高校野球で強いチームの条件は何だろうか。あるとき、ぼくと毎朝新聞の青木はその話題で盛り上がった。
「絶対的なエースだろ」
青木によれば、点を取られなければ負けることはない。エースは必要だということだった。いかにも中西球道びいきの彼が言いそうなことだ。ぼくの答えは、打線だった。点が入らなければ引き分けにしかならない。少なくとも勝つためには相手を上回る点数を入れる必要がある。その他、守備力、走力、監督の作戦などいろいろな項目を挙げていったぼくたちはふと疑問に思った。
「どうして墨谷は専修館に勝てたのだろう」
絶対的なエースと、爆発的な攻撃力。そして守備。その年の専修館は強いとされるチームが持つべきものをほとんど全て備えていた。ぼくの手元に並んでいたのは、その年の専修館の記録だ。五回戦まで全てコールド勝ち。四回戦ではシード校の三山に対して豪打が爆発し、何と驚異の三回コールド。誰が見ても、この年の専修館は強く、そして優勝候補の筆頭だった。
対して墨谷はどうか。二年生になった谷口がエースとなるも一年生の松川と交代での登板。打線の方も一・二回戦とコールド勝ちで来てはいるが、三回戦以降大島・聖陵のように好投手が投げると途端に湿りがちになる。
下馬評では完全に専修館の優位は動かず、墨谷びいきのぼくでさえそう思っていた。前日までは。
前日の晩、対専修館に向けての墨谷の様子を取材に行くと、待っていたのはもぬけの殻の部室だった。
「金井町のバッティングセンターに行くとか言っとったよ」
さして興味無さそうに教えてくれたのは、誰あろう墨谷高校野球部の部長だ。野球より勉学第一の彼は、明日の試合の行く末よりも、部員の成績の心配をしていた。
室内に響くのは、備え付けのクッションにボールの当たる鈍い音。
「随分と速いな」
傍らでのんびりと見学していた野次馬の一人に尋ねると、調整できる最高の速さに設定しているとのこと。
専修館の百瀬対策。大会屈指の好投手百瀬を打ち砕くための特訓だろう。だが、何も前日のこんなに遅くまでやらなくたって。
積み上げられたコインが減るのに比例し、段々とバットに掠る音が増えていった。ケージの中の部員は物言わず黙々とバットを振っている。外で見物していた者達は始めのうち、ケージ内を見ては歓声を上げていたが、しばらくすると皆同じように黙ってタイミングを計り始めた。まるで禅か何かの修業のようだ。黙々と淡々と。バットを振る音、クッションに当たる音、バットに掠る音、時折響く快音。一言でも何か聞ければと思っていたぼくはそっと帰るしかなかった。声を掛けるのも憚られるような緊張感がそこにはあった。
これは明日の試合、分からないかもしれない。その時、そう実感したのを覚えている。優勝候補筆頭。誰が考えても強いのが今年の専修館だ。負けるつもりはなくとも、そのあまりの強さに戦う前から気持ちが萎えるのは当たり前で、いい試合ができればとコメントするのが精々だろう。だが、墨谷は違った。彼らはいつも通りだった。
明けて翌日。朝早くから球場入りすると、墨谷の応援団は異様なまでの盛り上がりを見せていた。それはそうだろう。創設以来初の五回戦進出。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。淡い期待を胸に抱いても仕方のないことだろう。だが、専修館が守備練習を始めると途端にそのざわめきは嘘のように静まった。豪打でなる専修館のパワー、その素早い連携、そして絶対的エースである百瀬の速球。あらゆる要素が墨谷の不利を伝えていた。
墨谷の先発は谷口。気合が入り過ぎているのか、初回ややタマが上ずっているように見えたが、ランナーを出すも無失点に抑える。対する専修館百瀬。危なげないピッチングでランナーを一人出すも四番の谷口を打ち取り、難なく終える。スコア的にはドロー。だが、明らかに実力が違うことは両者の攻め方の違いに現れていた。圧倒的打力を誇る専修館に対し、墨谷はクリーンアップまで徹底してのミート戦法。とにかく専修館のエース百瀬のストレートを攻略しようという意図がありありと見えた。
そして二回表。専修館の打線が火を噴く。七番の宮内がヒットで出塁すると、続く八番山路はバントの構えから一転の強打。これがライトへのヒットとなり、九番の百瀬も続き、ノーアウト満塁。一番の君島がライトフライを放ち、一点。あっさりと均衡は破れた。尚もワンアウトで一三塁。打順は二番からだ。
二点はとられるだろうと思っていたぼくの目に飛び込んできたのは、サードを守る中山の見事なファインプレー。前の回で眼鏡を飛ばしておろおろしていた男と同一人物とは思えぬ動きの冴えを見せ、ライナーをキャッチしダブルプレイ。この回を最少失点で切り抜けた。
「どう見る?」
隣の席から声が掛かった。青木だ。谷口を追いかけている彼は、どの試合も欠かさずに見ているという事だった。
「厳しいだろうな。地力は完全に専修館の方が上だ」
ぼくの答えに彼は不満そうだった。そんな程度の戦力分析は誰でもできる。聞きたいのはもっと別の答えだったのだろう。
「勝てるかどうかは分からない」
「分からない? 昨日墨谷の特訓を取材したらしいじゃないか。百瀬を打ち砕けるのか、感触ぐらいつかめなかったんか?」
青木の言う事は正論だ。だが、こと墨谷という高校には当てはまらない。前日どころか試合中にもがらりと変わってしまうのが墨谷だ。事実、この前の聖陵戦では、序盤リードされながらも、終盤に大量得点を挙げ、逆転した。接戦の末競り負けた一年前の東実戦とてそうだ。型にはまった時の墨谷の見せる爆発力はとてつもない。
「だからわからない。ただ、それがあの百瀬に通用するのかどうか」
速球に加え、多彩な変化球を操る百瀬はここまで無失点。その上、専修館には彼を支える強力打線がいる。
回が進むにつれ、周囲の期待は無責任に高まっていた。昨年三回戦止まりの墨谷が優勝候補の専修館に食らいついている。毎回のようにランナーを出すものの、ファインプレーで得点を許さず、スコアボードには0が並んでいた。
だが八回表。疲れと緊張からかそれまで懸命なピッチングを続けてきた谷口の投球が突如として乱れる。死球などでノーアウト満塁とし、迎えるは四番原田。高めに浮いたタマを打たれ、あわやホームランかと言う当たり。ライトの島田がフェンス上でキャッチするファインプレーを見せ、後続のスクイズ失敗からダブルプレイでこの回を終えるもその差は二点に広がった。
「おいおい。八回まできちゃっているぞ」
青木が堪らずタバコを吸ってくると席を立った。この回までの墨谷は単発でヒットが出るものの完全に百瀬に抑えられていた。前日に猛練習した甲斐があり威力のあるストレートを捉えられるようにはなっていたが、要所要所で落差のあるカーブで仕留められ、どうしても得点ができなかった。打者の立つ位置を変えたり、狙い球を絞ったり、百瀬をどうにかこうにか打ち砕こうと様々に試みるも、それが実ることなく八回裏まで得点することができなかったのである。
意気消沈する墨谷が逆転の糸口を見つけるのは、この回の島田の打席から。それも、予想外のところからの助け舟からだった。
「試合直前に東実の大野さんから対専修館の攻略メモをもらっていたんです」
そう答えたのは選手兼マネージャーの立場でベンチ入りをしていた半田。相手チームの情報を分析し、非力を補う墨谷にとってなくてはならない人物だった。
「東実が専修館のメモを? だって君たちライバルだろう」
理解ができなかった。社会に出れば、ライバルは蹴落とすものだ。ましてや東実はその日明善に敗れたばかり。そんな中でどうしてこれから戦う墨谷に塩を送ることができるというのだろう。
「どうしてかはわかりません。ただ健闘を祈ると」
その言葉を聞いた時、高校野球の魅力の一端を感じ取った気がした。勝負の世界は過酷だ。プロになれば騙し騙される化かし合いの世界。お互いの足を引っ張り合う事もある。けれど、彼ら東実はそうではなかった。
回が進み、中々得点が取れない中、焦った彼は穴が開くほど東実メモを見つめ、それを発見した。
「打者の立ち位置が描いてあったんですが、消しゴムで消した跡があったんです。そしてホームベース寄りに修正されていたのがどうにも気になって」
藁にも縋るとはこのことだろう。何のことを示しているか分からないメモを参考にし、それを忠実に守って様子を見る。八回の裏、ツーアウトから打って出たばくち。だが、見事墨谷はそれに成功した。
落差のあるスローカーブ。百瀬にとって強力な武器はその実曲がり過ぎ、ベース寄りに立たれた相手には死球を与えかねない。必然的に右打者にはシュートを多投することになる。
島田が打ち取られるも、この事実に気づいた墨谷ベンチは活気づき、九回表の守備につく足取りは軽く見えた。
しかし、勝負の天秤は容易に墨谷に傾こうとはしない。疲労困憊の谷口を豊富な選手層を誇る専修館の代打攻勢が襲う。ワンアウト1塁から金本に死球を与えると、九番にいながら打力に定評のある百瀬を迎える。カウント一―一からの三球目。打ち取ったかと思われた打球の処理をファーストの山本が焦り、悪送球。満塁となり、予選でこれまで二本塁打の一番君島に回る最悪の展開となった。
「これは……」
言葉が続かず、青木を見た。中学以来谷口を追いかけている青木はぐっと拳を握っていた。
マウンド上の谷口は痛々しいほど淡々としていた。腐りもせずエラーをした山本を責めるでもない。満塁であることを気負うこともない。投げることに全てを集中し、自分にはこれしかないと言っているようだった。いつだか前キャプテンの田所が言っていたことを思い出す。
「あそこまでひたむきにやられると、こちらもそれに応えてやらなきゃって気になるんですよ」
その言葉通り、手痛いエラーをした山本の好守備でゲッツーに切って取った墨谷は危機を脱し、最終回に望みを繋いだ。
「野球は九回ツーアウトから」
油断するなという意味を込めて使い古されたこの言葉。しかし、墨谷の試合を知る者にとっては、これは墨谷のために考えられたものだと言えるだろう。
四回戦の聖陵戦。九回裏四点差がついた状況から一挙七点の猛攻。誰もが敗北を覚悟した状態からの逆転サヨナラ。
今日の専修館戦はどうか。スタンドが固唾を呑んで見守る中での九回裏。九番戸室はサードゴロ。一番山本はレフトのファインプレイに阻まれアウト。それぞれ粘るも、ツーアウトをとられ後がない状況に追い込まれる。ここでピンチに強い二番の太田。三球目のストレートを三塁線へ運び、出塁。ツーアウトながらクリーンアップに繋ぐ。慌てた専修館は二年生ピッチャーの加藤をリリーフに投入するも、三番倉橋にヒットを許し、谷口を迎えてコントロールが定まらず交代。絶対的立場だった専修館に綻びが見え始めた瞬間だった。再度エースの百瀬がマウンドに立つも、谷口にセンター前に運ばれ一点を返され、さらに五番山口を死球で歩かせる。
この時点で勝負は決まった。ツーアウト満塁。こうなった時の墨谷は格段に勝負強い。六番中山が何度となく緊張をほぐそうとタイムをとり、四球目。百瀬の渾身のストレートはセンターオーバーのヒットとなり、二者が返り、墨谷が逆転し、勝利を収めた。
「冗談だろ……」
青木が思わず呟いたのは仕方のないことだろう。二試合続いての九回裏ツーアウトからの驚異的な粘り。絶対的なエースがいる訳でもない。毎試合ホームランを打つような強打者がいる訳でもない。そんな墨谷がよもや優勝候補筆頭の専修館を下すなどと。
マウンド上で整列をする専修館のナインも呆然とし、事態を受け入れられていないようだった。それはそうだろう。どう見ても専修館が押していた。誰の目にもそれは明らかで、墨谷がいかに善戦するかとしか皆思っていなかった。勝利するのが当然だと思っていた彼らからすれば、突然の敗戦にさぞ気持ちの置き場が無かったに違いない。動揺するナインに声を掛けたのはキャッチャーの原田だった。この試合徹底的にマークされ、思うように打てない鬱憤もあったろう。だが、彼は勝者である墨谷にエールを送ろうと言い出し、百瀬もそれがよいと頷いた。
心地よいエールがグラウンドに響いた。手に汗握った熱戦の素晴らしい幕切れだった。墨谷ナインがそれに対し頭を下げた時、両スタンドから割れるような拍手が響いた。絶対的なエース、強力な打線、堅い守備。多くのものをもっていながら敗れた専修館は、それでも強豪校としての矜持を保って、大会を去った。
その年の秋季大会。引退し観戦に来ていた東実の大野に、素朴な疑問をぶつけた。ライバルである墨谷にどうして専修館攻略のメモを渡したのか。
「それぐらい実力に差があると思って……。後は単純に見てみたかったのかもしれないですね。専修館相手に墨谷がどこまで粘れるのかを」
ライバルすら認める最後まで諦めぬ心。それこそ墨谷の強さの元なのかもしれない。