流れる星の物語、あるいは危険な神器を捨てる旅の顛末   作:一星屋

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001 山来る

 最も清らなる水の底で、レトウは確かに丸く硬い音を聞いた。

 

 傍らの珊檎(さんご)の根を掴むと、白い珊檎布(さんごふ)を巻いた全身を翻して伝い登る。泥さえ巻き上げること無く石質の根に乗り上げると、手の平に彫られた樹形の紅い紋様に言葉無く呼びかけ、潜水面を下ろし耳を澄ませた。短い黒髪が、若い男の顔を僅かに撫でた。

 

 音は確かにあった。打金の音である。北極の暖かな風の流れに逆らい、岸の方から木陰の闇を貫いて間断無く届いていた。

 

 若年とは言え、レトウは戦士である。この拍子が何を告げるものかはすぐに分かった。緊急の事態があったのだ。

 

 拍子が心音に重なるのを感じながら、レトウは息を吸った。神器探しは打ち切り、行かねばならなかった。

 

 レトウは蜘蛛足にも似た珊檎の根の上に立ち、そして駆け出した。音の源へ、珊檎の森の外へと。

 

 一体何があったものだろうか。

 

 石で出来た珊檎の根から根へと、跳ねるように走りながらレトウは思った。

 

 打金の音の他には、ただ水が流れて泡を立てる音しか耳にはしなかったはずである。今でもそうで、気を使うべき音は打金の他にない。あとは珊檎の葉が擦れて石の音を鳴らすのと、レトウ自身の足音が追い抜いていくばかりである。

 

 音を伴わない、あるいは音の小さな何かが起こったのだろうか?

 

 その可能性は考慮すべきかも知れなかった。細々として、しかし無視できないことか。それともどこか遠くで起こって、村から伝えられた何かだろうか。

 

 村。そうか、村で何かがあったのかも知れない。

 

 極彩に綺羅めく葉の隙間から空を仰いで、しかしレトウは直ぐに前へと向き直った。狼煙の一つでも見えればと思ったが、村近くを見出だせる隙間はどこにもなかった。

 

 足音がおもむろに並び来て、微かに心を乱す。しかし木々の間に見えた影は他の戦士のものに違いなく、野営地を目指して纏まり始めたと思えば出口の近い徴でもあった。

 

 やがて、レトウは木々の間に闇の裂け目を認めた。その足を早めて一息に飛び出し、水上の森を抜ける。

 

 草生すなだらかな斜面の程近い場所に、父、ウシェンが硬い顔で打金を叩きながら立っていた。レトウに与えた顔立ちの中で目つきだけが鋭く、茶色の髪がまだ若々しかった。

 

 沿岸の地に足をつけるとレトウは一層に恐れ無き走りを見せて、ウシェンの隣を過ぎる間際は余程に事情を聞きたくもあったが、打金を用いた意思をないがしろには出来ず走り抜けた。

 

 高く高く、斜面を登る。並走する戦士たちを横目に見ながら、昨夜の野営地に足を向けた。

 

 荷物の多くはまだそこに置いてある。見張りの戦士も居て、彼が既に動いているはずであった。緊急の事態に応ずるのであれば、最適の場所であろう。

 

 近づき、野営の有り様が定かになると、レトウは初めて息の苦しさを覚えた。安堵が思い出させたに違いなかった。

 

 見張りの戦士は野営地に二・三の杭を打っていた。打金の螺子切りをつないで、珊檎布を巻いて強めた即席の杭である。テントのいくつかが傾いていて、骨の幾らかを抜き出したのも明らかだった。レトウと戦士たちは辿り着くと、訳も知らず言葉もないままに見張りの戦士を手伝った。何故かとは知れずとも、それが恐らくは必要なのだろうと。

 

 野営地の土は石が無く、しかし硬い。古くから用いられるこの野営地は、野営地としての機能を高めるために整えられている。石は深く埋められて基礎となり、寝心地のために被せられた土はよく踏み固められている。密度の高い土は杭を拒み、基礎となった石は硬く穿孔を阻んだ。

 

 それでもレトウと戦士たちは更に何本もの杭を打った。追いついた他の戦士たちが助けとなって、どうやら人数分は確保できそうだった。

 

 だが、全ては無我夢中の内の出来事だった。レトウも、追いついた戦士たちも、何故見張りが杭を打っていたのかはまだ知らなかった。

 

 レトウは叫んだ。

 

「一体、何があったんだ!?」

 

 見張りも叫び返した。

 

「狼煙を見ろ! 山が降って来ると!」

 

 見張りの言う事の意味を解さぬまま、レトウは二つ隣の山頂にある故郷の村を見た。三筋三色の煙が、村の端から上がっていた。

 

 紫。ミハシラを意味する煙。

 

 赤。山を意味する煙。

 

 黃。来訪を意味する煙。

 

 レトウはするりと振り返った。思うよりも滑らかに首は動いて、自分が恐れている訳ではないことを知った。ただただ、理解出来ていないのだと納得することさえ出来た。

 

 珊檎の森の、その向こう。背後のミハシラを望む。

 

 西の彼方から、東の彼方まで。光を呑んで黒々と輝く巨大な水の壁が、いつものように黙して聳えている。

 

 レトウは高く仰ぎ、自分の荷物から遠眼鏡を取って覗き込んだ。

 

 天の彼方でくねるミハシラは、そこでも黒々と輝いていた。しかしその流れを遡るうちに、輝きの強まりが見えることも確かだった。

 

 ミハシラが呑んだ光を返す何かがある。呑まれた光を更に飲み込んで、ミハシラの外まで押し返す何かが今、天の彼方からこの大地へ流れ着こうとしている。

 

 山、と納得するのはまだ難しかった。遠眼鏡から見てさえ、それは腕を伸ばした手指の爪と同じ大きさにしか見えなかった。ミハシラの大きさを思えば、小石のようなものだ。

 

 だが一息、一またたきの内に、それは大きくなりつつある。天の彼方のくねりを辿り、レトウ達がよく知る範囲へと近づくに連れ、輪郭は朧さをなくしていく。いびつな多角多面の球形もどきがミハシラの揺らめきに隠れて、チラチラとこちらを伺っているようにさえ見えた。

 

 レトウはいつしか見惚れていた。呆気にとられていただけかも知れない。ミハシラからの漂着物を見たことは何度もある。けれども、あれほど埒外の大きさを持つものは初めてだった。あの天の高みがどれほど遠いのか見当はつかなくても、そこに何かあるのがわかるなど尋常のものではない。

 

「しっかりしろ!」

 

 叱咤の声でレトウは目を覚ました。父が叫びながら、最後の一人と共に駆け上ってくるところだった。他の戦士たちもレトウと同じくなっていたのだろう、作業の音が止まっていたことに今更ながら気がついた。打金をつなぎかけ、珊檎布は巻かれる半ばで止まり、杭は持たれたまま遊ばれていた。誰もが天上の山に心惹かれていた。

 

 だがいずれの者にも焦りはなかった。ウシェンの隊が全員揃えば、備えが終わるのは早かった。互いのことを思えば、そうなることは知れていたのだ。遅れはただちに取り戻され、それぞれがそれぞれの杭に珊檎布でもって自身の体を結わえ付ける。

 

 山はもう、そこまで流れてきていた。今や人差し指と親指の間には収まらぬ程、その影を大きくしている。

 

 それでもなお間近ではない。影はたちまちのうちに巨影となり、巨影は程なくして山と呼ぶに相応しくなった。ミハシラの注ぐ大地の器、レトウ達が住まう北の冠と名付けられた山地を逸脱するものではないにせよ、そこに並ぶ山々と等しい威容を持つことは証明され、見かけ上はミハシラと変わらぬ幅を持つのではないかと思わせる圧を示した。

 

「伏せろ!」

 

 ウシェンの号令一つ。

 

 レトウたち戦士は杭にきつく結わえた体を伏せて、珊檎布と杭とをそれぞれ掴みながら足を開き、足元の山を固くとらえた。手の平の紋様への呼びかけは、絶え間なく行われ続けた。

 

 山が来る。

 

 球形もどきと見えた姿は思うよりもゴツゴツとして、大地を掴む鈎さえもっているようにも見えた。それ以上のことは一瞬に過ぎて、ほとんど知ることが出来なかった。

 

 そして、流れ来る山が戦士たちの見える限りから消えた。

 

 ミハシラの仄霞む根本へと山は滑り込み、大地の器は沈黙の波及をもってそれに応えた。

 

 誰かが息を呑む。

 

 それはあるいは、レトウ自身だったのかも知れない。

 

 衝撃が沈黙を追いかけたのは一瞬の後だった。

 

 沈黙に撫でられて滑らかになった体の全てを、衝撃が音と共に耕して行った。

 

 くぐもった戦士たちの呻きが、万物の震える音に揉まれて消える。喉の震えが自身の叫びのためなのか、衝撃によって起こっているのかも、レトウ自身にさえわからない。

 

 地が揺れる。

 

 空気が震える。

 

 水は漣打って留まらぬ。

 

 遠くない場所から、水の流れ込む音が聞こえた。それはすぐに地鳴りの音へ紛れて消え、何よりも自身の心音が耳を妨げた。音に満ちていた。音の底に埋もれては、何かを探すどころか身動ぎすら出来なかった。

 

 冷たく苦い味が舌の上に広がる。恐怖の味なのだろう。口の粘膜が灰を噛んだようにザラきながらベトついて、口の中で音が響かない。喉で起こった音が、喉で起こったままに喉から外へと響き出す。歯が痛む。きつく食いしばりすぎているのはわかったが、自分ではどうしようもなかった。

 

 腹の下で、山が遠ざかっていくのを感じた。かと思えば、次の瞬間には近づいてきた。そしてまた遠ざかり、再び近づいてくる。

 

 山が揺れている。乱れる頭の中でレトウはどうにか判断できた。

 

 しかもこの揺れは、山降りがもたらした衝撃のみにてなるものではない。

 

 その意味は、自分で導き出したモノながら解せなかった。

 

 次の瞬間には一際大きな離脱が起こり、そして接近が為されて、考えはすぐにかき消された。

 

 山の離脱と接近はそれで収まり、地鳴りもまた小さくなっていくようだった。小刻みな震えもまた消えていき、水面は何事もなかったかのごとく静まっていった。

 

 何もかもを押しつぶしていた音は、もはやどこにもない。

 

 それでも圧されていた戦士たちは起き上がることが出来なかった。誰もが次なる訪れを恐れていた。

 

 少しの後、まず顔を上げたのはレトウだった。

 

 顔を上げ、珊檎布を解き、杭から手を離して、ふと気づいた。

 

 杭が傾いていた。別段、おかしなことでは無いはずだった。深く打ち込んだつもりになっていたが、あれほどの揺れである。曲がってしまうとか、ずれてしまうとかするくらいは、十分に起きうるものだったはずだ。

 

 けれども、何かがおかしいように思えた。それでいて、何がおかしいのかわからない。

 

 わからないままに恐る恐る立ち上がって、レトウは周りを見渡し気づいた。

 

 杭は傾いている。しかし、傾いてなどいなかった。

 

 先程まで探査していた珊瑚の森が、水嵩を減らしていた。だがよく見てみればそうではない。水面に対して、珊檎が斜めに生えている。水面は必ずや、平坦なものであるはずだ。

 

 ならばこれは、そうだ。

 

 今度は自分が息を呑んだのだと、レトウは確信できた。

 

 山が、傾いたのだ。

 

 今まさに自分の立つこの山が少し傾いて、今いる斜面は有様を平地に近づけたのだ。

 

 村と逆の方向にある山は、斜面から崖に近づいていた。

 

 村側にある一つ隣の山と、今居る山の間に、さっきまで無かった川が出来ていた。

 

 村のある山は、どうにか変わらぬままであるように見えた。近づいてみないことには、本当はどうなのかわからなかったが。

 

 ウシェンを始めとして、他の戦士たちも立ち上がる。

 

 憔悴していないものは居ない。

 

 ボソボソとした呟きは束なって、嫌に大きく聞こえた。

 

 その中で、ウシェンが言った。

 

「出立だ」

 

 皆がウシェンの目を見て、ウシェンは皆の目を見た。

 

「急ぎ、村に戻るぞ」

 

 

 

 

 

 

 

「伝承に残るところでは、山が流れ着くことは千年無かった」

 

 ミハシラの西の彼方で日が隠れようとする中、野営の準備を整えたところでウシェンが言った。

 

 想定外の渡河は戦士たちの歩みを遅らせ、揺れ変わった地形は夜行を阻み、一行は隣山で一夜越えることを余儀なくされていた。

 

 火を囲み、影を帯びた戦士たちはウシェンの顔を見た。レトウもまた、肩に掛けた珊檎布で熱を捕らえながら父を見た。

 

「それでも山降りの伝説はあちこちに残っている。他ならぬ、俺達の住まう北の冠はそうして流れ着いた山々の集まりだというのが外の世界の定説だ。そこへ新たに山が流れ着けば……たやすく玉突きを起こすだろう」

 

「この……山々のズレはそうだと?」

 

 ウシェンの言葉に、戦士の一人が口ごもりながらそう言った。ウシェンは頷いた。

 

「ミハシラの下にも、俺たちの知らない山が沈んでいるのだろう。そして俺達の住まう山々の下にも、俺達の知らない山々がひしめいている。北の冠は危うい均衡によって形を保っているらしい。予測はされていただろう。そして、どうやら本当だったようだな」

 

 薪の弾ける音がする。

 

 山の稜線とミハシラの際に出来た角へ太陽が隠れて、闇が急速に滲み出す。束の間、ミハシラの際が極彩に輝いたかと思うと程なく闇に溶け込み、北の空は星も見えない無音の帳によって覆い隠された。

 

 火の熱が、囲む各人の体を温めた。温もりはそれぞれの間を通り抜けて、川のように輪の外へ流れ出していくと、やがて夜の冷気に吸われて何処ともなく消えていった。

 

 西の彼方はまだ輝いていた。太陽の最後の光が未練がましく、山降りの跡を覗き込んでいるようだった。遠くの山頂はまだ日の名残りが差していて、しかしその一片さえも引き上げられると、夕刻はようやくもって終わった。日がもたらす影は夜闇の内で一つになり、火のもたらす影がその揺らめきに合わせて震え始めた。

 

「村は、大丈夫でしょうか」

 

 また別の戦士が言った。

 

 いずれの戦士も顔を見合わせ、溜息を零して、なにか言葉を作ろうと舌をもごつかせていたが、しかしそれ以上のことはなかった。

 

 レトウもウシェンを見た。不安は同じだった。他の誰かが言わなかったら、自分が言っていた事かもしれないのだ。

 

 しかしそれは思うのみに過ぎず。実際はどうにも息が詰まるようになって、言葉として出すことさえ出来なかった。

 

 家族は一体どうなったろうか。母は、兄弟たちは、大過なくこの騒ぎをやり過ごせただろうか。

 

 唇の乾きを意識する。渡河の時に随分と濡れたはずだったが、潤いは最低限あるのみだ。口の中も、また同じだった。

 

 ウシェンが言った。

 

「さっき狼煙を見ただろう。『村』『危険』『否』だ」

 

 それは、確かにそうだった。

 

 帰路の途中で村が上げた狼煙は、その安泰を示していた。

 

 色、文順、取り消しの有無。不安が確認の繰り返しを強要したが、その度に間違いのないことを知るのみだった。伝言は安泰と読み取るほか無く、恐れることは無いはずであった。

 

 だからといって不安の一切が払拭されるわけではない。むしろ不安はその威勢を増長させて、どの程度まで大丈夫なのかと耳元で囁くまでになった。死者は出ないで済んのだのかもしれない。けれども、怪我人は? いるとして、どれだけの怪我をした? ともすれば、長くないなんて事になったら……。

 

 日が暮れるにつれて不安の力は増々猛り、夜闇と一体になって戦士たちへ覆いかぶさり、今や一行はその腹の内に収まっていた。

 

 それはなるべくしてなった事だ。野営の準備が終わった時点で、こうなることは決まっていた。すべき事のある内は、戦士として務めに専心することが出来る。しかし戦士の務めを果たしてしまえば、あとは手持ち無沙汰の只人が居るばかりだ。

 

 今日の分はもう終わってしまった。戦士としての心構えを持ったまま、明日に備えて寝ておくべきだったのかもしれない。

 

 だが、そうはならなかったろう。誰もが内心ではわかっていた。レトウもそうだった。戦士としてその務めに専心している時でさえ、只人の意識は目覚めている。彼ら戦士たちが何故に戦士たるかといえば、まさに只人の暮らしを守るがためであり。村と人とを守らんと志した事始めの時期には、彼らも只人に過ぎなかった。戦士の志には、常に只人たることが混じっている。その只人の暮らしが脅かされているかもと思えば、その思いにこそ不安が滑り込む余地はあるのだ。

 

 戦士たちは難しい顔で黙した。時折微かな呻きを漏らしても口を開きはしなかったが、今にも苦悶の言葉が溢れ出しそうなのは明白だった。

 

 ため息交じりにウシェンは続けた。

 

「落ち着け。良いか、仮に神器蔵が崩れていたとしても、神獣がまろび出る事は無かったはずだ。あったならあんな狼煙を上げることは出来ない。なんとなれば、俺達が気付くほどの騒ぎが起こっていただろう」

 

 ウシェンは村の方を見た。夜闇の中、仄明かりが灯っているような気がした。

 

「それにだ、俺は村の知らせを受けて打金を鳴らした。村は俺達よりも先に事態を把握していたんだ。避難も、対策もしていたさ。それだけの時間はあったはずだ。そうだろう」

 

 一行は再び顔を見合わせて、しかし今度は顔を綻ばせた。

 

 囲む火がにわかに勢いをましたようだった。月が出たのかと思ってレトウはぐるりと夜空を見てもみたが、あるはずの場所は雲がかかっていた。

 

 何かが変わった様子はなかった。戦士たちが笑みを取り戻したのみで、夜はいつもと変わらず見通せぬままだった。

 

 レトウも笑った。すると欠伸が出て、疲れを感じた。無理もないと思ったが、思いがけず重たい疲れに驚きもした。

 

 これまでの人生でここまで疲れた事はない。レトウには断言できた。戦士として修練を重ねた日々の中でも、そこにはある種の心地よさがあったものだ。だがこの疲れはひたすらに重かった。水銀にも似た、混じりけのない純粋な疲労が全身を巡っていた。

 

 欠伸の感染った戦士たちも目をこすり始める。寝るには良い頃合いであろう。

 

「よし。少し早いが、そろそろ寝ておくのが良いだろう。見張り番でないものはメシを食って休め。明日は早くに発つ」

 

 ウシェンの一声でそういう事になった。

 

 レトウも、戦士たちも立ち上がり、伸びをして腰を反らす。油気のある甘味が、食べるよりも早く口の中に広がっている気がした。

 

 ふと、レトウは光を見た。対面に居る戦士の肩向こう、ここから三つ隣の山麓あたりで一閃が迸り、少しの間を置いて消えた。

 

 レトウは思わず体を傾げた。夜闇の中では遠い正体を見極めるべくもなかったが、甘汁の乾いた痕のごとくベタついて心に残る光だった。

 

 あれは。

 

 一体何かと思うよりも早く、赤々とした光が膨れ上がって微かな音を届け、名残をその足元に残すのが見えた。

 

 レトウは慌てて戦士たちの間を抜けた。身を乗り出して遠眼鏡を取り出し、倍率を合わせて探る。やはり。息を呑む。間違いなかった。

 

「火だ」

 

 戦士たちがレトウを見て、直ぐにレトウの見る先へと視線を移した。それぞれに遠眼鏡を持ち出して覗き込めば、感嘆の息が各々から漏れた。

 

「あれは、どこだ?」

 

「隣村だ。カワビトの」

 

「何か動いているぞ」

 

「村人、じゃないな」

 

「まさか、神獣なのか!?」

 

 戦士たちがレトウよりも前に出る。レトウは遠眼鏡を下ろして、遠く火を眺めた。今のうちに知れる事を知っておいたほうが、あるいは良いのかもしれない。けれども、見ずに済むなら済ませるに越したことはないモノの想像が、見続けることを躊躇わせた。肉眼では火の揺らめきを捉えることも出来なかった。

 

 後ろから足音があって、ウシェンがレトウの隣に立った。ウシェンも遠眼鏡で見て、直ぐに下ろした。

 

 ウシェンは何も言わなかった。

 

 レトウは、何も言えなかった。

 

 戦士たちの驚嘆とほとぼりが冷める頃になってようやく、ウシェンが戦士たちの間に割って入った。

 

 戦士たちは口々に、しかしわかりきった声音で、ウシェンへと尋ねた。

 

「どうします?」

 

 ウシェンは応えた。熱がなかった。すっかり用意の済んでいた言葉だった。

 

「寝るんだ」

 

 戦士たちに驚きはなかった。

 

「俺たちに出来ることはない。遠すぎ、夜は更けようとして、俺達は疲れている。今からあそこへ向かうような命令は出せない。明日に備えろ。寝るんだ」

 

 火の傍にいても、空気が生ぬるかった。

 

 一つの反論もない辺り、ウシェンが言うことは各人がとうに出していた結論でもあったのだろう。そしてそれは、自論であっても納得できないところまで同じだ。

 

 何も出来ないことはわかりきっている。

 

 だけれども、本当にそれでいいのか?

 

 良いはずはなかった。それぞれの熱い心は今すぐにでも駆け出して、隣村を救助しなければならないと思っていた。

 

 だが同時に理解も出来た。あらゆる要素が戦士たちに、仲間たちに、害を及ぼす下地として出来上がっている。村の仲間、仲間たちの家族、そうした人々の安心と安全を考慮すれば動くことは出来ない。隣の村よりも、自分の村の者たちをこそ優先する。冷徹な打算だった。

 

 ウシェンは踵を返し、自身のテントへと潜っていく。

 

 戦士たちも三々五々に散って、布幕の中に姿を消した。

 

 レトウも立ち上がった。見張りの番にある者だけが、火の傍に残った。

 

 火は、まだ灯っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 群青の中、目を覚ましてレトウは驚いた。

 

 眠れまいと思っていたから、目を覚ます感覚を味わうなど思いもしなかった。

 

 煩悶の記憶はない。つまり、床に入ってから直ぐに寝入ったということだろう。それだけ昨日の自分は疲れていたという事だろうか。それとも、戦士としての修練が活きたという事なのだろうか。

 

 昨夜の心を体が凌駕するとは信じられなかったが、反面納得できない話ではなかった。昨夜の出来事が昼の出来事の上に積もって止めとなったのかもしれないし、手早く眠るための修練はその感覚を心身に刻みつけてある。

 

 体が軽かった。心も、いくらか整理はついていた。何もかもが片付いたわけではないが、動くのに支障はなさそうだった。

 

 水筒から一口飲み、珊檎布は服にした上から一枚余分に羽織って、棒状に固めた保存食をかじりながら、遠眼鏡を手にテントを出た。

 

 寝る前とは違う見張り番と挨拶して、火を背に昨夜と同じ場所に立つ。

 

 夜の青は背後から薄まりつつあった。それでも遠ければ青はより濃く、黒に近くなって物事を隠した。

 

 少なくとも、火は消えていた。何者かが消したと考えるよりも、ただ燃え尽きたのだと考えるのが自然だった。神獣の存在が見間違えでなかったとしたら、もしかしたら何かが起こったのかもしれなかったが。

 

 保存食を平らげると手の中の遠眼鏡を見て、覗き込むでもなく提げたままにしておく。

 

 火がなければ、昨日の位置を探せる気はしなかった。焼け跡となれば黒いものばかりになっているはずである。夜闇の中に紛れては見つけるべくもない。

 

 無駄になってしまったかと思ったが、しまうのはやめておくことにした。

 

 もうじき夜が明ける。そうすれば使うこともあるだろう。村の焼け跡を覗き周って、一体何を見つけようというのか。それはレトウ自身にもわからなかったが、それでも何かを願わずには居られなかった。

 

 戦士たちが目覚めるよりも早く、空が醒めていった。

 

 早くに発つという事になっていたが、屈強の戦士たちをしても疲れが抜けないのかもしれない。体が眠りを欲しているのだろう。あるいはレトウと逆に、寝付くことが出来なかったのか。それならば、自分が一番の早起きらしいのも理解が出来た。この隊にはレトウと然程変わらぬ年頃のものも居る。ならば、肉体の若さが理由というわけでは無いはずだ。

 

 見張り番が彼らを起こす様子はなかった。レトウも同調した。

 

 明けて視界がひらけても、道程が知れたままで居るとは限らない。予定とは多少違っても、遅くなるのを承知で回復を図るのが良いだろう。村へ帰り着けば着いたなりに仕事が待っているだろうから、万全にしておくべきであるはずだ。

 

 レトウは火の傍に佇み、見張り番を手伝いながら時を待った。天の光が強くなれば、皆も自ずと目を覚ますはずである。それでも起きないなら、疲れの程が知れても起こさねばならないだろう。その手は多いほうが良い。

 

 少しして隣山の山頂、故郷に日の当たるのが見えた。遠眼鏡を覗き込む。この位置のこの角度では、大したこともわからない。それでも、大きく変わりはないように見えた。変わりが無いならそれで良かった。

 

 そろそろ、昨夜の現場も見える頃だろうか。

 

 遠眼鏡を離して、山々にかかりつつある光を見た。山肌の灰と茶と、緑と白が輝いて、闇慣れた目を眩ませてくる。昨夜に火の手が見えたはずの辺りは、まだ影のほうが勝っていた。

 

 ため息をつくと、レトウは遠眼鏡を懐にしまった。

 

 いい加減、皆が起きた時のために用意をしたほうが良いだろう。水を汲んで沸かしておく必要がある。故郷までの道はまだ短くない。顔を洗うためにも、身を拭くためにも、そして水筒へ補充するためにも、湯が必要だった。

 

「水を汲んでくる」

 

 レトウは水桶を取って言った。見張り番は「ああ」と短く応えて、それから「気をつけてな」と言った。

 

 水際まではさほどの距離もなかったが、レトウは照らされつつある斜面を時間を掛けて降りた。闇は未だ引ききらず、草陰に潜んで、そこに悪戯を仕込んでいるかも知れなかった。

 

 草に滑らぬようしっかりと地面を捉えながら下るに連れ、水際の景色が明らかになってくる。下草は水の中まで続いているようだったが、この時間の水はまだ闇の仲間だった。そよ吹く風が水面を揺らして微かに煌めかせても、綺羅びやかなその下に何が潜むかは知れたものでなかった。

 

 だが、何か、水は教えようとしているようだった。

 

 ミハシラを流れ来る山の位置が薄っすらとわかったように、草地と水とを跨ぐなにかの輪郭が、レトウの目にも確かになってきた。

 

 息の詰まりを感じて、レトウは目を凝らした。

 

 人、らしかった。

 

 レトウは駆け出した。その推測が確信へ近づくにつれ、その速度は我知らず増していく。邪魔になった水桶は放られて、転がりながらその後を追いかけ始めた。

 

 足元の安全はもはや気にもならなかった。下りの坂は容易く足を捕えるものだが、闇を帯びてさえレトウには縋ることも出来なかった。細かな石や、小さな穴も、罠として働くことは出来ない。ただただ草の葉の擦れる音が、若者の疾駆を励ましていた。

 

 流れ着いた人の傍でレトウは膝をついた。

 

 カワビトだった。レトウたちオカビトとは対をなす、水中での運動に長けた種族の少女だった。

 

 腕を胸の前で組むようにしながら、半ばうつぶせになってレトウに背を向けている。つるりとして弾力のある、体の末端へ行くにつれて色を濃くする薄青の肌に樹形の紅い紋様が走っていた。銀色の長い髪と珊檎布に覆い隠されている部分にも、この紋様があることはレトウにもわかった。少女は珊檎の巫子らしかった。

 

「大丈夫か!?」

 

 レトウは少女を助け起こした。脱力した体は重く、けれども生の温もりが間違いなくあった。残り香ではなく、今まさに生きる者の尽きせぬ熱量だった。

 

 だが、少女の正面をこちらへと向けた瞬間、レトウの首筋を掠めたのは表情のない冷気だった。冷気の源が自らの内にあり、睨みつけたのが自分の内心そのものであるのを、レトウは直ちに理解した。

 

 組まれていた少女の腕が解かれて、白く煌めく箱が転げ落ちる。

 

 レトウが強ばるように伸ばした手はしかし間に合わず。蝶番付きの立方体は地に落ちて、その口を開いた。

 

 光が迸った。

 

 一呼吸遅れて追いついたレトウの手が、鷲掴みに箱の口を閉じる。昨夜見た光だとレトウは直ぐに気づいた。

 

 レトウにはもはや、自身の心音しか聞こえなかった。急激に増した心拍の数とその強さで耳の中が痛むほどだった。

 

 光の迸った先、離れた所で何かが蠢いている。照らされて一瞬見えたそれは、縄のようなものとレトウには見えた。

 

 だが今は、もう縄ではなかった。 

 

 それは起き上がり、浮かび上がり、表面が盛り上がり、縄とは似ても似つかぬモノへと見る間に変じていく。

 

 太く、太く、太くなって、ついには黒い六角柱となり。表面に赤く輝く罅を走らせる中、蛇の真円の眼が各面で段違いにぬるりと見開かれた。開眼と共にこぼれた岩塊は地に落ちたかと思えば浮遊し、六角柱を中心に周回する月の如きものとなった。

 

 レトウは、少女を強く抱きしめた。守らんとしたのか、自分が心細かったのか、どちらかはわからなかったが。

 

「神獣……!」

 

 目の前のモノが何かは、すぐにわかった。




1/24 冒頭部分加筆

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