「やあ。改まってどうした」
受話器越しに興奮しながら是非会いたいという丸井の勢いに負け、近くの公園にやってきた谷口を待っていたのは丸井とイガラシの二人だった。
「すいません、夜分に。どうしても今日中に直接伝えてくて」
イガラシが頭を下げる。
「谷口さん、引退試合の相手が決まりました」
そう嬉しそうに叫ぶ丸井に、谷口は首を傾げた。
「相手って、現役と3年生でやるんじゃないのか?」
「はい。3年生を含めて他校と練習試合を行おうと思いまして・・・・・・」
「それこそ秋季大会に向けて現役が行くべきだろう」
「それは・・・・・・」
谷口の正論に下を向く丸井に替わり、イガラシが口を挟む。
「谷口さん、相手は神奈川県代表明訓高校です」
「なっ・・・・・」
全身を突き抜ける衝撃に、谷口はしばし言葉を忘れた。
およそ高校野球を目指すものにとってそのビッグネームは何よりも価値のあるものだった。
思わず丸井を見るや、イガラシの発言を肯定するように力強く頷いている。
「まさか・・・・・・」
「事実です。今日交渉してきました」
「ほ、本当に受けてくれたのか?」
「はい。それも、山田を含め3年生も出ます」
「・・・・・・」
ごくりと唾を呑みこむ音が、谷口にはやけに大きく感じられた。
明訓。この夏の甲子園の覇者であり、甲子園四度の優勝を誇る、神奈川が全国に誇る絶対的な王者。
およそ高校球児であるならば、彼らの強さに憧れ、一度は手合わせしたいと願った者がどれほどいることだろう。その強さはもはや伝説と言っても過言ではなく、彼らに唯一の土をつけた弁慶高校との試合では、各地で号外が配られたほどだ。
日本一の捕手山田
小さな巨人里中。
悪球打ちの岩鬼。
秘打男殿馬。
快打強肩の微笑。
明訓五人衆と謳われる彼らを倒そうと、いかに全国の猛者が腕を磨き、知恵を絞り、汗を流してきたことか。
その輝かしい戦歴を誇る栄光に彩られた彼らの。
高校生活最後の相手に自分達が選ばれるなんて。
「わ、分かった」
ぶるぶると震える手をじっと見つめていた谷口は、絞り出すようにそう答えるのが精いっぱいだった。
結局、引退試合に出るかどうかの答えを言わぬまま去った谷口の背中を見つめながら、丸井とイガラシは満足げに頷き合った。
じっと手を見つめていた時の谷口の表情・・・・・・。
それは、かつて墨谷二中の時に、青葉との引き分け再試合が決まった時と同じ顔ではなかったか。それが意味することが何なのか。付き合いの長い二人には十分すぎるほどよく分かった。
一方の谷口は。
帰り道、丸井達の引退試合の話を思い出しながら、頭から一つのことが離れなかった。
胸の中に溜まったマグマが噴き出しそうで、どうにかなりそうだった。
あの明訓と戦える!
あの明訓と戦える!!
「嘘じゃないよな・・・・・・」
夏の大会以来すっぱりと断ち切ろうと思った野球への思い。
だが、心の奥底では燻り続けていたのかもしれない。
怪我でもう駄目だとサッカー部に入った時も、キャプテンには野球への思いを見透かされ、結局は野球部へと入ることとなった。
この胸の高鳴りはいつ以来だろう。
あの因縁の青葉との引き分け再試合が決定した時以来か。
自分達が夢見、果たせなかった夢を果たした相手と、例え練習試合とはいえ戦える!!!
相手は高校野球の頂点に立つ存在。全高校球児が憧れる紫紺の優勝旗を手にした者達。
谷原や専修館、東実といったこれまで自分達が相手をしてきた強豪とは訳が違う。
全国の猛者が集う灼熱の大甲子園で、数多のライバル達と覇を競い、それを退けてきた王者だ。
「お帰り」
帰ってきた谷口は興奮のあまり、母の玉子の声掛けにも反応せず、夕食を食べようとしていた熊吉の前に正座し、事と次第を語った。
「何い、修行を一か月先延ばしにして欲しいだあ?」
熊吉の声が大きかったためか、玉子もやってきて話に加わる。
「何を言っているんだい、この子は。自分で夏の大会で野球は終りと言っていたじゃないか」
「それはそのう・・・・・」
「そりゃあ、タカのやりたい気持ちは分かるけど、あなたは引退したんだからもう家のことを考えればいいんじゃないかい?」
「お前は黙ってろい。なあ、タカ。最初に話をしたはずだぜ。この道は生半可な覚悟じゃ務まらねえ。中学出てそのまま修行に入る奴もいるくらいだ。おめえの年から目指すんなら、それ相応の努力が必要だって」
「分かってるよ、父ちゃん」
谷口としても自ら言い出したことを、自ら破ることに対し、引け目を感じ、それきりぐっと黙ってしまう。
「そんな事言ったってお前。勉強だってしなきゃならないんだし、そんな無茶な」
玉子はしきりに反対する。
熊吉は煙草を吸いながら、黙ったままの谷口の様子を見ていたが、やがて、ため息をついて言った。
「ふうーっ。分かったよ。そんな目で見るんじゃないやな。やりてえんだろ。どうしても」
「ああ」
「だったら、やったらいいやな」
「あんた!なんで止めないんだい!」
「止めるかよ。なあ、母ちゃん。分かってやれ。タカの野郎は高校野球にし残しがあるんだよ。そいつを片付けちまわないと修行にも身が入らねえだろうよ」
「それじゃ!」
「精々悔いのねえようにやるこった。その代わり、そいつが終わったらお前がひいひい言うぐらいしごいてやるから覚悟しろよ!」
「父ちゃん!」
「それによ、俺も正直見てみてえ。相手があのドカベン山田って言うじゃねえか。プロで一位指名間違いなしの奴だぞ!」
それきり上機嫌になり酒瓶片手に野球談議を始めた父と子を放って、呆れ果てた玉子は一人部屋の隅で寝ることにした。
その夜。明訓高校野球部がランニングに使う河川敷で、一人酒盛りをしている男があった。
「いや、まさかのまさかよ。卒業祝いの前渡しと久しぶりにあいつらをノックしてやろうと思うとったが、まさかな」
「なんだい、じいさん。随分と今日は嬉しそうじゃねえか。数日前までしょぼくれてたのによお」
最近仲間になった若い男が声を掛けてくる。
「なに、生き甲斐が無くなってな。どうしようかと思っていた時に、思いがけないことを聞いちまったのよ」
「なんだ、儲け話か?」
「ふえへっへっへっへ。金の話じゃあない。わしのやる気の問題じゃよ」
「やる気ってじいさん、今まで何をしてきたんだよ。どう考えてもろくなことをしてなさそうだが」
「勝負の世界ばかりで暮らしてきたからのう。余生はのんびりと過ごしたいなと思っておったが。三つ子の魂百までというやつよ。わしはどうしても、あいつらがまだ高校生でいるうちに勝負をかけたいらしい」
じいさんと呼ばれた男は、上機嫌に手にした瓢箪から酒をぐいっとあおった。