三回の表。主砲山田に一発を浴びた井口はその後微笑にフルカウントの末四球を与えるも、六番の上下を三振に打ち取り、二失点で投球を終えた。
「いいぞ、井口!」
山田相手に勝負した時には唖然とした田所達だったが、点差はまだ一点。諦めるには早過ぎる。
「にしても、山田相手に勝負とはな」
中山は自分も投手だっただけに信じられない。
「お前の球威なら全球スタンド入りだもんな」
「言えてる」
茶化すように言う山本に太田も同調する。
「おいおい。後輩達が頑張っているってのに、ふざけてるんじゃねえよ」
山口が諭すと、山本と太田はバツが悪そうに下を向いた。
三回の裏、墨谷の攻撃は二番の丸井からという好打順である。
信濃川のオール左作戦を真似した一回だが、この回からは丸井は本来の右打席に入り、隙あらばヒットをと狙うが、
『あっと、これもボールです。岩鬼くん、二番丸井くんに対していきなりのフォアボール。コントロールが定まりません』
山田のホームランが飛び出しておせおせムードである筈なのに、それをぶち壊すように繰り広げられる岩鬼のノーコン劇場に、一球も振らずに一塁に歩く羽目になる。
一回の裏とまるで変わらぬ光景に、いい加減にしろと明訓側応援団からもブーイングが出る。
「どうして、里中を出さないんだ!」
「故障なのか? さっさと出てお願い!」
三塁を守る里中の困り顔もどこ吹く風と観客はヒートアップする。
(里中、辛抱だ)
山田は大平の方をちらりと伺う。
「三回までは岩鬼でいく」
一回裏の攻撃が終わった際に、大平はそう告げた。
「ば、バカな。そんなでたらめな!」
里中が抗議するも覆らない。返って岩鬼に、
「何や、サト。わいが見せ場を作るのがそないに嫌なんか。心配せんでもお前の出番は後からくる。首を長くして待っとれ」
と、窘めらえる始末だ。
(大平さんは墨谷を警戒しているんだ)
試合前の練習の際に殿馬が言った台詞が頭から離れない。
「合っているづらよ、リズムが」
里中の投球にタイミングが合っている。そう、殿馬は言っていた。
打撃の基礎はいかにタイミングをとるかだ。どんな豪速球でもタイミングをとられてしまえば、打たれてしまう。
(岩鬼の先発が長引けば、それだけうちにとっては有利になる)
荒れダマの岩鬼の投球は里中とはまるで質が違う。
その体に染みこませたタイミングは大いに狂うことになるだろう。
(そこまで考えているのだとしたら、やはり大平さんはすごい)
続く三番イガラシ。
(取られたら取り返すまでだ)
丸井と同じく本来の右打席に入り、気合十分。
「いくでえ、猿顔!」
バシバシと脇を叩き気合を入れる岩鬼。クリーンナップを迎えたと言うのに、その表情は歓喜に満ちている。
「岩鬼、落ち着いていけ!」
「誰に言うとるんや、やーまだ。投げる精密機械、あの阪神の小山とためを張ると言われたわいのコントロールを知らんのかい!」
(よく言うづら。とっくに壊れてろくすっぽ計算もできねえようなポンコツのくせしてよォ)
内心殿馬は呆れかえる。
「ボール!」
(やはり中々振らないな)
既にツーボール。
超高校生級の岩鬼の速球にも、墨谷の各バッターは目がついていっている。
高めのストレートなど普通は振りそうなタマにも一切バットを振ってこない。
(しかも、岩鬼のタマの重さにも負けていない)
墨谷がこの日のために土門等かつてのライバル達と特訓をしてきたことを知らぬ山田は、やはり油断ならない相手だと再度気を引き締める。
(見てきた映像とはまるで別なチームだ。徳川さんは一体どんな特訓をしたんだ)
明訓を初の甲子園優勝に導いた徳川家康。
優勝請負人と呼ばれる彼の特訓の過酷さは未だに明訓野球部でも語り草になっている。
その彼が特訓をつけながら、自らは指揮をとろうとしないとは。余程墨谷への信頼感があるに違いない。
「ボール!」
またまた告げられるコールにイガラシはうんざりした。
(しかし、ストライクが来ないものだな)
同じ投手として信じられない。右に左に上にと投げる度に大きくコースを外れ、既にノースリ―。一度もバットを振ることもなく、四球になりそうな雰囲気だ。
(だが、それじゃあ困る)
小学生以来の付き合いの井口の借りを返すにはそれでは不十分だ。
(できればヒット。欲を言えば長打だ)
しかし、肝心の岩鬼がストライクゾーンに投げてこない。
どうしたものかと考えたイガラシは、敢えてバットを長く持ち岩鬼を挑発する。
「なんやて!」
めらめらと怒りを沸き立たせ、岩鬼はイガラシを睨みつける。
「手加減して、今回の練習試合を開くのに貢献した影の立役者であるわいになんて無礼な! その態度後悔させたる!」
豪快なフォームで投げ込む、岩鬼の第四球目。
「今こそ、わいの怒りを思い知れ! 東京メッツは北の狼、火浦健!」
東京メッツの誇るエースの名前を叫びながらの投球は、ど真ん中のストレートになる。
「うっ!」
キン!
イガラシ、打つ瞬間バットを短く持ち、球威に押されながらもバットを振り切る。
『イガラシくん、上手く合わせた! ピッチャーの右を抜いてセンター前ヒット~!』
バシィ!
『じゃないじゃない! セカンド殿馬くん、何とこれをジャンピングキャッチ!』
「づら」
『そしてすかさず二塁転送! ダブルプレーだ!』
「くそっ!」
ノーアウト一塁が一瞬にしてツーアウトランナー無しとなる。悔しさで一杯の丸井とイガラシをさらに苛立たせたのは、殿馬の平然とした態度だ。
(こいつにとっては普通のプレイだってのかよ)
「さすがは名手殿馬くん。まさに蝶が舞い、蜂が刺すとはこのことか。墨谷高校一瞬にしてチャンスが潰えました」
(さすがは明訓だ)
鉄壁を誇る明訓の守りの中で、最も固い所と言えば、センターラインと言えるだろう。
センター渚の強肩もさることながら、セカンド殿馬の守備は秘守として有名だ。
「くそっ。上手くとりやがった!」
「谷口、遠慮せずに打っていけ!」
田所を中心に、墨谷OBは声も枯れよとばかりに叫ぶ。
「そうは行くかい! わいを誰やと思うてけつかる。ミスター高校野球、男・岩鬼やで!」
四番谷口を迎えた所で、再び目を輝かせる岩鬼。
「お次は酔いどれ投手日ノ本盛!」
ガバアアアア!
ビシュッ!
戦闘本能を刺激された岩鬼の投球はど真ん中へのストレートとなる。
チッ!
「ファール!」
「ううっ」
痺れる手を交互に動かしながら、再度バットを構える谷口。
「やるやないか、谷の字。あれをファールするとは。なら、わいの奥の手でいくしかないようやな」
「奥の手⁉」
「おうとも。驚くなかれ、男・岩鬼怪投乱麻の七変化。ここ一番はやはりこれや」
ガバアアアア!
「東京メッツの黄金の左腕、岩田鉄五郎‼」
にょほほほほと、その雄叫びまで真似て投げた岩鬼のタマは再びど真ん中。
これを谷口逆らわずに打ち返す。
『谷口くん、強打! 打球はライト前方にポトンと落ちてヒットになる!』
「この~。わしの名前を使うならせめてきちんと抑えんかい!」
観客席から文句を言う鉄五郎。
「いや。あれでこそ鉄つぁんの真似や。迂闊に打たれるところもそっくりやで」
その横で五利はにやにやと笑う。
『五番倉橋くん。ここは岩鬼くんを打って試合を振り出しに戻すことができるか。一方の明訓、ツーアウトを取っていますが、不安の残る岩鬼くんのピッチングが続く中、未だ出番がありません、里中くん』
(ここでも交代じゃないのか)
不満を募らせる里中の様子に、山田はちらりとベンチの大平を見るが、大平は眼鏡を拭くだけで何も言わない。
(墨谷の里中対策が万全ならこの場面での登板は危険ということか)
一球の話が本当ならば、墨谷は仮想里中である一球から二点も取ったことになる。
彼らからすれば岩鬼の先発は誤算であり、むしろ一点で済んでいるだけ運がいいと言えるだろう。
(ここは何とか長打を狙いたいもんだが)
打席をならしながら倉橋は思案をまとめる。
(ストレートだけだっていうのに、コースが絞れないのはきついな)
墨谷の各打者からすれば大きな誤算だった。
岩鬼の速球、タマの重さにはついていけているというのに、荒れダマだけに狙いが絞れない。四球を待って押し出しでもいいのだが、なまじ打てるかもと感じてしまっているだけに、たまにくるストライクに手を出しては、明訓の堅い守備に阻まれるという悪循環が続いている。
(三塁の里中は幾分前めか……)
明訓の守備位置を確認し、倉橋はバットを短く持つ。
(強打? いや、ここはバントもあり得るか)
倉橋に対する一球目。
インコースに来た球を打とうと踏み込むと、やってきたのは胸元への死球すれすれのボール。
思わずのけぞり慌てて手をつく倉橋。
「うっ」
「すまん、大丈夫か」
そのまま尻もちをついた倉橋を山田は助け起こす。
「あ、ああ。平気だ」
再度倉橋がバットを短く持ったのを見て、一塁上下、三塁里中は中間守備をとる。
「ぬがああああ!」
吠える岩鬼の投球と共に、一塁の谷口が走る。
『ランナー走った! あっと倉橋くん、バットを引いてバントの構え!』
(苦し紛れにバントだと⁉)
そうはさせじと突っ込む里中と上下。
それに対し、倉橋は後ろ脚に力を入れて、前にバットを押し出す。
キン!
『あ~~、倉橋くん、プッシュバントだ! 前進守備の里中くんの頭を越える~!』
「そうはさせるか!」
里中、のけぞりながらも背面キャッチし、スリーアウト。
ああと、悲鳴が上がる墨谷応援団。
『墨谷、この回果敢に攻めましたが得点なりませんでした。一方の明訓はピッチャーの岩鬼くんが再三ランナーを背負いながらも味方の好守に助けられました。両校の明暗分かれた三回。試合は四回表へと続きます』
「どうにも得点できなかったな」
二塁から戻ってきた谷口の肩を倉橋は叩く。
「なあに、まだ三回が終わったばかりじゃねえか」
「うむ。イガラシ、次の回から頼んだぞ」
「はい」
短く答えるイガラシの眼には断固たる決意が宿っていた。