翌日。
3年生の引退試合の相手が明訓高校に決まったとの報に、墨高の現役部員たちはいきり立ったが、引退した3年生の反応はそうではなかった。
「め、明訓だと?」
いつも冷静な倉橋が思わず叫ぶほどで、その表情は嬉しいと言うよりも戸惑いの方が強かった
「よ、喜んでもらえると思ったのですが・・・」
丸井の言葉に、横井はぽりぽりと頬を掻いた。
「引退試合ってのは、校内でやるもんだと思っていたぜ」
「うむ。それならちょっと体を慣らせばいい。だが、相手が明訓となると話は別だ」
倉橋は腕を組みながら、難しい顔をする。
「ちょ、ちょっと待てよ。お前ら、まさか明訓に本気で挑むつもりじゃないだろうな」
「もちろん、そのつもりですが・・・」
イガラシの返答に横井は動揺する。墨谷が明訓と試合をする以上、それがただの練習試合になることはあり得ない。確実に勝つつもりで挑む筈だ。甲子園優勝校の明訓に挑むとなったらどれだけの練習を積めばいいのか。見当もつかない。
「無理だよ、オレ受験組だし」
戸室は厳しいと首を振った。
「夏の大会以上の練習か。しかも、ただ一試合のために・・・」
倉橋でさえどうしたものかと頭を抱える始末だ。
「まさか、この年になって田所さん達の気持ちがよく分かるようになるとは思わなかったぜ」
谷口達の2年先輩である田所は、谷口の才能を見出した人物であるが、その彼でさえも夏の大会にしゃかりきになって挑む谷口の姿に、当初は苦言を呈していたという。高校3年生はそれほど暇ではない。進学に就職に忙しい時期なのだと。そしてむきになる谷口に、田所は甲子園を狙う強豪東実の練習を見せ、意気消沈させるつもりだったそうだ。結果的には見事にそれは逆効果となったのだが。
その時に比べて、今は秋だ。少しすれば冬に入り、3か月もしないうちに大学受験が始まってしまう。
「オレは卒業したら親戚の工場を手伝うことになっていてな。今の時期、放課後にあれこれと教えてもらっているのさ」
倉橋に続いて、横井も厳しいと付け足す。
「オレは製菓工場に就職が決まったから手助けはできるけどよ。勉強の方が心配でな。下手をすると去年の二の舞になっちまう」
丸井の脳裏に部長との勉強特訓が思い出された。
谷口キャプテンの元、甲子園出場を目標にしていたものの、どこか遠くに感じるものだった。夏の予選で当たった谷原でさえ、ぎりぎりの所で勝てた相手なのだ。それよりも数段上にいる明訓との勝負はどうなるのか、予想もつかない。
「まあ、谷口は参加だろうから、後はオレたちそれぞれで考えればいいじゃないか。別に出なくても応援すりゃいいだけなんだし」
「む。それはそうだが」
「出る出ないは自由。出たい人間は、明日の放課後に部室に集合ということにしよう」
「出るってことはあれ以上の特訓をするってことだからな」
戸室は夏の猛特訓を思い出し、身を竦ませた。
(明訓が相手・・・ね)
授業を受けながらも、倉橋はどこかうわの空で、内容がまるで頭に入ってこなかった。
一体どうやって丸井達はあの明訓と話をつけたのだろう。
高校野球史上最強のスラッガーと言われるドカベン山田は倉橋とポジションがかぶる。
そのインサイドワーク、バッティング、ぜひとも生で見たいのは山々だった。
あの明訓と戦えたなど、末代までの自慢となるだろう。
(でも、たった一試合。それも引退試合だぜ?)
公式戦ではない、ただの記念試合。
そのたった一試合のために、貴重な一か月を棒に振ってよいのだろか。高校生活でし残したことはないのか。今後の人生のためにしておくことはないのか。
(まさか、明訓とはなあ)
横井は飲んでいた牛乳のパックをくしゃりとつぶした。
てっきり引退試合というから1、2年生との試合かと思っていた彼にとって、丸井達の申し出は完全に予想外だった。
就職が決まっている自分は参加できる。だが、勉強の方が心もとない。卒業できなければ、全てが水の泡だ。
(でもよ)
横井は4月当初に新入部員に自らが掛けた言葉を思い出す。
「くじけそうな自分に打ち勝った時の気持ちが忘れられない」
あの時の自分はそう言ってはいなかったか。
もし、あの時の自分が今の自分に声を掛けるとしたらなんて言うのだろう。
横井はストローを咥えたままじっと宙を見つめた。
(オレが出た所で、たいして役に立たない。)
延々と続く英語教師のへたくそな発音を聞き流しながら、戸室は窓の外を見つめた。
夏の大会で終わると親には約束している。たまの息抜きで練習に出るのは許されているが、明訓を相手にするとなると息抜きでは到底すまない。谷口という男は一見穏やかに見えるが、本質はサドなんじゃないかと誰かが言っていた。戸室もその通りだと思う。
(ベスト4になれたんだから、それで満足できないもんかねえ。)
谷口が来るまでの墨高は万年一回戦負け。練習試合を申し込もうにも、あまりの弱さに練習にならないと断られることもあったくらいだ。
気楽な部活だと思い入部したはずなのに、いつの間にか谷口の勢いに押され、その色に染まってしまった。自分でも信じられないような特訓を積むことになった。
(でも、不思議と途中で辞めようとは思わなかったんだよなあ。)
黒板を見ながら、戸室はぼんやりと考えた。