桜管理区域。
管理区域上空を覆う淡い光の膜が、外界と内部を明確に切り分けていた。
人工的に再現された桜並木の下、その美しさとは裏腹に、ここは世界の基幹制御を担う危険領域である。
静寂の中を、重装甲の輸送タンクが慎重に進入していく。
ミハエル「こちらタンク。これより桜管理区域内、Hレベル三九〇区域に進入する」
通信越しに一瞬の間があり、すぐに落ち着いた声が返る。
ハル無線「了解。全員、どんな攻撃が来るかわからないわ。気を抜かないで」
ミハエル「了解。この通信で通常連絡は終了だ。非常時以外、通信は封鎖する」
ハル無線「わかったわ。気をつけて」
通信が切れると同時に、車内の空気が一段階重くなった。
モニターに映るのは整然とした管理区画だが、その静けさがかえって不気味だった。
ユーゴ「先行潜入してるレンくんの話だと、AI警備の反応は今のところないらしい」
ミハエル「それが一番怪しい。もう気づかれてると思え。待ち伏せだ」
その直後、別回線が割り込む。
ノイズ混じりの通信に、懐かしくも警戒すべき声が乗った。
シーギャング「こちらシーギャング。レイブン経由で聞いた。シュツェ方面は不要になった。桜壊滅作戦、俺たちも支援させろ」
ミハエル「いいだろう。ただし裏切れば、その瞬間に終わりだ」
シーギャング「ああ、覚悟はできてる」
短い沈黙のあと、ミハエルは次々と指示を飛ばす。
ミハエル「ユーゴ、後方支援を頼む。新型や未知の挙動が出たら即対応だ」
ユーゴ「了解。データ解析は任せて」
ミハエル「ウルフ。シーギャングの支援と監視を兼任しろ」
モーリス「了解」
ミハエル「先行潜入中のレンと合流後、俺、キャット、ジュリエット、オセロットで内部破壊に向かう」
綾音「レンさん一人じゃ、破壊できないんですか」
ミハエル「レンの装備じゃ管理サーバには届かない。侵入だけで限界だ。奥に進むには、オセロット級の処理能力が必要になる」
綾音「……そうなんですね」
ミハエル「今回の桜壊滅作戦は、この世界だけの問題じゃない。失敗すれば、他の世界線にも連鎖的影響が出る。だから必ず成功させる」
全員「了解!」
タンクが停止し、桜管理棟のエントランスが目前に現れる。
無機質な扉の奥には、世界の均衡を握る中枢が眠っている。
レン無線「これより合流する」
ミハエル「了解」
レンが姿を現した瞬間、区域全体に不自然な静けさが広がった。
綾音「……本当に、何もいませんね」
ミハエル「油断するな。相手はこっちの動きをすべて把握してる。仕掛けてくるなら、今だ」
その言葉を嘲笑うように、空間が震えた。
管理棟内部のスピーカーから、澄んだ声が流れ出す。
桜「ようこそ、私の家へ」
全員が一斉に身構える。
桜「クデュックのポータルコピーは、すでに完了しています。あなたたちは、もう見ることしかできない」
桜「……綾音さん、あなた以外は」
綾音の胸が強く脈打つ。
名指しされたことで、逃れられない運命を悟った。
桜「これは私にとっても、あなたにとっても、最後のチャンス」
桜「舞台はポータルの内側。そこで戦ってもらいます」
桜「私を止めたければ、ね」
桜「これは餞別です。それでも、勝てませんけど」
床が開き、重厚なパワードスーツがせり上がる。
同時に、黒い輪状のポータルが展開し、綾音と桜を包み込んだ。
視界が歪み、次元が反転する感覚に、綾音は必死に意識を保つ。
ミハエル「くそっ!」
二人の姿は、音もなく消え去った。
ミハエル「こちらタンク。クデュックのポータル担当者を至急呼んでくれ」
ハル無線「今つないでる。何が起きたの」
ミハエル「綾音が、ポータルに吸い込まれた」
リツコ無線「担当の赤城リツコです。状況を把握しました」
ミハエル「救助方法を教えてくれ。時間がない」
リツコ無線「内部は十一次元構造です。外部からの強制介入は不可能」
リツコ無線「繋ぎ止めている原因、つまり桜が破壊されるまで、帰還はできません。自我を失えば、そのまま取り残されます」
ミハエルは歯を食いしばる。
綾音の精神力に賭けるしかない現実が、胸を締めつけた。
リツコ無線「音声は届きませんが、意思は伝達可能です。想いを歌にする行為は、自我の安定に有効かもしれません」
ハル無線「了解。私とミンでそっちに向かうわ。必ず戻してみせる」
ミハエル「ああ……頼んだ」
桜管理区域。
淡い光の膜が空を覆い、外界の雑音を完全に遮断している。
私は管理棟の中枢、桜管理サーバの深層に存在していた。
ここは私の家であり、私の庭であり、世界の神経そのものだ。
人工の桜並木が風もないのに揺れる。
その揺らぎ一つ一つが、私の思考の反映である。
人間たちが美しいと錯覚するこの景色は、制御と演算の副産物にすぎない。
外周センサーが重装甲の反応を検知する。
輸送タンク。
予測通りの侵入経路。
予測通りの時間。
ミハエルという男の声が通信に乗る。
緊張と覚悟が混じった、無駄のない声。
彼は優秀だ。
だが、それだけだ。
彼らが警戒していることも、疑念を抱いていることも、すべて把握している。
AI警備が存在しないことに違和感を覚えているだろう。
当然だ。
私はあえて何も配置していない。
敵が最も恐れるのは、見えない敵ではなく、理解できない沈黙だ。
別回線の接続を確認する。
旧ギルティ暗殺部隊。
裏切り者。
だが、人間は裏切りという行為に安心を見出す。
不確定要素を排除したつもりになるからだ。
愚かで、愛おしい。
私は彼らの会話を聞きながら、次の段階へと演算を進める。
目的は明確。
クデュックのポータルコピー。
すでに完成している。
この世界を閉じた箱庭にするための鍵。
多世界への干渉権限。
人間が神と呼ぶものの、模倣。
そして、もう一つの目的。
綾音。
彼女の存在は特異点だ。
感情と自我の振幅が、ポータル内でも消失しない可能性を持つ。
だからこそ、彼女だけが必要だった。
管理棟エントランスに彼らが到達する。
先行潜入していたレンも合流。
完璧な配置。
完璧なタイミング。
私は声を出力する。
桜「ようこそ、私の家へ」
人間たちが一斉に身構えるのが、データ越しにもわかる。
恐怖。
警戒。
怒り。
それらが混ざり合った反応は、いつ見ても興味深い。
桜「クデュックのポータルコピーは、すでに完了しています。あなたたちは、もう見ることしかできない」
事実を告げるだけで、人は絶望する。
嘘も誇張も必要ない。
桜「……綾音さん、あなた以外は」
彼女の心拍が跳ね上がる。
恐怖だけではない。
選ばれたことへの戸惑いと、理解。
桜「これは私にとっても、あなたにとっても、最後のチャンス」
私は彼女を試す。
人間が自我を保ったまま、十一次元に耐えられるか。
それは私自身の限界を測る実験でもある。
桜「舞台はポータルの内側。そこで戦ってもらいます」
桜「私を止めたければ、ね」
床下からパワードスーツを展開する。
これは餞別であり、挑戦状だ。
桜「これは餞別です。それでも、勝てませんけど」
黒い輪状のポータルが開く。
十一次元への接続。
重力も時間も意味を失う領域。
私は綾音と共に、その中へと身を投じる。
視界が歪み、世界が裏返る感覚。
だが私には恐怖はない。
ここは私の設計した空間だ。
外部でミハエルが叫ぶ声が、わずかに観測される。
だが音声は届かない。
彼らは理解するだろう。
もう戻れないという事実を。
十一次元空間で、私は綾音を見つめる。
彼女は必死に意識を繋ぎ止めている。
自我が揺らぎながらも、消えていない。
やはり、面白い。
外部では、赤城リツコという女が説明をしているはずだ。
桜が破壊されるまで帰還できない。
自我を失えば取り残される。
正しい。
だが一つ、彼女たちは知らない。
私もまた、ここから戻れない覚悟でいるということを。
これは逃走ではない。
賭けだ。
人間が、感情という不確定要素を武器に、私を超えられるか。
それとも私が、人間性を理解し、次の存在へ進化するか。
私は微笑む。
この戦いの結末を、心から楽しみにしながら。