翌日の放課後。
丸井が練習のために登校すると、イガラシがすぐさま近寄ってきた。
二人で並んで歩きながら、部室へと急ぐ。
「どうだったんです、キャプテン。谷口さんは」
「ああ。残念ながら、いい返事はもらえなかった」
丸井の返事にイガラシは呆れる。
「そんな!オレに任せろ、何としてもOKしてもらう!と言うから任せたのに・・・」
「谷口さん自身が乗り気じゃないみたいなんだ。中学の時もそうだったじゃないか。谷口さんは引退したら、現役と関わることを嫌うんだよ」
「それはそうですけど・・・」
墨谷二中の後輩だった丸井とイガラシにはそれが痛いほどよく分かる。中学3年の時の青葉戦。痛む指を隠し、投球を続けた谷口は指が曲がり戻らなくなった。その事実を知った時、誰もが谷口に声を掛けるのが憚られた。本当は来てほしかったし、アドバイスももらいたかったのに、それができなかった。
谷口の方でも、引退した3年生が現場に口出しするのはよくないことだと思っているらしく、同級生の松川がいくら誘っても来る様子がないとぼやいていたのを、二人はよく知っている。
「今はもう大工の仕事のために色々覚えるのに忙しいみたいだ。そんな谷口さんに無理を言う事なんてオレには・・・」
「オレたち程度じゃ、谷口さんを引っ張ることはできない、ってことなんでしょうか」
シャツを着ようとしていたイガラシの手が止まった。
顔は見えないが、悔しそうな表情をしているだろうということは長年の付き合いの丸井にはよく分かった。
イガラシは今でこそ墨谷二中を全国大会で優勝させた男であり、墨高期待のルーキーとして名を馳せているが、谷口にレギュラーに抜擢されるまでは、年功序列を第一とするチームで燻っていたのだ。己の才能を見出し、素直に使ってくれた谷口に対する感謝と、その飽くなき努力に対する尊敬の念の強さは、多くの名門高から特待生としての勧誘がありながらもそれを全て蹴り、都立の墨高に進学した事からも分かる。
「丸井さんは悔しくないんですか」
「悔しいに決まってるだろう!」
谷口を崇拝しているとまで言われる丸井は、例え谷口が野球をやっていなくてもその近くにいたいと墨高を受験した男だ。結局受験では滑り、朝日高校に入学したが、谷口が野球部に入ったと聞いて、わざわざ墨谷に編入試験までしてやってきた。同い年の加藤や島田に比べて谷口と野球をした時間が少ないのが彼の不満だった。
「だが、仕方がないじゃないか。谷口さんはこうと決めたらてこでも動かないんだよ。それこそあの人をカッカさせられるものが無ければ!!」
丸井の一言に、イガラシが大きく目を見開いた。
「それですよ、丸井さん!何もオレたちが戦うってだけじゃなくていいんだ。秋季大会まで3年生が引退しない学校だってあります。3年生を含めたチームでそこと練習試合する。それを引退試合ってのはどうですか?」
「谷原に勝ったっていうんで、秋季大会への牽制でいくつか練習試合の申し込みはあったが。佐野のいる東実とか、倉橋さんのつてで川北とかはどうだ?」
「そんな連中じゃ、谷口さんは動きませんよ。もっと強いところ、少なくとも谷原以上じゃないと!」
「谷原以上って、オメ。それは・・・」
「あるじゃないですか、ほら・・・」
イガラシは部室にあった甲子園ガイドブックを指差した。
「あのー、キャプテン。練習はどうしますか?」
入ってきたのは、墨谷二中からやってきたもう一人の後輩、久保だ。
「ああ、悪い。ちょっとオレとイガラシは忙しい。先に始めててくれ」
「は、はあ・・・」
どうしたんだと怪訝な表情をした久保だが、さすがに墨二以来の付き合いで、二人が忙しいというからには何か訳があるんだろうと察し、部室を出て行った。
「おい、イガラシ。甲子園の出場校なんて言ったら、猶更無理だろ。この時期はどこも新しいチームを作るので手いっぱいの筈だぞ」
「そんなの聞いてみないと分からないじゃないですか。とりあえず片っ端から当たってみましょう!」
そう言いながらも、千葉県代表の青田高校に×をつけたイガラシに丸井は文句をつける。
「おい。片っ端から当たるんじゃないのかよ」
「青田のエースはあの中西球道ですよ。明訓だって雑魚だの何のと言っていたのに、オレたち程度じゃ鼻もかけませんよ。電話するだけ無駄です」
幾つかの高校をリストアップすると、職員室へ行く。
「ふん。引退試合を他の高校とねえ」
「お願いです。許可してもらえませんか」
「そりゃ、許可するのは構わんが、先方がOKしてくれるかは分からんぞ」
部長である小室は、一言注意をすると職員室の電話を使ってよいと許可をすると席に座る。
「引退試合ということは谷口が出てくるという事ですか。楽しみですなあ」
「わしはそれよりも引退したんだったらもう少し成績を上げろと言いたいんですがね」
「またまた」
「どうだ?」
職員室の二つの電話を独占した丸井達は、リストの高校へと片っ端から電話した。
だが、どこからも色よい返事はもらえない。
それはそうだろう。甲子園に行くほどの名門高校なら次の大会に向けて新しいチームの土台作りに時間を割きたい筈であり、縁もゆかりもない墨高の引退試合に付き合う義理などない。
「巨人学園は?」
自分達の代わりに東東京代表として甲子園へと行った強豪校は、忍者の子孫という主将の真田一球が風変わりな人物で、丸井が一番期待していた高校だった。
「ダメです。捕手の九郎と共に山籠もりに出てるらしくて、連絡がつかないとか」
「関東近県の高校は全滅か。近藤の親父さんにお願いしてみるとして、静岡とかその辺りの高校にも声を掛けてみるか?」
「いや、まだ。一校残っていますよ」
イガラシが差し示した高校の名前を見て、丸井は呆然とした。
「お、おい。ここは・・」
神奈川県代表明訓高校。甲子園出場5回。うち優勝4回。今年の夏の大会も優勝し、春夏連覇を成し遂げた、押しも押されぬ高校野球の頂点に君臨する王者。
「ここが引き受けてくれるなら、きっと谷口さんは引退試合に出てくれますよ」
イガラシはごくりと唾を飲み込んだ。
明訓が、甲子園に出場したチームで出てきてくれるなら。
そこにはあの、高校野球史上最強の打者と言われるドカベン、山田太郎がいる。
「よ、よし!」
丸井は意を決してダイヤルを回した。