第一節 紋章が謎
2–1 紋章が謎
紋章が謎
ガルグ=マク大修道院周辺は、フォドラ統一国家の中枢、つまり王都でもあった。フォドラの民の精神的な中心がセイロス教、統治的な中心が国家であるため、これらが近くに存在することは、大きな意味を持っていた。王都は政治を機能させる街として存在し、アンヴァル、フェルディア、デアドラなどのかつての国家の中枢は、大都市として経済の中心を担っていた。
ガルグ=マク自体が峻険な山岳地帯であるために防衛戦に強く、そのため守備兵を少なく置ける。余剰分をフォドラ各地の治安維持のための兵として割くこともできるそうだ。政治形態や中枢機関が違えばやりようも変わると知ると、ダヴィードたちは底知れぬ可能性に嘆息することになった。
「確認しておきたいことがあります」
大広間二階の執務室に入室してすぐ、ニカノールが口火を切った。
なお、移動中は国王と彼に連れ立って歩く青年や少女の存在が周囲に少なからず影響を与えていたため、国王による政治形態の説明を受けるに留まり、妙なことを口走ることはできなかった。
「あの時オレたちが協力要請を呑まなかったら、あのまま帰れたのですか?」
協力を強いられたとは思っていない。だが、事を成した後に安全かつ元の世界に影響を与えないようになっているのか、ニカノールは気にしていた。
国王はどちらでもあって、どちらでもあると答えた。
言うに、先日も同じようにある二人組が聖墓に現れたらしい。事情を話し協力を仰いだが「自分たちの世界のことは自分たちでどうにかするべきです」「自分たちには自分たちでやることがあるので」と突っぱねられたそうだ。その時はそのまま帰すことができたが、今回は予想外にも四人喚びだしてしまい、力を蓄えるのに一週間は力が欲しいとのことだった。もしくは、ミロスラヴとエリザヴェータの持つ英雄の遺産の力を借りればすぐに戻れるが、遺産は数日間使えなくなると伝えられた。曰く、国王の力はだいたい二人を行ったり来たりさせられる力だから、だそうだ。
「……それは確かにどっちもどっち、ね。あたしたちの世界の明日がどうなるか分からない以上、戻るために遺産の力は使いたくないわ」
アラドヴァルを握る腕に力を込めてエリザヴェータは呟いた。
また、今いる世界での時間は経過するが、戻る時は概ねもとの時間に戻れるそうだ。これについては、時空を移動したことのあるアリスタフが保証した。ただし、朗報ではあるが、この世界で一年過ごして戻れば一瞬にして一年成長したことになる・なってしまうと警告された。
「……まあ、どちらにせよ結界の謎は解かねばなりませんし、モーリスと戦うかもしれません。今はそちらに集中します。……地形や位置情報など、情報がもう少し欲しいですね」
モーリスについて知っているといっても、もちろん実際に戦ったことはないため、その力は伝聞情報でしか知らない。慎重な様子を見せるミロスラヴの発言に対し、国王は待っていましたと言わんばかりに、ある魔石を取り出した。
「件の、結界の魔力を取っておいたってやつですか」
ニカノールは魔石を覗き込みながら訊ねると、国王は頷いた。
魔力を分析しても、暗号ばかりでなかなか解析できないとのことだ。だが、モーリスの紋章ならびその因子を持つミロスラヴたちならば解決の手がかりを持っているかもしれない、違う意味でも待っていましたと言った。
「しかし……私は理学が絡んだ途端に足し算からダメになってしまうのですが……」
魔法の話になった辺りから青く沈痛な顔をして周囲の顔色を探るミロスラヴ。弟たちに見えないように、アリスタフの外套の端を引っ張って握る。まるで助けを求めんばかりの行動に、アリスタフはにやにやと笑う。
「モーリスの紋章を持つ者だけが手がかりに気付けるのかもしれないし、あるいは……」
兄の状態に気付いていないのか目の前の好奇心を満たす物体に夢中なのか、ニカノールは国王から魔石を受け取り、早速魔力の様子を観察し始めている。
ということで、アリスタフが助け船を出すことにした。
「……どちらにせよ、何かしらと交戦する可能性があるから、諸々の装備品を借りてきた方が良いかもなあ?」
魔石から話題を逸らす。国王に目線を遣ると、いくらでも借りていってくれ、と大変頼もしい返事が返ってきた。
「! それなら私が適任だと思う。武具類の目利きには自信があるんだ」
「そっか。じゃあエリザヴェータと一緒に頼む。俺たちの足りない分も適当に頼むよ」
ミロスラヴやエリザヴェータは訓練着とはいえ武具類は装備していない。アリスタフとニカノールは今の装備でも戦えないこともないが、鎖帷子や手袋は欲しいところである。
ミロスラヴは自身の分、弟とアリスタフの分を。年頃のエリザヴェータには本人の分を。アリスタフが身内ではないからこそ、それら言外の意を含ませることができた。
「分かった。任せてくれ」
心底ほっとしたように顔を緩ませ、ミロスラヴは頷いた。国王は側用人を呼んでくると一時退席した。
「よし」
淡々とした所作でアリスタフは腰に帯びた短剣を取り出し、ダヴィードと名前が刻まれた鞘から抜き去る。美しい銀色が、傾き始めた陽光を反射している。
「ミロスラヴ。覚悟はいいな?」
左手を開いてミロスラヴへ差し出すアリスタフ。反射光の輝きは、短剣の威力を表しているようだった。
「アアアアリスタフさん?」
「ああ。ひと思いにやってくれ」
アリスタフの手を取り、目を閉じるミロスラヴ。
「おおおお兄様?」
二人のダヴィードによる訳の分からない行動に、弟たちは右往左往するしかできない。
「うーん……」
添えられたミロスラヴの手を観察して、アリスタフはひとり唸る。
「どうしたんだい?」
「王子様の綺麗な肌を疵物にするのも気が引けるし、これから戦おうってのに手を切るのはいただけないよな……」
「フフ。なんだ、そんなことか」
アリスタフの思惑や思いやりやらを感じ取ったミロスラヴは、彼から短剣を奪い、慣れた手つきで己の左手の甲に一閃、切り傷を付けた。
ファーガス地方出身者に多い、白めの肌。彼もその特徴を身に宿している。赤い線のように、うっすらと血が滲んでいく。
「慣れているよ。傷もね、意外とすぐ消える」
その傷は痛みのうちに入らないのだろう。ミロスラヴは微笑みながら、傷口周辺を圧迫し、血をある程度纏めている。
「はい」
手を魔石に向け、一滴垂らす、というよりは擦り付けた。
「モーリスの紋章持ちの血が、反応するといいね……」
丁度戻ってきた国王と側用人に連れられ、ミロスラヴとエリザヴェータは執務室から去って行った。
アリスタフは短剣の血を拭き取り、鞘と腰帯に戻して、次はお茶会携行品入れから蝋板を取り出していた。
「兄上って、本当は理学できるんじゃないのかなあ……」
既に出現していた魔法陣が血に反応し、モーリスの紋章が浮かび上がり、陣の一部分が光っていた。それを見て、ニカノールは冗談とも本音とも取れない感想を洩らしていた。
ニカノールの疑問の答えは、アリスタフは分からない。何も言わないことにした。ニカノールの言葉をすり抜け、近寄って魔法陣を覗き込む。
「うーむ。反応して光った部分を読めばいいんだろうけど……でも、かなり古い言葉と言い回しだな……。重要な部分は図号式暗号になっている、と」
苦い顔をして暗号の暗号部分とにらめっこするアリスタフに対し、ニカノールは冷静に目の前の情報と己の知識を照らし合わせていた。
「これ、古い版のセイロス教の聖句にちょっと似ている気がする。その構文から推測してみよう」
「お願いできるか」
セイロス教にあまり親しくないアリスタフは、ニカノールに頼るしかない。もちろんだと言いたげにニカノールは頷き、既知の構文と単語の分かる範囲で読み上げていく。
「一、この……を知る者をお通しください」
「一、この……を標としてください」
「前半部分はこの二つだ」
構文から推測と言いつつ、暗号になっている部分を除き、ニカノールは見事に訳してみせた。セイロス教の信徒として、神聖王国の王族として、彼はセイロス教に関する史書や聖書をより深く理解するために古代語や神聖語を学んでいたのだ。
「結界に関する枠組み、方向性を示す命令文かな。暗号は……結界に入る云々だから紋章なり血なり入りそう。標は通る人間の判定方法?」
読み上げられた文を蝋板に書き付けつつ、得られた情報からアリスタフは推測を重ねてぶつぶつと呟いていた。
「……続きも読めそうです」
あっという間にニカノールが次を読むと言う。アリスタフはその速さの種となる深い知識に感嘆しつつ、読み上げを依頼する。
「一、人ならざるものを……してください」
「一、……の愛するもののため」
「…………」
光る部分を全て読み終わったニカノールは、深刻な顔つきで陣を見つめている。考えをまとめている、というよりは別のことを考えているようだった。
「おいおい、最後のボカした単語は暗号じゃないし、さすがの俺でも知って……おい?」
はじめは茶化すつもりで指摘を入れたが、ニカノールの額に浮かぶ冷や汗を見て、彼の中の深刻性を受け止めることにした。
「聖句に似ているが、いやに腰の低い言葉遣いのようにも見えるんだ……」
ニカノールの言葉の真意は、事実を知らないアリスタフは推測しかできない。だが、それでも推論を述べて先へ進む。
「結界を張ったのはモーリスかどうか、か」
先程ちらりと話題に上がった内容。核心すれすれの言葉でニカノールの心の内を探る。そのことを考えていた、とニカノールは静かに頷き、護身用の短剣を取り出した。
「……オレの血を使ってみる」
「試す価値は大いにあると思うぜ。けど、……いいのか?」
身体を切るのは問題ないか、そして、この先を知る覚悟があるのか、という二つの意味だった。ニカノールは返事の代わりにナイフで指先を切り、魔石に血を垂らした。
………………
新たに得られた情報、新たな暗号、解読……、それらを繰り返し、アリスタフとニカノールは結界の謎を紐解いていく。一方、進めれば進めるほどに、ニカノールの口元は固く閉ざされていく。
「……」
震えるニカノールの背中。アリスタフは彼の背負う青の外套をぽん、と軽く、音が鳴るように叩いた。
「いやあ、俺たち大手柄だな~。もうこれはお役御免、解放されるぜ」
重い空気を弾き飛ばすように、アリスタフは努めて明るく言ってみたが、ニカノールは黙り込んだままである。やがて、魔法陣から目を逸らしてうつむいてしまう。再び重い空気が沈み、戻ってくる。
「もう十分ってなったら、帰れるぜ。望むなら、な」
「……アリスタフさんならどうする? どうしたい?」
ニカノールからの思いがけない質問に、アリスタフはきょとんとしてしばらく思考を巡らせた。
「……それ聞いてニカノールの考えは変わるのか?」
色々と考えて、質問で返した。ニカノールはしばし考えたのち、
「…………いや。変わらないと思う」
静かに首を横に振った。
「オレは結界に入ることができる。恐らく火種を潰すことも……可能だ。先生やアリスタフさんの助けになりたい」
直後、ただ……、と小さく呟く。
「兄上とリーザは巻き込みたくない、……です」
うつむいてはいたが、目線は先に向いていた。彼の行動指針は兄の剣として彼を守ること、そしてまだ心身共に成長しきっていない妹も守ることであった。
アリスタフは彼に問うた。兄と妹を巻き込みたくない理由は何か、と。先の言葉は、ニカノールにとっては普遍的かつ形容しがたい心持ちである。太陽が東から昇るのは何故か? と問われたようにどう答えようか迷う。
「……オレのブレーダッドの小紋章は、父上と母上、兄上とリーザを守るために主が特別に与え賜ったのだと思ってる」
「……ほう」
セイロス教の信徒ではないアリスタフは、話の切り口はともかく規模感の大きさに興味を持った。
「家名とは異なる紋章を持つ兄上が紋章断絶の不安を抱かないように、リーザが将来の選択肢を狭めないように、ブレーダッドの紋章持ちが生まれるまで子を成したのではないかと両親が要らぬ噂に苦しまないように──兄妹の中では一番凡庸なオレに力を……って、根拠も無い理由を想像してきました」
ここまで話して、上手くまとめられないので少し長くなるけどいいですか、と焦った様子で訊ねるニカノール。飄々とはしているが、相手の状況を慮る誠実さも確かに在るようだ。
こりゃあ間違いなくお兄さんの影響デスネ~とアリスタフは少し口元を上げた。そのお兄さんの誠実さは、きっと父君の影響だろうとも想像した。
アリスタフは、四半刻ほどなら問題ないだろうと答えた。ミロスラヴたちがどこまで行ったか、選ぶのにどれくらい時間を掛けるか予想してのことだった。
ニカノールは静かに語り始めた。
…………
オレが武芸の類を始めた頃、兄上は何でもできるように見えた。子供の頃に三年と半年も違えば、そう見えるのは当たり前だけど。オレは高い所が怖くて、馬上すらも怖くて、兄上と狩りに行く時は走るか、兄上の後ろでしがみついて目を瞑っていたよ。……兄上は、オレの憧れなんだ。ずっと。
ある日、理学の先生が泣きながら「ニカノール様は天才です」って褒めた。今思えば、兄上が唯一全くできない理学だから、相対的にオレができるように見えたんだと思う。けれど、それを分かってなお、オレは理学を深めた。祈りを捧げた。劣等感の慰めだったかもしれない。でも、間違いなく兄上を助ける力だと信じている。
話が逸れましたね。
……兄上が王道を征くなら、オレはそれを助けたい。兄上は父上と同じで、優しくて全部飲み込もうとして苦しむ人だ。なら、少しでもオレが吐き出す手助けを、優しさにつけ込む悪に裁きを、兄上の代わりにオレが祈り、魔を阻む……。
きっと、紋章が無ければ、家督狙いだとか擦り寄りだとか揶揄され、対抗してリーザに王位をと言いつつ傀儡にしようとする輩も出て来て、政争が起きたかもしれない。だが、オレが紋章を持っていれば、全て逆の現象が起きる。ブレーダッドの紋章を以てしても敵わぬほどの王の器を皆に見せつけられる。それが、オレの役割でもある。
だから、兄上には揺らぐことなく王道を歩いてほしい。オレたちが今知ったことは、きっと、優しい兄上を悩ませる。王とは、国とは、家族とは……それを全部背負い込んで飲み込んで進む兄上に、毒を差し出す訳にはいかないんだ。次代の王の剣として……!
…………
ここまで話した後、リーザについては異世界に来たばかりの純心な少女にする話ではない、とさらりと言ってのけた。彼の兄が弟を守ったように、彼もまた妹を守りたいのだろう。そこには理由が必要ない。
「次代の王の剣……。うん……なるほどね」
彼の半生の告白ともとれる回答を飲み込んだ返事をして、紋章や王家の立場に苦しみながら道を決めたニカノールの強さを認めた。
アリスタフは魔石の魔法陣の展開を解除する。モーリスとブレーダッドの紋章が立ち消える。
「手伝うよ。二人が戦わず、知らずにいられるように」
知ってしまった痛みを共有する同志として、アリスタフはニカノールの手を取った。
「ありがとう」
「ただ、二人が頑固……いや、話の理屈が合ってたら、傾くかもしれない。あと、気付かれたら嘘は吐かないでおきたい。そこだけ承知願いたい」
了承を得たと思ったら、突然の裏切り宣言。ニカノールは一瞬ぽかんとしたが、この数刻で知り得たダヴィードという青年の性質を改めて認識すると、納得のいく言動だった。
「ああ、不条理が嫌い……。逆に言えば、理屈に適っていればそちらを好む……」
論理的な思考や理学的な知見を共通して持っているからこそ、ニカノールはアリスタフの立場の在り方を理解した。よく分かっているじゃないか、とアリスタフはにやりと笑って喜んだ。
「あと、優先順位を聞いておきたい。戦わせたくない? 知らせたくない?」
「……どちらかと言うと後者かな」
「わかった」
不安げな表情を見せるニカノールに、アリスタフはただ優しく明るく頷いてみせた。
やがて、件のミロスラヴとエリザヴェータが装備を抱えて戻って来た。国王は、側用人を二人に引き合わせた時点でセイロス教大司教の補佐官に連れて行かれてしまったそうだ。執務室にある山積された書類を見るに、なるほどご多忙であることは容易に推測できる。
「少し古い型ではあるが、私が士官学校の頃に使っていた武具と同種のものがあった。ニカやアリスタフにも馴染むと思うよ」
よほど武具の選定が楽しかったのか、ミロスラヴは少年のように瞳をきらきらと輝かせて語る。確かに、良質かつ使いやすそうな武具がその腕の中にある。
「厩にいた天馬のかわいい子を貸してくださるそうなのよ! 嬉しい!」
エリザヴェータも感動を抑え切れぬ様子で伝えてくる。手には既に天馬の毛並みを揃える櫛が収められている。
「もしも戦うことがあれば、ね」
喜ぶ妹の感情に水を差したくないが、それでも譲れない気持ちをため息と共に伝えるミロスラヴ。恐らく天馬を借りる借りないあたりでも似たようなやり取りをしたのだろう。
「まあ、機動力がある分には喜ばしいだろう。哨戒、撹乱、一撃離脱……戦略に幅が広がる」
アリスタフはあくまで情報に対して客観的な意見を述べて、二人の間の戦う戦わないの雰囲気を切り裂く。
「だが」
逆接の言葉をはっきりと言い放つ。
「天馬に乗るとしても、楽しい散策しかできないぜ」
「……どういうことだい?」
明らかに訝しむ表情を見せるミロスラヴ。アリスタフは自分に視線を集めさせる。
「兄上の血のおかげで分かったんだよ」
ニカノールはアリスタフの蝋板を取り、彼に渡す。アリスタフは黙って頷いて、この場における結論を述べる。
「結界の解呪方法が判明したんだ。ミロスラヴの血に反応して、有識者が見ればすぐにでも解ける術式が隠されていた。だから、結界の謎は解けた」
「ああ。だからブルトガングとアラドヴァルの力を借りて帰るか、一週間待って帰してもらうかのどちらかになったんだ」
アリスタフの援護射撃と言わんばかりに二の句を告げるニカノール。これで、彼らに取れる選択肢は二項のどちらかであるように錯覚させる。
「…………」
ミロスラヴは武具を持つ腕の力を僅かに緩めた。考えをまとめることに集中し、アリスタフとニカノールをぼんやりと見つめている。
「私はただ楽しく武具集めをしただけになってしまったんだね……?」
表情を変えず、武具類を床に並べる。そして、執務室の椅子に腰掛け、残りの三人にも座るように促す。
「適材適所さ。結果としてそうなっただけで……」
魔道の類はオレの領分だからさ、と言いながらニカノールが座る。
「でもね」
アリスタフとニカノールは、知らせないことに留意するあまり、ある計算違いを起こしていた。
「モーリスによって困っている人がいるならば、協力しなければ。何よりモーリス自身が殺戮の衝動に苦しんでいるのだから、私は最後までやり遂げるよ」
一つは、ミロスラヴの役割と責任を果たさんとする意思、正義感。ニカノールが次代の王の剣としての役割を全うしようとしたように、その強さは計り知れないものだった。
ミロスラヴは剣帯からブルトガングを取り外し、机に置いた。
「それが、ブルトガングを携えた私が、奇しくも呼ばれた意味だと思う」
お前たちを巻き込んでしまったことは申し訳なく思うよ、と眉根を下げて悔しそうに呟いた。
解呪できると言ってしまった以上、結界に入れるかどうか分からない、という理屈は通らなくなった。
そして、もう一つ。
「ニカ兄様、アリスタフさん」
純粋ゆえに不純物を排除して物事を考え、寡聞ゆえに疑問が浮かび、勇敢ゆえに切り込んで行く少女の存在を、アリスタフとニカノールは過小評価しすぎたのだ。
「謎、というより違和感……いいえ、疑問があるわ。結界は『誰が何のために』張ったの?」
「はて。私はモーリスが身を守るために張ったものとばかり」
理学の畑には無知でも、可能性を当てはめて仮説を立て、現状考えるべき内容を突き詰めるのがミロスラヴの思考法の一つ。解呪できると分かった以上、モーリスに考えが集中していたミロスラヴは首を傾げる。
「オレもアリスタフさんも、結界を張ったのは何者かまでは分からなかったよ。魔力の個人複数人の特定は難しくて、流石のオレたちでも無理だ」
半ば事実で、半ば虚偽であった。実際、魔力を逆探知して個人の特定をするのは理学を究めた者でもなければできないほどの難易度である。だが、予想はできる。できた。命令式や術式には、術者の特徴が浮かび上がるからだ。
「モーリスって、人を食べていたんじゃないの? なのに、人避けの結界を張るのは違和感なのよね。そういうのは分からなかったのかしら?」
半ば無意識に次兄を煽るエリザヴェータ。ニカノールはどうしたものかと逡巡する。
「目的なら分かるぞ」
火花散りかねん兄妹の視線の交差を絶つように、アリスタフが言い放った。
「命令式の中にあった。正直、不必要とも思えるような位置に……『わたしの愛するもののため』」
「わたしのあいするものため……」
きょとんとした様子でその命令式の文言を復唱するエリザヴェータ。
「神聖語の一人称はたった一つしかないから、便宜上『わたし』と訳しただけだからな?」
命令式の翻訳をしたニカノールは、「わたし」を女性だと思わせないために、真実から遠ざけるために付け加えた。
ここで、ニカノールが遠ざけるために使った発言を、絡め取って捕まえる指摘が飛んで来た。
「古代語ではなく神聖語なのか。結界は白魔法に近いんだね」
「……ッ!」
理学もとい魔法に疎い兄から指摘が飛んで来るとは思わず、ぴくりと身体を反応させてしまった。
遠ざけた手を絡め捕って引き戻し、その手を離さず目を合わせて尋問するかのようだ。無意識なのか、気付いていたのか。ミロスラヴは表情を変えないまま尋ねる。
「どういう式だったんだろう。教えてくれないか?」
「え、でも……」
理学から絡むから理解できないかもしれない、という意味と、命令式から隠したものも明らかにされてしまうかもしれない、という意味で、ニカノールは言い淀んでしまった。
「白魔法の命令式は式というより文だから幾分は耐性はあるよ。何より、私の血がどう影響を与えたか知りたいのだよ」
兄の爽やかな笑顔に負けたニカノールは、頷き、アリスタフに目線を向ける。
「全部……、覚えていますか」
つまり、全て書いてくださいという意味だった。蝋板を持っていたアリスタフは意を汲んで頷き、改めて命令式を列挙した。
「一、この『紋章』を標としてください」
「一、人ならざるものを『幽閉』してください」
「一、私の愛するもののため」
ミロスラヴは命令式をしばらく見つめた後、弟を直視した。
「ニカ。私たちは今、異世界にいる」
「そうだが……」
「私の血に反応した結界の示す『血』と『紋章』、そして『愛するもの』……そこから予測できることは、私も受け止めることはできる」
「…………」
聡明な兄がいずれ答えに辿り着くことは分かってはいたが、こんなにも早いとは思わなかった。
「異父兄弟、か……」
ミロスラヴが呟いた言葉に、ニカノールは目を丸くさせた。が、それより後の兄の行動に驚き、それどころではなくなった。
「ニカノーロヴィチ、覚えておきなさい」
ミロスラヴは立ち上がって机上のブルトガングを手に取り、ニカノールの肩に添える。ニカノールの剣が手近にない代わりにブルトガングを使った騎士の叙勲のようだった。
「複雑な思いがしないわけではないが、そのくらいで私の剣は曇らないということを」
「…………はい」
嘘は吐いていないが隠し事をしていた後ろめたさ、児戯のようなものであれ兄が自分を剣として信頼してくれている喜びから、ニカノールは複雑な感情を抱く。複雑さを噛み潰すように、絞り出すように返事をした。
物語のようなやりとりに目を輝かせていたエリザヴェータは、ふと、ある疑問に辿り着く。
「ねえ、お兄様方。この世界のお母様が他の殿方と結ばれていたとしたら、その方は結界に入れるのかしら」
ニカノールは俯いたままで表情を見せない。アリスタフは、答えの近いところに的確に切り込んで来る妹君の鋭さに驚嘆した。ミロスラヴは、大切な妹に非情な情報を伝えてしまった事実に行き当たり、ひどく狼狽えている。
「あたしだって、もう子どもじゃないわ。だから、もう、隠さずに教えて?」
少し寂しそうに微笑する彼女の表情は、確かに子どものそれではなかった。誰かの悔悟を受け止める慈母のようなそれは、母マリアンヌを思い起こさせる。
「……すみません、アリスタフさん。例の約束は一旦忘れてください」
「うん、分かったよ」
兄と妹を思いやる心と、隠し事をする己と、その兄妹のあまりに鋭い指摘に、ニカノールは白旗を揚げた。ただし、兄と妹が際どい指摘できたのは、ニカノールが普段使わない言い回しを用いたり、表情が暗かったり、ただならぬ雰囲気を感じたからだ。
ミロスラヴは意識的に、エリザヴェータは無意識的に、その荷を共に負わんとして論を重ねたのであった。
そして、アリスタフによって結界の詳細が語られた。
件の結界は二重結界であること、結界の中央に大元となる魔法があること、強大で強力な魔力の根源は紋章石であること。それは、二つ目の命令式が裏付けてくれた。
何故二重結界だと判明したのか。最初の命令式群は、ミロスラヴの血によって判明した。その後、モーリスの紋章以外の紋章の血を試したニカノールの血に反応して、もう一つの命令式群と、詳細な術式が現れた。冒頭の命令式は──
「……だから結界は二重だと分かった。二重というよりは任意条件って感じの論理構成だから条件を破る方法はむしろ倍であってそこが脆さと言えばそうなんだけどセスリーンの紋章ならともかくブレーダッドの紋章の希少性を考えたら──」
「アリスタフ、アリスタフ。私は理学が絡むと途端に理解が追いつかなくなるのだが……」
重要部分を話し終えたため、アリスタフの舌が勝手に理学知識を語り始めてしまったところに、ミロスラヴが慌てて制止する。
「聞いていると、何だかまるで……件の謎には、モーリスの紋章だけではなく、ブレーダッドの紋章も鍵かのような言い方ではないか?」
「うん」
迷い在る質問に、迷いなく、容赦なく頷いた。
その首肯の意味と、この世界の歴史を照らし合わせると、矛盾や疑問が湧き上がって止まらない。ミロスラヴは困惑した表情のままである。
「……そもそも不可解だったんだ。俺たちが呼ばれた理由」
「そ、それは、お母様からモーリスの紋章の因子を継いでいるからでしょう?」
「うん。ではなぜ、お前たちだけじゃなくて俺も呼ばれたのか。俺だけじゃなくて三人も呼ばれたのか。そして一番の謎。なぜ、モーリスだけではなく、ブレーダッドの紋章に呼応する結界もあるのか」
沈黙した一行に、アリスタフは静かに、そして淡々と仮説を述べた。
「俺の考えはこうだ。『この世界“も”、父上と母上が結ばれた世界』だから」
この場にいる全ての者に、役割がある。アリスタフはどうしてかそのような予感を抱いた。
「女神は、この世界の謎を解き明かす、最小にして最大人数を呼び出したんだと思う」
「……あたしは、女神様によるご都合かと思っていたわ……」
「リーザ、メッタなことを言うもんじゃないぜ」
「ニカも大概だぞ! やめなさい!」
閑話休題。
この世界の歴史や争乱の状態は、概ね三兄妹の生まれ育った世界に共通している。故に、この世界でもグロンダーズの会戦が行われたことは共有されていた。
「ちょっと待ってくれ。それだと、父上はグロンダーズの会戦後もご存命だったことにならないか?」
「なる」
相変わらず迷いなく頷いて、黒く塗りつぶされた事実を明らかにして照らして行く。
「俺の考えが合っているという確証もないから可能性として捉えてくれ。……もし、王国軍の旗頭を攫ったのか保護したのか分からんが、どちらにせよ王国にも同盟にもその存在を伝えず、およそ彼だけが入ることのできる空間を提供した。──国だのなんだのは関係ない、ただの人として生きる場所を与えた、というのは紛うことなき仁愛だと、俺は思う」
「そして、モーリスが生きているということは、母上はかつての呪縛から解き放たれていない。父上は全てを失っている。魔術を施されたか絆されたか記憶を失ったか分からないが、2人は互いに必要としあって……、つまり、あの結界はグロンダーズの会戦を生き延びた2人とその家族のための空間、ということか?」
アリスタフは両親の具体的な過去や想いは知らない。ミロスラヴから付け加えられた情報を受け入れつつ、自分の考えと同じであることを伝えるために静かに頷く。
「言い方を変えれば、戦地で敵将を拐い、王国軍に悼むこともさせず、同盟軍としては戦線を離れ、2人だけで平和に暮らす……『悪魔の所業』とも言えるがな……」
己の心臓部分を押さえつつ、非難するでなく同情するでなく、見たこともない2人の暮らしを想像しながらアリスタフはひとりごちた。
「……悪魔──?」
アリスタフに共鳴するように、ミロスラヴは胸元を押さえて、彼は未だ知らない紋章に刻まれた意味を呟いた。
アクマ、と呼ばれた胸が苦しい。ミロスラヴはこの世界の両親へと想いを馳せる。
「結界を張ったのがこの世界の母上で、目的が彼女の家族を守るため、ならば……」
ミロスラヴは苦悶の表情を浮かべながら言葉を紡ぐ。その表情を見て、ニカノールはああやっぱり聞かせるべきではなかったと唇を噛む。
「ならば……? その後にはあらゆる言葉が続くだろうけど、あえて聞きたい。ミロスラヴ、ならば、何だ?」
厳しい口調でアリスタフが問う。
ダヴィード=ミロスラヴという人間の本質を見たいからだ。
「私たちの正義はどこに在れば良い?」
「…………」
アリスタフは目を伏せた。舌打ちをしなかった自分自身を褒めたいくらいである。
「結界を壊すことで、誰かが悲しむなんて……。それがこの世界の──、というのは抜きにしても、だ……」
心優しく、そして優しさを実行する強さのある人間は、葛藤に苦しむ。古今東西の歴史書にも物語にもあらゆる記録がある。異世界に来てまで苦しみを甘受する青年に、同情するやら呆れるやらでアリスタフは何も返さなかった。
何よりも、苦しむあまり本人が何も考えない道を選びそうでいるのが気に食わなかった。
「か、帰るため、だ」
頬の筋肉が引き攣ったために、やや上ずった声で噛みながら、ニカノールが言い放つ。
アリスタフと結界の術式を分析して分かったことから、結界にはおよそ二つの紋章石が使われていることが推測できる。それがあれば国王の力が戻らなくても、あるいは無くても帰れるだろう、と。自分たちで帰る力を取り戻すのは十分な大義だと主張した。
「お兄様。モーリスの存在がスッポリ抜けてしまっているわよ。苦しむご先祖様を救わなきゃ!」
あくまで自分の手で始末をつけたいと申し出たのはモーリスの存在があったからだ。もっとも、このような真実が隠れているとは思いもしなかったが。
「ああ……、そうか。結界を張る以上はモーリスも……」
苦しみを終わらせることもまた慈悲である。ミロスラヴは俯いて黙り込む。
「あとは、フォドラの発展のためだ」
ミロスラヴの状態をよそに、不機嫌な様子で吐き捨てるように言うのはアリスタフ。
「パルミラとの国交における交易路の要所に、魔獣入りの、いつ壊れるかも分からん空間なんて在っちゃいけねえ。──そもそも! 助けて、って言われたから助ける」
それでいいだろ、とぶっきらぼうに言う。
突如として不機嫌になった彼が何を求めているのか、ミロスラヴは何の気なしに思い当たった。二人は互いに魂の双子のような存在だからだろうか。
「……すまない。何だかんだ言って、この世界の両親の存在に冷静さを欠いた」
ミロスラヴは一つ息を吐いた。次に顔を上げた時は、精悍な顔つきで目に濁りはなかった。
「我々の目的は結界の消滅であって術者の打倒ではない。そして、私は他でもない、私の家族のために戦う……。それが、この世界の両親と刃を交えることに繋がるとしても、私は譲らない」
これでどうだろう、とミロスラヴはアリスタフに笑顔を寄越す。アリスタフは当てつけかよ、と悪態を吐いたが、悪態と共に不満も発散させた。
「お前の信念はお前のために使うもんだ──決めたのなら手伝うまでだ。それがこっちの事情だから」
「事情とは君の信念のことかい?」
からかうように笑うと、アリスタフはぎろりとミロスラヴを睨み付けた。
「うるせー。具体的な話をしようぜ」
まるで子どものような反応、いつぞやのニカノールにもあった反応に、ミロスラヴは苦笑しつつもそれを受け入れた。
一つ咳払いをし、問い掛ける。
「では、結界を消したい我々に対して、術者は行動してくるだろうか?」
問いに対して、挙手し発言するはニカノール。
「間違いなく何らかの接触はあると読む。モーリスの紋章石が結界内にある分には何もして来ないだろうけれど、結界の解呪なり大元の破壊となれば話は変わってくるだろう」
「もし戦闘になったら、個人的にやりづらいということもあるけれど、何よりお強い、わよね」
「そうだね……」
仮想的に置いた敵ではなく、ほぼ確実に判明した敵だとすると、少なくとも三人は上手く立ち回れない可能性も出てくる。
「父上がグロンダーズでの戦いの傷が残っていない状態なら──」
そこまで言って、自然災害とただ真っ正面から戦うような恐ろしさに、かの人の強さを知る者は戦慄する。
「……せめて、なぜ彼らが結界内で暮らしているのか分かれば──」
蜘蛛の糸を手繰るように、戦わずに済む方法を考えるアリスタフだが、とにかく情報が足りない。
結界の現れた時期は最近だと判明している以上、尚更謎は深まるばかりだ。
「最近になって作った、やっとできた、とかじゃないかしら?」
エリザヴェータは蝋板に記された「この血を知る者をお通しください」を指差す。
「子どもが生まれたから、か……?」
ニカノールがぽかんとしながらも言う。お二人の子煩悩っぷりはその身がよく知っている。子どものためなら何でもやりかねん二人、しかもグロンダーズの会戦を乗り切った二人だ。モーリスを使って結界を張るくらいやりそうである。
「だとしたら、陛下に一筆頼んで、国で保護する体制を整えていただく……というのも交戦を回避することに繋がるかもしれないね」
「むしろそれが最適解な気さえするな、兄上」
光明が見えてきた面々は、国王を説得するための準備を始めることにした。
正解かどうか、正義がどこにあるか、それは誰も分からない。望む未来を拓くために足掻いて、その過程と結果がどうだったか、それをどう振り返るかしか、彼らにはできない。それしかできないが、その行為こそが──拓こうとする意志こそが尊いものだ。
「……」
アリスタフは話し合いの中で、そんなことを考えていた。