明訓打線相手にどう戦うかは10年以上悩み続けたと思います。
それもこれもあの弁慶高校武蔵坊一馬をして、山田以上に警戒すると言われた男がいるから。
お蔭様で水島新司先生の一周忌前に本が出せました。余りが出ましたが、またサークル参加するかは微妙です。1年で出すことにこだわったのは野球狂の詩の「俺は長島だ!」が大好きだから。憧れの長嶋茂雄の引退に合わせプロになり、たった一本のホームランで去った彼のように頑張りたかったのです。
『さあ、秘打男殿馬をどう抑えるのか、墨谷高校井口くん。ゆったりとしたモーションから、第一球、投げた!』
初球、インコースへのストレート。
『殿馬くん、見送った。まるでバットを振る気がありません』
(打つ気なしってか。食わせ者め)
倉橋はじろりと殿馬を睨む。
殿馬程の打者がただ見逃す筈がない。
とんとんと殿馬の左足が小刻みに動く。
(リズムをとってやがる……)
天才児殿馬の真骨頂であるリズム打法。
頭の中に浮かんだ楽曲と、相手投手のリズムを読み、数々の秘打を完成させてきた。
どうにか殿馬の意図を読もうとする倉橋だが、その表情は読めず、打ち気かどうかの判断すらできない。
(とりあえず、ここよ)
(はい)
二球目。外角高めへのストレート。
タイミングを合わせようとした殿馬に、一塁の横井と谷口がダッシュをして眼前まで迫る。
「ボール!」
『あっと、殿馬くん、振りません。これはどうしたことだ。見逃しました』
「ランナーもいないのにどういうことだ?」
「さあ? バントを警戒しているのか」
渚と高代は互いに顔を見合わせる。ワンアウトで、しかも走者なし。無駄に体力を消耗するだけではないか。
「それ以上に狙っているものがあるのかもしれんだや」
(それ以上? バントヒットでの出塁を阻止する以外に?)
大平の言葉に、山田は頭を悩ませる。もし自分が墨谷の立場だったら、殿馬の存在は厄介だ。足も速く、走塁も巧みであるため、塁に出すとこれ以上うるさい存在は明訓にいない。だが、それ以上に何を墨谷は狙っていると言うのか。
(効果はあるようだ)
殿馬の様子を見て、谷口と倉橋は目線を交わし頷き合った。
明訓不動の二番打者殿馬。
その類まれなる音楽の才能を存分に活かした秘打の数々に多くの好投手が餌食となってきた。
いかにしてその秘打を封じるか。半田を中心に考えた策がこの秘打シフトである。
非力な殿馬はそのヒットの多くが内野安打やポテンヒットであり、滅多に外野に飛ばすことはない。G線上のアリアや回転木馬などがそのいい例だ。ならば、初めから長打を捨て前進守備をとればいい。
(どこに転がそうととってやるぜ)
意気込む墨谷内野陣だが、倉橋はどうしたものかと思案する。
二球目。インコース高めの釣り玉にタイミングを合わせてきた殿馬は、何と谷口と横井の動きを見るや、瞬時にその意図を察し、バットを振らずに見逃した。
(さすがご本家。偽物とは格が違うぜ)
振れば、凡打となることが分かったのだろう。影武者明訓として対峙した法市とは訳が違う。本物が放つ圧倒的なオーラに倉橋は苦笑するしかない。
(それなら次に行くだけだ)
「づら?」
倉橋がサインを出すや、突然投手の井口、一塁の横井、二塁の丸井、三塁の谷口が歌い始める。
「荒川にのぞみー、さーんぜんと~」
「ほーたーるのひーかーりー、まーどーのゆーき~」
「とさのーこうちーのはりまやーばしに~」
「よいやさ、よいやさ、よいさっさ、よいやさよいやさ、よいさっさ~」
「チッチッチッ」
目を瞑りながら拍子をとる殿馬は目当てのリズムを探すと他の音を消そうとするが、それを邪魔するかのように、ショートのイガラシまでもが足でリズムを踏み、歌い出す。
「これづら」
意識を集中し、一塁の横井に我が意を得たりとリズムを合わせる殿馬。
(これでも足りねえのかよ)
さらに倉橋は井口に向かってサインを出す。
心得たとばかりに振りかぶった井口は。
『井口くん、やたら早いモーションからの第三球目!』
ランナーがいないというのにクイックモーション。それに対ししきりにリズムを合わせる殿馬。
『だが、殿馬くん、これは役者が一枚上か。タイミングは合っているぞ! ああっ! ここで何と井口くん、クイックモーションからスローカーブ!』
「何だと!」
井口の投球に見覚えがあった里中がネクストから叫ぶ。
ゆっくりな投球動作からの速球。そして、早いタイミングからの緩いタマ。
それは今夏の甲子園での第一回戦。明訓にとっても因縁深いあの男がとった戦法ではないか。
打ちにいった殿馬は前につんのめりながらも、これを何とかバットに当て、三塁線に転がす。
だが。
「くっ!」
『これはヒットか。いや、ならないならない。あらかじめ前に守っていた谷口くん、猛チャージ! 殿馬くん快足を飛ばすも間に合わない!』
「アウト!」
「鈍足が! もっと早く走らんかい!」
罵声を浴びせる岩鬼に対し、平然としながらも戻り際殿馬は山田に囁く。
「室戸の三男坊の二番煎じかと思ったがよ。中々どうして手がこんでいるづら」
「じゃ、じゃあやっぱり……」
室戸。三男坊。
そのキーワードから思い出されるのは、甲子園初出場だというのに、明訓相手に怯むこともなく自然体で挑んできた強敵の姿。
南海ホークスの長兄小次郎。
土佐丸の次兄武蔵。
そして、その武蔵と犬神の二人を破り、甲子園へと出場した末弟。
室戸学習塾、犬飼知三郎。
甲子園初戦で対決することとなった犬飼知三郎。
その頭脳的なプレイとゼロの神話の前に明訓は中々得点することができず、後一歩の所まで追い詰められた。特に知三郎と相性が悪かったのは殿馬だ。そのリズム打法を狂わされ、果ては『秘投真夏の世の夢』で打ちとられるという屈辱まで味わった。
(まさか、墨谷があの犬飼知三郎の策を使ってこようとは)
これまで明訓の前に立ちはだかったライバル達からは想像がつかない。
彼らは皆、それぞれのやり方を貫き、明訓を倒そうとしてきた。剛速球投手である白新の不知火然り、変則両投げ赤城山の木下然り。そこに本格派だとか、変化球投手という違いはない。それぞれがそれぞれの信念のもとに、他人が使った方法など知らぬ、自分達は自分達のやり方で明訓を倒すとばかりに勝負を挑んできた。
(だが、この墨谷は違う)
使えるものは何でも使う。
殿馬の秘打が脅威と思えば、その殿馬を抑えた知三郎のやり方を真似る。
そこにあるのは自分達のやり方に対するこだわりではなく。
どんなことをしても相手を倒すという強い意志。
(これは恐ろしい相手だ)
綺麗ごとを言っていては、勝利の女神を決して捕まえることはできない。
勝つためには、その後ろ髪を掴むにはどんなことが必要か。腹の内で必死に考え、考え抜いてのことに違いない。
これまで明訓の前に立ち塞がった多くの強敵達。
その全てがいかに明訓打線を封じるためにか、多くの知恵を絞ってきた。それを事細かに分析してきているのだろう。
(もしそうだとするとこれは厄介だな)
思い悩む山田とは逆に、打席に入る里中は闘志をむき出しにしていた。
「犬飼のやり方を真似たってか。だが、それで抑えられるほど明訓は甘くはないぜ!」
(確かにそうだ。ここは一つ慎重に)
倉橋が落ち着くように指示し、井口も慎重に外角低めへのストレートを投げる。
が。
「舐めるな、一年坊!」
キィン!
「何っ!」
里中、ライト線への見事な流し打ち。
(ちっ。狙われたか)
小さな巨人と呼ばれる里中は甲子園通算二十勝を挙げた名投手だが、打者としても今夏の甲子園、室戸戦でホームランを放つなど非凡なセンスを持っている。用心したつもりだが、上手く合わされてしまった。
(息もつけねえのかよ)
まるで酸欠状態の魚のように井口は口をぱくぱくとさせた。
「いいぞ、里中ちゃん!」
『曲者殿馬くんを打ちとってほっとした井口くんに、里中くんが見事な初球攻撃! そしてこの人を迎えます』
ドワアアアアアア‼
国分寺球場を揺るがす大声援。
腕に背中に。いや、全身に。
鳥肌が立つのを感じる。
打席に立つ男はあくまでも泰然自若。
自然体を崩さず、その仕草にも余裕が見てとれる。
マウンドの井口はごくりと唾を呑み込んだ。
目の前のこの男こそが、全国の高校球児が目指す頂だ。
過去数多の投手達が挑み、時に半ば攻略に成功するも、最終的には敗れてきた。
あの剛腕も。知恵者も。尽くがその豪打の前に。
『四番、キャッチャー山田くん。四番、キャッチャー山田くん』
仮想明訓との戦いの際に、あの豪打ハリー・フォアマンは言った。
自分より、山田の方が上だと。
全身から強打者という雰囲気を醸し出していたフォアマンと違い、山田は一見優しそうに見える。だが、仮想明訓と戦い、あの中西球道と出会ったからこそ分かる。その規格外の迫力に。
(くっ)
動悸が激しくなった井口は、気持ちを落ち着かせるためにわざと一塁に牽制する。
『名は体を表すとはこのことか。すくっと立った姿はまるであの日本一の名峰富士山のようです。過去幾多の好投手がその頂を攻略しようと躍起になり、叶わなかったことか。神奈川県大会での白新高校不知火くんとの勝負、甲子園での怪童中西くんとの歴史に残る対決。高校野球の歴史に数多の名勝負を刻んできたドカベン、山田太郎くんの登場です!』
興奮気味に話すアナウンサーとは対照的に、打席に入る山田は静かに構えたままだ。
その一分の隙もない様に、
(かなわんな、全く)
(あれで同じ高校生だと!? 冗談も大概にしろよ)
墨谷ナインからはため息が漏れる。
「あ、あれがドカベンか……」
墨谷の応援席で盛んに歓声を上げていた田所ですら、その額には玉の汗が滴っていた。
かつて闘った東実の打者達を霞ませるほどの威圧感。マウンド上の井口にかかるプレッシャーは自分たちの比ではないだろう。
「中山、お前だったらどうするよ」
山本からの問いに、中山は首を振る。
「どうやっても打ちとることなぞできねえ。敬遠だろ」
「随分と潔いことで。だが、この雰囲気でできるかな」
後輩思いの山口はスタンドを見回した。
「まあな。勝負するのが当たり前って感じだもんな」
太田も同意した。
(こいつが、頂点か……)
仮想明訓との勝負の際に対峙した打者達と比べても、群を抜くその存在感に井口は委縮する。
高校通算打率は驚異の七割五分。その豪打の前に、全国の並みいる好投手が敗れ去って来た。あの青田の怪童中西球道でさえも。
(勝負してみてえな)
高校生ナンバーワン打者に今の自分の力がどこまで通用するか。
投手としての自負が山田との勝負を望む。
しかし。
「おい、井口。分かっているな!」
井口の考えを見透かしたのか、付き合いの長いイガラシが釘をさした。
(分かっているよ)
頷いた井口に対し、様子を見ていた倉橋はゆっくりと立ち上がった。
(やはり、そうきたか)
山田自身、もしやと思っていたが、墨谷バッテリーに躊躇する様子は見られない。
「なっ!」
明訓ベンチから、そしてスタンドから戸惑いの声が乱れ飛ぶ。
『墨谷高校倉橋くん、立ちました。これは敬遠だ。何ということでしょう。墨谷、山田くん相手に一球も投げることなく、敬遠を選択します!』
「勝負しろ、勝負を!」
「逃げてんじゃねえ!」
口々に罵る観客に、井口はこめかみをひくつかせるが、そのまま敬遠策を押し通し、山田四球で一塁へ。
「ボールフォー!」
『あっとフォアボールです。井口くん、走者一塁の場面で山田くんを迎え、まさかの敬遠を選択しました! 場内ざわめきが収まりません。引退試合。明訓と戦う事を楽しみにしてきた筈です。よもや初回から敬遠とは驚きです!』
「江川学院じゃあるまいし、まさかこの後も敬遠じゃないだろうな!」
観客からの野次に山田は思い出す。
(江川学院の中か……)
山田二年次の春の選抜。
大会屈指の左腕として評判の江川学院の中と山田の対決は高校野球ファンの前評判も高く、注目を浴びていた。だが、蓋を開けてみれば、中は五打席連続山田を敬遠と徹底的に勝負を避け、高校球児にあるまじき作戦であると物議を醸し、江川学院監督に非難が集中することとなった。
「へっ。監督としては当然の策じゃよ。投げれば打たれるんじゃ。逃げて何が悪い」
明訓に挑むこと四度。対山田に対しては躊躇うことなく敬遠策を選んだ徳川は、非難轟轟の観客に対し、悪態をつく。
「お前等が勝負している訳でもないだろうに。観ているだけの連中は気楽でええわい」
「三太郎! 目にもの見せてやれ!」
二塁ベース上より、里中が叫ぶ。
「やれやれ、おれも舐められたもんだぜ」
(これで怒っているのか?)
打席に立つ微笑のニヤケ顔に、倉橋は面食らう。
(とにかくここを凌ぐんだ)
微笑に対し、井口は徹底的にインコースを攻める。
『インコース低め! これもボール。カウントワンツーです。一発のある微笑くんを迎えて固くなっているのか、井口くん。ボールを受け取り、肩を回します』
(ここまでとは)
谷口は顎にかかった汗を拭った。
まだ初回だと言うのに、まるで気が抜けない。いずれ劣らぬ好打者強打者を前に、井口の神経は磨り減るばかりだろう。
「井口、思い出せ。河川敷の特訓を!」
仮想明訓として、墨谷投手陣の前に立ちはだかったのは、かつて明訓を苦しめた強敵たち。その豪打は墨谷の心胆を寒からしめ、未知の明訓に対する脅威を知るに十分だった。
(困った時は外角低めが鉄則。だが、相手も当然それを予測している)
倉橋はサインに悩む。微笑は捕手出身だ。こちらのバッテリー心理を見透かしているに違いない。
(徹底的にインコースを攻めれば、勝負はアウトコースかと思うだろう)
井口が投げる瞬間、すーっとアウトコースへと移動する倉橋。
(やはりな、決めダマを外角へか)
外に山を張る微笑。
『井口くん、四球目投げた! あっと、これはサインミスか! インコースへストレート!』
「何っ!」
裏をかかれた微笑、何とか当てるがショートゴロとなり、イガラシはすかさず二塁へ送球。
「アウト!」
『あっとアウトです! 明訓高校。この回ランナーを出しながらも、五番微笑くんがショートゴロで得点ならず! 墨谷高校井口くん、何とか初回は0に抑えました!』
「まさか、三太郎がしてやられるとは」
二塁から戻り際、里中の言葉に、山田は頷いた。
「こちらのことを余程研究してきているようだ」
「ああ。だからこそ岩鬼の先発は効果的か……」
岩鬼のハッパが風に気持ちよく揺れる。
「まあ任せておけやサト。わいが完投しても問題はあらへんやろ」
「ああ。いつでもリリーフは任せておけ」
「じゃあかぁしゃい! 墨谷如きにわいのタマが打たれてたまるかい!」
「やれやれリードが大変だ」
「やーまだ。どういうこっちゃ! お前はただわいの剛球を捕るだけでええんや。気楽なもんやんけ」
漫才のようないつものやりとりをする山田と岩鬼の脇を通りながら、渚と高代は守備位置へと急ぐ。
「それにしたって、最後の試合に岩鬼さんが先発とはな」
「ああ。里中さんにお前までいるのにな」
「うちの監督は何を考えているか分からんぜ」
「『やりたい奴にやらせればいい』なんて言ってたからな。向こうさんもも面食らうに違いないぜ」