余部をどうしようと思っていますが、夏に出すかは悩み中です。
一回表を0点に抑えた墨谷だが、ベンチに引き上げるや井口・倉橋のバッテリーは大きく息を吐き突っ伏した。
「……」
「全く。洒落になってねえぞ、あいつら」
短いながらも深い疲労を感じさせる倉橋の台詞は、墨谷ナインの気持ちを代弁するものだった。
高校野球史上屈指の攻撃力を誇る明訓の上位打線。あの専修館や谷原ですら霞ませるその圧力は、紛れもなく墨谷がこれまで戦ってきた相手の中で群を抜いている。
一か月余り対明訓の特訓に費やしていなければ、恐らく何もできずに無残に敗れ去っていたことだろう。
あの明訓に勝てるのか。
少なくとも後三回はドカベン山田と対戦するというのに。
思わず、無言になった墨谷ナインに空気を察した谷口が声を掛ける。
「よし、次はこちらの番だ」
目を瞬かせながら、皆が谷口の方を向く。
「次って……」
明訓五人衆の凄さを実感したというのに。
ドカベン山田の迫力を目の当たりにしたというのに。
「何言っているんだ。うちの攻撃だろ」
「は、はあ……」
「岩鬼の情報は少ない。島田、頼んだぞ」
「お、おうっ!」
バッターボックスに向かう島田は口の端を上げた。
(谷口さんらしいや)
墨谷二中の後輩である島田にとって、見慣れた光景だ。
ナインがどんなに相手の強さに怯もうと。
闘うからには全力で、諦めず。その姿勢は、見る者を惹きつけ、共に戦う者達を勇気づける。
「そ、そうだ。明訓に先制パンチを食らわせてやろうぜ!」
「お、おう!」
丸井の檄にナインが応える様子を見て、倉橋は頭を掻いた。
(やれやれ。相変わらず楽をさせてはくれねえ男だぜ)
明訓相手にムキになる谷口。
傍目から見れば、呆れるしかないだろう。
(だが、それも三年間付き合っていりゃ慣れるさ)
その男の登場はまさに千両役者そのもの。
明訓側の応援席からはどよめきが。
墨谷側の応援席からは驚きの声が。
マウンドに向かう岩鬼に向けて注がれた。
「六万の大観衆よ。お待っとうはん! 男岩鬼、高校生活最後のマウンドや! 打者としてだけではない。ピッチャーとしてのわいの魅力を存分にお届けするでえ!」
ぐるりと周囲を見渡すと、岩鬼は右手を上げて、ファンに応える。
(どや、この歓声。分かっとるんや、ファンも。わいが青田戦で好投したことをな)
実際にはどよめきや罵声も含まれるのだが、岩鬼の耳には都合の悪いものは聞こえぬらしい。
存分に観客にアピールした岩鬼はマウンドに立つと、右手を高々と掲げた。
「いくでえ、やーまだ!」
ガバァ!
ビシュッ!
ドシィ!
山田のミットを揺らす剛速球に、スタンドからはため息が漏れる。
「は、速い!」
「それに球威もあるぜ」
丸井の呟きに横井が同調する。右に左にと決まらぬ荒れダマではあるが、その球威はあの超剛球、横浜学院の土門を彷彿とさせる。
『さあ、投球練習は終わり、余裕十分です。マウンド上に仁王立ち、男・岩鬼。神奈川県大会、そして甲子園でも登板経験がある岩鬼くん。その球威には定評がありますが、ことコントロールとなると疑問符がつきます。どのようなリードを見せるか、山田くん。注目です』
「悪球打ちが投手をやっているんじゃ。コントロールなんざお察しに決まっとろうが。リードもくそもないわい」
と、徳川。
「でも、まさか岩鬼が先発だなんて」
隣に座った松川や、墨高の一年生からも疑問の声が出る。
「こちらが里中対策をとっていることを考えてのことか。まあ、十中八九出たがりのあのハッパが志願したんやろうな」
ぐびりと徳利を口にし、徳川は明訓ベンチを睨む。
(だがよ、目先を変えた奇策のつもりやったら甘いぜ、大平のおっさんよ。元々ハッパの豪速球に目を付けたのは誰やと思うとるんや)
「ほな、幕開けといこうやないか。岩鬼大熱球劇場のな!」
「プレー!」
ガバアアア!
ビシュッ!
「うっ!」
ドシィ!
一球目、インコース高めのボールに島田、思わずバットが回る。
「ストラーイク!」
「島田! よくボールを見ていくんだ!」
(そうは言ってもよ)
甲子園での岩鬼のピッチングを見、荒れダマのイメージが強い島田は委縮する。
土佐丸戦で登板した岩鬼だが殺人野球を標榜する土佐丸を相手にケンカ投球を展開。
何と打者四人に死球を与え、押し出しまで献上していた。
二球目、何とか抵抗を試みようとする島田はバントの構えを見せるが、インコース寄りに構えた山田に思わず眉を顰める。
(おいおい、本気かよ)
「よっしゃ。まかせえ!」
雄叫びを上げ投げる岩鬼の二球目は何と外角低めに決まる。
「す、ストラーイク!」
「な……」
続けて三球目も山田はインコースに構えるが、投げたタマは真ん中高め。
「くそっ!」
『島田くん、高めに思わず手が出た! 岩鬼くん、まずは快調にワンアウトをとりました!』
「ば、バカな。あれでは何のリードだ」
倉橋が呆れたと声を上げる。
山田が構えた所とはまるで違う所にボールが来ているということは、捕手のミットから来るコースを予測することができないということだ。
「意図して逆ダマを投げさせることはあるがよ。あれじゃ打つに打てないじゃねえか」
「いや。そうでもないぞ」
そう言ったのは谷口。
「荒れダマだと言うのならよくボールを見極めればいい」
「見極めるって、お前。あの速さだぜ」
「丸井を見てみろ」
打席に入りバントの構えを見せた丸井に、岩鬼はうんうんと頷いてみせた。
「可愛げのあるやっちゃ。バントでもええから出塁とは泣かせるやんけ」
丸井は口元を結び、黙ったままだ。
「だが、わいの剛球をそう簡単にバントできると思うなよ!」
そう吠えて岩鬼が投げたのはインコース高め。
丸井は悠然とバットを引き、それを見送る。
「ボール!」
審判のコールを聞くや。
「ぬなっ⁉」
丸井は左打席に移動する。
『あっと、これはどういうことでしょう。手元の資料では丸井くんは右打者となっていますが、左打席に入りました。これは何らかの意図があってのことでしょうか』
(どういうことだ)
バントヒットを警戒していた山田だが、左に打席を変えようと動きを見せない丸井に対し首を捻る。
二球目三球目も同じくボールを振らず、スリーボールからの四球目。
真ん中高めにきたタマに対しても、当てずに見送る丸井。
『フォアボールです。二番丸井くん、よく見ました。クリーンナップを前にランナーが塁に出ました、墨谷高校』
一塁へ向かう丸井を尻目に、やってられないとグラブで顔面を覆う岩鬼。
「あれのどこがボールやねん。そないなこと言われたら、わい投げるボールがのうなるやんけ」
口の減らない岩鬼を審判が窘めようとするのを察知し、山田が立ち上がろうとすると、それより早く二塁から殿馬が声を掛けた。
「おいよォ、おめえ。中学時代からの付き合いだから教えてやるがよォ。世間様で言うストライクゾーンはおまはんの思ってるのとは違うづらぜ。それを判断するために審判がいるづら」
「やかましいわい、とんま。そないなことは分かってるわい」
続く三番イガラシ。
「なんや。いつぞやの猿顔が三番なんかいな」
一度打ちとられたこともどこ吹く風と余裕たっぷりに挨拶をする岩鬼に、イガラシは口をへの字に結び、どうもと一応頭を下げる。
「あの時は花を持たせてやったが、今日はそうはいかんで!」
吠える岩鬼に対し、イガラシは丸井と同じく左打席に入り、バントの構えを見せる。
『おっと、これはどういうことでしょう。丸井くんに続いて、イガラシくんも左打席に入ります。これは何かの作戦か』
(バント狙いか、攪乱か。どちらにせよ用心するに越したことはない)
山田の指示で一塁の上下と里中が前進守備をとる。
一球目ど真ん中へのストレート。
すっと構えたイガラシだが、バントをせずに一球見送る。
「ストラーイク!」
(どういうつもりだ)
山田はイガラシの表情を観察するが、あくまでも真剣そのもの。
相手の動揺を誘おうというような思惑は見てとれない。
「岩鬼、いいぞ、今の感じだ」
ミットを叩く、山田に岩鬼はよせと手を振る。
「何を分かり切ったことを。わいの剛球がすごいのは今に始まったことではないやんけ! って、おいおい」
目の前で再びバントの構えを見せるイガラシに、岩鬼はずっこける。
いくら自分のタマがすごいからと、こうバントばかりでは不完全燃焼だ。
(いや、これはまさか)
山田の古い記憶が呼び覚まされる。
山田達が二年生次の春の選抜準決勝。
対するはあの徳川率いる信濃川。
その信濃川が仕掛けてきた作戦こそ、全員が左打席に立ち、バントを絡めてのと金作戦だ。
ホームランやヒットに比べて派手さのないバントを多用した作戦は、徳川の巧みな駆け引きとも相まって明訓を大いに苦しめた。
(だが、あれは対里中、対アンダースローの作戦の筈だ)
タマが見やすい左打席が弱点と言われるアンダースローの里中相手ならともかく、バントが最も成功しづらい岩鬼相手にと金作戦をするのは無謀だ。球威でタマが上ずりファールとなるだろう。
(それなのに、続けているのは何か意味があるのか)
相手の意図を測りかねる山田に対し、
「やーまだ。いちいちどうでもええことに無い頭をつかうんやないわ! わいの剛球がそうそうバントされてたまるかい!」
岩鬼は気にした素振りすらも見せない。
『あっと、またボールです。岩鬼くん、ここまで七連続ボール。ストライクが入りません。ワンアウトをとるまでは快調に見えましたが、これはどうしたことでしょう』
「どうしたもこうしたもあれが岩鬼にとっての平常運転よ」
くひひひと皮肉な笑みを浮かべる徳川。
「じゃが、イガラシめ。わざわざ左に入ってわしの作戦らしく見せるとは嫌らしいやつや」
「左に入るのが作戦? どういうことなんです」
「左に入ってのバント。山田の頭の中にあるのはわしがあやつらに見せたと金作戦よ。殿馬の秘打封じに山田への敬遠。自分たちがこれまで戦った相手の作戦をこうもとられればそう思うのは仕方がないことじゃろうな」
「本当は違うと言うんですか」
「見ているとええ。きっと振らんぜ、あいつは」
続けて三球ボールを出すも、バントをしないイガラシに山田は定位置へ戻るように里中達に指示する。
(バントに見せて強打。プッシュの可能性もある)
五球目、ど真ん中高めにきたボールに、イガラシ、食らいつく素振りを見せるも結局見送りフォアボールを選ぶ。
(よし)
内心してやったりと一塁へ進むイガラシの姿に、
「何やってんだ、岩鬼! ストライクを入れろ!」
「そうだ、そうだ。里中ちゃんを出せ!」
明訓側スタンドからはブーイングが巻き起こる。
『四番、サード谷口くん。四番、サード谷口くん』
よしと呼吸を整えてから打席に入る谷口を、山田はちらりと横目で観察する。
真田一球より聞いた、油断のならぬ男。
人を介して手に入れた彼らの東東京大会予選の映像では甲子園常連校の谷原を相手に終始粘りを見せ、最終回に勝ち越し打を放っていたのが谷口だ。
どのようなバッティングをするのか。興味深げにする山田と同様に、マウンド上の岩鬼もまた、谷口の方をじっと見つめていた。
(こいつが例の男かい。どことなくガタの野郎を思い起こさせるような面構えやんけ)
明訓が初の甲子園制覇をした時の相手、いわき東高校緒方をどことなく彷彿とさせる谷口の風貌に、岩鬼はこの男のどこにわざわざ他校のグラウンドまで来て後輩たちを土下座させるほどの魅力があるのかと理解に苦しむが、打席に入った谷口の顔つきにすぐに認識を改める。
(その目つき。余程の修羅場をくぐり抜けてきたようやな、わいにはわかるで)
ぎらりと目を光らせる岩鬼。
(ん⁉ 左じゃないのか?)
丸井、イガラシとは異なり右打席に入る谷口に頭を悩ませる山田。
徳川がかつて行なったと金作戦では、クリーナップも関係なく左打席に立ち、バントをしていた筈だ。
無言で構える谷口。その真っすぐな瞳に、岩鬼は闘志を掻き立てられる。
「さあ、いくでえ! 第一球は近鉄バファローズ、鈴木啓示!」
草魂と呼ばれる近鉄のエースの名と共に投げられたのはど真ん中のストレート。
「くっ!」
百五十キロを超える速球に谷口食らいつくもファール。
(す、すごい球威だ)
痺れる手を振りながら、再度バットを構える。
続けて、二球目三球目となぜかストライクコースに投げられるストレートを谷口は尚もファールにし、粘る。
「やるやないけ、谷の字!」
嬉しそうにする岩鬼とは対照的に、山田は眉を顰める。
投手岩鬼の実力について皆が疑問符をつけるが、山田からすればそのタマの速さと重さは明訓にとって大きな武器と言えた。リードに苦心させられはするが、地方大会だけでなく甲子園本大会でも投手としての活躍がある時点でその実力は折り紙付きと言えるだろう。
(その岩鬼のタマについていっているだと……)
映像の中で谷原相手に闘っている墨谷は粘り強くはあったが、そこまでの脅威は感じなかった。一体どれだけの特訓をすれば、夏の大会後ここまでレベルアップすることができるのか。
「お次はこいつや」
ガバアアア!
足を高々と上げた豪快なフォームを見せる岩鬼。
「ロッテからマサカリ投法! 村田兆治!」
ビシュッ!
唸りを上げる剛速球に、タイミングを合わせる谷口。
「くっ!」
キィン!
『打った―! 谷口くん、力負けせずライトへ運んだ! ライトの蛸田くんは強肩です。丸井くん、ここは無理せず三塁で止まります。墨谷高校、一回の裏にいきなり満塁で先制のチャンスだ!』
「いいぞ、谷口!」
やんややんやと盛り上がる墨谷ベンチに応援席。
一方の山田は感心しきりだ。
(短く持ち、力負けしなかったとはいえ、よくライトまで運んだな)
「土門さんとの特訓のお蔭ですね」
岩鬼の重いタマに逆らわず見事に打った谷口の活躍は河川敷での特訓あってのことだろうと、谷津。それに対し、
「いや、谷口の努力の賜物だ」
と土門は素っ気なく返す。だが、隣に座った影丸はまさかと墨谷の選手達と共に座る徳川の方を睨んだ。
「まさか、こうなることを読んでいたってのか? 岩鬼の先発を」
「そんな馬鹿な。誰が考えても里中さんが先発ですよ」
「いや、分からんぜ。そもそも岩鬼を投手として起用したのはあの爺さんだ」
「あっ!」
「じゃ、じゃあ。こうなることも考えての特訓だったと?」
満塁になり、一気に活発となる墨谷の大応援団の中で、松川は徳川に尋ねた。
「もちろん。明訓のエースは里中。それは間違いない。じゃが、意外とあのハッパの速球は無視できん。大平のじいさんはわしよりも岩鬼を買っとる。きっと登板させるじゃろうという腹はあった」
「だ、だから」
河川敷での土門との特訓で重いタマへ慣れ、中西球道との勝負ではより速いタマへの対処の仕方を身に着ける。
「このわしが何の考えもなしに特訓をすると思うか?」
思い通りの展開に徳川は愉快そうに声を上げる。
『さあ、大変なことになってきました。墨谷、明訓に対し四球二つにヒット一つで何と満塁。先取点を奪う絶好のチャンス。これをものにすることができるか。打席には一発のある五番の倉橋くんが入ります』
外野陣に対し、前目に守るよう指示する山田。
岩鬼のタマの球威ならば外野の頭を越される心配は少ない。
(それよりも警戒するべきはスクイズだ)
丸井、イガラシと左打席に入っての徹底したバント作戦。
信濃川のと金作戦を彷彿とさせるが、四番の谷口は打ちに出た。
山田としては、頭を悩ませるところだが、果たして、左打席に立った倉橋はバントの構えを見せる。
(問題は何球目にしてくるか、だが)
思い切り外角に立ち位置を変え、山田は高めにミットを構える。
「さあ、舞台は整った。いくとしようかい!」
ピンチになり生き生きとし出した岩鬼の第一球。
ビシュッ!
ドシィ!
「ストラーイク!」
なぜかど真ん中にきたタマに、倉橋も面食らう。
(ああも荒れダマじゃ山田も相当苦労するな)
同じ捕手だけあって同情を禁じ得ない。
どこに構えていようとその通りにボールが来ないというのは捕手としては最もやり辛い。如何に相手を打ちとるための戦略を立てようとそれが実行できないのだから。
(だが、こっちとしても厄介なのは確かだ。これじゃあ上手く転がすこともできねえ)
ちらりと内外野の守備隊形を確かめながら、再度バントの構えをとる。
「岩鬼、気をつけていけよ。バスターがあるぞ!」
「誰にものを言うてるんや。相手が誰だろうと球道無限。わいの野球道は剛球一直線じゃい!」
岩鬼、第二球目。うなりをあげるボールが何と背中を通過し、さしもの倉橋も肝を冷やす。
(お、おいおい。いくら何でも酷すぎねえか)
コントロールのコの字もない岩鬼の投球に、さぞ明訓ナインは頭を抱えているだろうと様子を伺っても、皆慣れた顔つきで平然としている。
(いつもの光景ってことか。ったく、それにしたって)
倉橋、ヘルメットをくるくると回すと、三塁走者の丸井に合図を送る。
(仕掛けてくるな)
そうは思っても、ウエストなどという器用なことは岩鬼にはできない。
「よし、岩鬼。思い切りいけ」
せめて力んでストライクが来るようにとの山田の声掛けに、岩鬼は気分をよくする。
「ようやくわいの凄さが分かってきたようやな。ええ傾向や!」
ぬおおおおおと振りかぶりながらの第三球。
「阪急ブレーブス、今井雄太郎!」
勢いあまってグラウンドに叩きつけられたタマは、ホームベース手前でワンバウンド。
ストライクゾーンにきた所を、倉橋上手く合わせて、三塁線へ流し打ち。
『打った―――! 五番倉橋くん、ワンバウンドのタマを強引に振り切った! 里中くんの頭上を越え、ボールはレフト微笑くんの前に落ちる!』
「行かせるか!」
『レフト微笑くん、懸命のバックホーム。捕手出身だ。肩は強いぞ! だが、墨谷高校丸井くん、いいタイミングでスタートを切っていた。間一髪セーフ!』
「よしっ!」
両手を上げて、生還を喜ぶ丸井を、次打者の井口が助け起こす。
『これは予想外の展開です。初回、山田くんまで回りながら0点の明訓に対して、その裏墨谷高校が何と先制パンチ! 王者明訓。高校生活最後の試合に早くも暗雲が立ち込めてきました!』
タイムをとり、マウンドに集まる明訓内野陣に岩鬼は憤慨する。
「まだ一点しかとられとらんのに。なんや、大げさな。わいの一発でいくらでもとりかえしたるわい」
「まさか、あれを強打するとはな」
里中の言葉に山田も頷く。
「信濃川の使ってきたと金作戦だと思ったんだが」
「山田よ。おめえらしくもねえづらぜ」
ぼそりと殿馬は呟く。
「墨谷のよ、二番と三番はバントする気なんてなかったづら。徳川がやったと金作戦に見せかけての四球狙いが奴らの考えづらよ」
「まさか、そんな。確かに効果的ではあるが」
コントロールの定まらない岩鬼が投げる試合では四球押し出しが当たり前だ。だが、青田戦では曲がりなりにも通用した岩鬼がこうもいいようにされるとは。
「青田の連中はよ、ハッパが明後日の方向に投げても打ってくれたづら。墨谷は違うづらぜ」
殿馬の忠告に、山田ははっと気づく。確かに、墨谷の各バッターはここまで無駄ダマを打ってはいない。むしろ球筋をよく見極め、バントに強打と使い分けている。
(とすると、これは難しい相手だ。岩鬼の先発は失敗だったかもしれない)
岩鬼の持ち味はその豪快なピッチングだ。百五十キロを超す速球と、自ら大熱球崖上突如落岩球と名付けた重いタマはあの青田打線を見事に封じ込めた。だが、その一方、押し出しで点も献上していたことは確かである。打者の目が慣れ、際どいタマを見逃すようになると途端にピンチに陥る。
(徳川さんだ。徳川さんなら岩鬼の性格と大平監督の岩鬼への信頼を考慮し、岩鬼を先発にするのではと考える)
山田がちらりとスタンドにいる徳川に目をやると、そこには愉快そうに笑う徳川の姿があった。
「気づいたか、山田よ。借り物の作戦ばかりに目が行き、墨谷がどんなチームか気づかんかったようやな。最初からと金作戦なんぞ使う必要はないんや」
(ならば正攻法だ。いかに合わされると言っても、岩鬼の球威なら負けない)
山田、次打者の井口を見、
(都合よく、岩鬼と相性の良さそうな相手だ)
と、去り際に岩鬼に耳打ちする。
「岩鬼、ぶつけるつもりでいけ」
「なんやて⁉ どういうことや」
「あの一年坊が許せんのだよ。明訓のエースピッチャーに対してへぼとか四球王とか叫んでいるのを聞いたんだ」
「わりゃ、それは本当かい!」
ぐぎぎぎぎと岩鬼のハッパが怒りに震える。
「もちろんだ。尊敬する岩鬼への罵倒が許せんのだよ」
山田の台詞に、岩鬼はポンポンと肩を叩く。
「ようやくわいの薫陶が実り、お前も一人前になったな。それでこそ日本一のわいのタマを受けるにふさわしいキャーや」
「よし、来い!」
気合を入れる井口はにやりと笑う。
本人はその気はないのだが、それは今の岩鬼とっては挑発以外の何物でもない。
「上等やんけ。墨谷如きの一年坊が、わいを怒らせるとどうなるか思い知らせたるで!」
『明訓高校、一点を先取されて、さらにピンチが続きます。ワンアウト満塁で六番井口くん。ここは最悪でも外野フライを放ち、追加点を得ることができるか』
「そないなこと、わいがさせる訳ないやろが!」
ガバアアア!
ビシュッ!
怒りと力みでど真ん中にきた渾身のストレート。
「うっ!」
ガキィ!
井口、短く持って振り抜くも、岩鬼の全力投球に押され、打球はセカンドへ。
殿馬、これを上手くさばき、六―四―三のダブルプレーに切って取る。
『殿馬くん、やや難しいゴロでしたが、難なく捕球。ダブルプレー完成で、明訓再三の満塁のピンチを迎えるも、最少失点で切り抜けました!』
「くそっ!」
井口はヘルメットを地面に叩きつけて悔しがるが、倉橋がそれをなだめた。
「向こうさんだってだてに甲子園を優勝してねえんだ。むしろ一点とれて気が楽になったじゃねえか」
「倉橋の言う通りだ。その怒りをピッチングに生かせばいい」
淡々と語る谷口は、明訓ベンチに戻る山田の方を見る。
(もう少し点がとれると思っていたが……。そう簡単にはいかないか)
強豪校ほど自分達の方が格上だという意識が強く、先制点を取られると、途端にリズムを崩す。その隙に付け込み、これまでの墨谷は格上の相手を倒してきた。
明訓は違う。満塁の危機を迎えようと、格下の墨谷に先制点を取られようとまるで気にする素振りを見せない。その程度の修羅場など慣れっこだと言わんばかりだ。
(慢心も油断も一切ない)
打倒明訓を旗印にして、三年間挑み続けた全国の強豪達。ある者は知恵を絞り、ある者はその力を誇示し、ある者は機動力で対抗しようとした。けれども、明訓には通用しなかった。如何に序盤翻弄されようと動じず、終盤で逆転すると鮮やかに勝ちを収めてしまう。
(さすがは明訓)
高い頂の山だからこそ。
登ってみたいと人は思うものだ。
ましてや、自分達は今その山を登り始めたばかり。
(どれほどのものだろう)
一回表の明訓の姿が全てであるとはとても思えない。
(手強い相手だ。でも、だからこそ挑み甲斐がある)
谷口はグラブをバスンと叩くと、守備位置へと急いだ。