魚人は世界で差別される。
だから人里へ近付いたら駄目だ。
哀しそうな表情でそう忠告する母親に、河松はどうしてと首を傾げた。答えを求めた。差別される要因を知り、悪いところを直して、人間達と仲良くなれるように。
母親は河松を抱き締めた。
何も言わずに力強く抱擁した。
母親の目から零れ落ちた涙を見て、河松は咄嗟にごめんなさいと謝った。
父親はいない。兄弟もいない。
二人っきりの家族を悲しませた事に謝罪した。
母親は泣き止んでくれなかった。
ごめんね、ごめんね。掠れた声でうわ言のように繰り返していた。
二人で生きよう。
河松は心に誓った。
過酷な世界。不利な種族。
そんなものに負けてたまるか。
母親を守ろう。守りたい。
そう思った。
「河童の親子か」
ある日ーー。
河松はそんな母親の忠告を無視してしまう。
悪気などなかった。ただ空腹に負けてしまった。
美味しそうな匂いの元へ。
ふらふらと人里へ近付いていく。
視界に飛び込んだのは小規模な祭り。
河松は我慢した。
当然だ。
母親との約束を破るなんて駄目だ。
頭を振る。空腹を告げる腹を何度も殴る。
それでも、子供達が屋台の食べ物を美味しそうに口へ運んだ瞬間、つい我を忘れて話しかけてしまった。
途端、世界が反転した。
人々の目の色が一変する。
楽しげな宴は弱者を痛め付ける喜劇に早変わりした。
多くの石を投げられた。無垢な子供達から棒で叩かれた。老若男女から見下され、嘲笑された。
事態に気付いた母親が助けてくれたものの、二人とも無事と呼べない傷を負った。
河松は額から血を流して、全身に残った殴打の痕は赤黒く腫れ上がった。
息子を庇った母親は左脚を斬られてしまったらしく、太腿の辺りから溢れた夥しい流血によって足下の雪を紅く染め上げていた。
雪に足を取られて膝をつく母親。
一人で逃げなさいと優しく促された河松は、自責の念と己の不甲斐なさから大声で泣き喚いた。
そんな時、低く艶のある声が耳朶を打つ。意識を上に向けた。目が合う。視線が交錯する。中性的な容貌の『何か』が銀世界の中心に堂々と君臨していた。
琥珀色の瞳に怪訝そうな色を浮かべる。
誰だろうと思う前に、母親が犬神様と呟いた。
「どうか、息子だけでもお助けください」
脚の傷を省みる事なく懇願する母親。
河松が呆気に取られている最中、犬神は重苦しく口を開いた。
「何があった?」
母親は事実だけを淡々と口述していく。
私情が入らないように。
誰も悪くないのだと言い聞かせるように。
差別されるのは仕方ないことだと。
そういう世界だから。覆せない現実だから。我慢するしか方法はないのだと観念するように。
「その見た目。河童で相違ないか?」
「いえ。私たちは魚人です」
「魚人か。妖怪に変わりあるまい」
項垂れる母親に、犬神は新たな問いを投げた。
「河童は泳ぎが得意と聞く。大滝こそ越えれば故郷に帰れるではないか」
「息子はご覧の通り幼児で、故郷まで遠泳できませんから。私も脚を怪我してしまい、以前のように遊泳できるとは」
「諦めたか」
「はい。諦めました」
「迫害されることもか」
「魚人ならば致し方ないことかと」
犬神と母親の会話に参加できないまま、河松は白雪の舞う中で気落ちしていた。
積もった雪を抱く手のひらを見つめる。
人間と異なる形。差別される醜い象徴。
どう足掻いても突き付けられる不変の事実。
幸せになれない。
母親を笑顔にしてあげられない。
未来は絶望に覆われていた。
世界は今にも崩れ落ちそうだった。
「私は化け犬。大妖怪だ」
母親を担いだ犬神は歩き出す。
大妖怪は何かに怒っていた。
差別を許容する世界に対してか。
それとも迫害を享受する人間に対してか。
雪面に轍を刻みながら、犬神は河松を睨んだ。
「小妖怪の河童だろうが、胸を張って生きてみせろ」
河松と母親は傷の手当てを施された上、犬神の暮らす屋敷の離れ古屋を与えられた。余っているからと布団を譲り受け、傷を早く治せと魚や肉を頂戴した。
まさしく至れり尽くせり。
母親は幾度となく厚遇を断ろうとして、その度に犬神から無視された。
曰く気紛れだと。気にするなと。
犬神は数日に一度だけ顔を見せる。
怪我は治ったのか。
息子は遠泳できるようになったのか。
故郷とやらにいつ帰れそうなのかと尋ねては、興味無さげに自らの屋敷へ戻っていく。
「河松、よく聞いて」
犬神に拾われてから、母親は随分と笑うようになった。コロコロと喜びの表情を浮かべた。
それが何よりも嬉しかった。
母親の笑顔を見るだけで子供は幸せだった。
名前を呼ばれて、河松は病床の母親に近付く。頭を優しく撫でられた。
どうしてだろう。
急に悲しくなった。
「貴方は河童よ。魚人じゃない」
数秒、呆然とした。
母親は表情を緩めている。
どう答えればいいのか。
日焼けした畳を見つめる。
河松は混乱したまま小さな声で聞き返した。
「おれは、河童なのかな?」
「そうよ。貴方は河童。犬神様の仰る通り、貴方はこれから河童として胸を張って生きていきなさい」
「母さんは?」
「河松は、お母さんを河童だと思う?」
質問を質問で返された河松は、改めて視線を前に向けた。
寝たきりの母親は聖母のように微笑んでいる。目尻を下げて、優しい瞳で河松を見つめている。
哀しそうな笑みだと思った。
どうしてなのかわからないけど、母親は悲しんでいるのだと感じた。
「わからない」
だから、河松は答えを濁した。
「優しい子ね。ありがとう、河松」
感謝の言葉に胸が締め付けられた。
わかっていた。
母親の望んでいた答えは。
でも、言葉にしたくなかった。
不出来な息子だと思われただろうか。
不甲斐ない男だと失望されただろうか。
河松は外に飛び出した。
沈黙に耐えられなかった。
犬神とすれ違っても挨拶せずに走り続けた。
母親が死んだのはそれから一週間後だった。
朝起きたら息をしていなかった。
嘘だ。そんな筈ない。
心臓に手を当てる。動いていない。
嫌だ。そんなのは嫌なんだ。
肩を揺さぶった。
何度も揺さぶった。
起きてと叫ぶ。生き返ってと懇願する。
その行為は犬神に止められた。
「死者を無理に起こすな。祟られるぞ」
母親の死骸に縋り付いた。
涙が溢れる。嗚咽が止まらない。
悲しくて。悔しくて。何よりも苦しかった。
刻々と冷たくなっていく母親。全身の肌から血の気が失われていく様子を見て、河松は家族の死を少しだけ受け入れた。
「ーーーー」
「ーーーー」
しんしんと降り注ぐ白雪。
静寂に包まれた世界で、河松は死者を弔った。
犬神が作ってくれた『常世の墓』に手を合わせる。どうか見守ってほしい。どうか安心してほしいと。
差別に負けない。迫害に屈しない。
河童として胸を張って生きていくから。
決意を新たにする河松の隣で、犬神は静かに墓標を眺めていた。
その横顔は誰よりも美しく荘厳で、どこか寂しそうだった。
「一年間、世話になった」
屋敷に戻るや否や、河松は退去する意を伝えた。
犬神の庇護下にいても、亡き母親との約束は守れない。
上座に腰掛ける犬神へ深々と頭を下げた。
屋敷の主人は腕を組み、河松の真意を見定めるように目を細めた。
「何処に行く?」
「当てはない。流離う予定なんだ」
一人で。
胸を張って。
「そうか。好きにしろ」
犬神は何一つ追及せずに承認した。
事前の予想よりも遥かに呆気なかった。
そう簡単に認められないと懸念していたのに。
化け犬の大妖怪からしてみれば、河松など路傍の石ころに過ぎないということなのか。
それとも興味が有ったのは亡き母親に対してだけだったのか。
「二度と会うまい。故に、これをやろう」
投げ渡された刀を慌てて抱える。
鞘から刀身を覗いた。名刀だと察する。
並大抵のお金では買えない。高価な代物だ。
貰えないと駄々を捏ねるよりも早く、犬神に首根っこを掴まれた。
問答無用で屋敷の外へ投擲され、白銀の地面に頭から突っ込んだ。
「達者でな。河童として強く生きろ」
普段と変わらない冷たい声音に背中を押された。
刀を腰に携えて一歩進む。
母親と交わした約束を胸に一歩進む。
不器用な優しさで見守ってくれる犬神の視線に押されるように一歩進む。
差別と迫害を乗り越える為に。
いつの日か、大妖怪が見せてくれたように、白い轍を地面に刻みながら鈴後を後にした。
それから二年ほどワノ国を巡った。
白舞、兎丼、希美の順番に放浪して、最後に西端に位置する九里を訪れた。
其処で出会った。
自由奔放な侍。
誰よりも自由を愛する光月おでん。
己で選んだ生涯の主君の為に身なりを整え、礼儀を学び、学問を身に付けた。
志を同じくする人間たちと切磋琢磨していった。
食事を共にして、将来の展望を語り合う。そこに差別感情など無かった。迫害される心配など、とうの昔に消え去っていた。
「河松、これ見ろ!」
傳ジローから渡された紙を読む。
花の都の刀鍛冶に依頼して一週間。
犬神から貰った刀の正体が遂に判明した。
「刀神リューマの刀だぞ、これ!」
良業物『歌仙』。
大業物である黒刀『秋水』に及ばないものの、リューマが愛用していたとされる大刀の一振り。どうやって盗んだんだと一騒動起きたが、犬神から貰い受けた刀だと正直に告白した。
中々信じてもらえなかったが、面倒だから本人に会いに行くぞという光月おでんの意向に従い、約五年ぶりに鈴後の地に足を踏み入れた。
「久しいな」
犬神は覚えてくれていた。
何一つ変化していない容貌。
八百歳を優に超える犬神にとって、五年の歳月など気に留める必要など無いのだろう。
まるでこの屋敷と犬神だけが、時間の流れから締め出されているような錯覚を受けた。
「お久しゅう御座ります。河松に御座ります」
「覚えている」
「名前を覚えて下さっていたとは恐悦至極。母の墓は今も在りましょうや?」
「ああ」
短い返答も変わらずか。
懐かしい気持ちは置いておこう。
思考を切り替える。改めて姿勢を正した。
河松は五年前に頂戴した刀を腰から抜き、宝物のように深緑の畳へ置いた。
「犬神様、この刀を覚えておりまするか?」
「無論」
「某には身に余る刀です。犬神様へお返ししたいと思います」
犬神は歌仙へ目を遣り、嘆息した。
「阿呆が。その刀はくれてやった。何があろうと貴様のものだ。遠慮せず貰っておけ」
「なれど」
「貴様が死んだ後に墓標にでもするのだな。その刀も浮かばれよう」
河松の目から滂沱の涙が溢れた。
歌仙を手に取り、ゆっくりと腰に納めた。
大妖怪へ頭を下げる。畳に額が付きそうになるほどお辞儀しても、犬神から施された厚意に足りていないと思った。
『犬神様は寂しがり屋なのよ、河松』
生前、母親はそう言った。
河松は頭上に疑問符を浮かべた。
一匹狼が服を着て歩いているような物だと考えていたからだ。
『私たちを河童だと言い切るのも。こうして面倒を見てくれるのも。きっと、妖怪の仲間が欲しいからなんじゃないかしら』
その夜、河松たちは屋敷に泊まった。
泥酔したおでんは裸踊りを始め、傳ジローと錦えもんは酒で顔を赤くして、菊の丞とイゾウは犬神へ絡む。河松は雷ぞうやカン十郎、イヌアラシやネコマムシと共にそんな光景を見て、笑顔で夕飯を口に運んだ。
楽しくて。面白くて。何よりも幸せだった。
気難しそうに眉をひそめる白ひげ。
場所は九里ヶ浜。時刻は夕暮れ、酉の刻。
大海賊『エドワード・ニューゲート』は右手に薙刀を持ちながら仁王立ちしていた。
まるで鬼。恐ろしくも頼もしい船長の姿。夕陽に照らされた巨躯は覇気に満ち溢れている。既に臨戦態勢。ここまで集中している白ひげを見るのはゴール・D・ロジャーと一戦交える時以来ではないだろうか。
「いつまで其処にいるつもりだ、マルコ」
野太い声が海岸に木霊する。
敵にとっては悪魔の叫び。
味方にとっては天使の調べ。
厳しくも優しい船長の問いに、マルコは岩に腰掛けながら答えた。
「化け犬が来るまで。構わねェだろ?」
「好きにしやがれ。今頃ホワイティベイが探しているだろうがな」
「見習いだからって何でも禁止にするから苦手だよい、あいつ」
「アイツなりの優しさだ。文句言うんじゃねェ」
他の船員は伊達港にいる。
何が有っても九里ヶ浜に来るな。
その船長命令を受けて、歴戦の海賊たちは奥歯を噛み締めていた。
勿論、彼らもこの決闘を仕掛けたのが白ひげだと理解している。
化け犬は売られた喧嘩を買っただけだ。何も悪くない。
白ひげが全面的に悪いのだと。
それでも親父の決闘を見守ることさえできないなんて。歯痒さを堪えながら船長の帰還を待っていた。
マルコ以外は。
「なぁ、親父」
マルコは逞しい背中に声を掛ける。
「何だ?」
ぶっきらぼうな返事。
会話を続けてもいい証だった。
「どうして化け犬を挑発なんかしたんだよい?」
「何度も言わせるな」
「ロックスって奴が関係してるのか?」
誰が尋ねても、白ひげは挑発した理由を教えてくれなかった。
気の迷いだと笑う者がいた。
生理的嫌悪だと身震いする者がいた。
腕試しだろうと満足気に頷く者がいた。
マルコはいずれも違うだろうと推察した。
気の迷いや生理的嫌悪で堅気に手を出すような人ではない。
ならば、ロックスという男に関係しているとしか思えなかった。
「ーー他に誰か聞いてたか?」
「おれ以外に聞こえた奴はいなかったと思う」
「なら良い。マルコ、その件は誰にも言うんじゃねェぞ」
指向性を持った白ひげの覇気に身震いする。
一瞬だけ息が詰まった。
殺されると本能が警告した。
マルコは呼吸を整える。大丈夫だと胸を強く押さえた。ロジャー海賊団や金獅子海賊団と殺し合いする時だって、いつもこんな感じだろうと蛮勇を働かせる。
「なら教えてくれよい」
意を決して口にした。
船長命令を無視して九里ヶ浜に現れ、ひた隠しにする秘密を日の下に晒そうという行為。普通の海賊団なら叱責で許されない蛮行だったが、白ひげは視線を前方に戻して、ぽつりと呟いた。
「約束だ」
一拍。
「昔、ロックス船長と約束したんだ」
夕焼けのせいか、白ひげの表情は視認できない。
歪めていたのか。笑っていたのか。
悔しそうだったのか。嬉しそうだったのか。
哀愁漂う背中にこれ以上声を掛けられなかった。
「奴が来たぞ、伊達港に戻れ」
夕陽が沈み、夜の帳が下りた瞬間。
昨日と同じ出立ちで化け犬が颯爽と現れた。
右肩から靡かせている巨大な犬の毛皮。白を基調とした着物。今から戦闘に赴くと考えられない軽装だった。
犬神は眉間に皺を寄せる。
刀を抜き放ち、絶対零度の如き視線をマルコへ向けた。
視線が交錯した瞬間、心臓を握り潰されたような錯覚に陥った。
「白ひげといったな。その小僧へ刃を向けてもいいのか?」
「コイツは関係ねェよ。気にするな。直ぐに伊達港へ戻らせる」
「好きにしろ」
全身を駆け巡った悪寒に従い、マルコは不死鳥の能力で九里ヶ浜から飛び去った。
束の間の邂逅。
思い出しただけで呼吸が荒くなる。
急げ。急げ。急げ。
懸命に翼を羽ばたかせる。
一刻も早くこの場から離れなくては。
食い殺される。あの化け物に食い殺される。
それはこの世で最も恐ろしい事だと、マルコは確信した。