「全く。どう言えというんじゃ」
墨谷高校野球部の顧問である小室は、部室の前で一人立ち尽くしていた。
練習前に話すことがあると部員たちを集合させたのがつい三十分も前のこと。刻々と過ぎる時間の中、肝心の自分がその部室へ入って行く勇気がつかなかった。
それは今から一時間前のこと。
「残念ですが、小室先生……」
力なく項垂れる校長の顔には疲労感が漂っていた。
明訓との練習試合中止を何とか避けようと校長以下教員たちは一丸となって、空きグラウンド探しに奔走した。
通常の授業を行いながら、空きの時間にひたすら都内にあるグラウンドに電話を掛け続ける。予約を確認し、相手の連絡先を尋ね、予約を譲ってもらえないかと交渉した。だが、どこからも色よい返事はもらえない。秋季大会前、野球ができる大きなグラウンドのスケジュールはびっしりと埋まっている。どこの学校も練習試合があるために、自分の所だけでなく相手があることだからとけんもほろろな対応ばかりだった。
「どうして……」
小室を応援していた体育教師は無念そうに下を向いた。
いや、彼だけではない。
多くの教師が自分達の力の無さを痛感していた。
夏の大会が無念の結果に終わり、悲嘆に暮れていた教員や児童。彼らにとって、墨谷高校野球部があの明訓と戦うということは何よりの朗報だった。甲子園優勝四度の王者。それも、あのドカベン山田太郎以下明訓五人衆が出場するというのだ。心は沸き立ち、寄ると触るとその話題一色になった。何より残念な思いをした野球部の子ども達の願いを叶えたい。そう思い、勤務時間などどこ吹く風と奔走したというのに。
「残念です……」
小室に対し批判的な言葉を口にしていた教頭でさえ、目頭を押さえ肩を震わせていた。
「とにかく、子ども達にこのことを」
目を合わせずそう言う校長に対し、小室は頭を下げると、職員の控室でタバコを吸って気を落ち着け、ようやく部室へと行く気になった。
それから三十分。
息を吸っては吐きを繰り返し、扉の前で固まったまま彼は中へ入れずにいた。
ちらりと中を覗き見るや、全員が机に座り、何かしている。
(どういうことだ?)
はてなと気づかれぬようにゆっくりと扉を開ける小室の肩をポンと誰かが叩いた。
「うわっ!」
思わず飛び退く小室に、びっくりした表情で立っていたのは半田。
「は、半田か。どうしたんじゃ」
「いえ、その。部長を待つ時間がもったいないという話になりまして。先に勉強特訓を済ませちまおうと」
「ほう。それは感心じゃな。それでお前は何をしとるんだ」
「はい。部長を呼びに行くついでに麦茶を」
半田は手にした薬缶を掲げて見せると、扉を開いた。
「おう。遅いじゃねえか、半田。部長は何だって」
「いや、それがそこに」
「あっ、部長。待ってましたよ」
中から出てきたのはユニフォーム姿の丸井。
「勉強をしておるのはいいが、その姿はどうした」
「いえ、終わり次第すぐ特訓できるようにと」
「明訓戦に向けて時間がないですからね」
そう淡々と話すのはイガラシだ。
「とりあえず、部長との約束通り、後一時間やるつもりですんで、話はその後でも?」
「あ、ああ、構わん。頑張れよ」
「はい」
席に戻り、再び参考書を開く丸井とイガラシに小室は呆気にとられる。
黙々と参考書を開き、勉強に励む野球部員達。
その姿に涙腺が緩み、小室は思わず眼鏡をとった。
(野球ばっかりだった連中が、まあ)
「あの、どうかしました?」
小室の様子がおかしいことに気づき、谷口は声を掛ける。
「いや、目にゴミが入ったみたいでな」
「はあ……」
そして、一時間後。
勉強が終わった野球部の面々は、整列し、小室の言葉を待った。
(ええと、この度は……。いや、違うな。実はな、残念ながら……。いや、こうでもない)
どう言ったらいいのかと頭を悩ませている小室に対し、早く練習がしたいと焦れだす墨谷ナイン。
「どうしたんだ、部長」
「さあ? 何やら話にくそうだが」
横井と戸室は顔を見合わせる。
「ま、まさか勉強時間をもっと増やすとかか……」
「じょ、冗談じゃないスよ」
二人の話に井口も割って入る。勉強が苦手な井口にとっては勉強特訓は地獄のような時間だった。
「それなら最初からそう言っているだろう」
「今に始まったことじゃないしな」
谷口と倉橋の意見に皆はそれもそうかと頷く。
「だったら、何の用なんすかね」
丸井の耳打ちに、谷口は首を振る。
「それはおれにもわからない」
「とにかく、さっさと言ってもらわないと練習になりませんよ」
焦れたようにイガラシが言うと、小室は意を決したのかようやく口を開いた。
「あ~、諸君。これまでよく、勉強に部活にと頑張った。夏の大会が残念な結果になっただけに、わしも嬉しい限りじゃ」
「へへ。まさかお褒めの言葉をいただけるとは思ってなかったぜ」
鼻をこすりながら得意げにする横井を、倉橋が肘で突っつく。
「ここまで本当によくやった。その頑張りがきっと無駄になることはないじゃろう」
「明訓相手に一泡吹かせてやりますよ」
自信満々に言ってのけるイガラシ。
「じゃがな、そのー。ええと」
汗を流しながらしどろもどろになる小室に、部員たちはきょとんとする。
「まことに言いにくいことなんじゃが、そのな」
一息に言ってしまうしかない。そう思い、小室が息を吸った時だった。
「小室先生、奇跡です! 見つかりました! できます! 明訓との練習試合が!」
そう言って興奮しながら体育教師が入ってきた。
「な、なんですって!」
「貸してもいいと連絡がきたんです。わざわざ向こうから!」
「い、一体どこが……」
話についていけぬ野球部員達を前に、小室と体育教師は肩を抱き合うのだった。
話は数時間前に遡る。
東京メッツのよれよれ十八番。球界の至宝と謳われる老雄岩田鉄五郎の下に、その報がもたらされたのは東京日日スポーツの山井を介してだった。
取材に訪れた山井は、開口一番不味いことになったと告げ、墨高が陥っている窮地について話した。
「練習試合が中止になるかもしれないじゃと?」
「ええ。例の山田の記事の影響でね」
実際には山田の記事が出る際に、ラッキーの記者が源造からの情報を元にただ一行書いただけなのだ。
『今月墨谷との一戦で高校野球から旅立つ山田は球界の宝だけに、今後大きな波紋を呼びそうだ』
だが、この記事が出るや目敏いスポーツ新聞の記者がそれに飛びつき、さらに熱心な野球ファンまでが食いつき、混乱が加速してしまった。
当初学校内で引退試合を開くつもりであった墨谷側には熱狂するファンを迎え入れる余裕がなく、代替のグラウンドも見つからずこのままでは開催そのものが危ぶまれているという。
「ま、まさか……」
「いえ、事実だそうです。懇意にしている毎朝新聞の奴から苦情が来ましたよ」
山井が源造に連絡したとは露とも知らぬ彼は、当初山井に空いているグラウンドに心当たりはないかと連絡してきた。ところが、今回の騒動の大本が山井と知ると、烈火のごとく怒り出した。
「『お前に彼らの高校野球の花道を奪う権利があるのか』とまで言われましたよ。さすがに堪えました」
元高校球児であった山井にとってその言葉はグサリと痛かった。源造との電話連絡の際に不用意に明訓と墨谷の練習試合について話してしまった自分の迂闊さを呪いながらも、こうまで広がってしまっては取り返しがつかない。
「元はと言えば、岩田さんから持ち込まれた話です。貴方にも責任をとっていただきたい」
「記事にするかしないかはお前達の判断じゃ。わしゃ、関係ない……」
くるりと踵を返す鉄五郎。
「岩田さん!」
それに追いすがる山井に、ぴたりと鉄五郎は足を止める。
「と、そう言う訳にもいかんか。かと言って、グラウンドか。この時期に借りられるところなぞある訳が……」
そう言いかけて、ポンと鉄五郎は手を打つ。
「あるやないか、一つ。連中が使えるグラウンドが!」
「本当ですか!」
「おうとも。ちょいと待っとれ! 今話をつけてきてやるわい!」
「何だと、鉄。もう一度言ってみろ」
目を白黒させる東京メッツオーナー。その脇では監督の五利が冷や汗を流している。
「せやからさっきから言うとるやないけ。その日の昼間、練習のためにとっとる国分寺球場の時間を譲って欲しいと」
「聞いたこともあらへんがな。プロが高校生の練習のために場所を譲るやなんて!」
「ただの練習試合やない。明訓の、あの山田の高校野球最後の試合やがな」
「んな、アホな。鉄っつぁん、いくらその日がナイターやからって無茶やで。うちらの練習はどないすんねん」
「そんなもん多摩川でやればいいやろが!」
「なんで、一軍が試合当日に多摩川の二軍グラウンドで練習せなあかんのや。追い出された二軍はどうするつもりや」
「その日くらいは休養にしてもええやろ! なあ、オーナー。青少年の健全なる成長のためや」
「プロが高校生にグラウンドを貸してやるなぞ聞いたこともないわい」
「元々国分寺球場とて間借りしている身やないけ。それを譲ってやるくらいなんてことないことやんけ」
「そやかて、鉄っつぁん」
「あのなあ、鉄。いくら青少年のためと言ったって、わしらは慈善事業をしとるんじゃないぞ」
「分かってますがな、オーナー。何もただであげろと言うてる訳やない。料金はきっちりととったらええ」
「しかし、色々と問題があるやろ」
「じゃかあしゃい! グラウンドが無くて困っている連中のためにわざわざ譲ってやるんやで! どこに問題があるんや!」
「そない言うたかて……」
腕組みをするオーナーに鉄五郎はなおも畳みかける。
「なあ、オーナー。その日は阪神との最終戦や。ドンケツとブービーの最下位争いなんぞ観る奴なんぞおるかい。だが、この練習試合があればまた違うで」
「なんじゃと?」
「甲子園に何万と人を呼んだ明訓。相手は部員の怪我で涙を飲んだ悲運の墨谷や。きっと人を集めることに違いない。その連中が半分でも残ったらどうや?」
きらりとオーナーの目が光る。
「た、確かにこれ以上ない観客増員の案や」
「そない上手くいくかい」
呆れ顔の五利をよそに、鉄五郎とオーナーは笑い合う。
「どや、オーナー。一つ人助けといかんか。世間様からの評判もよくなるで。ただでさえ、うちのオーナーはがめついともっぱらの噂やさかい」
「そら、金を払ってくれるなら譲ってやらんでもないが……」
「満更でもあらへんがな。どの口が言うとるんや……」
バンっと力強く鉄五郎が机を叩く。
「四の五の言わんと決めなはれや、オーナー! こいつをうちが受ければ間違いなく山田からの心証はよくなるに違いないで」
「どういうことや、鉄っつぁん」
「あの山田のことや。自分のことで練習試合が無くなるかもしれんとなったら、気にするに違いない。ここでメッツが良い所を見せてやって一歩リードよ」
「どの道ドラフトで引き当てんと意味ないやんけ」
「そこはわしの黄金の左腕に任せておけ!」
「う~む」
顎を撫ぜながら、窓の外を眺めていたオーナーはくるりと振り返ると、大きく頷いた。
「それでこそ、我が東京メッツのオーナーや! さすがやで!」
喜び握手を強要する鉄五郎に、オーナーはたじろいだ。
「なあ、鉄っつぁん。本気なんか」
オーナー室を出た途端、五利は鉄五郎に話しかけた。
「もちろんや。こんなこと冗談で言うかい」
「そやけど、ほんまにただの高校生の、しかも練習試合やで?」
「ただのやない。あの明訓の高校生活最後の試合や」
「そない言うたかて……」
「そやからお前はアホや言うとるんじゃ。観たくないんかい。一足早く国分寺デビューする山田の雄姿を!」
「!」
「わしは観たい。あやつがあの国分寺球場でどれだけ飛ばすのかを。願ってもないチャンスやないか」
「それは……」
「想像してみるとええ。国分寺の空に掛かるあの山田の大アーチを! 胸が高鳴らんか」
「た、確かに……」
己の脳裏にはっきりと浮かぶ山田のホームランに、五利は思わずうっとりとする。
「それは魅力的な話や」
「そやろう。さすがは五利や。よう分かっとる」
ばしばしと肩を叩くと鉄五郎は一人記者席へと戻って行った。
「にしても鉄っつぁん、ドラフト一位を変えるつもりはないようやな。ああ~さらば、中西、不知火」
無念の涙を光らせながら、五利は鉄五郎の後を追った。