俺はある家の前にいた。嵐は止んでいた。周囲は森で、相変わらず霧靄に包まれて遠くまでは見えない。近くに小川が流れていることは実際に渡って来たから分かる。やっぱり煙突からは灰色の煙がたなびいていた。山の管理小屋や小領主の避暑地のような立地と佇まいだが、いやに生活感のある家だと、改めて思う。
この家は、実際に見たことはないが、知っている。
俺の腕の中では、モーリスと思われていた魔獣から出てきた男の子、ダヴィード君がすやすやと寝息を立てていた。
俺の心臓の紋章石、ミロスラヴの方のダヴィードの血、ニカノールの魔力を貸し与えて、俺たちは獣の身体と人間体を完全に分離させることができた。
もっとも、結界の術式の中に「子どもの命を守る」内容が入っており、紋章石の支配からダヴィード君は解き放たれ、あとはどうにかして魔獣の身体と人間の身体を別つだけだったのだ。そのためには同じ紋章石が必要だった。
異世界からやって来た俺たちは、俺の紋章石から力を送って、魔獣の中のブルトガングを反応させ、その隙に身体を崩壊させることで為し遂げることができた。
彼からは、懐かしい匂い、特にラヴァンドラの香りがする。母の好きな香りだったそうだ。俺も、同じ匂いを嗅いでいたかもしれない。
……とすると、デアドラの夜の夢は、やっぱり予知夢だったのではないか、なーんて疑問が立ち上る。不可解な現象を否定ないし解明する理学が大好きな俺が思うほどだから、よっぽどなことだ。ほんとに。
さて、今までと同じように、立ち上る煙をぼんやりと見ていた。
「ダヴィードおにいちゃん?」
ふと、足下から小さな声がした。見ると、ダヴィード君の妹が俺たちを見上げていた。柔らかそうな黄金の髪を持つその子は、透き通る碧眼を宝石のようにくりくりとさせてこちらを見つめている。よくよく見てみると、ミロスラヴの方のダヴィードや、エリザヴェータに似ているようにも感じる。同じ親を持っている兄妹だからかもしれないけれど。ダヴィードは色味が同じで、エリザヴェータは女の子だからそんなもんかな。
彼女は俺の返答を待っているのか、じっと俺の目を見て離しはしないが、続きを話してもくれない。
しばらく無言で見つめ合っていたが、俺はしゃがみ込んで、彼女に兄の寝姿を見せながら言った。
「ダヴィード君が帰ってきたよ」
俺がそう言うと、彼女はぱあっと顔を明るくさせて、踵を返して駆けていく。
「おかあさん、おとうさん。ダヴィードおにいちゃんがかえってきた!」
裏口と思われる部分から家の中へと入って行った。それにしても、可愛い。お兄ちゃんを見た時の驚きと喜びに満ちたお顔よ。お兄ちゃんが大好きなんだな、いなくなって寂しかったろうな、とか色々考えてしまう。
そうこうしているうちに、玄関が勢い良く開かれ、かの女性が飛び出てきた。こちら、もといダヴィード君を見るや否や、麗しいお顔は今にも泣きそうな表情へと変貌し、そのまま駆け寄ってくる。俺はダヴィード君を彼女に任せた。彼女はダヴィードの息を確認すると、泣きながら彼を抱き締めた。
「もう二度と、目にすることすらできないと思っていたわ……」
ダヴィード君は母の腕の中で相変わらず眠っている。マリアンヌさんは涙を指で散らしながら、我が子の寝顔を愛おしそうに見つめる。
「“ダヴィード”」
その名前は、俺のために呼ばれない。けれど、不思議と俺のことも呼んでくれたように感じた。
……真実はそうじゃなくても、俺がそう感じたという事実は、誰にも変えられない。だから、それでいい。
「会いたかった……」
うん、きっとダヴィード君もだよ、マリアンヌさん。
子を失う絶望の中から真逆の希望を拾い上げた彼女にとって、俺は何にあたるのか、俺はもう分かっていた。
母というものがよく分からない俺にとって、その眼差しその温もりは物語の中の幻想だった。包み込まれる温もり、掛けられる愛のことば。記憶の残滓に残っている印象は、想像で補完する。とても覚えていない実感は、別の方法で享受する。俺の欲しいものが物語の中の幻想ならば、自分で飛び込んで現実を作れば良い。
もう二度と会えなくても、決して思い出すことができなくても、そういうことはできる。新たな道を拓くことができる。多くの人に支えられて歩んできたこの道の先に、お二人がいなくても、この道の源流はお二人だという事実が、俺の歩を進めてくれる。
その力をくれるのは──。
視界はある意味不自由だった。ダヴィード君とマリアンヌさんを見つめていたから。まるで呪いのように、俺は二人を見ていた。そのため、玄関口から現れたその人にもすぐに気付くことができなかった。
「ダヴィード……?」
金の髪、隻眼の碧。黒の鎧。謎の騎士が兜を取り去った姿、ダヴィード君の父親ディミトリさんだった。俺が憧れ続け、追い続けていた父の姿とほとんど同じ見た目である。
色素の薄いほぼ白色の髪を持つ俺を見て、ディミトリさんは息を呑んだ。俺の肩をがっしりと掴み、俺の顔や髪をじっと観察する。そして、同じ色で俺の目を見つめ、問いかける。
「その髪……。痛い思いはしていないか? 辛い思いはしていないか……?」
人として最大限の心遣いをその言葉の中に見た。やっぱりこの人は優しい人だ。
心の底からの言葉は愛憐と同情を含み、俺を包み込んだ。俺はその柔らかい殻から抜けて、大きくうなずいた。
「はい。“もう大丈夫”です」
答えた言葉が全てだった。
「そうか。……良かった」
ディミトリさんは、俺の言葉の本当と嘘を見破っただろう。だが、それを踏まえてなお、俺が苦しみの中にいないことを喜んでくれた。
「……ありがとう。ダヴィードを救ってくれて……」
背後から、マリアンヌさんの声がした。俺は振り向く。ディミトリさんも二人に寄り添い、我が子の帰還を実感するかのようにダヴィード君の頬を撫でる。
たとえ獣の姿でも生きていてほしいと願い、それを打ち破られ、しかし生きて帰ってきたダヴィード君。マリアンヌさんは、何度も礼を俺に言ってくれた。
「仲間たちのおかげです」
事実ながらもこうして言葉にするのは恥ずかしい。照れくさい気持ちから、何か別の話題を探さなければ、と思考を回転させて見つける。あ。先生からの伝達事項、忘れていた。
「あとで先生が軍医殿を遣わすとか何とか言っていたので……もしよろしければ、診せてあげてください」
「ええ。そうね。……そろそろここを出る良い契機になるでしょう……」
「そうだな……」
ダヴィード君を抱え、微笑みかけるお二人の姿の中に──俺が知っているはずもない、かつての両親の慈愛を見た。美術画に写る聖人のように、街中で見かける親子のように、三人と俺たちはそこにいた。崇高だが手を伸ばせばすぐそこにある。俺は頬を緩めて微笑んだ。
俺はこの光景を目に焼き付けて、目を閉じて、もう一度、開けた。
「それでは、俺はここで……」
お暇する旨を伝えると、ディミトリさんがそれを止める。
「まともに礼も詫びもできていない。もう少しここにいてくれないか?」
大変光栄で、大変喜ばしいお申し出だが、きっとこれ以上いたら戻れなくなってしまいそうだ。それはそれで大変困るので、首を横に振る。
「いえ。俺はここに来ることができただけで十分です!」
これも本心。戦って生き残って、異世界のダヴィード君も救って、お二人の心を救うことができて、それをこの目で確信できて。これ以上望むことなんて何一つとしてないのだから。
「あのっ、せめてお名前だけでも教えてくれませんか?」
踵を返して去り行く俺に、マリアンヌさんは引き留めるかのように声を掛ける。子が母に縋るように。
ここは「名乗るほどの者ではございません」などの模範解答が良いのかもしれないが、枠にはまって何も残さないのはズルい気がした。
背中を見せた時点で俺は既に涙目だったが、最後の気合いで涙を引っ込め、振り返って、人生で一番の笑顔で答えた。
「“ダヴィード”です!!」
同時に、用意しておいた魔法を展開させる。魔力が弾けて光り煌めく簡単な魔法。一時的な目潰し、索敵や信号弾にも使える。それと、涙を隠すのにも使える……かも。
「どうか、どうか……、幸せに……!」
転移魔法「レスキュー」の魔力を浴びながら、俺は泣いていた。俺は、愛と慈しみを教えてくれたあの家族に対して、心臓がばくばく言うほどの激情を抱えていた。
異世界の存在とはいえ両親に会えた喜び、彼らを振り切る哀しみと後悔と勇気、何だかんだ言ってやっぱり同じダヴィード君に嫉妬して、それでも俺には帰る場所がある幸せ、成し遂げたい偉業が存在する誇り……。頭の処理が間に合わなくて残った分は、涙がぼろぼろと代わりに述べてくれた。
ニカノールの「レスキュー」によって救護地点に迎えられた俺は、もはや放心状態で、身体にまともに力が入らなかった。
そのまま地面へ向かい、その辺に転がる小石と口付けを交わすのみになった俺を、がっしりと支えてくれた人がいた。ソイツは俺を力いっぱい抱き締める。背中がメリメリと音を立て、俺の身体は反れんばかりに押し上げられる。
「ダヴィード……、ダヴィード……。ダヴィード!!」
その名前は俺のために呼ばれ、その腕は俺を包むために力を込めた。
お前だってダヴィードじゃんかよ、って言いたかったけれど、声が出せなかった。涙がぼろぼろ流れていて、それどころではなかったからだ。
「君は、強い! 勇気があって、優しくて……全ての『ダヴィード』を救ってくれた……。私たちの凶星よ──」
俺しか分からないと思っていた俺の宿命を、どういう訳かコイツも覚ったようだ。
「だから、君は正しい。誰が何と言おうと、このダヴィード=ミロスラヴ=ブレーダッドが証明するよ……ダヴィード……」
そう言って抱き締める力を強くする。その声は、少し震えていて、今にも泣き出しそうだった。なんでお前が泣くんだよ。
そんな泣き出しそうな声で、彼は問う。
「──主よ。なぜ彼だけがこうして……両親との決別を繰り返さなければならないのですか──」
…………。
意味を理解した瞬間、俺はしゃくり上げた。肺の方からひゅっと情けない音がして、俺の激情を吐き出す準備を始めていた。──でも、俺は声を上げて泣いたことがない。……見つかってしまうから。
敵に、保護者に、仲間に。命を落とすきっかけ、俺が安定しないことへの心配……。そういうのは怖くて苦しくて嫌な気持ちになる。だから、人生から排除して生きてきた。飄々と笑って、剣と舌で受け流して生きてきた。
「…………うッ……。ヒッ………」
ダヴィードは、声を噛み殺して小刻みに震える俺の背を、それはそれは優しく撫でた。
「ここは異世界。そして君の世界から来た者は君だけ。どれほど泣いても、この世界の出来事だよ──ダヴィード」
耳許で聞こえる優しくて声色は、俺の虚勢を打ち崩してしまった。父のように広く母のように深く、俺を大切に想う心が、俺の心を紐解いた。
「うう…………、うわあ……うわああ────っ!」
なんて子どもみたいな泣き声だろう。空を見上げ、大声と共に出る号哭は、呆れるほどに悲しみと寂しさを露呈させていた。
そうだよな、なんっっで俺は何回も父上や母上とさようならしているんだろうな。
一回目は、お二人の死。これで二度と面と向かって会うことはなくなった。
二回目は、王国再興の拒絶。お二人が真に願うことを突き詰めて考えて、俺が死ぬ確率が高い上に多くの命を巻き込む戦乱を、俺は起こしたくなかった。火種になりたくなかった。仇も取らないと決めた。それ即ち、王国を愛していたお二人の心と決別をした、ってことだ。それに至るまでに、どれだけ俺は悩み、責められ、呵み、謗られただろう。苦しい決別だった。二回目と言えども、この中には何度もなんども断ち切った想いがたくさんある。
三回目は、さっきの夢。手を取るだけで、二度と手に入るはずもない理想を叶えられたのに、俺は自分の役割を果たすために突っぱねた。悲しくないわけではなかった。
四回目は、今。夢と違って俺があの家族の中に入ることはないけれど、自分からさようなら、って言って名残惜しさも見せずに去ったのは、それはもう「決別」と言っていいだろう。自分自身という人間を、他者もとい両親に依って証明することを拒んだのだから。
俺を抱き締めるダヴィードには、俺と同じ両親がいる。父君が病に罹り久しいらしいが、それでも両親はご存命。何より、生まれてからずっと一緒だった。俺と全く異なる。そも別れが訪れないのだから、理由が無い限り「決別」などするはずがないのだろう。別れを覚悟していることは別として。
真に理解できる痛みではないと分かっているが、それでも俺の中の大いなる悲しみを感じたからこそ、ダヴィードは俺を抱き締めてくれているんだ。何も言わずに、ずっと。
……俺は孤独だった。いや、両親が遺してくれたあれこれのおかげで、多くの人と出会い、別れ、生きてきた。両親からの愛も時を経て実感している。理解しあえた人もたくさんいる。だから、決してひとりぼっちではなかった。けれど、孤独ではあった。
いくら養子として迎え入れようとも、養父にとっては先王の忘れ形見。いくら弟子と見做しても、おやっさんにとっては薫陶を授けた娘の忘れ形見。アンが匿ってくれたり魔法を教えてくれたり、ドゥドゥーが守ってくれたり謎の組織が誘拐してきたり──、そういうのだって、結局俺を見てくれていた訳じゃないんだって思っちゃうことがあるんだ。
父上や母上が源流となる想いだからこそ、それが与えてくれる現状に対して「さみしい」なんて言ってはいけない、ってずっと思っていた。だから、誰かにこの寂寥を伝えたことなんて無くて、孤独、だった。
そして、異世界の存在を知り、そこで幾人かのダヴィードたちに出会っても、俺は彼らを救う存在であって、同列にはなれなかった。彼らには今もなお肉親がおり、幸せに暮らしている。それでいいし、そうであってほしい。でも、羨ましかった。なぜ違うのだろうと苦しくなった。同じ両親を持ち、同じ名前を持つのに──。
──けれど、今さっきダヴィードが言ってくれた言葉のおかげで、俺の孤独は照らされ、満たされた。呆気ないほど簡単に。飢えていたからこそ単純に。けれど、そんなことを言ってくれる・言えるのは、やはりダヴィードしかいないから、俺にとっては得難い存在だ。誰にでもできることではない。いつでもどこでもできる訳でもない。本来、世界は一つしか存在し得ないのだから。
だから、教える。俺の知りうる答えを。主に聞いたとて返事を受け取ることはできないだろうから。
「『ダヴィード』だから──」
鼻声のせいでうまく発音できない。鼻を啜り、短く呼吸して、伝えた。
「お前たちの幸せを、守りたいから……」
「──ッ」
俺の役割と想いを伝えると、ダヴィードは更にさらに俺を抱き締める腕に力を込めた。込められる力に、彼の想いの強さを感じる。想いの強さは力に比例し、俺の背骨は悲鳴を上げ始める。
「あ、あのさ……」
「なんだい?」
ダヴィードはあくまで優しく訊いてくる。何でも言ってごらん、といった優しさが大いに含まれる語調だった。
「そろそろ痛い……かも……」
大変言いにくいが、これ以上は常に胸張りをせざるを得ない体型になってしまいそうだった。
「……すまないね」
申し訳なさと恥ずかしさとを苦笑の中に入れ、ダヴィードは腕の力を弱めた。俺は何だか面白くなってしまって、涙まみれの顔で笑ってしまった。
「くくっ」
「……あはは」
ダヴィードも、少し涙を浮かべた目をして小さく笑った。
ありがとう、ダヴィード。俺はお前を救ったかもしれないが、お前の方がよっぽど、俺を救ってくれるんだぜ。
「ハハハ!」
「あはは!」
……ありがとう。
これにてダヴィード異伝は概ね終了。
残るはエピローグのみです。