気付くと、俺はひとつの家の前にいた。周囲は森で霧靄に包まれて遠くまでは見えないが、近くに小川が流れていることは音で分かる。
もう作戦が始まったんだった。森の中だし、霧もすんごく立ち込めているし、例の結界の近くかな。危険ですから避難してください、って言いに来たんだっけ。
あやふやな記憶をよそに、そもそもこの辺りに人がいるのかを考える。
家の壁に沿って、割った薪が集積されている。少し離れた所に小さな納屋。冬が近いからか、煙突からは灰色の煙がたなびいていた。近隣に村があるような雰囲気ではない。そのため山の管理小屋や小領主の避暑地のような立地と佇まいだが、いやに生活感のある家だった。うーん、これは居るよなあ……。
この類の家を見たことがない訳ではない。帝都アンヴァルからゴーティエ領まで、北へ南へ行ったり来たりの俺は、杣人の家やら村八分にされた家やらを訪れたり、それこそ管理小屋に滞在したりなんてこともしょっちゅうだ。だが、目の前の家は、記憶に、無い。だからここに住む人のことも知らない。
腕の中には、懐かしい匂い、特にラヴァンドラの香りがするものが抱えられていた。その匂いのせいか、記憶に無い家に妙に郷愁の念を感じずにはいられない。立ち上る煙をぼんやりと見ていた。
「ダヴィードおにいちゃん?」
ふと、足下から小さな声がした。驚く心身を抑えつけて恐るおそる下を見ると、いや大変驚くことに、何とも可愛らしい幼女が俺を見上げていた。柔らかそうな黄金の髪を持つその子は、透き通る碧眼を宝石のようにくりくりとさせてこちらを見つめている。お人形さんみたいに愛らしいその姿、と表現してもまるで問題ないほどの子であった。
かわいらしさ讃辞はさておき、この子と目が合った瞬間、俺はミロスラヴの方のダヴィードのことを思い出した。厳密には、初めてアイツの出会った時に脳裏に過った、父上と母上の面影である。
お二方の姿は、自分の脳みそだけで覚えている範囲では細かい部分まで再現できない。今は帝国の官庁舎となったフェルディアの王城がまだ総督府だった頃に、当時のゴーティエ辺境伯やドミニク男爵が手を回して何とか引き取ってくれた夫婦の肖像画が、記憶を辿る唯一の手がかりだった。
ちなみに、母上の存在は隠されていたらしいから、王国作の彼女の肖像画が見つかれば王妃や嫡子の存在が公にされて、帝国からの干渉は実際以上だっただろう。ともかく、そういう背景もあったため、両親の肖像画はその一枚しか存在しないのである。
切れ長の双眸、顔料では再現しきれないであろう豊かな麦の金の色、晴れた日の朝に見る空の色、優しく笑う豊穣の大地の瞳──、寄り添うお二人の姿、姿勢の良さ──。その大切な肖像画すら、最後に見たのは8年も前になるため細部はあやふやだが、両親の姿、特徴を覚える分には十分すぎるほどだった。ゴーティエ元辺境伯様、お義祖父様にはこの先もずっと感謝し続けるだろうな。っと、閑話休題。
そも、ひとつの言葉では説明しきれない感情や思い出が突如として巡ったのは、先の少女に話しかけられたからである。意識を彼女に向け直す。彼女は俺の返答を待っているのか、じっと俺の目を見て離してくれないし、続きを話してもくれない。
「おかあさん、おとうさん。ダヴィードおにいちゃんがかえってきた!」
まず目線を合わせようと膝を曲げた途端、踵を返して彼女は裏口と思われる部分から家の中へと入って行った。
その直後、玄関が勢い良く開かれ、中からは女性が飛び出てきた。こちらを見るや否や、麗しいお顔は今にも泣きそうな表情へと変貌し、そのまま俺を抱き締めた。俺はラヴァンドラの香りを抱えているので、抱き返すことはできない。
「もう二度と、目にすることすらできないと思っていたわ……ダヴィード……」
空色の髪は水晶のようにきらきらしている。涙で赤く染まった瞳も、潤んでいて庇護欲をそそる。俺の知る母上の情報と、この女性が持っているであろう紋章を考えれば、疑いようもなくこの人は俺の母だった。
「会いたかった……」
心の底からの言葉は、温情と寂寥が混ざって俺の心を揺さぶった。
うん、俺もだよ、母上。
最後に母上に会ってから、もうすぐ二十年という長い月日が経とうとしている。母の代わりを懸命に務めてくれたメーチェもその一年と半年後にはいなくなったから、俺にとって母親というものはよく分からないものだった。包み込まれる温もり、掛けられる愛のことば。印象は記憶の残滓に残っているが、実感はとても覚えていない。
けれど、今このとき目の前にいる女性は、紛れもなく母の愛情を俺に教えてくれる。身の震える思いだ。
母の抱擁を受けている俺は、母より若っっ干背が高いため、視界は自由だった。そのため、玄関口から現れたその人にもすぐに気が付き、目も合った。
「ダヴィード?」
金の髪、隻眼の碧。色素が薄いために表現される美しい金の色は、大変珍しく、懐かしく、憧れる。背丈は俺の頭ふたつ分ほど高く、体格はがっしりとして頼もしい印象を受ける。そして感じる紋章の気配。俺が憧れ続け、追い続けていた父の姿がそこにあった。
色素の薄い金の髪を持つ父よりもずうっと色素の薄い、ほぼ白色の髪を持つ俺を見て、父は息を呑んだ。父は俺を母の抱擁から引き剥がし、潰れんばかりの勢いで抱き締めてきた。俺の抱えていたものは、母が代わりに抱き締めていた。
「その髪……。痛い思いはしていないか? 辛い思いはしていないか……?」
子に対する愛と、人として最大限の心遣いをその言葉の中に見た。
風の噂で聞いた眉唾な話に、ファーガス王には
その真相はともあれ、心の底からの言葉は愛憐と同情を含み、俺を包み込んでいた。今はその事実で十分だ。それより。
「そちら……こそ」
父の威厳を前にした緊張もあってか、少しばかり上ずった声で、彼の右目を覆う眼帯について指摘した。最後に会った時には無かったはずのそれは、何だか彼の受けた辛苦や災禍を表現しているかのようで、見るに堪えないくらいの気持ちになる。
「ああ、これか。大したことはない。こんなもの、ただの過去だからな」
大変驚くことに、父は、あまりに軽やかな口調で漆黒の眼帯についてのあれやこれやを吹き飛ばした。こんなに軽快で晴れやかな声で話す人だとは思っていなかったので、俺は目をぱちくりとさせてしまい、返事をするのが一拍遅れた。
「……だとしたら、俺のこの髪も、過去だ。とうの昔に、今まさに」
この髪の色になってから、早いもので十数年経っている。完全な白ではないため、老けて見えるわけでもないし、珍しい方の部類に入るだけで奇異な目で見てくる人間も少ない。それに俺自身、暁の空の、蒼と茜が混ざる境界線のようなこの色を気に入っている。だから過去なのだ。
ただし、この髪色になる経緯の際、人生で最も、両親に会いたい気持ちが爆発していたのも事実。だが、父がこの髪色について言及してくれたおかげで、過去になったのだ。今まさに。
「そうか」
父は微笑んで、俺の後頭部をわしゃわしゃと撫でた。後ろに結った三つ編みは、間違いなく崩れた。でも、そんなことどうでも良いくらいにくすぐったくて、誇らしくて、何だか照れてしまう。
「ありがとう。ダヴィード、帰ってきてくれて」
背後から、母の声がした。父の腕にがっちりと挟まれているのでそちらを向くことはできないが、涙ぐんだ様子は伝わってくる。ダヴィードの帰還を待ち望みながらも叶わぬ夢と思っていた母は、何度も礼を言っていた。父は俺を放ち、母を後ろから抱き締めた。
「ダヴィード」
「良かった、また会えて、本当によかった……」
「アリスタフ」
俺の心は、愛と慈しみを以て寄り添うふたりを見て、喜びと悲しみを爆発させていた。心臓がばくばく言うほどに、喜怒哀楽含むありとあらゆる感情が飛び回って、どれが俺の気持ちか分からなくなっていた。言葉に出来ない心を、涙がスウっと頬を駆けて行った。
「アリスタフ!」
さっきから、ここには相応しくない声で名前を呼ぶのが聞こえてくる。頭の中から反響したり、空間のあちこちからぼわぼわと轟いたり。それに応えたら、俺はここから離れなければならなくなる。
それは、嫌だ。
せっかくお二人に会えたのに。色々お話したいのに。お二人と同じで剣術と槍術が得意で、でも理学も修めて武勲や功績を上げられるように頑張って、ドミニク式訓練法を乗り越えて、エドマンドのおやっさんに師事して、士官学校を出て、今は外交官をやってて、そのうちダスカーとの折衝も任されるんだよ、って。きっと褒めてくださるだろう。偉いわね、ダヴィード。すごいな、ダヴィード。ダヴィード。……って。
「ダヴィード、ダヴィード」
母上が俺の名前を呼んでいる。愛おしそうに。父も俺を見つめている。隻眼の分、倍の愛情を込めて。
「アリスタフ!!」
まだ聞こえる。さっきよりも大きな声で聞こえてくる。いつもは明瞭で爽やかな声が、焦ってその名を呼ぶ。
とっくに分かっていたんだ、ここがやたらと現実感のあるだけの夢だってことは。予知夢とか予言だとか言われている時代もあったが、「疲れている時に見やすい、夢だと分かって見ている夢」って“俺の世界”では仮説が立てられている。
異世界に来て、戦って、頭を使って、遠征をして、異世界の両親の話を聞いて……、ってそりゃあ疲れる。だからこんな夢を見たのだろう。けれど、こんなにも幸せで哀しい夢だから、もう少し見ていたっていいだろう?
「アリスタフ!! 頼むから返事をしてくれ」
必死に俺を呼ぶ声が響く。同時に、赤ん坊が泣く声が、家の中からした。俺の泣き声だったのかもしれない。ミロスラヴの叫びが夢に反映されてしまったのかもしれない。本当に赤子がいるのかもしれない。
「僕の魂の兄弟……ダヴィード=アリスタフ!」
全ての音を掻き消して、恩情の青年は俺の名を再び呼んだ。
俺のもう一つの名を。
途端にお二人が動かなくなった。赤子は泣き止んだ。風を感じない。煙が動かない。川のせせらぎが聞こえない。まるで絵画の中のように、景色も動いていない。
俺はこの光景を目に焼き付けて、目を閉じて、もう一度、開けた。
「アリスタフ!」
眼前いっぱいに、金の髪碧の瞳を持つ青年の顔が現れる。両目のある碧が。
「良かった、目が覚めたか」
景色は二階建て寝台の一階に移っている。まだ夜中なのだろう。燭台に乗せられた一本の蝋燭がゆらゆらと揺れて、部屋をやわらかく照らしていた。
「何度呼びかけても、揺さぶっても起きないから。もう少しでニカを呼びに行くところだった」
ふう、と安心したようにため息を吐くミロスラヴ。俺はぽかんとしたままだった。
「何かあったのか?」
敵襲なり火事なり火急の用件だったなら、ニカノールを呼ぶだのする前にミロスラヴの膂力で運ばれていただろうから、俺の具合が悪そうだった、とかだろうな、と思いつつ、聞く。なら、そこはニカノールじゃなくて侍医か軍医じゃないのか?と聞きたかったが、ここは異世界だから頼みにくいのか、ニカノールの治療に絶対の信頼を置いているんだな、とか、勝手に疑問に思って勝手に結論付けてしまった。
「何、って……君がひどくうなされていて」
「俺が?」
まだ夢のことを覚えている。うなされるような事象も、あるとすれば父上に抱き締められた時に背骨が折れるかもと思っちゃったところだけだ。でも、呻くほどの痛みではなかったはずだ。
「今だってほら、泣いているじゃないか」
「え?」
やたらと冷ややかな風が吹いているなと思っていたら、それは夜だからではなく、俺の涙が空気に当たって熱を奪っていたからだった。
「怖い夢でも見たのかい?」
俺の手を取り、いつも以上に優しい声で問いかけるミロスラヴは、半分父上で半分母上みたいだった。心遣いは嬉しいが、俺はもう子供ではないので、首を振って違うと答える。まあこの動作が子供っぽいけど。
「どちらかと言うと、良い方に入りそうだけど……」
「どんな夢?」
優しく訊いてくるミロスラヴの声色は、部屋の蝋燭の優しい明るさも相まってより優しく聞こえた。
「……初めて……ほぼ生まれて初めて、顔のある両親とお話しした」
ミロスラヴの手がほんの少し力を込めた。コイツにとってのほぼ毎日は、俺にとって物心付く前に立ち消えた日常である。持つ者は持たない者にうまい言葉をかけられない。俺は知っている。べつに、うまいことを言ってほしい訳でもないけれど。
「……そうか。さっきお二人の話をしたからだろうか……。お茶でも淹れてくるよ。さっきの茶葉は安眠に良いだろうし……。眠かったら寝てても良いからね」
俺の見た夢について、ミロスラヴは何も言わなかった。言えないって覚悟していたのかもしれない。そして、彼がかつてそうしてもらったように、そうしてきたように、優しい香りのお茶を淹れてくるのだろう。
ぼうっと残る眠気に身を委ねれば、また夢の続きを見るかもしれない。それも良い気がするが、今は同じダヴィードの淹れたお茶の匂いや味、湯気の気配を感じるまでは夢と現の間を薄く延ばすことにした。