「兄上!」
私は執務室で西部地方の食糧事情の嘆願書に目を通していた。ふと、弟が私を呼ぶ声がした。顔を上げたら、老臣が私の傍らにいたが、弟の姿は見えなかった。
私の空耳をよそに、老臣は掠れた低い声で訃げる。
「陛下が……身罷られました」
その言葉は、数日前から約束されていた父王の死が遂にやって来てしまったことを教えてくれた。
父上。二十余年に亘る王の務め、お見事でした……。
すぐにでも父上のもとへ行きたいが、きっと今は母上やドゥドゥー、危篤の報を受け駿馬で駆けつけたフラルダリウス公が、父上の傍にいるだろう。私が向かえば彼らは譲ってくれるだろうが、譲ってしまうのだ。彼らの別れを惜しむ時間を、私は奪いたくない。
だから、私はいつも通り仕事をこなすことにした。ここ数年は父上の補佐官と称して、討伐や渉外などの身体の移動が付くものはほとんど私が担っていた。変わらない。政務も行うようになるだけだ。何も、変わらない。変わらないでほしい。
「では、手筈通り諸侯と大司教猊下に訃報を知らせて、秘匿に葬儀を行う。民への公表は翌節。戴冠の儀は翌々節か、せっかくだから雪解けの頃でも、聖教会との折り合いの良い時に……──」
私は執務室に来る人去る者に淡々と指示を出していく。
「──父上の予定されていた会議の類は一週から最短でも一節延期してほしい。それと、退官を望む者を募って、その分だけの雇用や所属異動を……──」
執務室を訪れる者の中には、泣いている者もいる。悲しみを隠しきれない者も少なくない。一方の私は──、取り乱すなんてとんでもない。私は正式に王になるのは後となれども、事実上の彼らの王なのだから。
悲しくないのではない。私は、父上の望むことをしているだけだ。これからは、これからも、父の跡を継ぎ、皆が日々を紡げるように働く。これが私の役割。生きる方法。それだけを考えて生きていけばいい──
ぱんっ。
何かが弾ける音がした。
その音は驚くことに私の頬から鳴っていた。厳密には、私の右頬を平手で叩く音だった。
音のわりに痛みはなくて、ほんの少しぴりぴりする頬を押さえ、音を鳴らした人間を探す。
もちろんその者は目の前にいた。私より背が低い。母上より少し高いくらいの、やや青い
「お前、まだこんな所にいたのかよ!」
私が執務室にいることは何も問題ないはずだ。父上のもとへ行くには早すぎるくらいだ。あまりにも理不尽な言われように、私は僅かに苛立つ。そもそも、君は誰だ。王城に出入りする人間は、尖塔の門番や厩舎の下女まで知っている。この私が知らないということは、この者は部外者だ。どうやってこの場にやってきたんだ。
私が黙ったまま彼を見下ろしていると、少年は私の手を取り引っ張って先導する。思いのほか力が強い。私も力に自信のある方だが、僅かにこの者の方が上回っているようだ。
執務室にいる人間たちは彼を止めようともしない。それどころか、動きが止まっている。人形劇の黒子が、人形を動かす棒を放り出したかのように。何の表情もなくそこにいるだけだった。
さて、彼と執務室の扉を抜けると、王都を一望する小高い丘に着いた。彼は私の手を離すと、丘の淵に座って王都を眺めていた。
「ほら、座れよ」
私の状況や感情を知ってか知らずか、この礼儀知らずは彼の横の地面をぽんぽんと叩く。
「いや、私は戻って政務を続けなければ……みな困るだろうし」
「王子がひとりいなくなっただけでボロボロになるような政治でもやってんのか?」
私たちの築いてきたものを挑発するように言われ、流石の僕も頭に来た。
「そんな訳ないだろう。武官も文官もみな優秀な者ばかりだ。少しくらい長がいないくらいで立ち行かぬ訳ないだろう」
「じゃあ、ちょっとくらい良いだろ」
少年は未だ王都を眺めている。我が故郷は、城や街の白い壁が昼過ぎの陽光を反射して輝いて見えた。
その情景が美しくて、僕は彼の横に座った。
「もしかして、君も私が王になるべきではないと言うのか?」
幼い頃に抱いた不安は、いつだったか誰かに背を押されて消したはずだった。
それなのに、こんな愚問を口にしていた。拭いきれなかったのか、ここに来て不安が再来したのか、僕には分からない。
「はあ?」
僕だって意外な発言に、少年も意外を超えて呆れたように聞き返してきた。
「だって。僕の紋章は、昔……人を不幸にするって言われてきたんだよ。僕が王になったら、国のみんなを不幸にしてしまうかもしれない…………」
何でこんなことを言っているんだろう。でも、今言わないと、いつの間にか根付いて取り返しがつかないことになっていたような気もして、僕の口はするすると言葉を吐いていく。
「飢饉が起きたり、暴動や戦争が起きるかもしれない……」
みんなが悲しむことは、歴史書の中で学んだ。それをさせないために、父上がどれだけ尽力したか、知っている。それを……僕は無駄にしてしまうかもしれない。
「なるほど。自他問わない不幸な事象を、自分のせいにするんだな」
半ば馬鹿にするような物言いに、僕も反論する。
「君に何が分かるって言うんだ! 皆の悲しみを背負い、贖罪のために生きる苦しさを……ッ」
両親の半生を聞いた日、僕は眠れなかった。苦しみを負いながら、それでも戦うお二人の強さと辛さを知った。尊敬する気持ちと、二人のようになれるか不安な気持ちと、弟や妹にそんな気持ちをさせたくないって決意と、いろんなことが思い浮かんで、眠ることなんて許されなかった。
「飢饉が起きるのは紋章のせい、戦争が起きるのも紋章のせい……?」
少年は確認するように聞いてきた。そうやって言葉にされると、論理性がない気もするが、実際に僕が言ったことだ。頷くしかない。
「なぜ民草の食べるものが無くなったか調べもせず、新たな道を拓かず……争いの種に目を光らせず、不満を拾いきれず、大義を掲げて人を死なせる……」
「な……」
少年は冷たい表情で淡々と語る。何でそんな酷いことを言えるんだろう。
「それは全て自分のせい、苦しみを負えば良い。……何てラクな道だろう、と思って」
「…………」
悔しいけれど、彼の言うとおりだ。
「雁字搦めの思考に拘束され、俯いて現実を見る努力をせずに停滞する」
続けられた言葉は、僕の生き方や考え方を捉えていた。
厳密には、昔の僕の考え方。ブレーダッドの紋章を持った弟が生まれたなら、彼が継いだ方が王家としての体面が保てる──と言いながら、僕は王の位から逃げようとしていた。
そんな迷いを抱えたまま生きていた。でも、確か……。
「気付いた?」
あの時も、この少年に諭されて、自問自答し続けて、僕は──私は、答えを出したのだった。
「……ごめん。また囚われるところだったよ」
少年は僕の言動を赦すように首を横に振った。
「未来を拓けよ。留まって、抑えつけるだけじゃ進めない」
言いたいことは分かるが、彼の望むことは分からなかった。僕は首を傾げる。
「だー! 臣下や兄妹の前じゃ泣きたくないから我慢してたんじゃないのか? 泣くなら今しかないぜ?」
──僕すらも無意識に閉ざした思考を、彼は開けて照らした。
彼みたいな存在は、何と呼ぶんだっけ。物語の中で、新たな展開を生むために立ち回る、少し悪戯好きな仕掛け人のこと。まるで昔の僕の考え方と真逆な存在だ。
と、その前に──。
「……父上……っ………」
彼の存在の答えを見つける前に、僕は父を失った悲しみに心と身体を委ねることにした。悲しみは涙になって溢れて止まらない。もっと話したかった。もっと剣を交わしたかった。共に歩みたかった。また抱きしめてほしかった……──。
少年は僕を見ていなかった。未だ輝く王都を見つめていた。
「誰も見てないから、いっぱい泣けばいいんだ」
優しい声が僕の心を満たしていく。
そして。
「お前には立派な剣と翼があるじゃんか。ダヴィード……」
彼は私の名を呼んだ。呼ばれた瞬間、全ての道が繋がったように、全て思い出した。全て分かった。
私の涙は雨となり、私の嗚咽は風となり、やがて風景は嵐の中の森へと移る。雷の鳴る音が遠くで聞こえる。
私は全てが分かった驚きと安堵と、心身の疲弊から、身体の力が抜けた。からん、と私の剣が手から落ちる。
がくりと膝をついた私の横には、倒れ込み意識を失っているダヴィードと、彼に回復魔法を掛けるニカがいた。
「兄上が……! ブルトガングを離した!」
そうだ、私は結界の干渉を受けて魔獣に身を落とすところだったのだ。
「心配をかけた。本当に、危なかった……ありがとう、ニカ」
ブレーダッドの家を継ぐ夢現を見たことは、偶然ではないだろう。私は理学や魔法の類には疎いが、確かにニカの存在を感じた。だから、弟にはどれだけ感謝しても足りないだろう。
そして、そこから抜け出す最後の手助けをしてくれた──
「……ダヴィードも、ありがとう」
私は、嵐にのみ身を委ねることは拒む。持つ力も持たぬ力も、私そのものだから。足掻けるだけ足掻いてみせる。ニカやリーザの力も借りながら。
それを教えてくれたダヴィードに、感謝を述べた。
と、ほのぼのしている訳にはいかなかった。ニカが青い顔して現状を伝える。
「アリスタフさんにも結界から魔力が飛んできて、気絶して、時々……脈が途切れる」
「そんな……!」
殺しても死ななそうな、不敵な笑みを浮かべるダヴィードの命が途絶えんとしていることは、私にとっては信じられないことだった。
狼狽える私たちを叱るかのように、近くに雷が落ちて雷鳴が響いた。