先生ご本人は短編読み切りが得意だとのことだったので、その時その時で面白いものを描かれていたのだろうと思ってます。
墨谷が仮想明訓打線と練習をする一週間前に話は遡る。
青田高校野球部監督である大下茂蔵ことシゲ監督は、本職は船宿の主人であり、実の妹の梅と二人で釣り客の相手をするのを生業としていた。
甲子園で明訓との準決勝で敗れて以来、青田高校野球部は開店休業状態で、シゲもすることがなく、本来の仕事に戻っていた。
(そりゃまあ、球道がいるからこその青田だしな。あいつがいなけりゃやる気がなくなるのはわからんでもないがよ)
新聞を読みながら、その脇でせっせと働く二人に目を向ける。
(だからと言って、放課後すぐ帰ってくるたあな)
中西球道の恋女房であるえーじこと大池英治は、進路にプロ志望とは出していない。北海道時代からの球道の親友であるえーじだが、その後の大池一家を襲った激動の中ですっかり心は荒み、警察の厄介になることもしばしばだった。
(そんなおれがプロにいっても通用する訳ないじゃん)
えーじはあっさりと野球に見切りをつけ、船宿の仕事を手伝うと言い出した。
(だが、それだけじゃあるまい)
シゲの見立ては違った。
シゲが青田の監督をするようになってから、家にはえーじと才蔵が転がり込んだ。二人が姐さんと慕う梅にとっては男三人の面倒を見ねばならず苦労の連続で、疲労から一度ならず倒れている。現在は普通に生活できているが、義理難いえーじにとってそれを放ってプロ希望を出す気にはなれなかった。
それは青田のクリーナップを務めた才蔵も同じ。渡世の義理が大事だと話す彼にとって、恩人たる梅への恩返しが第一で、それ以外は些末なことなのだという。
「野球も一区切りついたんで、後は御恩返しをさせてくだせえ」
そう言うと、えーじと二人で黙々と船宿の仕事を手伝っていた。
「ところで、球道はどうした? 最近見かけんが」
これまで用がなくても顔は見せていただけに、シゲは不安になってえーじに聞いた。
「ああ、球道なら今は福岡じゃん」
「福岡!? なんで福岡なんぞに」
「福岡はあいつの故郷じゃんよ」
「た、確かにそうだが、何もこんな時期に……。一体何しに行ったんだ」
「そりゃあねえ……」
「なんででしょうねえ……」
事情を知りながらも、くっくっくと顔を見合わせて笑うだけのえーじと才蔵。
「おいおい、大丈夫なのか?」
思わせぶりな二人の態度に不安になるシゲであった。
中西球道。
言わずと知れた千葉が誇る浦安の星。
怪童と称される彼の右腕から繰り出される球は甲子園でも三振の山を築き、なんとあの王者明訓から高校生新記録となる二十六連続三振を奪った程の大投手である。
そんな彼は今福岡市内にある病院に来ていた。
福岡玄海小以来の付き合いである立川結花。球道とはお互いに福岡・千葉と距離が離れているために中学・高校を通じて数えるほどしか会っていなかったが、月に一度は手紙を交わし、徐々にその距離を縮めてきた。それだけに、この夏いきなり結花が原因不明の眼病にかかったという報せに球道はひとかたならぬショックを受けた。千葉県大会決勝前に尋ねてきた福岡時代の友人たちにそのことを聞いた球道は一も二もなく結花に会いに行こうとしたが、「どうせ行くなら、甲子園の優勝旗を手土産にしてやろう」と思い直し、その見舞いは伸ばし伸ばしになっていたのだ。
病院の前でうろうろとする球道に対し、福岡時代からの仲である悪童とサッシーはうんざりした顔をして声を掛けた。
「一体いつになったら行くんバイ。結花はそんなこと気にせんと」
「そうは言うがよ。準優勝どころかベスト4程度じゃ恰好もつかんだろうが」
「準決勝で明訓に当たったんだから仕方がなかバイ」
「四の五の抜かさんと早く行くタイ。締め切りと入院患者は待ってくれんタイ」
ずるずると悪童とサッシーに引きずられるように中に入ると、球道も諦めがついたのか分かった分かったとその手を振りほどいた。
「俺も男だ、覚悟を決めようじゃないか、ええ」
そして、球道が入って行ったのは結花のいる病室。ベッドの上で寝ている結花に対し、球道は咳ばらいをする。
「コホンコホン」
「誰? 誰かいるの?」
むくりと起き上がった結花の両目に巻かれた包帯に、球道は目を伏せる。
「コホンコホンコホン」
「お父さんじゃないし、悪童くんでも大和田くんでもないわね。まさか、的場くん?」
「ゴホン!!」
憎き恋敵と密かに自認している相手の名前が結花から出たことに、球道は苛立つ。
(なんで、ここで的場の名前が出て来るんだ。まさか付き合っているんじゃないだろうな)
「なぜ、あんな面倒臭いことしとるとよ」
小声で悪童は隣にいたサッシ―に耳打ちする。
「自分だと気づいて欲しい男心とよ」
尚も、剣だの何のと違う名前を口にする結花に腹を立てた球道はようやく声を上げた。
「おれだよ、おれ」
「え? おれって……、ま、まさか……」
そう言ったきり、結花は口を噤んでしまう。小学校時代から球道を追いかけ続けてきた彼女にとって、その声は忘れようとしても忘れられない。
「な、なんで、どうして……」
「いくら送っても手紙が返って来ないんでね。直接文句を言いに来たのさ」
「そのためにわざわざ?」
「どうして素直に心配だったから見舞いに来たと言えないと?」
サッシ―の質問に、悪童はさあと肩を竦めてみせる。
「ご、ごめんなさい。急にこんな風になってしまって……、それで……」
「それで? 目が見えないから迷惑をかけるからおれとの縁を切ろうってか?」
「ごめんなさい」
すすり泣く結花に、球道はかっと目を見開いて叫んだ。
「見くびるない!男中西球道、例え目が見えてなくたって、一度惚れた女は大事にするもんだ。お前が惚れた相手ってのはそんなちんけな男なのかよ!」
「え!」
そう言ったきり、結花は黙ってしまう。
自分が球道に惚れていることは誰にも秘密だった筈。それをなぜ球道が知っているのか。いや、それよりも惚れた女とは自分のことを言っているのか。手紙ではそんな素振りは微塵もなかったというのに。混乱する結花をよそに悪童たちは盛大にため息をついた。
(あ~んな露骨な態度をとっておいて何を今更)
(知らぬは当人たちばかりってやつバイ)
「でも、わたし、球道くんに迷惑をかけたくない……」
「治せばいいじゃねえか。原因不明で病気になったって言うんなら、原因不明で治ることもあらあな!」
球道はそう言うと、持ってきたカバンからボールを取り出し、結花に握らせた。
「こ、これは?」
「おれのお守りさ」
「ボール? それも野球の……」
マネージャーとして毎日磨き続けてきたその感触は結花にとって懐かしさを感じさせる。
「ああ。そいつがあればお前の目もきっと見えるようになるぜ」
球道が結花に手渡したボールを見て仰天し、悪童とサッシ―は体を震わせた。
球けがれなく道けわし。
今や中西球道の代名詞とも言えるその言葉。
実の母の手によってそれが書かれた古びたボールこそ、今は亡き球道の実の父が彼に遺したたった一つの形見の品である。
球道にとって、いや、中西一家にとってかけがいのない何よりの宝。
「それを、結花になあ……」
「あいついいとこあるとよ」
球道からボールの由来を聞き、結花は両手で大事そうにそれを押し包んだ。
「そ、そんな大切なものを私に? いいの?」
「いいも悪いもあるもんか。おれがいいって言うんだからいいのさ」
包帯の下。結花の見えない目から涙が零れる。
「あ、ありがとう。ありがとう、球道くん。本当に……」
目が見えなくなる前までは結花は博多どんたく高校のマネージャーとして、その明るさで大いにチームを盛り上げる存在だった。そんな彼女が眼病にかかり目が見えなくなったことで、動揺したナインは本来の力を出せずじまいで地区大会で最後の夏を終えた。自らが応援してきたチームの最後の試合、何より球道の最後の夏が観られなかったため、心中結花は酷く落ち込んでいた。
そんな自分に球道から手渡された大切なボール。
握っているだけで、温かな気持ちになれるのは気のせいではないだろう。
「大切に持っていてくれよ。目が無事に治ったら返してくれりゃいい」
「治らなかったら?」
「その時はその時さ。ボールごとおれが面倒みてやるぜ」
ボールを持つ自らの両手をそっと包み込むように握る球道の手から暖かさを感じ、結花は再び涙を落とす。
「本当に、わたしでいいの? 球道くんなら他にもっといい人がいるのに……」
「皆まで言うない。男球道、これと決めたら一直線よ。相手の目が見えないだの何のと大したことじゃない」
力強くそう宣言する球道に、結花はありがとうありがとうと何度も繰り返した。
そして、一週間後。
「何をしかめっ面をしているじゃんよ」
「馬鹿。これは考え事をしているんだ」
えーじの突っ込みもどこ吹く風と腕組みをしながら登校する球道に、才蔵はにやにや笑ってみせた。
「恋煩いってか? 柄にもない」
「それは言えてる」
「へん。恋も出来なさそうなご面相の連中に言われたくはないぜ」
そう言い返しながらも、心ここにあらずと言った様子の球道にえーじは首を捻る。
放課後。船宿の仕事へ行こうとしたえーじを引き留めた球道は、投げ込みをしたいと言い出した。
「いきなりどうしたじゃんよ」
「いいから付き合ってくれ」
(何があったじゃんよ)
北海道時代からの長い付き合いであり、球道のこうした状態を何度も目の当たりにしているえーじは仕方がないとミットを持った。
(一体どうすればいい)
球道の頭の中にあるのは、結花が別れ際に放った台詞だった。
ラジオで球道の試合を全部聞いていたという結花は、最後にこう言ったのだ。
「それにしても残念だったなあ。目がこんなことになってなければ球道くんと明訓の試合を必死になって応援できたのに」
「そいつはプロになる時までとっておいてくれ」
そのときはそう返した球道だったが、帰りの電車内でふとあることに気が付いた。
(ひょっとして結花は山田との勝負じゃない、明訓との試合が観たかったのか?)
今夏の甲子園大会でも数々の熱戦が繰り広げられたが、特に明訓と青田が激突した準決勝は双方譲らずの引き分け再試合となり、球史に刻まれる一戦となった。
ずっと球道を応援してきた結花としては、是が非でも観たい試合だっただろう。
(だが、おれの、おれたちの高校野球は終わっちまった)
山田は言わずもがな、他の明訓五人衆もプロに進む可能性はある。けれども、プロはセ・パ両リーグに分かれている。彼らが一堂に会することはオールスターでもありえないだろう。
(甲子園に出た時の連中と闘うなら今しかない。だが、すでに奴らは高校生活最後の試合を引き受けてしまっている)
悔やんでも悔やみきれぬことであった。山田との高校生活最後の勝負とばかりに練習試合を申し込もうと思った矢先、タッチの差でそれを無名の墨谷に奪われてしまった。
(さすがにドラフトも秋季大会も近い中で、もう一試合なぞ受けてはくれないだろうな)
たたでさえ、青田と明訓の試合では里中が負傷するなどアクシデントがあった。プロ入り前の怪我などご法度だ。例え本人たちが了解しても、周囲が止めるに違いない。
(とすると、どうしたものか)
事情を話して頼み込み、墨谷に明訓との練習試合の権利を譲ってもらおうか。
そう、球道が思いたったとき、えーじが声を上げた。
「球道、球道!」
「何だよ、えーじ」
「何だじゃないじゃん。さっきから校長が呼んでいるじゃん!」
「校長が? 何の用だ」
「知るか。やたらめったら投げ込みやがって」
えーじは痛そうに手をひらひらとさせる。
「す、すまん」
青田高校の職員室へとやってきた球道が見たのは、電話に向かって怒鳴り声を上げるシゲの姿。
「何度言われても変わらんぜ。うちの球道の腕はそんな安っぽいもんじゃない!」
「どうしたんです?」
事情が分からず傍にいた教頭に校長は尋ねる。
「徳川さんから電話? 徳川って、あの元明訓の監督の?」
「ああ。どうもお前に用事みたいでな」
「おれに?」
「シゲが代わって出たんじゃが、このザマよ」
「しつこいぜ。いい加減切るぜ、じいさん!」
激昂するシゲの側によると球道は耳打ちする。
「いったいどうしたって言うんです?」
「どうしたもこうしたもあるかい。徳川のじいさん、耄碌したらしくとんでもねえことを言ってやがるのさ」
受話器の向こうで徳川が人を耄碌老人扱いするなと喚くのを無視し、シゲは続ける。
「自分が今指導している墨谷が今度明訓と戦うからお前に一度投げて欲しいんだとよ」
「墨谷? 墨谷って、あの東東京の……」
予想外の言葉に球道は一瞬言葉を失う。
今夏の甲子園大会。高知県代表室戸学習塾の監督だった徳川が、どうして今墨谷の監督をしているのか。いや、それよりもまさか会いに行こうと思っていた相手からまさか連絡がこようとは。
「おれに投げて欲しいとはどういうこった」
球道の声が聞こえたのだろう。徳川が大きな声で笑い声を上げた。
「墨谷の連中に体験させてやりたいのよ。超一流をな」
「あんたが最後の最後まで打倒明訓を目指そうと、そんなのはわしの知ったこっちゃない。だが、うちの球道をバッティングピッチャーにしようというのが気に入らねえ。後二月もすればとんでもない額でプロに入る男なんだぜ!」
そう叫んで、電話を切ろうとするシゲの手から球道は素早く受話器を奪った。
「お、おい球道!」
「徳川さんよ。今の話、条件付きでなら受けてもいいぜ」
「な! ば、馬鹿。 何を言っているんだ!」
シゲが慌てて電話を切ろうとするのを、球道は電話機ごと抱えて躱す。
「どうだい。その条件が吞めるんなら引き受けてやってもいいぜ」
「さすがは球けがれなく道けわしの中西球道だぜ。その条件乗った!」
豪快に笑う徳川の声と共に、シゲの悲鳴が響く。
「馬鹿あ! 妙な約束をするんじゃない! お前の黄金の腕を無駄遣いじゃ!」
「な、中西……」
完全に蚊帳の外の校長と教頭は二人のやりとりをぼんやりと見つめることしかできない。
「分かった。その日に行くと伝えてくれ」
それだけ話すと、抗議するシゲをよそに球道はグラウンドに残るえーじの元へと急いだ。
「待っていろ、墨谷よ。お前らに格の違いってのを教えてやるぜ」