一瞬だけ、ダイゴはよろめいたがすぐに持ち直す。
その時にはもう銀髪は豊かな金髪へと変わっていた。眼の色も赤ではない。
「……コノハ」
その声ももう見知ったダイゴのものではなかった。彼の視線の先にはツワブキ家の使用人であるコノハがいる。
「フラン……?」
エルレイドがコノハを抱きかかえフランの下へと運ぶ。コノハは一目散に駆け出してフランに抱きついた。フランはコノハの顔をさすって、「ゴメンよ」と口にする。
「随分と、帰ってくるのが遅くなってしまった」
コノハは目に涙を溜めて首を横に振る。
これでよかったのだ、とサキは感じる。
全て元の鞘に戻った。デボンの事、ツワブキ家の事。一筋縄ではいかない事もたくさんあるだろう。だが、それも時間が解決してくれるはずだ。サキが身を翻そうとすると、「ヒグチ・サキ、さん」とフランが呼び止めた。
「これ、ボクの記憶にはないものだから多分、ダイゴの物なんだと思う。ずっと、これを握り締めていたみたいだ。彼の最後の声を聞いた。これを、サキさんに渡して欲しい、と」
フランの手にあったのは小さな青いしおりだった。挟まれている花が少しばかりくすんでいるが、色褪せてはいなかった。
「……あいつめ。この花の意味を分かって、私に返したのか」
受け取ってサキが呟く。フランが尋ねていた。
「その花の、意味は?」
「ミヤコワスレだ。花言葉は〝また会う日まで〟……。忘れないよ、ツワブキ・ダイゴ」
きっと一生、忘れはしないだろう。
崩れ落ちた戦場の中でサキは静かに涙した。
ネオロケット団は解体され、四天王はデボンという組織の分割に協力した。
デボンは大きな資本である親会社を子会社が買い取る形で収束した。社長は新たに就任し、ツワブキ家は完全に一線を退いた形となる。
その後、デボンがどのような運命を辿ったのかは記すまでもないだろう。寡占状態は解かれ、その技術は様々な企業へとオープンになった。デボン、という名前が神のような絶対性を持っていた時代はとうに過ぎ去った。
自分は実家に帰ったところ、酷く叱られた上に弟を紹介された。
そういえば産まれたのだったか、と今さら感じると共に名前を聞いた。
テクワ、という名前の弟はそっと温かな手で指を握ってくれた。
一度だけプラターヌの墓参りに参加した事がある。彼はあの騒動の中、恐らく埋葬されなかった人間だ。フランとコノハは間もなく籍を入れ、ツワブキ家によって翻弄された人生から、また新たな人生のスタートを切った。
フランとコノハは自分の親に当たるプラターヌの死に黙祷を捧げた。
「父さんがそんな事をしていたなんて思わなかった。ずっと、ボクの事も興味のない人だと思っていたから」
サキは自分の知りうる限りのプラターヌの事を話し、せめて奇人で終わって欲しくないと息子であるフランに言い置いた。
「サキさん。あなたは、どうなさるんですか?」
警察に戻る、という人間でもないだろう、と考えていたがその辺りはルイが手を回してくれたらしい。今回の事件の立役者として表彰状が送られた。
久方振りに顔を出す仕事場は代わり映えしたところはなく、アマミは相変わらず甘ったるいコーヒーを作っていたし、シマは書類を書いていた。課長であるハヤミも同様に落ち着いていたが、この場所が自分の帰る場所だったのだとサキは実感し、少しこみ上げた。
「ヒグチ君。今回半年以上音沙汰がなかったんだ。その責務として定年まで働いてもらおう」
ハヤミの声にサキは頷く。どうやら自分にはまだ帰る場所があったらしい。実家と、仕事場に。
……だがダイゴは。
たまに考えてしまう。もし、ダイゴがフランに肉体を返さなかったらどうなっていたのだろう。彼には戸籍がない。透明人間のようなものだ。居ても居なくともこの世界は回るし、きっと彼の不在など世界は気にも留めまい。
それでも自分の人生に一石を投じた人間であった事は間違いなかった。サキは立ち上がって報告書を手にする。
「課長、今回の事件ですが――」
文庫本を捲る指先の感覚はざらざらとしていて懐かしい。
何度この本を読んだ事だろう。
その度に思い出が蘇り、目頭が熱くなる。それでも涙を流さなくなったのは強くなったからか。それともそういう感情に鈍くなったからか。
妹の孫達が家を駆け回っている。そのうち一人が、「ばあちゃん!」と声にした。
「友達連れて来たんだ。いいかな?」
静かに頷く。耳も随分と遠くなってしまった。
「こんにちは。本がお好きだと聞いたので、俺も興味があって」
今時、電子書籍ではなく紙の本に興味がある若者は珍しい。文庫本から視線を上げずに若者の声を聞いていた。
「どういう本が好きなんだね?」
「あなたが読んでいる本も、昔、遠い昔に読んだ事があります。『失われた時を求めて』っていう本ですよね。その本を読んでいた人はこうも言っていました。〝人生にはしおりが必要だ〟って」
ハッとして顔を上げる。
銀髪が窓辺から流れてきた風に揺れ、赤い瞳が自分を映していた。もうすっかり年老いてしまった自分が反射して思わず嘆息をつく。
「……随分と長い時間が経ってしまったな」
「それでも、覚えていてくれたんですね」
文庫本にしおりを挟む。ずっと使っているミヤコワスレの花のしおりだった。
「もうおばあちゃんだぞ、私は」
「それでも」
すっと手を差し出される。安楽椅子から立ち上がり、その手を握った。温かな体温に、ああ、と感じる。
「本当に、帰ってこられたんだな」
「ずっと、言わなければいけないと思っていました。ようやく言える。借り物でなく、俺自身の言葉で」
頬を熱いものが伝う。彼はそっと口にした。
「――あなたの事が好きです。サキさん」
彼の腕に抱かれてサキは口にする。
「ようやく、分かり合う事が出来た」
窓辺から吹き込んできた風に文庫本が捲られる。
青いしおりが、失われた時に、光を与えた。
INSANIA ポケットモンスターHEXA5 完
あとがきにて完結します。ここまでありがとうございました