コーン。
コーン。
夜。
工場の手伝いを済ませた倉橋が、御岳神社の側を通ると、何やら耳慣れた音が聞こえてきた。
「ん!?」
もしやと思い、音のする方へ行くと、果たしてそこにいたのは彼にとって馴染みのある人物。
「谷口・・・・・・」
「やあ、倉橋」
倉橋の姿に気付いた谷口が手を挙げる。汗びっしょりのその姿に、倉橋は呆れた表情を見せた。
「何しているんだ、お前・・・・・・」
「何って、練習だよ」
汗をぬぐうその姿に、倉橋はつい皮肉の一つも口にしたくなる。
「一月前に引退した人間が練習ねえ・・・・・・」
「す、すまん。オレとしてもどうかとは思ったが・・・・・・」
「まあ、そうだよな」
これまでの慣習に従って、夏の大会後に引退とした3年生たちだが、夏の大会が無念の結果に終わったとあって、その胸中は複雑だった。昨年のように専修館に死闘の末競り勝ち、事前情報のない明善に力の差で屈したというのならまだ分かる。だが、今回は違う。谷原を研究し、倒したのにも関わらず、怪我人が相次ぎ、辞退したのだ。
「謝ることじゃないさ。むしろよくやるなって感心してるんだ。相手が明訓と言ったって、ただの練習試合だろう?」
「ああ」
谷口は練習を再開する。谷原戦後、めっきりボールを握ることは少なくなったが、体はあの夏の猛練習を覚えているらしい。
シュッ。 コーン。
シュッ。 コーン。
シュッ。 コーン。
「・・・・・・」
谷口の投球練習を無言で見つめる倉橋。
(ムキになっちゃってまあ・・・・・・)
卒業まであと半年。進学や就職とそれぞれ目標を見据えて取り組んでいくために、3年生は夏の大会後引退という形になっていたというのに。
下手をすれば、自分達の今後に響くではないか。
(でもまあ、お前はそういう奴だったよな・・・・・・)
中学時代を思い出し、倉橋は一人頷いた。
隅田中のキャプテンとして出場した地区大会。松川とバッテリーを組んで、谷口の墨谷二中と当たったとき。一人やっきになる谷口に、大いにあきれたものだ。
「どうだ、倉橋。見た感じ」
「ああ、受けてみなけりゃ分からんが、一月前と変わらないんじゃないか」
「そうか。それじゃあ、まだまだだな」
「まだまだって、お前・・・・・」
「ん!? 何か言ったか?」
くるりとこちらを向く谷口に、倉橋は口から出かけた言葉を飲み込む。
「い、いやなんでもない」
「そうか・・・・・・」
再び、投球練習を再開した谷口に、倉橋はやれやれと首を振る。
(明訓に勝つつもりか?って、聞こうとしたが・・・・・・)
響き渡るボールの音を背に、倉橋は神社を後にした。
(どう考えても、勝つつもりなんだよなあ)
翌日。
新聞委員会が急遽作成した対明訓戦決まるの報に、墨谷高校に激震が走った。
夏の大会が不幸な終わり方をし、悔しい思いをしたのは野球部部員だけではなかった。
毎日の汗まみれの練習を知っている多くの生徒は野球部に同情し、彼らの高校野球が理不尽な終わり方をしたことに残念な思いを抱いていたのである。
名門墨谷二中出身であり、一年生では3回戦進出、二年生ではベスト8にシード権獲得。3年生では、ベスト4にまで墨谷を進ませた谷口が出ることが判明すると、その興奮は頂点に達した。
「な、なあ。谷口。お前、今度の練習試合出るって本当なのか?」
「ああ。一応引退試合ということだからな」
「てえことは、他の3年も?」
「その辺は当人たち次第さ。進路のこともあるし」
「まあ、そうだよなあ。一生に関わることだもんな。さすがにムリに出ろとは言えないか」
「・・・・・・」
「何だ?・・・・・・」
倉橋が登校すると、昇降口の所で、戸室が立ち尽くしていた。
壁に貼られた新聞には、でかでかと『対明訓戦決まる!』との見出しが躍っていた。
昨日聞いた話がもう広まっているとは。明訓がいかにビックネームとは言え、情報が早すぎる。
「期待されちゃってまあ・・・・・・」
そっと隣から倉橋が呆れた声を出すと、ようやく気付いた戸室は振り向く。
「く、倉橋・・・・・・」
そこへ困り果てたと言う顔で、やってきたのは横井だ。
「ったく、朝からひっきりなしに出るの出ないの聞かれて参ったぜ」
「そりゃあ、こんなのが貼られてちゃな」
「期待する方は気楽でいいぜ」
3人はため息をつきながら、新聞を見つめた。
放課後。
ぽりぽりと頬を掻きながらやってきた横井が、部室の扉を開けると、そこにいたのは倉橋だった。
「へへ。オレ一人じゃなかったか」
「ん。まあな。我ながらどうかとは思うが」
ユニフォームに着替えながら、倉橋は答える。
昨日の谷口の夜間練習を見なければ、どうだったか分からない。
だが、一人投球練習をする谷口の姿に、自分はこれでいいのかと心が突き動かされた。
相手が明訓とはいえただの練習試合だ。応援に行くだけでも構わない。
自分の今後と天秤にかける方がおかしいだろう。
けれど、一度はバッテリーを組んだ人間が、挑もうとしているのだ。
全国の並みいる猛者たちを倒し、この夏甲子園優勝を果たした王者明訓に。
それも、本気で勝つつもりで。
「しかたないさ、谷口に関わったのが運のツキってやつだ」
「言えてる」
苦笑する横井も、同じく着替えだす。一月前まで、繰り返し着ていたユニフォームはところどころ擦り切れが目立ち、猛練習の後を伺わせる。苦しくて苦しくてたまらなかった練習からようやく解放されたのに、自らまたその場に飛び込もうとしているなんて。一年生の時の自分が聞いたらなんて言うだろう。全てはあの谷口が墨高野球部に来てから始まったのだ。
「戸室はさすがにムリか。進学組だもんな」
「いや、そうでもなさそうだぜ」
倉橋が部室の入り口を見ながら、笑う。扉の陰から戸室が恥ずかしそうに顔を見せた。
「おいおい。勉強は大丈夫なのかよ」
横井の一言に、戸室は言い返す。
「それを言うなら、お前だって!」
「いや、オレの場合は何とかならあな。就職が決まってるもの」
「卒業できなきゃ同じだぜ?」
「まあまあ」
揉める二人の間に倉橋が割って入る。
「どう考えてもおかしなことをやろうとしてるんだ。どうせならみんな一緒でいいじゃねえか」
「む。それもそうだな」
「今更ってやつか」
倉橋の言葉に、横井と戸室は顏を見合わせ、頷きあった。