海岸線の向こう側に夕陽が沈む。
刻々と暗くなっていく九里全土を分厚い雨雲が覆った。不吉の象徴か。それとも九里ヶ浜にて対峙する人間と妖怪の未来を暗示しているのか。
白ひげは得物を握り締める。
最上大業物『むら雲切』を油断なく構えた。
眼前に佇むは異形の存在。
本名を誰も知らない。
決して人間に名乗ろうとしない。
ロックス・D・ジーベックは言っていた。
アイツは可哀想な奴なんだと。
「人間如きが私を推し量ろうとは」
鋭くなる化け犬の目付き。
右手に持つ妖刀が異様に煌めく。
苦虫を噛み潰したような声音で吐き捨てた。
「笑わせるな」
途端、全方位に放たれる覇王色の覇気。
白ひげは当然だなと納得する。
むしろ素質を持っていないとおかしいのだ。
ロックスから魑魅魍魎の王だと教えられた。世界中の動物たちの頂点に君臨する怪物だと。
「グララララ! 威勢の良い野郎だ!」
白ひげも全身に力を込める。
久方振りに覇王色の覇気を解き放つ。
両者の繰り出す覇王の威圧は互角だった。
爆音の如き衝突音。雷鳴のような音を響かせながら二人の覇気は拮抗する。その余波だけで周囲の動物たちがバタバタと倒れ始めた。
白ひげは舌打ちする。
互角ではないと己の未熟さを痛感した。
化け犬の覇気は指向性を有していない。無闇矢鱈に全方位へ放出しているだけだ。
にも拘らず、白ひげの放つ覇気と拮抗するとはーー。
「ッ!」
化け犬が忽然と姿を消した。
既に見聞色の覇気は発動している。少数の強者しか到達していない未来視で、妖怪の尋常ならざる速度を無力化する。
右上。振り下ろされる妖刀。
黒く染まっていない。舐めているのか。
薙刀で防ぎ、反撃とばかりに刺突を繰り出す。
化け犬は弾かれた刀を地面に突き刺した。柄を軸として身体を半回転させる。薙刀を躱すだけに留まらず、即座に地面から抜いた妖刀で横薙ぎの一撃を放った。
武装硬化されていない刃。
名の有る妖刀だとしても届かない。
特に白ひげが相手ならば尚のことだ。
武装色の覇気を脇腹へ集中させて、薙刀も用いずに二代鬼徹を防御する。
直撃した。斬撃は届いた。それでも斬れない。
眉を顰める化け犬。
刀の間合いから離れようと後退する。
仕切り直しか。もしくは思考する時間を欲したか。
甘い。逃がさない。
白ひげは薙刀を大上段から振り下ろした。
長大な得物を持つ有利性をここぞとばかりに発揮する。
化け犬は涼しい顔で刀を頭上に翳した。
「ほう。人間にしては大した膂力だ」
容易に受け止められた。
足元はひび割れて陥没している。
二代鬼徹は軋み、悲鳴をあげている。
だが、当事者だけは泰然とした姿だった。
化け犬の大妖怪は片手一本で薙刀を押し返し、距離を取った。二代鬼徹を眺め、不満気に舌打ちする。
「所詮は鬼の牙か」
遠目から見ても刃毀れしている。
折れなかっただけでも大した物だと感心した。
大業物だと聞いていたが、その評価も至極真っ当だと思う。
「グララララ! その刀を褒めてやれよ。武装硬化した俺の薙刀を正面から受け切ったんだ。不満を口にしたらバチが当たるぜ」
「ーー武装硬化?」
「覇気の一種だ。この国じゃ流桜だったか」
「ふむ。貴様ほど洗練された使い手はいない」
「てめェは使わねェのか?」
「必要ない」
「もしかして使えねェのか?」
「驕るな、人間風情が」
化け犬は二代鬼徹を鞘に戻した。
本命の柄に手を掛ける。
琥珀色の目が鈍く輝いた。
「貴様らを相手取るのに、そんなもの必要ない」
抜く動作。
空気に触れる刀身。
目を奪われる圧倒的な存在感。
名刀ではない。
鬼徹すら超越する妖刀だ。
世界中の剣士が欲する力の源でもある。
だが、白ひげは何処か物足りなさを感じた。
アレが爆砕牙だと、世界政府から『禁忌の牙』と称される一振りだと理解しているのに、身を縮こませるような危機感を覚えない。
「それが爆砕牙か?」
だから尋ねた。
不必要な問いだった。
答えなどわかりきっているのに。
「そんなものが、爆砕牙か?」
返答はなかった。
化け犬は砂浜を蹴った。
速い。先程よりも更に速い。
超低空から白ひげの懐に飛び込んでくる。
右手に爆砕牙を携え、視線に殺意を覗かせて。
当然のように迎え撃つ。
薙刀を手足のように操る。
想像よりも弱々しい禁忌の牙に落胆したが、白ひげは毛ほども油断していなかった。
二代鬼徹と違い、爆砕牙は武装硬化を貫くと確信したからだ。斬撃の勢いを軽減できたとしても完全に防げないだろうと予想した。
その推測は正しかった。
怒涛の剣舞。
絶え間なく襲い掛かる犬の牙。
薙刀にとって、超至近距離は不利な間合いだ。如何に白ひげといえども、矢継ぎ早に放たれる剣閃を全て弾き返すなど不可能だった。
数分間に渡って繰り広げられる剣戟は、化け犬が再び間合いを取った事で終わりを告げた。
「どうした、疲れたか?」
身体から血を流す白ひげ。
数にして二十八の裂傷から流血している。
致命傷は見当たらない。
明日にでも治っている程度の浅い傷のみ。
だが、化け犬は無傷だ。白を基調とした着物には汚れ一つ見当たらない。
「戯け」
端正な顔立ちを歪め、続ける。
「貴様、能力者だろう?」
「グララララ! よく気付いたな!」
「心の臓から嫌な臭いを感じた。能力者特有の臭いだ。特に貴様はソレが濃い。強い能力を持っている筈だ」
悪魔の実。
海の悪魔の化身とも呼ばれる不思議な果実。
色や形は多種多様。まさしく千差万別。悪魔の実図鑑さえ出回っている程である。
一口でも齧ってしまえば、その実に宿っている特殊な能力を手に入れることができる。
白ひげも若い頃、グラグラの実を食べた。
超人系最強と称される強大すぎる能力を宿した。
「驚いたな。臭いでわかるのか」
「何故使わない?」
「使わないんじゃねェ。使えねェんだ」
「制御できぬのか」
「似たようなもんだ。この能力を行使したらこの国は壊滅する。少なくとも、近くの人里は確実に海へ沈むだろうよ」
「人間らしい甘さだ」
ミシミシと木霊する。
音源は爆砕牙の柄だった。
「手加減したのか、この私を前にして」
化け犬は不愉快そうに目を見開いた。
双眸が赤く染まっていく。
口から溢れ出した獰猛な唸り声が砂浜に轟いた。
手心を加えた。
確かにその通りだ。
どのような理由が有ろうと、グラグラの実を使わずに戦闘したのだから。
手加減したと糾弾されれば否定できない。
だが、白ひげにも言い分があった。
「てめェも手加減してるだろうが」
憤怒する化け犬へ薙刀を突き付ける。
「ーーーー」
「俺が気付かねェと思ったか?」
化け犬は口を噤んだ。
何かを言い掛けて、言葉を飲み込んだ。
紅く充血した瞳は元の色へと回帰していく。
軋んでいた爆砕牙の柄は平穏を取り戻した。
化け犬の視線は己の得物に向いていた。不思議そうに、不満そうに、出来の悪い子供が両親へどうしてと疑問を投げ掛けるような姿だった。
「爆砕牙は、応えてくれぬ」
大妖怪はポツリと呟いた。
「本来の能力を使わせてくれぬ。何故かは知らぬがな。故に貴様の口にした手加減とは、私の意に沿うものではない」
この妖怪は何を言っているのだろうか。
白ひげは頭を抱えたくなった。想定と全く異なる返答に混乱してしまった。
白ひげが口にした手加減とは、爆砕牙の件と無関係だからだ。
ならば無意識なのかと憶測する。
ロックスから聞いた化け犬の実力は、こんな物ではない。武装色や見聞色の覇気を自由に扱えず、悪魔の実の能力を使用していない白ひげ単体でも相手取れる程度なら、世界政府から『天災』と恐れられていない筈だ。
枷でも嵌められているのか。
ワノ国の王族と契約でも交わしたのか。
それとも過去に何かが遭ったのだろうか。
「化け犬、てめェはーー」
「白ひげ、久し振りだなぁっ!!」
聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。
まさかなと頬を痙攣させながら振り返る。
砂浜を元気よく走る男は、子供のように無邪気に手を振っていた。
紅い帽子。特徴的な口髭。全身から醸し出される覇気。間違いない。久しく遭遇していなかったゴール・D・ロジャーだった。
何故ここに。
まさか追ってきたのか。
なら伊達港に残している家族はどうなってしまったのか。
最悪の光景を思い浮かべてしまう。
海岸を走り終えたロジャーは、気持ち良さそうに笑った。
「何年ぶりだ、白ひげ。元気そうで安心したぞ」
旧友と接するように肩を叩く好敵手。
白ひげは厳戒態勢を解かず、その手を弾いた。
「ロジャー。お前、どうして此処にいやがる?」
「どうしてって、そりゃあ滝を越えてきたからに決まってるだろ。安心しろって。お前の家族には手を出してねェ。今ごろ俺の仲間たちと宴会でもしてるんじゃねェのか」
ロジャーは口を大きく開けて笑う。
他人を不愉快にさせる笑いではなく、どこか安心させる気持ちのいい快活とした笑い声だった。
「それで、お前は誰だ?」
ロジャーの視線が化け犬へ向いた。
思わぬ乱入者に気勢を削がれたのか、化け犬は躊躇うことなく爆砕牙を鞘に戻した。鼻を鳴らして、返事もせずに踵を返す。
ロジャーは嬉しそうに後を追いかけて、その肩に手を置いた。
「オイオイオイッ! 白ひげの奴と互角に渡り合うなんて大した奴じゃねェか。お前、俺の仲間にならねェか!?」
「その手を離せ。さもなくば斬る」
「なら名前だけでも教えてくれって」
「貴様に名乗る名前などない」
「名前ぐらいあるだろ、誰にも」
「ーー私は化け犬の大妖怪だ。人間と同じ目線で語るな」
「おおっ! お前が化け犬、ロックスの奴が言っていた犬の妖怪か。ワノ国に来た瞬間に出会えるなんて運が良いぞ!」
「貴様もロックスか。五月蝿い連中だな」
霧雨の降る中、一人と一匹の口論は続いた。
厳密に表現するならば、珍しい物を大変好むロジャーがひたすらに絡んで、化け犬が煩わしげに振り解こうとしているだけなのだが。
決闘も此処までか。
白ひげも薙刀を持つ手から力を緩めた。
雨粒に打たれながら二人の下へ歩み寄る。
「ロジャー、その辺にしとけ」
「わかった! 仲間にするのは諦める! その代わりに戦おうぜ。それで手打ちだ!」
「話にならん」
「えぇーッ!!」
駄々を捏ねる姿はまさしく子供だった。
放っておけば砂浜に寝転がるだろうロジャーの首根っこを掴み、無理矢理にでも化け犬から引き剥がす。
「何だよ、白ひげ!」
「この空模様だ。決闘なら別の機会にでも取っとけ、アホンダラ」
口を尖らせるロジャーは、ふと目を見開いた。
「それもそうか」
うんうんと一人で納得する。
「考えてみれば、白ひげの直後ってのはしんどいもんなァ。悪かった、化け犬。戦うなら万全の状態で戦いてェよな!」
「私は戦うと一言も口にしておらぬ」
「細かいことは抜きだ。白ひげもいるんだから一緒に酒でも飲もうぜ!」
「下らん」
ロジャーの提案を一刀両断して、化け犬は空中に浮いた。
政府の役人が好んで使用する六式と異なり、まるで金獅子のシキのように手足を動かさずとも空を移動している。
ロックスが言っていたのはこの事かとまた一つ腑に落ちた白ひげと違い、宴会の誘いを断られたロジャーは化け犬の背中に声を掛けた。
「もしかして酒が飲めねェのか?」
それは純粋な疑問だった。
ロジャーに悪気など微塵も存在しない。
「それなら帰るのも仕方ねェ。だが、ただ弱いだけなら安心しろ。その辺は手加減してやるから」
トドメの口撃だったらしく、化け犬の動きが完全に停止した。ゆっくりと身体の向きを変えて、十メートルの高みから口を開く。
「気が変わった。貴様の戯言に付き合ってやる」
「おお! 話がわかるじゃねェか!」
「幾らでも酒を持ってこい。全て飲み干してやろう」
白ひげは思った。
この妖怪、挑発に弱すぎないかと。
光月おでんの出奔から約一年。
大名を失った九里は表向き平穏だった。
最初から実務作業は傳ジローや錦えもんが担当していたからだ。象徴を喪失した最初の混乱こそ凄まじかったものの、一度落ち着いてしまえば例年と変わりなく九里は発展を遂げていた。
だからこそ、イゾウと菊の丞は半年間も九里を留守に出来た。犬神の屋敷に赴き、鍛錬を積むことが可能だった。
九里へ帰る途中、弟である菊の丞が呟いた。
「犬神様は、最後まで名前を教えてくれませんでしたね」
気落ちした声音だった。
俯いたまま発せられた言の葉には、悲嘆だけが内包されていた。
隣を歩くイゾウも首肯する。
以前よりも強くなった。おでんの家臣でも最強を誇るアシュラ童子にさえ、引けを取らないと自負するまでに流桜を鍛え上げた。
だが、目的の一つを叶えられなかった。
「犬神様の本名はおでん様も知らないと仰られていた。恐らくは光月スキヤキ様もご存知ないのだろう」
「誰も知らないということですか」
「そうなるな」
半年間も犬神の屋敷に居座った理由。
その一つに、孤高の存在である犬神と仲良くなりたいという想いも含まれていた。最終目標として本名を聞き出せればいいなと考えていた。
幼少期に与えられた食事。
数分にも満たない邂逅は、折れかけていた兄弟の心を強固に繋ぎ止めた。煌々と奮い立たせた。
自分たちはまだ生きていいのだと。この世に存在していいのだと思えた。
光月おでんに救われた後も、犬神に対する敬愛を持ち続けた。兄弟にとって光月おでんは主君であり、信奉する対象は犬神だった。
「どうしたら、犬神様と仲良くなれるのでしょうか」
「あの御方は人間に対して壁を作っている。どんなに交流を持とうと、内側に踏み込ませないように建てた絶対の壁が」
「私たちが短命だから」
菊の丞が悔しそうに奥歯を噛み締める。
寿命とは、人間と犬神を分断する絶対の真理。
長生きしても百年足らずで生命活動を終える人間と比べて、犬神は数百年も変わらぬ姿を保持しているらしい。
想像を絶する長命な彼からしてみれば、己と比較すらできない短命な存在を一々気に掛けるなど無駄に違いない。
菊の丞はそう推測している。
だが、イゾウは違うのではないかと考える。
「それだけでは無さそうだがな」
本当にそれだけか。
犬神の作る壁は寿命だけの問題なのか。
イゾウは聞いた。
一ヶ月前、柱に背中を預けて昼寝する犬神の口から漏れ出た名前を。口許に優しげな笑みを浮かべて、慈愛に満ちた声音で呼んだ名前を。
『りん』
犬神は、確かにそう言った。
今のところは、
白ひげ(能力全開)>殺生丸(爆砕牙)≧白ひげ(能力未使用)>殺生丸(二代鬼徹)
原作との変更点。
おでん→白ひげの船ではなく、最初からロジャーの船へ。
イゾウ→白ひげの船に乗らずにワノ国に残る。
猫と犬→おでんと同じく最初からロジャーの船へ密航者として乗船。
鈴後→名前の由来。