ニカノールが今から起こりうる状況を言うが早いか、獣の前に人影が現れた。獣を庇うように両手を広げ、アリスタフと対峙している。
清潔感のある白と紺の聖衣に身を包んだ女性だった。下半身はグレモリィと呼ばれる兵種のように腰部分に金属の装飾兼鎧があり、そこから裾が拡がっていて厚みがある。顔は、絽紗布とこの雨によってよく見えない。
「お願い。どうか殺さないで……結界なら壊してもいい……。あなたたちのためにも……どうか……」
こちらに敵意を向けているようではない。それは傍目にも分かった。今にも泣き出しそうなか細い声は、アリスタフにしか聞こえなかった。
アリスタフは目の前の女性の訴えより、彼女の身の危険を感じている。今にも噛みつかん飛びかからんとしている獣に背を向けるとは、正気の沙汰とは思えない。
ミロスラヴはニカノールから離れ、女性へ向かって駆け出していた。
「私たちはただ、家族で平穏に、生きて、笑って、幸せに暮らしたいだけなんです」
──この獣を飼い慣らしてまで?
アリスタフもミロスラヴもこの問いを感じた。答えは分からない。
「やめて……殺さないで……」
ミロスラヴの接近により、再び懇願する女性。
「いやいや、そのまえにアンタが──ッ!」
女性を説得する前に、やるべきことができてしまったアリスタフ。なおも走るミロスラヴ。
二人のダヴィード、アリスタフは獣の右腕を押さえつけ、ミロスラヴは女性の身の安全を確保し──ようとした。
が、それらは全て為されていた。暗雲の下の黒い森から、突如として現れた全身に黒の鎧兜を身に纏った謎の騎士によって。
「ギャオアアア!!」
獣は叫ぶ。騎士の銀の槍が獣の右手を地面へと縫い付けているからだ。アリスタフの剣は空を切る。
「サーシャ……」
騎士の腕の中で、女性は愛する人の名を呟く。騎士は女性の救出も同時に行ったのだ。ミロスラヴは地に転がり込む。
「アーニャを傷付けるものは、何であっても許せない。口惜しいが……逃げよう」
「…………ッ」
騎士の言葉に、やや時間を置いたあと、女性は頷いた。地面に転がるミロスラヴは、絽紗から僅かに見える隙間から涙のようなものを見た。
謎の騎士は振り返り、ダヴィードたちを視界に入れる。
「すまない……」
二人は声が出ない。出したとしても獣の声でかき消されて届かなかっただろう。騎士は呟くように言ったのに、なぜか二人にはよく聞こえた。
「“ダヴィード”……」
二人の名も。
騎士と女性は森の闇の中へと消えた。最初から何もなかったかのように。
「…………」
二人のダヴィードは言葉を発せなかった。アリスタフは愛憐の欠片を、ミロスラヴは現実の一片を、飲み込もうとして飲み込めないままだったからだ。
闖入者が現れたことを示すのは、獣と地面を貫く槍一本、それだけだった。
獣はひとしきり鳴き叫んだ後、獣は左腕で周囲の地面を叩き、揺らし、削り、右腕を解放した。しかし槍は刺さったままだ。
再び、咆吼。嵐の中だからか、鳴いているというより泣いているようだった。
力を溜め、猛撃を放とうとしている。思えば、今まで猛撃の備えを見せなかったことも不思議だとミロスラヴは感じた。
アリスタフは、己の鼓動が速くなっていくのを感じる。獣の中の紋章石と共鳴したからだろうか。苦しいよりも悲しみが強く、終わらせたいと頭も心も言っている。
「終わらせましょう……ご先祖様……」
ミロスラヴは雨を降らせた主に感謝した。ふと流れ出した涙を誤魔化すことができるからだ。
二人のダヴィードは跳躍する。雨が視界を妨げているからか、啼くことに懸命だからか、獣は防御姿勢も取らない。何も反応しない。
二振りのブルトガングは、未だ障壁が復活しない紋章石から力を奪った。
「ゴガア……ガ……ゥ…………」
断末魔もなく、獣は静まりかえった。
「終わった……の?」
獣の倒壊と風雨の強さにより、エリザヴェータは天馬と共に地上へと舞い戻った。
「主よ…………」
ニカノールは鎮魂を込めて祈りを捧げる。
「リーザ、陛下は?」
落ち着いた様子を保って訊ねるミロスラヴ。無自覚な悲しみを無意識に感じ取ったエリザヴェータは、暗雲にそぐわぬ明るい笑みを湛えてにこっとしてみせた。
「怪我はなくて、あと一体を倒すだけみたい。さっき、作戦続行の手信号を見せてくれたわ」
「そうか。ならば……あとは結界の本体、拝石の破壊に動こう。ここから一時の方向に弓砲台のある砦があるから、とりあえずはそこを目指そう。道中見つかればいいんだが……──アリスタフ?」
「なあ、さっきの人たちって──」
見覚えのあるようなないような二人組のことを言っているのだろう。正体はともかく、なぜ俺たちの名前を知っていたのか分かるか、と言いたげだった。ミロスラヴは首を横に振る。
「君らしくないな。今やるべきことに、それの答えは要らないだろう?」
「それも、そうか」
今は嵐の中。頭領を倒したとはいえ、魔獣もそこらじゅうにいる状態。アリスタフはぎこちなく頷く。
「ニカ、どうした?」
祈りを終えたニカノールが、黙りこくって兄に見るべきものを指差す。
「……兄上と違って全部覚えている訳じゃない。けど、あれは変……だろ?」
ニカノールの指差す先、そこには、先程倒した獣が横たわっている。
──彷徨えし獣の体がみるみる風化して──
「…………何故?」
疑問を口にしたミロスラヴは、次の瞬間には別の疑問を呈することになってしまった。
空から一塊の魔力が飛来。ミロスラヴを貫く。
左手に、今は振るう必要のないブルトガング。
ブルトガングの紋章石は、赤黒い光を放ち、蚯蚓のようにうねうねと動く怖気の走る物質をいくつも放出し、持ち主の左手を包み込む。
「…………!」
「兄上!」
ほぼ反射的に白魔法「レスト」を展開するニカノール。それでも謎の物質の侵食は止まらず、左肘まで迫る。
「な、んなの……これ……」
目の前の理解不能な光景に、恐怖が何よりも上回って膝をついてしまうエリザヴェータ。
そんな中、アリスタフは迷うことなくブルトガングを振り上げた。
「覚悟はいいか、ミロスラヴ」
「ああ、一思いにやってくれ!」
目を閉じ、微笑するミロスラヴ。言葉を交わさずして意図を汲み合う彼らの行動は、弟ならびに次代の王の剣にとっては、意図こそ分かるが納得いかないものだ。
「いくら何でも切──」
無情にもブルトガングは振るわれる。が、黒い物質に当たる直前、アリスタフは手の力を抜き、紋章の力の伝達も止めた。
ガチン、という硬いもの同士がぶつかる音がする。
「ブルトガングよ、“今だけ”紋章石はどこにもない……もう一振りから奪って力を取り戻せ!」
アリスタフの言葉に反応したのか、アリスタフのブルトガングの鱗部分が僅かに震える。すると、ミロスラヴの左腕を覆う黒い物質は引き下がり、赤黒い光は明滅する。どちらへ行くべきか迷うかのように。
「お、おに、お兄様……手放……せない……の…………?」
震えが止まらぬエリザヴェータは、へたり込んだまま兄に尋ねる。ミロスラヴは妹を安心させたくて、微笑みながら頷いた。
「結界、かな?」
「ああ。解釈違えだ! 『標』は紋章石でも『モーリスの“持っている”紋章石』だと思っていた。だが、この状況。『モーリスの紋章石』の力で結界を保とうとしてやがる」
「じゃあ、どう……、どうして」
どうして魔獣化しそうなのか……──。
「『標』にしやすくするためだろうな!」
魔獣の方が巨躯であり、紋章石の判別もしやすい。外敵に襲われた際、石も身も守りやすい。おそらく、術者も予想しきれていない──よもやモーリスの紋章石を持った人間が異世界から現れるなど誰が予期できようか──結界の暴走だった。
「…………くそッ!!」
術式を探りきれなかった悔しさ、展開を読み切れなかった苛立ち、目の前の焦りから、アリスタフは気が立っていた。
腰帯から短剣、お茶会携行品の中から小瓶を取り出し、小瓶に短剣の先を入れ、ある液体を付着させる。
「──モーリスを倒して紋章石の力を奪った今、最も活動している紋章石を新たな標にしようとしてんだろうよ!」
アリスタフは己の左腕下腕に短剣を刺し、横に線を入れた。
「アリスタフ……君は何を……」
血を払い、小瓶や剣を戻してアリスタフはその場で軽く足踏みをする。今からひとっ走りしそうなくらいだ。
「『最も活動している紋章石』を用意してる。勝負だぜ、ミロスラヴ」
「液体は毒、か……」
アリスタフはにやりと笑う。
運動量に応じて心拍は上昇する。毒を排出するために心臓はより活動する。アリスタフは、己の心臓に負荷を与え、心臓に連動するモーリスの紋章石を活動させることで、結界の侵略を惑わすことにしたのだ。
しかし、最も確実なのは──
「結界の破壊……」
震える声でその可能性を呟くのは、エリザヴェータ。未だ震え、動けない。
しかし、魔獣化に抗うミロスラヴ、その横で結界を惑わせるために毒を入れたアリスタフ、彼らに白魔法を掛けるニカノール、彼らから魔獣を遠ざける国王。彼らはどうあっても動けない。
「リーザ! 頼む、お前だけが頼りなんだ!」
「!」
その名で呼んだのは、アリスタフ。心の底からの願い共に、叫んだ。
「弓砲台の砦から南方。馬十頭から十五頭分くらいの所にあるはずだ、頼む!」
エリザヴェータは弾かれたように立ち上がり、頷いた。
「待っていてね、お兄様」
「……うん」
見えない何かと戦っているかのように、ミロスラヴの目は虚ろであった。
「早く行け! 頼むぞ!」
胡乱な兄の瞳に眉を下げる妹を発破し、己も魔力を注ぎ続けるニカノール。
エリザヴェータははっきりと頷き、この風雨を顧みずに天馬に跨がり飛翔した。
嵐の中、こうして四人の戦いが始まった。
※「嵐を孕む」の銀雪ルートでは、
ディミトリはマリアンヌのことを「アーニャ」と呼び、
対してマリアンヌは「サーシャ」と呼びあっています。
アーニャ…ロシア語人名における「アンナ」などの愛称
サーシャ…ロシア語人名における「アレクサンドル」などの愛称。