週刊ラッキーに山田のロッテ逆指名についての疑惑の記事が流れてから数日が経った。
墨谷対明訓の引退試合まで残り一週間。思い起こすことがないようにとナインそれぞれが更なる特訓に励む中、それは起きた。
墨谷高校の教師である小室は埼玉からの通勤組で、住まいの所沢から墨谷高校までの通勤は片道二時間を超える。その長い電車の中での彼の快適な過ごし方と言えば、駅売の新聞を隅々まで読むことだった。
その日もいつも通り新聞を買おうとした彼は、駅売りのスポーツ新聞の一面に明訓と書かれているのに目を留めた。
(はて。明訓といえば、今度試合をするところじゃないか)
何かあったのかと気に留めた小室は、早速いつもは買わないスポーツ新聞を購入し、その内容に仰天することとなる。
「あ、小室先生。大変です!」
時間ギリギリに出勤した小室を待っていたのは、鳴りやまぬ電話に悩まされる同僚の姿だった。
「朝からひっきりなしに電話がかかってくるんです。明訓と試合をするのは本当なのかと」
「それじゃあ、やっぱりこの記事が」
小室が広げたスポーツ新聞にはでかでかとこう書かれていた。
『王者明訓引退試合!? あの甲子園の雄姿が再び観られるのか?』
「そりゃ確かに明訓と試合はしますが。だからってこんな……」
事態がまるで呑み込めていない小室の傍らで、未だに電話が鳴り続けていた。
「何でこんな大々的に……」
校長室で新聞を見ながら、教頭はぼやいた。
甲子園への道が断たれた野球部の面々があの明訓と試合をする。これは皆で応援せねばと軽い気持ちで新聞委員会に号外を出させたが、まさかここまで取材依頼が殺到することになるとは思いもしなかった。
「同感です。明訓の人気がすごいとは思っていましたが、まさかこれほどまでとは」
山のような取材依頼に観覧希望。中にはどうにかしてチケットが手に入らないかなどとお門違いの連絡をしてくる者まであった。
「何を今さら!」
そう呆れたように言ったのは高校野球ファンの体育教師だ。甲子園に何万と人を呼んだ明訓の引退試合だ。自分なら何を置いても見に行くだろうと彼は断言した。
「それほどですか……」
「無論です。校長先生はご存知ないのですか? 明訓の逸話を!」
土佐丸との春の甲子園決勝。殺到する観客の前にさしもの大甲子園もその許容数を超え、困った大会運営はラッキーゾーンを開放することで事なきを得た。
「そんな彼らが来るのです。当然、どこかのグラウンドは抑えてあるんでしょう?」
「いえ。そんな話は聞いていませんな」
小室の言葉にあり得ないと体育教師は首を振る。
「小室先生はご存知なくとも、野球部の生徒は知っている筈です。副キャプテンのイガラシは頭も回る。当然この程度のことは分かっているでしょう」
「とにかく当人たちを呼んで事情を聴いてみましょう」
校長の一言で衆議は一決し、昼休みに丸井とイガラシは校長室へと呼びだされることとなった。
「どうしたんです?」
校長室の前ですうはあと深呼吸を繰り返す丸井の姿にイガラシは呆れた声を出した。
「どうしたって、おめ。校長から呼び出しなんてよ」
「今度の試合についてじゃないすか。新聞に載っていたって聞きましたし」
「ま、まさか試合を止めろとか言うんじゃないだろうな」
「部長との約束通り勉強特訓だって頑張っているんだしさすがにそれはないでしょうよ」
「おめえは大丈夫かもしれねえがな。あの部長、こと勉強のことになると人が変わるからな」
「悩んでいても仕方ないですよ、入りましょう」
涼しい顔で校長室の扉を叩くイガラシの肝の太さに、丸井は改めて驚くしかなかった。
校長室に入ったイガラシたちを待っていたのは、校長・教頭・小室の三人である。
「キャプテンの丸井です」
「副キャプテンのイガラシです」
「ああ、二人とも。試合に向けての練習が忙しい中すまないな」
校長の言葉に丸井は苦笑し、イガラシは顔を顰める。
対照的な二人の様子に、小室はやれやれと頭が痛い。
「来てもらったのはほかでもない。今度の土曜日。明訓との練習試合だそうだが、場所は決まっているのかね?」
「場所?」
「ああ。相手の明訓は高校野球ナンバーワンとして有名だ。当然、大きめのところでやるんだろう?」
「いえ。やるのは学校でのつもりでしたが」
「はあ!?」
教頭が突然出した大声に、丸井がびくりとする。
「な、何か問題でも……」
「いや、問題というか。ほ、他に場所はなかったのかね」
「OBが借りてくれた河川敷のグラウンドがありますが、引退試合ってことなんで皆が見られるようにと、学校にしたんです」
「成程。イガラシくんの説明で事情は分かった。だが、どうしてもっと大きなところでやらないのだね。大きな公園に併設された球場など一杯あるだろう」
「これまで練習試合はお互いの学校でやっていたんで」
「そうした大きい所は借りるのにお金がかかる上、大きな大会の前は東実なんかの私立が練習試合用グラウンドとして借り切っちまうんです。それもあって仕方なく」
「ふむ、そうか。それは分かった。だが、実は今困ったことになっていてな。どこか大きな場所を借りることはできないか?」
校長の縋るような言い方に若干違和感を覚えつつ、イガラシは答える。
「無理ですね。ただでさえ秋季大会の前です。どこもかしこも借りられていますよ」
「何とか空きはないのかね」
「それは「それは無理ってもんです」」
自分が言いかけた言葉を先に口にしたイガラシに、丸井は腹を立てた。
「これ、イガラシ。言葉を慎まんか」
小室が注意すると、イガラシはぽりぽりと頬を掻いた。
「事実を言ったまでで。今はどこもかしこも新チームの土台作りと新戦力を見定めるために、練習試合を行いますから。予約が一杯で探すだけ無駄ですよ」
「おい」
丸井が肘で突き注意するも、イガラシは止まらない。
「譲ってくれってのも無理です。強豪校ほどスケジュールは満杯で何としても使いたいと思っていますから」
「う~む、そうか」
「校長。いかがいたしましょう」
「とにかく、試合の実施の可否や運営等我々でももっと詰めて話をする必要があります。職員を集めて本日臨時の打ち合わせを開きましょう」
校長室を出るなり丸井は大きなため息をついた。
「ったく、冗談じゃねえぜ。どうしていきなり試合をやるかどうかって話になってんだよ」
「今朝の新聞記事が原因でしょう。明訓が試合をするってんで、話題になってしまったんじゃないですかね」
「そりゃあいつらは有名だけどよ。でもなあ」
「こればっかりは校長達に任せる他ないでしょう。河川敷でもいいかと思っていたんですが、今の話ぶりからすると止めておいた方が賢明ですね」
放課後。部室に集合した部員に丸井達が今回のことを報告すると、倉橋は参ったなと頭を抱えた。
「そういや気づかなかったがあいつら有名人だもんな」
「普通に学校のグラウンドでやるものと思っていたぜ」
横井も同意する。
「でも谷口よ。こればっかりはどうしようもないぜ。確かにどれだけの人が来るかわからない」
「ああ。校長先生達に任せるしかないだろう。おれたちは練習に集中しよう」
谷口の言葉に皆が頷き、部室から出ていくの横目に見ながら。
(果たして本当に大丈夫なんだろうか)
イガラシは厳しい顔をしながら着替えを急いだ。
沈黙が会議室の中を支配していた。
居並ぶ教員たちの顔には疲労感がありありと浮かぶ。
いや、それ以上に憤懣やるかたないといった表情が見て取れた。
「それでは、まことに遺憾ながら今回の練習試合は中止ということに……」
重苦しい雰囲気の中、教頭がそう言うと、小室は勢いよく立ち上がった。
「お待ちください!」
「小室先生!」
教頭の叱責にも小室は怯まない。
「委員会にも掛け合いました。その上での決断です」
「決断が早過ぎます! もう少し打つ手を考えることは……」
「できたらやっています!」
目を瞑り、校長は叫んだ。
「だが、時期が悪すぎる。この時期にしかも一週間も前になって空いているグラウンドなどありません!」
「まさか、野球部の連中が学校で明訓とやろうと思っていたとは……。あの子たちも妙な所で世間知らずですな」
他人事のように体育教師がため息をついた。
「甲子園に何万と観衆を集めた明訓の高校生活最後の試合ですよ? 高校野球だけでなく、野球ファンなら是が非でも観たいに決まっています。そんなことも分かっていなかったなんて……」
「彼らからすれば明訓相手のただの引退試合ですからな」
「だとすると、これは小室先生の責任では?」
「いかに野球音痴といえども、これは酷すぎる」
明訓との練習試合が決まった時には手放しで喜んでいた者たちからの非難に、小室は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、言った。
「その野球音痴はここまで大々的にして欲しいなどと言った覚えはありませんぞ。責任を問うなら新聞委員会にでかでかと記事を載せるように言った校長、教頭も同罪でしょう!」
「小室先生!」
「とにかく。彼らはわたしとの約束を守り、この一月の間勉強の方にも手を抜いてはいません。それなのに、人が集まり過ぎる、学校では手狭だから練習試合をするのを止めろ、と言うのは納得できません!」
「本校と明訓の生徒の間でだけで広まるなら問題はなかったでしょう。ですが、新聞にまで大々的に出てしまったため、警察や委員会からも安全面での懸念があると言われているのです。本校で試合をすることは無理です」
「だったら、後三日。せめて、二日ください。何とか代わりのグラウンドを見つけます!」
「いや、だがしかし……」
「お願いします。あそこまで頑張っている子どもたちに、大人の事情をただ押し付ける。そんなことは教育者としてすべきじゃない!」
「小室先生……。彼らに試合をさせてあげたい気持ちはわたしも同じです。ですが、こればかりは……」
再び静かになる会議室の中、体育教師が控えめに手を挙げた。
「小室先生が言うように、もう二日頑張ってみませんか?」
「な……」
「子どもらがあそこまで頑張っているのに、大人のわたしらがすぐ音を上げるのも情けない」
「……」
「どうでしょう、先生方」
固い表情ながらも、頷く同僚たちに小室は目頭が熱くなった。
翌日から墨校職員の奮闘が始まった。
「そちらは?」
「いや、こちらもダメ。相手があるからと」
そろりそろりと足を忍ばせ、様子を見に来た丸井は、職員室の喧騒に冷や汗を流した。
「どうでした?」
戻ってきた丸井に、イガラシが食い気味に声を掛ける。自らの右腕で勝ち取った明訓戦だけに、彼にとっても大いにその可否は気になるところだった。
「どうにも芳しくねえな。先生達であっちこっちに掛けてくれているんだが、どこも一杯みたいで」
「まあ当然でしょうね」
「まさか中止ってことはねえよな。冗談じゃねえぞ」
「こればっかりはおれたちではどうにもなりませんよ」
「まさかここまで反響があるたあな」
ガシガシと頭を掻きむしる丸井。
自らが尊敬する谷口と再び野球をしたいと転入試験までしてその後を追ってきた彼にとって、谷口の引退試合は何よりも大切なものであった。
「こんなことなら明訓との試合が決まった段階であちこちにあたりをつけておくんだったぜ」
「今更過ぎたことを言ってもしょうがないでしょう。それよりもおれたちでできることを考えないと」
「と言ったってな。精々他の高校に連絡するくらいしかできねえだろ」
「いや、もっといい連絡先がありますよ」
そう言うと、イガラシはロッカーから何やら紙きれを取り出した。
「ここに聞いてみたらどうでしょう」
「何だよ」
丸井は紙切れを受け取り、そこに書かれた名前を見てハッとイガラシを見る。
そこに書かれていた名前を見るのは酷く久しぶりだ。
墨谷二中時代。初めての青葉戦からずっと取材に来ていた毎朝新聞の記者。
確かに彼ならばあちこちに伝手があるかもしれない。
「何かのためにと取っておいたんすよ」
鼻の頭をこする後輩に、丸井は面白くもなさそうに答えた。
「ったく。こんなもんがあるなら早く出せよ。相変わらず可愛げのねえ野郎だな」