朝練後。
部室でため息をつきながら丸井は一人考えていた。
ドアを開けて入って来たイガラシはそんな彼の姿を見ると、やれやれとため息をついた。
「そんなに迷うことじゃないと思いますがね」
丸井はむすりと、イガラシを睨み返した。
悩みの種は昨日徳川から掛けられた一言が原因だ。
「どうじゃ、一つわしを臨時コーチとして雇ってみんか」
突如河川敷のグラウンドに現れ、墨谷ナインに尋常でない猛ノックを浴びせた元明訓監督徳川家康は、そう言うとにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「臨時コーチ?」
「そうじゃ。代理監督。特別コーチ。名目なんざあどうでもいい。お前さん達がやろうとしている明訓相手の
にんまりとグラウンドに倒れ伏す墨谷ナインを見回す徳川に猛ノックの疲れは微塵も見えない。
「巨人学園との練習試合を見たがよ。今のまんまの練習じゃあ、明訓に勝つには足りねえぜ。この夏を経てあいつらはそれほど強くなりやがった」
自らが鍛え上げた常勝明訓に挑むこと四度。
指導した全ての高校を徹底的に鍛え上げ、明訓と戦うレベルまで成長させてきた徳川の言葉は重く、その場での返答がためらわれた。
「まあ、すぐにという訳にはいかんじゃろう。が、試合まで日が無い。明後日の放課後答えを聞きにくるわい」
そう言って飄々と去って行った徳川とは逆に、その提案は丸井を大いに悩ませることになる。
「あれぐらいの特訓じゃなきゃ明訓には勝てないってのは納得ですよ」
事も無げにイガラシは言い放つが、昨日の猛ノックは猛練習が代名詞である筈の墨谷の面々からしても恐ろしい物だった。勇んで参加した部員が次々にグラウンドに倒れ、最後まで立っていたのは谷口に丸井にイガラシの三人という有様。あれを続けていけば確かに明訓にも勝てるだろう。
だが、簡単によし受けよう、とはならない事情が墨谷にはあった。
「おめーはそう言うがよ」
丸井は口ごもり、腕を組んだ。ケガという言葉は丸井やイガラシといった墨谷二中出身者にとってはなぜかついて回る厄介な代物だった。
青葉戦で指を骨折し、その後の野球人生を左右された谷口に始まり、丸井の代では地区大会決勝で青葉に勝利するも怪我が続出し、全国大会には進めなかった。一つ年下の後輩であるイガラシとてまた然り。自分を差し置いてレギュラーに抜擢された程の野球センスを持つ男だが、ことこうと決めた時の容赦のなさが祟り、ナインの怪我から春の選抜大会辞退という結果を招いている。
「おいそれと、さあ、やろうかとはならねえ訳よ」
今夏の東京都予選でも、ナインの負傷により結果的に試合に負けた谷原が準決勝に進むという事態を引き起こしている。
(秋季大会前に怪我人を作ってみろ。どうなることか。)
秋季大会の辞退。最悪の場合には対外試合の禁止といった措置がとられるやもしれない。
中学時代、全国大会出場辞退という不名誉な記録を作ってしまった丸井からすれば、慎重にならざるを得ないのは当然だった。
「俺としてはみすみすこのチャンスを逃す手はないと思います。そのために昨日、希望を聞いたんでしょう?」
イガラシが長机の上にある特訓参加の希望用紙を指差した。
互いに部員の負傷から出場辞退の経験がある丸井とイガラシは、事前に徳川の特訓に参加するかどうか部員の希望を聞いていた。
3年生は除外とし、1,2年はレギュラークラスと墨二の後輩である久保が希望。これでいけるだろうとふんでいたイガラシにとって、丸井が未だ思い悩んでいるのが不思議だった。
「分かってらあな、そんなこと」
「だったらすぐにでも返事をした方が・・・・・・」
「残った一年生の指導は誰がやんだよ」
「そりゃ・・・・・・」
ぽりぽりと頭を掻きながら、見つめてくる丸井に、イガラシは目を伏せた。
墨谷OBである田所が集めてきた一年生は数が少ないながらも地区のエースで、言わば墨谷の明日を担う金の卵達だ。そんな彼らを放っておいて、自分達だけ特訓に勤しむのはどうなのか。
これまで選手層の薄さに頭を悩ませることが多かっただけに、丸井はそのことが大いに気がかりだった。
「しゃあねえ。他の連中にも聞いてみっか」
昼休み、部室に集まったのは墨谷の二年生。
丸井、半田、鈴木、加藤、島田、それに松川。
「で、どうするんだよ、丸井」
口火を切ったのは墨谷二中以来の付き合いの加藤。
「明訓との練習試合が終わったらすぐ秋季大会だからよ」
特訓参加組は言わずもがな。居残り組でもしっかり練習をできるような体制をとりたい。
「正直あれ以上なんて無理だぜ」
昨日の猛特訓を思い出しながら肩を竦めて見せたのは特訓不参加を決めた鈴木。
丸井達よりも前に入部しているが、高校から本格的に野球を始めた彼にとっては今がぎりぎりのラインだった。
「おいおい」
じとっとした目で鈴木を見る島田を丸井がとりなす。
「そりゃあ、あんなノックを見せられればな」
「まあな」
加藤の呟きに部室に集まった皆が腕を組み考え込む。
三年生にとっては一生の誇りとなる試合。
二年生以下の者にとってもそれは同じだ。
が、卒業まで何もない三年とは違い、彼らには今後の高校野球生活がある。
「居残り組はおのおの自主練という形にしてみては?」
頭を悩ませる中、しばらくして口を開いたのは半田だった。
「む。それならそこまで問題にはならねえかもな」
「確かに」
加藤が同意し、島田も頷き、それでいこうとなった矢先。
「でもよ、それじゃあ特訓参加組とあまりにも差ができねえか」
鈴木が口を挟む。
「それなんだよ。そいつが問題なんだ。指導する奴がいなきゃ自主練って言ったってな」
頭を抱えながら、丸井が皆を見回す。
この場で特訓に不参加なのは鈴木だけだ。
半田は墨谷にとって貴重な分析班であり、対明訓戦の分析だけでなく、秋季大会に向けて各校のデータ収集に暇がない。
「とすると」
「お、俺?」
鈴木が素っ頓狂な声を上げる。その反応に、丸井は大きなため息をついた。
「って柄じゃねえしなあ」
「・・・・・・」
松川は黙りながら下を向いた。
「おい。」
放課後の練習終わり。倉橋はトンボをかけながら、隣の谷口に見えるようにとぼとぼと部室へと向かう丸井の姿を指差す。
「ああ」
「いいのかよ」
「俺が口を出すべきじゃない」
「そりゃそうかもしれねえがよ」
手を止め、再度ちらりと丸井の後ろ姿を見る倉橋に対し、
「丸井なら大丈夫だ」
谷口は手を止めず丁寧にマウンドをならしていった。
部室に戻った丸井は一人考えていた。
何と言っても名伯楽との誉れの高い徳川の指導が受けられるのだ。全国の高校球児が羨望の眼差しを送ることは間違いなく、チーム全体の強化としてこれ以上のものはない。
(明日になっちまったな)
レギュラーでない者たち、とくにイガラシや井口等を除いた一年生の扱いをどうするかが決まっていない。特訓を受ければ確かに彼らもレベルアップするだろうが、昨日以上の猛特訓に耐えていけるかは微妙なところだ。その意味では希望制というのは彼らにとっても救いだっただろう。
だが、残り2週間余りをどうすごすのかが問題だった。
(半田の言った自主練ってのはいいが問題は誰が指導するかなんだよな。)
地区の生え抜きである彼らを指導者無しのまま放っておくのは、余りにももったいなさすぎる。
徳川の猛ノックを受け、無理そうだと判断した鈴木を指導者として据えるのが順当だが、気分にムラがあり不安がある。OBの田所に頼るという手も考えたが、社会人の彼は忙しい。そう毎日来てもらえはしないだろう。
(中山さん達にお願いするか?)
卒業した谷口の一つ上の先輩たちは大学生だ。頼み込めば来てもらえるかもしれないが、何しろ急な話過ぎる。
どうしたものかと眉間にしわを寄せていると、部室のドアがノックされた。
誰だろうとドアを開けた丸井を待っていたのは松川だ。
「どうした。練習は終わったってえのに」
「・・・・・・」
松川の目が机の上に置かれた希望用紙に注がれるのに気づき、丸井はふうとため息をついた。
「どうにもおれっちも無い頭で考えているんだが、さっぱりでな」
こうなりゃ鈴木に頼むしかないなとくるりと踵を返した丸井の背に、松川が告げた。
「俺、特訓を辞退しようと思っている」
「え・・・・・・」
ゆっくりと振り返った丸井に対し、項垂れながら松川は続けた。
「春先からどうもな。イガラシや井口が入ってきて焦れば焦るほど調子が上がらなくてさ」
鈴木とは違い、松川は入学当初から墨谷第二の投手としてレギュラーを張ってきた男だ。
春先から調子を落とし、井口やイガラシなどの一年生の台頭もあってベンチを温めているが、その能力はかつて地区予選の準決勝で戦っただけあって丸井は高く買っている。
その彼がまさか特訓の辞退を申し出ようとは。
「だったら尚のこと参加したいんじゃねえのかよ」
「・・・・・・」
「なら、いいじゃねえか、鈴木に頼むってことで」
「いや、これは俺自身のためなんだ」
松川はぽつりと呟いた。
野球素人の部長にさえ、目が離れていると言われるほど春先の松川は調子が悪かった。
そこから持ち直しては来ているものの、期待の一年生たちとの差にどうしたものかと頭を悩ませてきたのだと言う。
「特訓に参加するとなると俺はピッチャーとサードの練習ばかりになっちまう」
それでは、井口やイガラシとポジションを競うには余りにも不利だ。
それならば、今墨谷でもっとも必要なポジションを練習すればいい。
「お、お前まさか・・・・・・」
「ちょうど倉橋さんが顔を出してくれてるんだ。色々と聞けるだろうしな」
「本当にそれでいいのかよ・・・・・」
「ああ」
力強く頷いた松川の両手を丸井は思わずがっしりと握りしめた。
「おいおい」
照れたように松川が頬を掻く。
「別にピッチャーを辞めるって訳じゃないんだがな」
おどけてみせる松川に対し、丸井は涙が止まらなかった。
きっと松川はチームのことをよくよく考えて決断したのだろう。
隅田中で倉橋とバッテリーを組み活躍していた松川なら、一年生の指導者としてはうってつけだ。
「すまん、松川。一年を頼む」
「ああ」
丸井の言葉に頷き返す松川。その目には決意の灯がともっていた。