第68話です。
「……本当に来ちまったな」
塩素の独特な匂いが微かに嗅ぎ取れるこの場所。
ここは、男が衣服を脱いで海パンへと着替えるための更衣室。脱いだ服や荷物を入れる籠が並んだ棚があり、奥には洗面台がある。
そして、それらを通り過ぎて、更衣室を抜ける通路を歩いて行けば……そう、日本の高校ではなかなか設けられてないであろう、虹ヶ咲学園の屋内プールに繋がる。
ホント虹ヶ咲って、高校のレベルじゃない設備の多さだよな。そんな高校に俺は通ってるっていうことを考えると、戦慄してしまう。
まあ、俺たちは今からそんな設備を実質貸切で使っていくという、さらに贅沢なことをしようとしている訳だが。
しかも、この男子更衣室を使えるのは俺だけだ。おかげさまでこの空間は驚くほどの静かさである。
そう、ホントに物音すらも聞こえな……
「ん? 今のは……声か?」
ほんの一瞬、何かしらの音が聞こえた。聞くからに人の声だろう。
更衣室の壁の方から聞こえてきた気がしたので、その壁に近寄り、壁に自分の耳をくっつけて注意深く耳を澄ました。すると……
『果林先輩、やっぱり素晴らしいスタイルをしてますね……』
『ふふっ、そう? ……触ってみる?』
『えぇっ!? えっと、失礼します……』
『ぐぬぬ……せつ菜先輩、かすみんより身長が低いのにどうしたらそんな体になるんですか!?』
『えぇ!? ど、どうしたらと聞かれても……!?』
『むむっ! ずっと前から思ってたけど……エマちゃん、なかなかいいモノをお持ちですな〜。ほれ、ちょっと彼方ちゃんに触らせなさ〜い!』
『ひゃっ!? も〜、彼方ちゃんったら〜! くすぐったいよ〜!』
「……聞かなかった。うん、俺は何も聞かなかったんだ」
これは間違いなく、隣の女子更衣室から漏れてる声だ。
なんで男子更衣室から女子更衣室の声が聞こえるんだよ……こんな環境なら、女子の会話を聞き耳立てる輩が現れるじゃないか。
……待て、それって俺のことか? いや違う違う、断じて違う! 俺はそれを聞こうとして聞き耳を立てた訳じゃねぇ!
でも、事実として聞いてしまったんだよなぁ。途中まで内容もバッチリ聴いちまった訳だし、最早否定の余地もないか。
はぁ……もうプールサイドに向かおう。着替えは完了してたし。
俺はプールに繋がる通路を進み、プールサイドへと場所を移した。
「さて、ここで少し準備運動でもするか」
プールサイドには、まだ誰一人もいなかった。みんな、まだ着替え途中なのだろう。
25mの長さ、10コース分の幅を持つプールが俺を出迎えた。
みんなが来るまでの間に待っていたのだが、その時間がとても長く感じられた。色々気になることがあったからな……うん。
「徹く〜ん、お待たせ〜!」
そんな時を過ごしていたのだが、プールの入口の方から足音が聞こえ、そろそろ来るかと思ったのも束の間、彼方ちゃんの声が聞こえた。
そして、みんなが出てくる方へ目を向けた瞬間……俺の理性に衝撃が走った。
「やっぱり男子は着替えるの早いね〜。まっ、こっちは水着にこだわりがあるから! ねっ、かすかす!」
「かすみんです!! 徹先輩、どうですか〜? 先輩に『可愛い!』って言ってもらいたくて選んできたんですどぉ〜」
……oh my god.
更衣室からプールサイドに繋がる通路から姿を現した同好会のメンバー達のうち、なんと全員がビキニを着ていた。
それぞれ個性溢れるデザインで……より魅力的に見えた。
「……」
「徹くん? 大丈夫……?」
「……! す、すまん! 少しぼーっとしちまった」
予想を遥かに上回った衝撃に加え、彼女達の姿に思わず見惚れてしまっていた。
エマちゃんに心配されちまってはいかんな。よし、落ち着け……えっと、感想を言うんだよな。
酷く動揺して、二の句を継ごうとしていたその時。
「こーら歩夢! そろそろ覚悟決めていかなきゃ! みんなが待ってるよ!?」
「えぇ……で、でもぉ〜!」
「大丈夫だって! お兄ちゃんが歩夢のこと酷く言う訳ないじゃん! ほら、行くよ!」
「うわぁ!? ちょっ、侑ちゃん〜!」
……あれ、更衣室からまだ声がするな? この声は……侑と歩夢ちゃんか?
そういえば、人数的にもまだ全員揃ってなかったか。なんか歩夢ちゃんの悲鳴らしき声も聞こえたし、俺がどうだこうだって……一体どうしたのだろうか。
すると、入口から二人の影が見えた。
「みんな、ごめん! 歩夢がどうしても恥ずかしがっちゃって……」
「うぅ……」
「……!?!?」
二人の姿を見た瞬間、俺は大きく目を見開いた。
なんと、侑と歩夢ちゃんどちらともビキニを着ていたのだ。
お前ら……いつの間にそんなのを持っていたのか……!?
実は侑と歩夢ちゃんとは、中学生の頃に一度市民プールで遊んだ事があったのだが、その時は二人とも学校で使う水着、所謂スクール水着だったのだ。
だから、俺はそんな二人がビキニを着ていることに動揺を隠せないって訳だ。
今回のみ侑の荷造りに立ち会ってなかっただけに、全く知らなかったな……
「もー、お兄ちゃんびっくりし過ぎでしょ!」
俺の目が白黒していると、気がつけば二人が目の前まで来ていた。
侑が俺の顔を覗くように見て、悪戯っぽく笑っている。
「……! す、すまん。っていうか、いつそんな水着を買いに行ってたんだ?」
「ふふっ、お兄ちゃんには秘密で歩夢と一緒に買いに行ったんだ。ねっ、歩夢!」
「う、うん。そうなん、です……」
楽しそうに語る侑に対して、体を手で隠しながら顔を真っ赤に染め、涙目になりながら俯く歩夢ちゃん。
「なるほど……」
「うん! あっ、それより……! 歩夢の水着どう!? 歩夢が気になってたから、全力で買うようにプッシュしたんだ!!」
すると、侑は歩夢ちゃんの肩に手を乗せて、自信満々にそう訊いてきた。
……歩夢ちゃんは、この水着を勇気を出して着てくれたんだよな。それならば、ちゃんと真面目に感想を言わなきゃダメだよな。
「……うん。とっても可愛いよ。白いヒラヒラしてるところとか……あとはところどころにあるピンクのリボンとか。歩夢ちゃんらしくて、凄い似合ってる」
「……! ……えへへ」
なるべく具体的な感想を述べたつもりだが……よかった、歩夢ちゃんも嬉しそうで何よりだ。
「ほら! お兄ちゃんならちゃんと答えてくれるって!」
「ぐぬぬぬ……幼馴染強い……」
……てか、歩夢ちゃんはもちろんそうなんだが、みんな水着が似合い過ぎてるんだよな……」
「「「「……!?!?」」」」
「……ん?」
何故が唐突に、みんなが不意をつかれたかのように驚きの表情を浮かべたのだが……
……あれ、俺今何か言ったか?
「徹先輩……不意打ちはずるいです……」
「徹……そういうのはちゃんと個別に言いなさいよ……」
まさか俺、今の思考が口に出てたのか!?
……あかん、みんな顔を赤らめてしまっている……
このままでは気不味い空気のまま時が過ぎていってしまう。
「よ、よし! 時間も限られているし、もう泳ぐぞ!?」
「えっ? ……あっ、そ、そうだね! カナちゃん、今から睡眠しようよ!」
「えっ!? う、うん!! ……というか、そこはスイミングでしょ〜!?」
そんなこんなで強引ではあるが、プールでのトレーニングが始まったのであった。
……いや、トレーニングじゃなくて、最早遊びか。
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───水の中は、独特な世界が広がっている
空気中にいる時と、水の中にいる時とでは、聴こえる音の感じも違うし、見える景色というのも全く違う。
プールや海を泳いだことがある人ならば、その感覚が分かるだろう。
……まあ、なんでこんなことを語っているのかというとな……
……一人でただ只管泳いでいるからなのさ!!
いや、勿論みんなと遊べたら、とは思ったんだけども……やっぱり男なものなんで、なかなか女子のグループの中に入れないんだ。
それに、遊びの中では男が女の子に手加減しなきゃいけないこともあるよな。例えば、力の差が出る競技とか……
だから、そういうところでも遠慮してしまった故に、今俺はずっとプールの底を見ながら手と足を動かしているのさ。
……しかし、このままぼっちで終わるのは正直嫌だ。何かきっかけが……
そんなことを考えている次の瞬間……
「っ〜〜!」
「っ!?!?」
突然、俺の目の前に笑顔で手を振る愛ちゃんが現れたのだ。
至近距離で起きたことに俺は思わず泳ぐのをやめ、その場で地面に足をつけた。
「──プハッ……! ちょっ、愛ちゃん! びっくりしたじゃないか!!」
「あははは! だって、てっつーが一人で泳いでいるから〜。少し驚かせたくなっちゃって!」
純粋無垢な笑顔で、俺に話しかけてくれる愛ちゃん。
いや、急に彼女の顔がひょこっと現れてびっくりしたわ……まさか俺の真下に潜ってくるなんて思いもしないぞ。
「てっつーは、誰かと遊ばないの?」
「んー、それがな……ほら、男女の力の差ってものがあると思うんだけど、それを思うとなー……って感じなのさ」
はぐらかそうとも思ったが、困っているのも事実なので彼女に俺の思うところを話してみた。
「そっかー……あっ、じゃああたしと今から競泳やらない?」
「えっ、愛ちゃんと?」
「そうそう! てっつーもなかなか速い泳ぎしてたからさー。あたしも水泳部の助っ人やったことあるから、泳ぎには自信あるし!」
……なるほど。確かに愛ちゃんは運動神経が抜群だ。彼女となら、俺が本気を出しても良い勝負が出来るかもしれない。
「……本気を出そうと思うけど、いいか?」
「もっちろん! ていうか、そう来なくちゃね!」
こうして、愛ちゃんと競泳対決をすることになった。
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「じゃあ、100m個人メドレーってことでいいかな?」
「おう、それでいいぞ。負けないからな」
場所は変わってプールサイドのスタート台の前。
俺と愛ちゃん、どちらも意気込んでこのレースに臨む……のだが。
「何で私も参加させられてるのよ……」
何故かプールサイドで歩夢ちゃん、璃奈ちゃんと雑談していた果林ちゃんまで参戦していた。
というか……参戦させられたってとこか。何か悪いことしてしまったかもしれない。
「あっ……すまん、果林ちゃんは泳ぐの苦手だったりしたか?」
「いや、全然苦手ではないのよ。というかむしろ……」
「むしろ……?」
「っ……! な、なんでもないわよ! ほら、スタート位置に立ちなさい! 徹には絶対勝つわよ!」
「お、おう……!?」
唐突に焦り模様を見せる果林ちゃん。むしろの後には何が続いたのだろうか……
まあ、そんな疑問は今は置いとこう。レースに集中するんだ。
何故こんなに力を入れているかと言えば、実は水泳が趣味の一つだからなのだ。
特技とは言えないが、個人メドレーに含まれる4種の泳ぎはそつなくこなせる。
「じゃあ行くよ〜……よーい、スタート!」
愛ちゃんの合図によって、俺たち三人は勢いよくプールに飛び込んでいく。
泳ぎ方の構成としては、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、自由形、それぞれ25mずつである。
俺にも得意不得意があるので、どこで力を入れて泳ぐかが大事になってくる。
勝負は佳境を迎え、最終種目・自由形に入った。ここで大体の人はスパートをかけてくる。
ここまで、俺たちはほぼ差をつけずに勝負を続けている。
この差をつけるために……ここで力を出し切るぞ……!
俺が加速した瞬間、隣を泳ぐ果林ちゃんと愛ちゃんと一瞬差が広がったものの、彼女達も負けずについてくる。
まさにお互いバチバチの争い、デッドヒートとなっている。
そんな風に集中していたのだが、ふと視界の端っこで何かが見えた。
目線をそっちに向けると……コース外で、誰かが水中に浮かんでいる様子が見えた。
その人の水着は、水色の水玉模様。そこから、その子がしずくちゃんであることに気付いたのだが……
俺は、その子の様子が只事ではないことを察した。
そして、後先考えることなく勝手に体が動いていた。
気づけば俺は、溺れたであろうしずくちゃんの背中と腰を両手で支え、水上へと持ち上げていた。
「あっ……徹先輩!?」
「しずくちゃんのことは俺が診るから、みんなは遊んでおいて!」
「い、いえ! かすみんも行きますぅ! ……あぁ、思わずしず子に本気のスパイクかましちゃったよぉ……!」
……手首の部分を触る感じ、脈はあるし、息もあるな。とりあえず、一大事は回避出来そうか
しかし、珍しく焦りを丸出ししているかすみちゃんだが、果たして何があったのか……?
今回はここまで!
プール回は次回まで続きます。
ではまた次回。
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