涙が枯れてもまだ泣いた。いつの間にか雨が降り、頭から爪先までびしょ濡れになったがそんな事はどうでもよかった。誰よりも大好きで、心の底から尊敬していた先生が死んだ。その事実はアリサの心を穿ち、今にも崩れ落ちそうなほど体は震えていた。
「せんせぇ・・・せんせぇ・・・」
だがどんなに泣いても先生が起き上がる事はない。体に刻まれた幾つもの傷跡と服の下から滲み出る鮮血が彼の受けた仕打ちを物がっていた。
「せんせぇ・・・」
自分に血がつく事も構わずにその体に覆い被さり、これは悪い夢だ。目が覚めれば先生がいて、いつもと同じように授業が始まる。だがそんな事を自分に言い聞かせても現実は変わらない。やがて残酷な現実にアリサの精神は限界を迎え、眠るように力尽きた・・・
夢の中で先生の事を思い出す。今までにあった事、楽しかった日々、先生に怒られた苦い記憶・・・
『アリサ、ここが貴女の故郷なんですよ。』
心の中いっぱいに広がる、先生との思い出。
『アリサ、泣きそうな時ぐらい誰かを頼りなさい。』
『無茶する事に慣れてしまうと、いつか気づかないうちに壊れてしまいますよ。』
ちょっと授業に集中してなくて、怒られた思い出・・・
『アリサ、また居眠りですか。あまり居眠りを繰り返すようなら補習ですよ。』
『アリサ、あたり夜遊びをするものではありません。明日寝坊してもいいんですか?』
『アリサ・・・』
「・・・・・・・・・・せんせぇ・・・」
漸く目が覚めた。しかし目が覚めたところで現実は何も変わらない。血を流して横たわる先生が動きだしたりはしないし、消えてしまったエデンの子供達が姿を現したりはしない。
「何で・・・何で・・・」
頭の中で言葉が反響する。
「何で私ばっかり・・・」
また奪われた。彼女の過去はたった十三年しかないが、その十三年は圧倒的に残酷で、悲惨な人生だった。生まれて間もなく火災によって両親と生き別れ、今生きているのかさえ分からない。そして見つけた自分の居場所であるエデンさえも理不尽に奪われた。自分が知らない間に。
「うぅ・・・あっ、あっ・・・」
呼吸が荒くなる。息を吸う事さえ辛い。現実を前にまた精神が限界を迎えようとしていた時、側にあった剣の事を思い出した。
「先生の剣・・・私にくれた剣・・・」
(次に貴女が目を覚ましたら、森を抜けて東の街へ行きなさい。)
思い出した先生の言葉、東の街へ行けという言葉がアリサの心に響く。いつのまにか雨は上がっていた。
「・・・やらなくちゃ。」
震える足で立ち上がり、先ずは自分の部屋へと戻る。幸いにもこの辺りは荒らされておらず、変わらない様子の自室をひっくり返して旅立ちに必要な物を引っ張り出す。皆から貰った小さな袋に入るだけの荷物を詰めて、すっかり重くなった袋を背中に背負う。旅立つ間際に、木陰に置いていくしかない先生に目線を向けた。
「先生・・・行ってくるよ。」
小さな歩みは一歩一歩進み、悲しさと苦しさを振り払うようにその歩みは早くなっていく。森の中は風に揺れる木の葉が擦れ合う音だけが耳に入り、次第に方向と時間の感覚さえ曖昧になっていく。歩き続けるうちに次第に空は薄暗くなっていく。
「うぅ・・・疲れた、しかも暗いし・・・」
初めて触れるエデンの外、森に設置された看板を頼りに町を目指して進む。長距離を歩き慣れていないアリサの脚はすぐに痛みだし、何度も泣きそうになるがその痛みと涙を堪えて前に進む。一度止まってしまったら二度と進み出せないと思ってしまったのだ。
(頑張らなくちゃ・・・先生に東にって言われたんだから・・・)
しかし現実はそう簡単にはいかない。
(もう夜になった・・・真っ暗で何も見えない・・・)
森の中は夜になると一切の光が届かず、足元さえハッキリと見えなくなる危険地帯になる。本当なら夜も構わず突き進みたいところだが、既にアリサの体は疲労困憊だった。
「はぁ・・・はぁ・・・もうダメ、歩けない・・・」
疲れ果て、崩れ落ちるように座り込む。脚は自分の物じゃないみたいに言う事を聞かず、横になった途端電池が切れたように眠りについた・・・
《翌朝・・・》
「・・・ふわぁ。」
鳥の囀りと風が木の葉を揺らす音で目を覚ます。
「イタタ・・・」
流石に手頃な岩の上で寝るのは無謀だった。体中がこの上なく痛いし昨日の疲れも残っている。しかしこの程度で立ち止まっている暇はない。
「早く・・・、早く行かなくちゃ・・・」
必死になって歩みを進め、痛がる体に鞭を打つ。しばらく歩き続けた後に漸く森を抜け、今度は緩やかな坂道に出た。
「はぁ・・・はぁ・・・もう無理ちょっと休憩・・・」
誰に言うでもなくポツリと呟き、坂を下る道の脇に腰掛ける。まだまだ目指す先に街は見えてこない。今までにエデンを巣立った先人たちはこんなに過酷な道を通ってきたのかと思うと敬意を払いたくなる。やがて再び立ち上がり先を急ぐと、道行く先に一人の若者が立っている事に気づいた。若者の方もアリサに気づいて声を掛けてきた。
「君、そんなに急いでどこに行くんだい?それにその剣は・・・」
「行かなきゃいけないんです、東の街まで・・・」
「東・・・オールアンか。それなら僕の馬車に乗っていくといい、場所は荷台しか空いてないが歩くよりは・・・」
普通は知らない大人に話しかけられて妙に親切にされたら怪しむものだが、いかんせんアリサは疲れ切っていた。激痛を覚え始めた足は歩く事を拒否し、若者の馬車に乗る事を選んだ。
「ありがとうございます、こんなに・・・」
「いいよ、僕もオールアンに行く用があるし。」
馬車の荷台にアリサを乗せ、東を目指して進んで行く・・・
「そう言えば君、その剣はどうしたんだい?子供が持つには不相応な代物だが・・・」
「大切な人がくれたんです、大切な人が・・・」
また涙がこぼれ落ちそうになるが必死に堪える。だが必死に堪えてたあまり、若者が近づいている事に気づかなかった。
「全く、最近はいい時代になったものだ・・・こんな簡単に金目の物が手に入るなんて。」
若者は懐から短剣を取り出し、右手の短剣を振り回してアリサに襲いかかった。若者は盗賊だったのだ。アリサは慌てて飛び上がった拍子に荷台から転がり落ちて背中を地面に打ちつけ、襲いかかる若者から逃れようと必死に走り出す。だが彼女の脚は既に疲労困憊でゆっくり歩くのがやっとだった。そんな状態で走ろうとすればどうなるかは明らかだ。
「あっ!?あ、脚が・・・!!」
激しい痛みが骨の髄まで響く、あまりの激痛に脚を抱えてうずくまるが若者はすぐそこまで来ている。
「逃げるなよ?大人しくその剣をくれりゃ痛い目には遭わせないからな・・・」
「や、やだ・・・」
短剣を首筋に当てられて剣を要求されるが先生の剣を渡すまいと必死に剣を抱きしめる。だがそれは「痛い目に遭ってもいい」と言っているのと同じだ。
「そうか・・・恨むなよ、剣を渡さないお前が悪いんだ・・・」
若者はその短剣でアリサの首筋を斬ろうと柄を握る。だがアリサの首から血が出る事は無かった。短剣が文字通り何かに
「誰だぁ?せっかくの稼ぎを邪魔しやがって・・・」
若者が振り返った先にいたのは、1人の女性だった。左手に飾りの無い実直な剣を握り、背中に更に2本の剣を背負うその女性は左腕を大きく振りかぶり・・・
「フンッ!!」
・・・思いっきり投げつけた。投げられた剣が直撃した若者は断末魔さえ上げず、砕けた顔面から鮮血を噴き出して倒れた。
「あーヤダヤダ、まーた剣投げちゃったよ。
大変気怠そうにブツブツと呟きながら女性は自分の剣を拾い上げ、傍らに倒れ伏すアリサに声をかける。
「大丈夫?」
「・・・え?あ、はい・・・」
「よかったー、近頃は子供相手に稼ぐ悪党が絶えないんだよねー・・・ホラ、立てる?」
女性が伸ばした手をアリサは掴まなかった。
「あ、そっかー・・・そりゃあんなのに襲われた後じゃ怖いよねー。じゃあほら、これ見て。
女性は自分の右胸に輝く、銀のシンボルを見せる。
「私は王国近衛兵団第六隊隊長!王国と人々の平和を守るために戦う剣士なのだ!!」