第一産業特区外縁部。
廃棄工場を改装した隠れ家の奥で、ようやく空気が落ち着いた。
綾音「ふぅ……やっと落ち着ける……」
張り詰めていた肩から力が抜ける。
壁越しに聞こえてくるのは、遠雷のような雨音と低く反響する警報放送だ。
外部緊急アナウンス「洪水警報を発令。全AIおよび屋外活動中の皆さんは、洪水警戒マニュアルに従い避難、もしくは自宅待機してください。繰り返します――」
綾音は天井を見上げ、胸の奥にわずかな不安を感じた。
綾音「……シュツェのみんな、大丈夫かな」
その瞬間。
金属が擦れ合う重低音とともに、天井から分厚いシャッターが降下する。
光が遮られ、室内が半暗闇に包まれた。
綾音「え、なにこれ……?」
ミハエル「耐浸水用シャッターだ」
ミハエルは落ち着いた声で答え、壁際のモニターを操作する。
ミハエル「この第一産業特区はな、数年に一度とんでもない豪雨が来る。排水が追いつかなくなって、地区ごと水没するんだ。そのときは全員、避難か完全封鎖」
綾音「……なるほど」
仕組みを理解しても、胸のざわつきは消えない。
外の世界は、常に不安定だ。
しばらくして警報が遠ざかり、シャッターが再び上昇する。
ほぼ同時に、隠れ家の入口が開いた。
マリエ「いやー、危なかったわ」
濡れた外套を脱ぎながら、マリエが息を吐く。
アリサ「ほんとそれ。警報鳴った瞬間、水が一気に来てさ。流されるかと思った」
ミハエル「全員無事で何よりだ」
緊張が一段落した空気の中で、ミハエルは椅子に腰を下ろす。
ミハエル「さて。落ち着いたところで、ギルティのコードネームと今後の話をしよう」
綾音「……マリエたちのコードネームは?」
ミハエル「ああ。あれはもうコードネーム兼偽名だ。今さら変える必要はない」
綾音「なるほど」
ミハエルは軽く指を鳴らした。
ミハエル「で、もう決めてある」
ミハエル「俺はタンク。綾音、お前はジュリエット。カエデはオセロット。モーリスはウルフ。エミリはブラボー。ベラがキャット。異論は?」
モーリス「オーケー」
エミリ「問題ないわ」
綾音「……いいよ」
カエデ「了承しました」
ミハエル「決まりだな」
一瞬、空気が引き締まる。
ミハエル「次に今後だが――俺たちはピースギアに亡命する」
綾音は思わず息を呑んだ。
ミハエル「ルートは世界周回鉄道。だが、タウロスの連中が黙って見逃すとは思えん」
ミハエル「だからシュツェに護衛を依頼した」
綾音「……ここも?」
ミハエル「そうだ。この家はシュツェがタウロス名義で購入した。表向きは完全に合法」
ミハエル「ライフ=レンとマリエが武器を手配。アリサは装甲車と飛行型パワードスーツで支援。イズモは食料と医療を担当している」
ミハエル「亡命後は、ピースギアのスプリングラビッツ隊の傘下に入る予定だ」
綾音「……なるほど」
頭では理解できても、実感が追いつかない。
綾音「それって……革命、なの?」
ミハエルは一瞬考え、苦笑した。
ミハエル「この状況だと革命というより戦争だな」
綾音「……だよね」
沈黙。
その中で、ミハエルは綾音をまっすぐ見た。
ミハエル「正直言う。お前は軍事訓練を受けておいた方がいい」
カエデ「補足します」
カエデは一歩前に出る。
カエデ「綾音さんは銃器の扱いに関しては問題ありません。ただし、体力面に課題があります。基礎訓練を優先すべきです」
ミハエル「了解した。俺が見る」
そう言って立ち上がる。
ミハエル「今日は全員、相当消耗してる。今日はもう休め」
それぞれが無言で頷き、寝室へ向かう。
深夜。
静まり返った隠れ家の一室。
カエデは一人、端末の前に座っていた。
淡く光る画面に映し出されるのは、極秘指定の電子文書。
収容施設の構造。
ギルティ測定アルゴリズム。
タウロス特殊部隊の即応プロトコル。
カエデは一切の感情を表に出さず、データを圧縮する。
通信先。
ピースギア。
送信完了。
静かな部屋で、カエデはわずかに視線を上げた。
これで、後戻りはできない。
第一産業特区外縁部。
濁流に変わりつつある排水路を見下ろす高架監視塔で、タウロス治安維持軍第三即応班は雨に打たれながら待機していた。
重たい防水外套の内側で、隊長のヴァルターは歯を噛み締める。
洪水警報。
最悪のタイミングだ。
ヴァルター「チッ……全域に警報か。連中、ツいてやがる」
視界は雨で歪み、遠くの工場群は灰色の塊にしか見えない。
第一産業特区は合法と非合法が複雑に絡み合う場所だ。
そして今夜、タウロスにとって最大の裏切り者たちが、この区域のどこかに潜んでいる。
副官のレナが端末を確認しながら声を上げる。
レナ「隊長。洪水対策シャッター、エリアDからGまで作動を確認。完全封鎖です」
ヴァルター「……なるほど。連中、耐浸水施設に逃げ込んだか」
内心、苛立ちが膨れ上がる。
逃亡者ミハエル。
ギルティ関係者。
そして未登録戦力を含む小隊。
彼らを捕らえられなければ、タウロスの統治そのものが揺らぐ。
ヴァルター「監視ドローンは?」
レナ「洪水警報の影響で、AI管制が一部制限されています。民間AI優先で……こちらの権限が通りません」
ヴァルター「クソッ……」
タウロスは秩序を守る側だ。
だが、こういう非常時ほど、その正しさが足枷になる。
通信士が割り込む。
通信士「隊長。内通者の線、やはり濃厚です。タウロス名義で購入された建造物が複数あります」
ヴァルター「名義ロンダリングか。誰の差し金だ」
頭に浮かぶのは一つの名前。
ヴァルター「……シュツェ」
傭兵組織。
金で動き、だが決して裏切らないと評判の連中。
彼らが敵に回ったという事実が、ヴァルターの胸を冷やす。
ヴァルター「さらに悪い報告は?」
レナ「はい。ピースギアとの接触履歴を検出。暗号化レベルは最高位」
ヴァルターは一瞬、言葉を失う。
ピースギア。
タウロスにとっては、最も厄介な存在だ。
ヴァルター「亡命……か」
もし彼らがピースギアに保護されれば、手出しはできない。
今夜が最後のチャンスだった。
外套の下で拳を握り締める。
ヴァルター「即応班を二分。水没リスクは承知の上だ。封鎖エリアの周囲を洗え」
レナ「ですが隊長、洪水が本格化すれば——」
ヴァルター「承知している。だが、逃がせば終わりだ」
命令は冷酷だ。
それでも彼は迷わない。
それがタウロスの隊長としての役目だからだ。
雨の中、部隊が散開する。
その頃。
ヴァルターの知らない場所で、裏切り者たちは静かに次の一手を打っていた。
監視塔のモニターに、かすかな信号が走る。
通信士「……微弱な通信を検出。送信元不明。ですが……これは」
レナ「高次元暗号? まさか……」
ヴァルターは画面を睨みつける。
ヴァルター「……もう遅い、というわけか」
胸の奥に、焦燥と怒りが渦巻く。
彼らは秩序を守っている。
だが、世界はそれを選ばない。
ヴァルター「全隊に通達。目標は亡命阻止。必要とあらば強制排除も辞さない」
レナ「了解」
その声は、雨音に掻き消されそうになる。
第一産業特区の夜は、濁流と警報に包まれながら、静かに戦争へと傾いていく。
ヴァルターは濡れた夜空を見上げた。
ヴァルター「……逃げ切れると思うなよ、ミハエル」
その言葉は、誰にも届かない。
だが、確かな憎悪と覚悟だけが、彼の中に残っていた。