込んだ。
彼と会話したかった。
ワノ国の将軍として認めてもらいたかった。
いつか光月家に現れると口伝に遺された、犬神と歩調を合わせる者はこの光月スキヤキだと信じていたから。
「思い出した。私に蹴り飛ばされた者か」
「如何にも。雪の上を何度も転げました」
「将軍職を継いだと挨拶に出向いた者など、悠久の時で貴様が初めてだった。嘘八百を並び立てるなど不遜極まりなしと思ったのだが、成る程、アレはまさしく真実だったか」
犬神は僅かに口角を吊り上げた。
「今時、此処まで律儀な者がいるとはな。時代遅れも甚だしい。堅苦しい侍の頂点に属するだけある」
果たしてそれは――。
将軍として認められたのか。
黒炭家を追い詰めた民草の怒りに戸惑い、無法地帯と化している九里に頭を悩ませ、馬鹿息子の将来に不安を抱くこと苦節十九年。凡人でありながらも一国を預かる為政者として成してきた事が報われた瞬間であった。
歓喜から表情を真紅に染める光月スキヤキ。
犬神は訝しそうだった。胡乱な目で将軍を見つめた。
この御方には理解できないだろうなと肩を竦める。
所詮は異族。人間と妖怪。根本からわかり合うなど不可能。故に相互不干渉の掟を結んだ。いずれ来る、伝説の存在を待ち侘びながら。
「して。何用だ」
口火を切ったのは犬神だった。
「約半年前、都のすぐ近くで行われた決闘の詳細をお聞きしたく、こうして足を運んだ所存に御座ります」
「決闘? 知らぬな」
「我が息子である光月おでんと成した決闘。覚えておりませぬか?」
「アレは決闘ではない。八つ当たりに過ぎぬ」
犬神曰く、いい加減鬱陶しくなった山の神を撃滅すべく花の都へ降りてきたらしい。だが、おでんに先を越されてしまう。人里に降り立った意味を喪失した挙句、偶然にも下手人と遭遇した為、八つ当たりに近い戦闘を行ってしまったのだと苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「そういう経緯でしたか」
「殺すには惜しい人材だった。故に生かした。それだけの事だ」
誠意の欠片も無い。
どこまでも突き放す冷たい声音だった。
犬神にとって単なる憂さ晴らしに過ぎなかった。山の神を斬殺することも。代わりにおでんへ斬撃を放ったことも。
人の親なら憤るべきなのだろうが、ワノ国の将軍なら喜ぶべき一言だった。
犬神は言った。
殺すには惜しいと。
光月おでんを認めたのだ。
誰もが見放した問題児を見込みある若人だと。
光月家の待ち侘びた存在は、もしかして息子なのだろうか。犬神と共に歩む異端児は、いずれ来るワノ国の危機を救ってくれるのは光月おでんなのだろうか。
わからない。判断できない。
だからスキヤキは頭を下げた。
誰にも表情を見られたくなかった。
「頭を上げろ」
「申し訳ありませぬ」
絶対者の命令に従う。
表情を改めてから姿勢を整えた。
犬神は目を細める。何か気に障ってしまったか。
「貴様はおでんの父親だな?」
「絶縁状を渡した故、対外的に他人も同然でありますが。血縁関係のみで呼称するなら息子といえましょう」
「あの者とは些かながら因縁がある」
言の葉に込められた怒気は気のせいだろうか。そうだと思いたい。
「落ち着きなく、身勝手。横暴な振る舞いながら他者を従わせる魅力に溢れている。何故に絶縁状を叩き付けたのか」
光月スキヤキも知らない内に鬱憤が溜まっていたのだろう。半年前に家臣から伝えられた光月おでんの悪行を一切の虚飾なく口にする。
犬神も呆気に取られていた。
空いた口は塞がらず、目元は痙攣していた。
やはりそうなるか。
犬神の想像を軽く超えていく馬鹿息子。絶縁状を叩き付ける前に一度ぶん殴るべきだったと少しだけ後悔した。
どうすれば良かったのかと心情を吐露する。
犬神は天井を見つめ、考えを纏めたらしく重い口を開いた。
「時間を掛けるしかなかろう」
「それしか有りませぬか」
「奴は子供だ。外の世界を夢見る子供に過ぎぬ。貴様が諦めて出国を認めるか、おでんが大人になるのを待つしかあるまい」
ワノ国は鎖国国家だ。
将軍家だからといっても好き勝手してはならない。光月家だからこそ法律を守らなければならない。
おでんの出国を認めてしまえば、法治国家の根幹を揺るがしてしまう。故に、スキヤキが選べる対策は時間稼ぎのみである。
頭が痛くなる。
只でさえ健康的な身体といえないのに。
「無駄話は此処までだ」
こめかみを揉み解す将軍に痺れでも切らしたのか、犬神は唐突に立ち上がり、気絶したままの家臣一同を屋敷の外に放り投げた。
恐るべき膂力だ。
遥か遠くから落下音が響いてきた。
地面は雪に覆われている。
死んではいないだろう。確信など持てないが。
「貴様も去れ。用事ができた」
「用事ですか?」
不遜と知りながらも問い掛ける。
絶世の美貌に不敵な笑みを乗せて、犬神は言い放った。
「九里で暴れてくる。良い機会だ」
数ヶ月前、霜月康イエから聞いた。
おでんはワノ国を漫遊する気だと。完全な無法地帯と化している九里や、其処に住む怪物にも興味を示していたと。
やはり――。
光月おでんこそが犬神に自由を齎す存在か。
アシュラ童子は化け犬の大妖怪を睨む。
己に敗北を突き付けた憎き存在。九里の王として君臨していた自分を、軽く振り下ろした一太刀で粉砕した生粋の化物。
見た目だけなら優男だ。中性的な美貌は老若男女問わずに注目を集める。琥珀色の双眸。額に刻まれた月の印。腰に差してある二本の大刀。その全てを覆い隠す魔性の容貌は瞬く間に荒くれ者たちを魅了した。
各郷から追放された罪人や浪人達が徒党を組み築き上げた、暴力で塗り固められた凶悪な土地だったのにも拘らず、光月おでんと共に僅か三ヶ月で人間の住まう世界に戻してしまった。
『犬神、さっさと名前を教えろ!』
『黙れ。貴様如きに名乗るなど有り得ぬ』
『なら空を飛ぶ妖術を教えてくれ! そうすれば航海の才能が無くても海外へ出れるんだ。海を出て冒険できるんだ!』
『五月蝿い。これは妖術ではない』
光月おでんはひたすらに奔放だった。
化け犬の大妖怪はどこまでも不遜だった。
二人の王は町を築き、城を建て、涎垂らす獣たちに働くことを覚えさせた。
大妖怪は意固地な爺婆を懐柔して、光月おでんは桃源農園を作る。日々改善されていく九里。活気に溢れていく様は、まるでアシュラ童子が初めて見た『平和』そのものだった。
ワノ国の癌ともいえる九里の変貌は瞬く間に他郷へ知れ渡る。明らかに人為的な情報漏洩だ。傳ジローやイゾウも確信していた。下手人は化け犬の大妖怪だと。
『おれが大名だと? ふざけるな!』
『何を怒っている』
『これが怒らずにいられるか! 何でお前の情報はねェんだよ! 親父の意図だってんなら都に直談判しに行ってやる!!』
『相変わらず意味のわからん男だ。大名になれるのだぞ。喜んで貰っておけ。あの獣達を人間に戻したのは貴様の手柄だ』
『お前もなれ!』
『莫迦が。成れる訳なかろう。私は妖怪だ。貴様ら人間の敵でもある』
おでんと大妖怪の口論は三日三晩に及んだ。
菊の丞とイゾウは化け犬に留まって欲しいと懇願した。錦えもんと傳ジローは早く鈴後へ帰って欲しいという立場で、カン十郎と雷蔵は二人の決着に従う様子だった。
アシュラ童子はどう思ったか。
背後を取っても、寝込みを襲っても、化け犬には勝てなかった。一太刀すら届かなかった。耳許で飛び回る小蝿を払うような仕草で跳ね除けられた。
諦めていない。
いつか斬り殺してみせる。
ならば九里に留まってもらいたいのか。
違う。それは違う。
アシュラ童子は化け犬を嫌っている。
言葉を飾らなければ酷く憎んでいる。
八つ当たりだ。只の逆上だ。理解している。
それでも、絶対の自信だった力を粉々に打ち砕かれた。唯一誇示していた力に対して、興味や関心すら寄せない化物を拒絶してしまうのも致し方なかった。
「こういう行動に出ると思ったぞ、犬神」
「面倒な男だ。わざわざ待ち伏せしているとは」
満月の夜。
煌々と降り注ぐ青白い光。
白波が海岸を濡らして、潮騒が静寂を埋めた。
九里ヶ浜にて対峙する九里の大名と化け犬の大妖怪は、まるで以心伝心のように同時に得物を抜き放った。
光月おでんは天羽々斬と閻魔を構える。
化け犬は『二代鬼徹』と呼ばれる大業物を手に取った。
「爆砕牙は使わねェのか?」
「今は夜更け。無駄に音を響かせるなど不粋の極みだ」
おでんも化物だ。
アシュラ童子を超える実力の持ち主である。
二人が一度でも斬り結んでしまえば、それだけで九里全土へ響き渡る衝撃波を生む。寝静まった九里の住人達は叩き起こされるだろう。
故に、化け犬はこう言っているのだ。
鍔迫り合いなど不要。一刀で決着を付けると。
「面白ェ」
「安心しろ。砂浜を紅く染める趣味はない」
おでんは獰猛な笑みを浮かべた。
二刀流の構え。天羽々斬を握った右手を身体の前に突き出し、閻魔を持った左手を首の後ろに添える。強靱な肉体から流桜が溢れ出した。黒刀へ変貌した二本の名刀は、ただ存在するだけで空気を切り裂いていく。
対して、化け犬は自然体だった。
右手に携えた二代鬼徹の鋒は砂浜を向き、流桜を使う素振りさえ見せない。
刀を初めて握った男児のように隙だらけだ。
間合いに飛び込み、大上段から振り下ろせば、それだけで斬殺できそうな雰囲気だが、おでんは動かない。微動だにしない。
互いに放つ剣気で動きを読み合っている。
「犬神、約束しろ」
「何を」
「おれが勝てば、お前は此処に永住するんだ」
「戯け。私の故郷は鈴後だ」
「お前は此処で見つけるべきだ!」
「私に意見するのか。たかだか人間如きが」
決着は一瞬だった。
化け犬の姿が蜃気楼のように霞み、一拍遅れて砂埃が闇夜に舞う中、光月おでんは声もなく砂浜に崩れ落ちた。
死んだのか。
注視する。胸は微かに上下していた。
どうやら気絶しただけらしい。
一撃だった。アレが化け犬の本気なのか。
流桜も使わずに、本来の得物さえ封印して、光月おでんを圧倒した。誰が勝てるのか。どうしたら殺せるのだろうか。
どうして、そこまで強くなったのか。
「アシュラ童子とやら」
木々の隙間で巨躯が跳ねた。
化け犬は満月を見上げながら続ける。
「この者を城まで運べ」
どうやら完全にバレているらしい。
無視を決め込むか悩んだが、直ぐに頭を振って否定する。
負けない。負けてたまるか。
恐怖心を無理に押さえ付けて、アシュラ童子は砂浜に降り立った。
「おいどんに命令するんか?」
「おでんの家臣だろう。主君を砂浜に放置するのか」
「ふざけるな。おいどんは誰にも仕えてねェ!」
「粋がるなら強くなってからにしろ。負け犬の遠吠えにしか聞こえん」
元々アシュラ童子に興味も無いのか、化け犬は二代鬼徹を鞘に納めた。無防備な背中を晒す。まるで斬り殺して下さいと言わんばかりに。
それは誘いだ。
斬り掛かっても弾き飛ばされるだけ。
アシュラ童子は奥歯を噛み締めながら問う。
「お前に足りないものなんてあるんか?」
化け犬の大妖怪は無言のまま空に浮かんだ。
菊の丞の問いに尻尾だと答えた右肩の毛皮を靡かせて、闇夜の中へ溶け落ちるように九里ヶ浜を後にした。
アシュラ童子はおでんを担ぐ。
『誰にでもあるだろう。足りないものなんて』
波の音が木霊する。
砂浜を踏みつける音が静寂を切り裂く。
そんな中、不思議と、化け犬のか細い声だけが耳に残った。