(こいつが、あの犬飼三兄弟の末弟か)
徳川と親しげに会話を交わす知三郎の姿にイガラシは今夏の甲子園での明訓対室戸学習塾の試合を思い出す。
野球素人を寄せ集めたがり勉軍団室戸学習塾。その中心として活躍していたのが目の前にいる男だ。
(とても甲子園で明訓を苦しめた男には見えないな)
「おい、知三郎。ジャージぐらいねえのかよ」
ユニフォームを着た土門や影丸たちと違い、帽子と上着を脱いだきり、そのままの恰好で柔軟を始める知三郎に、徳川が呆れた声を上げる。
「そもそも今回の主な目的は別ですからね」
「東大見学のついでってか?」
「ええ。ついでもついで。いい迷惑ですよ」
「つれねえことを言うじゃねえか。あれほどのめり込んだ野球なのにもう興味が無いってか? フヒヒヒヒ。そう上手くいくかねえ」
愉快そうに笑うと、徳川はいつの間にかやってきていた河川敷の上の集団に声を掛けた。
「おい、お前等。そんな所でこそこそ見ているんじゃねえ。もそっとこっちに来んかい!」
「あれ!? 松川たちか」
丸井の呼び掛けに、松川が恥ずかしそうに頭をかいた。
「ああ。今日ゲストが来て特訓をするから見ておけって昨日……」
「いくら別メニューと言ったって、せっかくの機会じゃ。みすみす棒に振ることはなかろうて」
ぐいっと徳利をあおりながら言う徳川は勝負師とは異なる顔をのぞかせた。
「よし、松川。審判をせえ」
「は、はあ……」
狐につままれたように後ろに立つ後輩に、倉橋はよく見ろよと声を掛ける。
「それでは仮想明訓との戦いじゃ。準備はいいか、ひよっこども!」
徳川の号令一下、墨谷ナインに緊張が走った。
一番の岩鬼から五番の微笑まで好打者強打者が切れ目なく並び、高校野球史上最強と謳われるのが明訓の上位打線だ。その上、四番に座るのは高校通算七割五分のドカベン山田太郎。その破壊力は凄まじいの一語に尽きる。
そんな彼らを理解することこれ以上ないと言われる徳川が、対明訓のためにと自らの伝手を最大限に利用して招集したのが仮想明訓打線である。各校の強打者がこれでもかとばかりに並ぶその様は、墨谷のこれまでの相手と比べても段違いだ。
誰が先発でいくのか。緊張と高揚感を抱き、お互いに顔を見合わせる中、谷口はイガラシを指名した。
「なあに、腕試しだと思えばいいさ」
谷口は気を落ち着けさせようとイガラシにそう告げたが、丸井はその意図に勘づき、内心さすが谷口だと大いに頷いた。
墨谷二中時代に全国制覇を成し遂げたイガラシは、試合経験が豊富であり、その頭脳的なピッチングで東東京大会予選でも墨谷の危機を何度も救ってきた。一打席だけとは言え、明訓の岩鬼との対戦経験もあり、相手の力量を測るにはうってつけの人物だ。
「あの、おれは?」
イガラシとは旧知の仲である井口の不服そうな態度に丸井はぎろりと彼を睨む。
「ああ、順番にいこう。イガラシの次に投げてくれ。おれは最後でいい」
「そういうことなら」
一塁へと向かう井口に対し、丸井は眉を顰める。
(何がそういうことならだ。お前たちのために谷口さんが譲ってくれたんじゃねえか!)
相手は各校のクリーナップばかりを集めた強力打線だ。そんな彼らと腕試しをする機会など普通では到底あり得ない。きっと谷口も投げたくて投げたくてうずうずしていることだろう。
だが、明訓と戦うだけの三年生たちとは違い、後輩たちには秋季大会がある。自分のことよりも今後のことを考え、谷口は順番を譲ったに違いない。
「まずは一番土門じゃ!」
「よろしく」
徳川のコールと共に打席に入った土門は、イガラシの方を向くと、ぴたりと静かにバットを構えた。
(おいおい。一番からこれか)
巨人学園の真田一球に勝るとも劣らぬ土門の迫力に倉橋は思わずたじろいだ。
横浜学院時代にその余りの打力に恐れをなす敵チームからの敬遠封じのため考えられた一番土門だが、相手チームからすればこれまた初回からいきなり土門と勝負をすることは多大なプレッシャーとなる。
(どうします?)
(とにかく、相手の実力が分からねえ。様子見よ)
一球目。外角へストレート。
「ボール!」
「なかなかいいタマを放るな」
倉橋に向け、笑みを浮かべる土門。
(余裕がありやがんな)
悠然と打席に立つ土門の迫力に、イガラシはどう攻めたものかと思案を巡らせる。
(仮想明訓だってんだから、いっちょ岩鬼のつもりで攻めてみるか)
(おいおい。大丈夫かよ)
不安を抱きながらも、こくりと頷く倉橋。
ビシュッ!!
土門に対してイガラシの二球目はど真ん中のストレート。
岩鬼相手なら有効なタマだ。だが。
カキ――ン!!
「何っ!?」
豪打一閃。
土門のバットが振るわれるや、ボールは高々と舞い上がったかと思うと、弧を描き、川面へと吸い込まれていく。
「化け物か……」
レフトの戸室がその打力に驚き、目を丸くする。
文句なしのホームラン。ボールがまるでピンポン玉のようだ。
「岩鬼の代わりなら手を出さない方が良かったか?」
事も無げに平然と聞いてくる土門に、倉橋は動揺を隠せない。
「え、いや……」
「それと、ボールを一つすまなかったな」
申し訳なさそうに頭を下げ、ベンチに戻る土門に墨谷ナインは動揺を隠せない。
山田達より一学年上の土門は、今夏は監督として神奈川県大会に姿を見せていた。
いかにトレーニングを積もうと、現役の自分達の方に分があるとそう思っていたのに。
「参ったな。いくらなんでもあそこまで飛ばされるなんて」
やれやれとイガラシはボールの行方を見つめた。相手の力量を見極めようと投げたタマだ。ショックはない。だが、ど真ん中だからと言ってあそこまで飛ばされるほど自分の球質は軽くもない筈だ。夏の大会を経て、一段成長したと感じていただけに、上には上がいるのだと改めて思い知らされる。
そんなイガラシの神経を逆撫でするかのように、
「対して球威もないのにど真ん中を攻めるのは無謀ですよ」
そう憎まれ口を叩きながら打席に入る彼は一見すればただの優男にしか見えない。
(この野郎……)
丁寧過ぎるほど足場を慣らすその仕草の一つ一つに人を喰ったような態度が見え隠れし、イガラシはかちんとする。
だが、彼、犬飼知三郎こそが高知県代表室戸学習塾のキャプテンとして、素人ばかりの部員を率い、あの南国土佐の雄土佐丸を撃破し、甲子園優勝四度の王者明訓を苦しめた張本人なのだ。
墨高野球部でも文武両道でなるイガラシとしては、小柄な体格といい、頭脳的なピッチングといい、自分と同じ一年生という立場も手伝って大いにそのプレイには注目していた。
(まさかこいつと勝負できるなんて。徳川さんに感謝だな。だがよ……)
Yシャツ姿で袖をたくし上げて打席に入る知三郎にイガラシは顔を顰める。
(よりにもよって、その格好は何だよ)
(一応助っ人で来てんだろ、こいつ。やる気あるのかよ)
不満そうな顔をする倉橋に、知三郎は笑みを零す。
「ご不満ですか?」
「ああ。一応こちとら練習なもんでね」
「ユニフォームを着ていたら野球が上手いって訳でもないでしょう」
(この野郎!)
こちらの内心の苛立ちを見透かしたかのような知三郎の態度に眉を寄せるイガラシ。
(いかんな。大分、犬飼を意識している)
そう感じた谷口は声を掛ける。
「とにかく落ち着いて様子を見ていけ」
「はい」
(とりあえず外角で様子見よ)
倉橋のサインを確認し。一球目。
アウトコースのストレート。知三郎、手を出さずストライク。
(どういうことだ?)
(こちらを混乱させようって腹じゃないですかね)
「別に混乱させようとかっていうつもりじゃないですよ。打ち頃じゃないから打たないだけです」
不敵な笑みを浮かべながら、またもこちらの内心を見透かすような知三郎に、倉橋は眉を顰める。
(こっちの考えはお見通しってか。随分とやり辛い奴だな。こいつは山田もさぞ苦労したろうぜ)
イガラシのサインはストレート。だが、倉橋はこれに首を振る。
(明訓戦を見る限り、こいつはストレートに滅法強そうだからな)
二球目。バットを長めに持った知三郎に対しアウトコースに逃げるシュートを投げるも、ぴくりともバットを動かさない。
「ボール!!」
審判に入った松川がコールする。
(外角狙いじゃない? いや、それにしたって)
反応を見せぬ知三郎に、バッテリーは悩む。
(逆にインコースを待っているってこともありますよ)
巨人学園の真田一球同様、人を喰ったプレイが犬飼知三郎の真骨頂だ。
その頭脳で敵の裏をかき、あの明訓をあと一歩のところまで追い詰めた。
三球目。ぴたりとバントの姿勢に構える知三郎に、倉橋は前進守備の指示を出す。
(明訓戦で見せたあのバントヒット狙いか?)
インコースへのカーブ。
ブン!!
まるでタイミングが合わずに強振する知三郎。
「ストラーイク!」
ツーストライクと追い込みながらも余裕を崩さない知三郎に、丸井は眉を吊り上げる。
「何だ、あの野郎。練習だからってふざけてんのかよ!」
「いや。騙されるなよ、イガラシ」
谷口の言葉にイガラシは頷く。
TVで観た明訓戦。高知県代表の室戸学習塾があの明訓を0に抑え、あわやというところまで追い詰めていた。その原動力となったのが目の前の男だ。一見優男にしか見えぬその瞳の奥には土佐犬を飼いならした犬飼小次郎・武蔵、二人に勝るとも劣らぬ闘志を秘めている。
(人を喰った態度もこいつの戦い方の一つに過ぎない)
相手を虚仮にし、冷静さを失わせるその手口に短気な明訓の岩鬼や渚はまんまと引っかかっていた。
(だが、おれはそうはいかない)
慎重に。冷静に。相手の呼吸をよく見て。
バットを長めに持った知三郎に対し、イガラシは一塁井口と三塁谷口に目線を送り、二人はやや浅めに守備位置を変える。
(長打と見せてバントだろ)
人の裏をかく知三郎ならやりそうなことだ。
「ふう」
目を瞑り、息を吐いた知三郎は、ぎらりと目を光らせる。
(こ、こいつ……)
まるで唸りを上げ、身構える土佐犬の如き迫力を見せる知三郎に、イガラシはボールを強く握り締めた。
(勝負にきている?)
(狙ってやがるな)
一点を見つめて、じっと動かない知三郎の様子に、倉橋は守備位置を定位置より深めへと指示する。
四球目。果たして投げようとしたイガラシの目に飛び込んできたのは、長めにバットを持ったまま勢いよく打ちに行く知三郎の姿。
それを見てぐっと腰を落とす谷口と井口。
だが。
「なんてね」
するりとバットを短く持つと、知三郎は思い切りそれを振りぬいた。
「うっ!!」
キン!!
強打かと身構えた墨谷ナインが目にしたのは、振った勢いに反し、なぜかころころと一塁前に転がるボール。
「なに!?」
一瞬何が起きたのか分からず反応が遅れた倉橋に対し、イガラシがすかさずフォロー。
一塁へと送球するも知三郎の俊足が勝る。
「セーフ!」
一塁塁審を務める片瀬がコールする。
(こ、こいつ……)
呆然とする井口の脇で笑みを浮かべる知三郎。
「これぞ『秘打回転木馬』!」
「秘打だって!?」
「知りませんか。仮想明訓ってことだったんで」
「そんな、だからって……」
信じられないと言った表情で、イガラシは知三郎を睨む。
数々の名投手達を打ち崩して来た明訓不動の二番打者。
あの秘打男殿馬の秘打をまさか真似ることができる男がいようとは。
「甲子園でも真似たんですがね。さすがにご本家に比べると記憶に残らないのかな」
事も無げに言い放った知三郎は、
「やれやれ。この恰好だと暑苦しいな」
パタパタとYシャツの前をはだけ、汗を拭うとベンチに戻った。
(おいおい。どこの曲芸師だよ)
知三郎のバッティングを間近で見た倉橋は顔を青ざめさせる。
(あいつ、グリップに当てて打ちやがった……)
始めからこれが狙いだったのだろう。長めに持ったバットに鋭い眼光。打席での様子で強打と勘違いさせる。
(畜生。してやられた)
警戒していたというのに、さらにその上をいかれてしまった。
(さすがに仮想明訓だぜ)
高校野球史上最強の二番打者とも言われる殿馬を彷彿とさせる知三郎のプレイに、イガラシは舌を巻く。
「バットを長めに持ったのも、このための布石か。嫌らしい野球をしやがるな」
「ふえへっへ。わしの見立てに間違いはねえ。あれでこそ仮想明訓の二番よ」
影丸の言葉に、徳川は嬉しそうに手を叩く。
「自分は騙されないと思わない方がいいですよ。そういう人間ほど騙しやすいから」
ベンチから汗を拭いながら言う知三郎。
「そいつはどーも」
内心苛立ちつつも、言葉には出さずイガラシは憮然とした表情で返した。
(お次はこいつかい。やれやれ、全く気が抜けえねえじゃねえか)
打席に入る影丸に、倉橋は思わず愚痴をこぼした。
ほっとする間もなく、一打ある打者がやってくる。
だが、それこそが明訓打線の特徴。
挑戦者たる自分達はとにかく今あるもの全てを出して立ち向かうしかない。
(とにかくやるだけやってみるさ)