流れる星の物語、あるいは危険な神器を捨てる旅の顛末   作:一星屋

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003 神器

「力を、貸してくれると言うんだな?」

 

「おうとも。私はお前の求める力を持ち、お前は私の求める力を持つ。利害は一致する。わかりやすいだろう」

 

 緩く暖かかなミハシラの風吹く水際で、レトウは神器と見つめ合った。神獣さえも慌てふためく混乱の渦中で、一人と一つがお互いを確かめ合う。

 

 その猛禽の目に真意が宿っているかどうか、レトウにはわからない。それでも嘘偽りを繰るような油気は無く、飄々たる言葉に侮りの乾きも見つけられなかった。

 

 やがて、レトウは肩に担いだ少女を傍らに優しく下ろした。

 

 そして言った。

 

「わかった」

 

 この事態を乗り切るには、この神器の力を借りるほかない。

 

「よせ、レトウ」

 

 花開く固い意志が神器の柄へ手を導こうとした刹那、レトウの手首をウシェンが掴んでいた。

 

 肘は伸ばしかけたまま柔らかに固まり。神器の柄を前にした手指は開かれる中途に有って、その隙間からウシェンと神器は睨み合った。

 

 神器は呆れたように目を細めた。

 

「お前は確か……父上と呼ばれていたな。息子の決断を父親が妨げるとは、正直どうかと思うが?」

 

「罠にかかろうとする子供を止めるのは親の役目だ」

 

「人聞きの悪い事を。これは正当な取引だ。知っているか? お前たち人類種が行った原始の経済活動は、こうした働きの貸し借りだ。私はお前たち、取引で動く者たちに合わせて正当なやり方を示しているに過ぎない」

 

 父と神器が口論するに至り、レトウは不思議と少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。自分が話の外になり、神獣を含めた渦中のモノとは言えなくなった気がして、心が戦場の空気による抑圧から解き放たれていた。

 

 それは無論、幻に過ぎないことだ。未だレトウは戦いの場に留まっている。神獣が未だ自分の体を制御するのに苦心していても、この奇妙な均衡は運良く続いているに過ぎないはずである。いつまぐれ当たりで石塊がぶつかってこないとも限らない。神獣はすでに軌跡からの落石を再開していて、その可能性は殊更に大きくなっている。

 

 しかしレトウは深く息を吸って、心を冷やした。自分を省みる余裕が生まれた様な気がした。自分は果たして、流されるままになっていたのだろうか。

 

 罠、か。

 

 父の言を否定することは出来なかった。そうでないなどと、どうして言うことが出来るだろう。

 

 だが、その望み、この神器が神獣たることを取り戻すという条件を飲み込んででも、その力を借りないわけには行かないだろう。レトウはそう考えて手を伸ばそうとしたのだ。

 

 打算はもちろんある。

 

 この神獣が、仮にこちらを騙すつもりで言っているのだとしても、しかしこうして話し合えているのは確かだ。そしてその望みを叶える手段は、あの箱を使うにせよ一般的な手段を用いるにせよ、こちらが握っている。なんとなれば相手の望みを叶えてやるにしても、予め珊檎樹液に浸けておくことだって出来るだろう。望みを叶えたあとで暴れだす可能性を想定するなら、むしろそうしなければならないくらいの必須事項として取引に盛り込むことさえ出来るかも知れない。

 

 無論、無視できない弱みはこちらもある。

 

 事実として、この神器の力を借りないことには危機を脱する見込みが見えなかった。この神器が持つ力の詳細とて知れないにしても、その力は確かにある。そしてその力のおかげで、自分たちはなんとか助かっている。

 

 取引で言えば、天秤に傾きはあるまい。

 

 ならば助力の申し出を受けない理由はないとレトウは考えたのだ。

 

 だが、どうやら父はそうでもないようだった。

 

 無視できない振る舞いだった。父の判断について同意できないところはあったが、しかし父がレトウよりも長く生きていることは考慮しなければならない。北極の民が連綿と続けてきた神器の封印について、父は確実にレトウよりも長く触れてきている。そうした経験の中に、神獣との取引についてのモノが無いとは言い切れないのだ。

 

「取引などと。お前がその姿でも力を自ら使いうるなら、そして僅かでも身じろぎ出来るなら、それが我々に向けられないとも限らない。お前は伺うだろう、力を使うべき隙を。箱を取り落とさせて、光に身を晒す事のできる瞬間を。全てはその機を待つための仕込みに過ぎない」

 

「なるほど。ごもっともだ。ありうることだな。しかし、時と場合を選ぶべき意見でもある。忘れないで欲しい。お前たちが今無事にしているのは、紛れもなく私のおかげだ。あまり疑うようなら、私もこの品物を下げる用意はある。しかし未来を憂うがために未来を失っては、全く無意味だ。そう思わないか?」

 

 それでもやはり、取らない選択は無いように思える。まさに、神獣が今言った如くに。

 

「くっ……」

 

 話の終わりが見えて、レトウは言った。

 

「父上」

 

「馬鹿な真似はよせ」

 

「父上。ありがとうございます。ですが、これしかないのです。この神器の言うとおりだ。未来を憂いて、未来を失するような真似は出来ません。たとえ罠であろうとも、憂いが残ろうとも、私はこれの力を借りることにします」

 

 神器はせせら笑う。

 

「賢明な息子じゃないか? だが、息子を思う父の慈しみは感じられたよ。中々楽しい話だった」

 

 黒煙を吐く火が、父の顔の裏で燻るのをレトウは見た。

 

 既に成人と認められる身ではあったが、これまで父の裡にこんな火があるとは知らなかった。自分や母、弟妹や、戦士たちには見せたことのない顔をこの神器には見せている。何か、火を付けるだけのモノが神器の語る内に在ったのだろうか。油も、火種も、レトウには見いだせなかった。

 

「本心から言っているんだがな。まあ、いい。さておき、レトウと言ったか」

 

 父の事は気がかりだった。しかし、今そこにかかずらわっている暇はない。ご機嫌伺いなどとは言わないが、神器に意識を向けなければいけなかった。取引の相手だ。

 

「ああ」

 

「お前は話がわかる。有り難いことだ。やきもきして疲れたろう。私に触れると良い。だが、持ち上げようとはするなよ。今の私を持ち上げるのは、そう、危ないからな」

 

 危険とは、何故なのか。尋ねたくはあったが事態は一刻を争う。迷いを振り払い、手を伸ばした。

 

 レトウは神器の柄に触れた。何かが変わったような感じはなかった。ただ柄のザラつく感触が、指の先に感じられるばかりだった。

 

「それでいい」

 

 神器は言った。

 

「私はお前の所有権を認め、私の『重さを盗む』力はお前の力ともなる。くれぐれも恩知らずになってくれるなよ」

 

 レトウは唐突に、空飛ぶモノを認知した。神器を見下ろす頭の後ろ、空の遥かな高みに、大翼の何かが通り過ぎていくのが見る事も無いながらにはっきりと分かった。

 

 だが空を見ても、翼持つ影はなかった。

 

 あの神獣の石塊が、重さの大半を失って飛び回るのを感じられるばかりだった。

 

 レトウはハッとした。

 

「わかるだろう」

 

 神器が言った。

 

「今の私はあれらの石塊から重さを盗み、私のモノにしている」

 

「そして時に返し、また盗んで、自由を許さない」

 

「そうだ。そうして奴に慣れる隙を与えない。石塊には空力に翻弄され続けてもらう。私の奴に対する相性は、概ね良好だ。つまり」

 

「負けることはない……?」

 

「そこまでは言い切れんさ。だが、いくらかは怖くない」

 

 あの神獣は、その攻撃方法を質量に頼っている。それに対し、この神器の力は覿面に刺さっている。実質的に全ての加害手段を喪失したに等しい。

 

 気をつけるべきは速度だが、それとて無意味だ。軽すぎるものは空力に負ける。十分な速度を乗せることも出来なければ、その速度を対象に当てることもろくに出来まい。

 

 硬さは神獣の拠り所となるだろう。だがそれとて、やはり重さと速度の助けを得ればこそ生きる。密着して擦れば多少の傷になるだろうが、そこまで持っていくこと事態が今は困難なはずだ。

 

 レトウは目下の神器を見た。

 

 気付いているのか?

 

 レトウは多少の有利でも十分だと思っていたが、ここまでの力を得られたならこちらの有利が過ぎる。一つの取引として見るなら不釣り合いだと言っても良い。

 

 この神器はその事に気づいているのだろうか。それとも自身の信頼獲得と神獣への回帰を確実なものとするため、ここまでの便宜を図ってくれたのかだろう?

 

 いや、話はもっと単純なのかも知れない。神器が差し出せるものなど、力の他にはあるはずもないからだ。安売りでもいいから、とにかく神獣へと回帰することを目指す。そういう決断が神器の中であったのだろう。そう考えるのが、妥当なように思えた。

 

「奴の力はさしづめ『過去を石にする』とでも言ったところか。痕石(こんせき)の力。面白いが私なら付け入る隙はある。とはいえ、奴も自分の弱みくらいはわかっているだろうがな」

 

「痕石の神獣、か……お前は」

 

「ん?」

 

「お前はなんと言われていた?」

 

「……そんな事を聞いてどうする」

 

「別に。ただ、呼ぶに不便したくないだけだ」

 

「……荷内。荷内の神器と、これまでの所有者は呼んでいたな」

 

「わかった。荷内。ニナイだな。少しの間、よろしく頼む」

 

 レトウは立ち上がった。ニナイを手にする必要はないとわかっていた。存在が在ることと関わるような深い部分で、ニナイとの繋がりが生じているのが理解るともなく理解った。認知でなく、感覚でもない、これまでに経験したことのない不可思議な反応があった。

 

 人が神器を求める理由の一端、そして、自分たち北極の民が神器を封印する理由を、その不可思議な反応と同列で理解できる。そんな気がした。

 

 これは神器に触れたことのあるものしか知らないことかも知れない。

 

 だがそれも、誤解であることがすぐに理解った。やはり不可思議な反応と同じ深みで、触れたことのない者さえ常に惹かれ続けてきたのだと、理解できてしまった。

 

 天を仰ぐ。ミハシラの彼方に座すという、何者も見たことのない神を意識する。

 

 北極の民が呼ぶ所では、悪戯なる神。人の世へ神器を、過ぎたる力を流して、混乱を楽しむのだとレトウたち北極の民は信じている。

 

 北極の民の祖先たちは、神器を得てそのように感じたのかも知れない。

 

 レトウは一瞬、祖先たちと重なったような気分になった。知らざるものさえ惹き付ける神器の力、あるいは存在に宿った惹き付けられうる仕組みに、神の意図を覚えてしまう。

 

 必ずや、あの箱を村に持ち帰らねばならない。

 

 レトウに決意が漲る。

 

 ただでさえ神器は人の世に混乱を齎す。更にそれを容易く神獣へ回帰させる力は、混乱を混沌へと進めるだろう。

 

 封印が必要だ。決して解かれることのない封印を、あの箱に施さねばならない。

 

 そのためにも、今この時を乗り切る。

 

「父上」

 

「なんだ」

 

 レトウは斜面を見た。戦士たちはまだそこに居た。坂を登り上る途中で振り返り、そのまま動かずにいるという具合だろう。事態の急変に気づき、迷いの中で呆気にとられたのかも知れない。

 

「皆にもう一度、戦闘態勢を取るように指示を」

 

「やる気か」

 

「必要とあれば」

 

「わかった、いいだろう……警戒!」

 

 視線を戦士たちから痕石の神獣へと移し、レトウはニナイの力を切った。

 

「ほう?」

 

 神獣の出方を見たかった。向こうが退いてくれるならそれが一番だという態度は変わらない。痕石の神獣に自由を許して、逃げ道を示す。

 

 いずれは討たねばならない相手である。何に由来していようと高い攻撃性を示すなら、この態度もまた変わらない。だがやはり、決め手に欠けるのが現状だった。

 

 痕石の神獣は今、高く上をとっている。ニナイのお陰でこちらの被害は抑えられる様ようになったが、一方でどうすれば攻撃を届かせうるのか見当がつかないのも事実だった。

 

『重さを盗む』

 

 強い力であろう。だが手にして間もない今では、その上手い使い方を心得ては居ない。

 

 力が自分の一部になったのか、自分が力の一部になったのか、曖昧な領域で力と親和していて使うこと自体は自在にできる。これによって目標の一つ、生存はほぼ達成したと見ていいだろう。取引した甲斐はある。

 

 だが、なるほど。ニナイの言う通り、負けはしないが勝てるかどうかは別の話だ。

 

 これは、分水嶺である。神獣があえて排除を望み続けるのであれば、こちらも戦いの中で手法に慣れていかねばならない。

 

 空の中で、石塊たちの動きが落ち着き始めた。神獣の目で戸惑いと落ち着きが重なり、レトウから見える限りでもそれぞれの目がてんでんばらばらの動きを見せる。

 

 それでも、やがては一点を捉えた。虚仮威しに手を開きながら掲げたレトウに、蛇の眼が視線を重ねる。

 

 ミハシラの暖かな風が過ぎていった。水面は漣立って、下草がそよいでいた。水の匂いが濃い。最も清らなる水の匂いだ。湿り気を含んだ空気が、どこか甘くさえあった。

 

 ゆっくりと、神獣が高度を下げ始める。風に晒されすぎる不利を悟ったのかもしれない。石塊達は本体の周りに集まり、その隙間から穴を穿つような視線がレトウに刺さった。

 

 攻撃は無い。だが、油断ならなかった。かといってこちらから攻撃するのも憚られる。注意しながら逃げようとしているのであれば、攻撃を誘発するような真似は出来ない。

 

「もう、持てるな?」

 

「ああ。重さは全て返した」

 

 そろりとニナイを拾い上げ、レトウは神獣の降下に合わせて薄氷を踏むように水際から退いていった。目配せすると、ウシェンも少女と箱を抱えてレトウに追従する。

 

 神獣の目はレトウを追いかけ続けた。目の位置が最も高い面をレトウ達に向けていた。水面まではもう間もない。旋回する石塊が起こす僅かな空気の流れで、小さな波紋が起きてさえいる。

 

 本体の下端が触れ、次いで下から三分の一が沈んだ。ついには半分が水面の下に隠れ、そして上の三分の一が見えるばかりとなった。その時だった。

 

 水際が弾けて、石塊が飛来する。

 

 距離があり、石塊の速度は変わらない。レトウとウシェンは珊檎布の槍を構える。問題なく避け得て、問題なく弾き得る。

 

 ニナイを近くに放り、構えた刹那。下草を揺らす微かな音をレトウは足元に聞いた。自分の足音ではなかった。

 

 今は飛来する石塊から目を離すわけには行かない。だが、下がれば視界の端に捉えるくらいは出来るだろうか。何にせよ、不確定な要素のある場所で構えては居られなかった。

 

 構えたまま、一歩下がる。

 

 その瞬間。

 

 レトウは闇を見た。

 

 見えていたはずの一切は失せ、捉えられるモノは何もなかった。

 

 驚きのまま、本能的に後退する。

 

 闇はついてきた。とっさに吸おうとした息は目の前にある何かに阻まれ、ごく細いもので終わった。

 

 草に足元を取られ転倒する。斜面を転がり落ち、微かに風の切られる音が聞こえた。

 

「仰向けになれ!」

 

 ニナイの声だった。もしかすると今の風切り音は、ニナイが力を使って逸らしてくれた神獣の石塊だったのだろうか。

 

 ようやくもって転落が終わると、レトウはニナイの叫びに従い仰向けになった。坂道を転げ落ちてくる硬いものが、レトウの体に溜まりつつあった。

 

「顔に着いた石を取って、一息に起き上がれ! 退こうとするなよ! 前に進め!」

 

 石?

 

 目の前の闇に手を伸ばす。手を顔へ伸ばす途中にも、硬いものが前腕を転げ落ちていくのが感じられた。

 

 嫌な予感がして、正面からは取らないことにする。硬い闇の端をつかみ、引きずるように剥がして、レトウはようやく光を見た。そして、斜面の下へ転がるように立ち上がった。

 

 ウシェンが倒れていた。少女が上になるようにして、最後に見た時の少し下で折り重なっていた。もぞついているから死んではいない。今まさに起き上がりつつあって、少女の顔を傾けて石を落としていた。

 

 レトウは手にした闇を見た。石であった。自分の顔をそのまま象った石である。呼吸がままならず、驚きと苦悶に満ちた顔が永遠のモノとなっていた。

 

 レトウは深く息を吸った。

 

 此処に至って、まだ見誤っていたという他なかった。

 

 痕石の神獣の力、ニナイが言うところの『過去を石にする』力は、他者にも適用しうるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 レトウは咄嗟にニナイの力を振るった。痕石の神獣の上端が間もなく渦を起こして水面下に隠れ去ろうしている所だった。

 

 だが、間に合った。すんでの所だった。

 

 レトウの後ろで石が砕け、土の軋む音がするのと同時、その重さの多くを失った痕石の神獣は浮力に負けて水上へ跳ねるように浮かび上がる。バランスを崩して横になり、縦に戻るも慣れない軽さを持て余したか揺れて留まらず、だが蛇の目に驚きの様相はなかった。

 

 その余裕の源が何処に在るか、レトウにも推測できた。

 

 こうなる可能性は考慮のうちにあったのだろう。だがこうなってさえ、ことの有利は痕石の神獣にある。

 

 使ってみて理解ったことだが、『重さを盗む』力は対象の指定を視覚に頼んでいる。かろうじて捉えられた本体に力を及ぼすことは出来ても、水面下に隠れた石塊は未だにその重さを保っている。

 

 痕石の神獣から見られている限り、こちらは『過去を石にする』力から逃れる事はできない。いや、痕石の神獣自体が視覚によって周辺を認知しているからといって、『過去を石にする』力までもが視覚頼みなのかさえ不明なままだ。

 

 大回りに軌道を描けば転進という形で撤退に移ることは出来るだろう。だが背中を向けることになる。そうすれば水中から石塊が飛び出し、無防備な背中を狙い撃たれてしまう。

 

 ニナイがそれらを防いでくれると期待しても、石塊の飛来が本命とは限らない。今まさに、背後から石片の落ちる音が高く聞こえるようになった。空力に負けるようになってさえ軌跡から落石させることは可能だ。狙って人に当てる事が出来なくてさえ、今のように斜面にいるなら追い詰める事が出来るというわけである。

 

 痕石の神獣が狙うのは、恐らく水没による溺死だろう。水に入ってからも石が纏わりついてくるなら、まともに泳ぐのは難しい。痕石の神獣が半端に遠い所にいるのもあって、こちらから攻撃を当てるにも用意がいる。その隙はそのまま、あちらが防御を用意するための時間となる。

 

 あるいは転倒による、石となった過去での圧殺だろうか。先程は斜面だったからなんとか助かったが、平らな場所ではそのなんとかが起きる可能性は低くなる。落ちた自分の過去に足を取られれば、その倒れる軌跡すらも石と化していく。そして、自分にのしかかってくる。

 

 いや、弱気になってはいけない。

 

 レトウは再び槍を作って、己を奮い立たせた。

 

 ニナイの力を借りればどちらも回避可能な事象だ。水に浮くこともできれば、石となった過去を軽くすることだって出来る。

 

 気をつけるべきは、やはり水中の石塊である。そればかりはニナイの力が作用するより前に食らってしまう可能性が高い。

 

 軽くなって水に沈まず済ませられても、しかし水の上に立っていられるかと言えば難しいだろう。痕石の神獣がそうなっているように、自分の軽さから振り回される可能性が高い。ミハシラから吹く緩やかな風も、水の漣も、恐らくは自立の邪魔になる。そしてそこを狙われる。

 

 それに、そもそもにして、自分を軽くすることは出来るのか。それが怪しかった。『重さを盗む』力なのだ。自分自身から何かを盗むなど、果たして出来ることなのだろうか?

 

 いや、なら、自分でやらなければ良いのか……?

 

「ニナイ!」

 

 レトウは雷を吐くように叫んだ。

 

 少し後ろの方で、ニナイは応えた。

 

「どうした!」

 

「俺の重さを盗むことは出来るか!?」

 

「……私なら、出来る!」

 

 ならば、手段はある。賭けてみても良いのかも知れない。

 

 腰回りに左手を伸ばす。冷えかかったぬるつきが指に触れた。珊檎樹液の薄瓶が在るはずだった。坂道を転げ落ちたときに割れてしまったのだろう。石をまとわりつかせながらの転落である。こうなってしまうのも致し方ないことだった。

 

 好都合だ。そう思っておく。

 

 珊檎樹液の瓶が割れたのを、痕石の神獣は見ているはずだ。そうして生まれた安心は意識に緩みを生ずる。事態の有利は痕石の神獣にこそ在る。だからこそ、付け入る隙もまたそこに生じうる。

 

「だが、何をするつもりだ?」

 

「跳ぶ」

 

「奴に届くと見込んでいるならやめておけ。そこまで軽くすれば風にも負ける」

 

「そこまでは軽くしなくても良い。途中で足場が出来るはずだ」

 

「……楽観が過ぎると思うがな」

 

「このまま大人しくしているよりはいい。足場と接触する時の調整は任せる」

 

「わかった。まあ、やってみよう」

 

 いかにも、自分たちは枷をつけられて水底へ沈められようとしている。

 

 だが同時に、敵を捕らえたも同然の状況は整った。

 

 ならば手は一つ。駄目押しの手を打たれる前に、こちらから仕掛けるのみ。

 

 胸が焼けて吐き気の起こる気配を感じ、レトウは言った。

 

「なんとかするしかない」

 

 珊檎布の槍を右手に、己の内心よりも早く斜面の下へと駆け出す。石がどのようについてくるか確かめて、走りながら姿勢を正す。

 

 斜面の力を借り、レトウは生じた石が落ちるよりも早く駆けた。

 

 そして、跳んだ。

 

 まだ斜面の途中、水際から離れた場所で右足が踏み切る。正真正銘、体が軽い。この軽さを知らない右足が加減を誤ったのか微かに痛んだ。

 

 ミハシラの暖かな風を割きながら、痕石の神獣がばらまいた石の小山を飛び越える。水面とほとんど平行するなだらかな放物線を描き、努めて体から力を抜く。

 

 痕石の神獣と目があった。警戒と困惑があるようにも見えたが、確信は持てなかった。

 

 レトウは視線を足下へ落とす。敵の顔色を伺う時間は、とうに終わっている。

 

 少し前の水面が弾ける。頭大の石塊がレトウを狙っていた。速くはない。水の抵抗の影響がモロに出ている。

 

 時が来る。

 

 レトウは畳んだ左足で狙いを定めた。

 

 そして石塊が真下に来た瞬間、前から後ろへ薙ぐように蹴りつけた。

 

 絶妙な重さの調整が、その瞬間に入ったに違いなかった。

 

 ニナイが預かっていた諸々の重さがレトウに渡り、戻され、擬似的な浮遊感を味わう。

 

 目眩くような一瞬の自重の変化に、自分の体が驚くのを感じる。それは肉の縮みであり、伴う血の巡りであり、更に伴う感覚の偏移である。一瞬に酔いが回り、一瞬に覚めていく。

 

 レトウの体が前に押し出された。痛みはなかった。レトウの速度と重さと、石塊の速度と重さとが均衡し、レトウが前進するための力だけが抽出される。完璧な仕事だった。

 

 次の石塊は既に迫っていた。石塊一つで片付けるつもりなど無いだろうと、とうに予想のついていたことだった。

 

 石塊の位置はやや高い。正面からは変わらずとも、前方からレトウを狙う角度をしている。今踏み越えた石塊と同時に出るよう調節していたのだろう。ほんの僅かな時間差でも、しかしすでに大きな位置の差が起こっている。

 

 だがまだ、踏み越える事はできる。一段目の石塊によって少し高度を稼ぐことが出来ている。濡れた表面を右足はしかと捕らえて、レトウは左手を右肩の辺りで構えた。三段目の石塊が既に迫りつつあった。

 

 もう、踏み越える必要はなかった。痕石の神獣本体に肉薄するための距離と高度は稼げている。このまま放物線を描けばレトウは本体に落着、あるいは至近に着水できるだろう。

 

 レトウは左手で慎重に薙ぎ、三段目の石塊を横に押しのけた。レトウの体も傾いたが、もはや過去が石になることはなかった。押しのけた石塊に、先程触れた珊檎樹液が手の形でべっとりとついていた。

 

 石塊を押しのけた反動を用いて、本体へと軌道を調整する。同時に、レトウは続く連弾の射線上から逃れた。横に傾けば石になった過去がのしかかると、痕石の神獣こそ最もよく理解している。だからこそ、続く連弾も全て正面からの攻撃だった。そしてレトウが過ぎ去った後で、全ての石塊は空力に負けるようになった。

 

 放物線が頂点を極める。そして、落ちていく。顔色を伺うまでもなく、神獣の見開かれた目に穴のような呆然が滲んでいた。恐怖はなかった。

 

 右腕を構える。

 

 固く鋭く収束した石布の槍が、締め上げられた獣のように鳴いた。

 

 神獣は目を閉じ、赤く罅割れた石の瞼が妨げとなる。

 

 自重が増すのを感じて、レトウは呻いた。ニナイによる最後の微調整だった。重量による空力への抵抗と威力の増大が、痕石の神獣の目の前で行われる。

 

 ミハシラの緩い風が、痕石の神獣を押していた。下がることは出来ないようだった。下がったところで、珊檎樹液は既に塗られている。抵抗の術は、既に無い。

 

 着弾。

 

 レトウの重量を受けた槍の先端が、神獣の石の瞼をこじ開ける。重量に押された神獣の本体が、まっすぐに倒れ込む。

 

 滑り込み、押し広げ、潜り込み、掻き回す。レトウの手が瞼にぶつかる間際まで、深々と。

 

 神獣の本体に落着したレトウは、自重が齎す衝撃にきつく食いしばった。軽くなった神獣の本体が船のように受け止めたが、慣性に従おうとする肉体は筋力の限りを尽くさねば止まりそうにない。

 

 槍を握る手が白み、神獣の瞼の隙間に沿って槍が滑った。ドロリと赤い、泡立つ血が溢れて、熱かった。

 

 なんとか止まって、レトウはふと、静けさに魅入られた。それから、そう言えばこの神獣の声を聞いた事がないなと思って、そもそもにして声を出す器官が無いのかもしれないと思った。今更のことだったが、奇妙な驚きがレトウに満ちていた。

 

 真っ直ぐに前を見続けていた神獣の他の目が、震えながらてんでんばらばらの方向を見ていた。痛みはあるらしい。新たな発見だった。だがもう、無用のものでもあった。

 

 レトウは神獣にしがみつきながら珊檎布に呼びかけた。神獣の体内で珊檎布は槍から一枚の布へと戻り、それからはためく様な形で再び固まる。

 

 全力をもって、体重の限りを振るって、レトウは珊檎布を神獣から引き抜いた。広がった珊檎布が内部の柔らかな体組織を抉り、瞼の隙間から諸共に噴き出させた。

 

 余った勢いがレトウを神獣の上から転がし落とす。

 

 自重が水の深みへと誘い、しかしすぐに本来の重さを取り戻して、レトウは注意深く水上を目指した。

 

 体組織の多くをえぐり取った。だが、まだ倒したとは限らない。

 

 右手に槍を仕立て直し、肉眼でなんとか水上を伺おうとする。潜水面なしではボヤけるばかりでろくに見通せはしないが、明暗の加減だけはなんとか捉えた。

 

 神獣本体の傍で顔を出す。痕石の神獣は横倒しになったまま動かず、目は全て裏返って動かない。

 

 レトウは槍を構えた。水に浮きながら先程の威力を出せる気はしなかったが、それでもやらねばならなかった。

 

 ここから狙える目は。

 

 神獣の全身を眺めて、レトウは息を忘れた。

 

 痕石の神獣が石になっていくのをレトウは見た。空洞になった眼窩から始まり、赤黒く罅割れた体表が灰色へと移ろっていく。

 

 表面に石が貼り付いたわけではないようだった。微動だにしていないし、それは染みるように広がっていた。人から血の気が失せていくさまを見るような、そんな具合だった。

 

 突然、レトウの全身が水上に浮かび上がった。驚く間もなくミハシラの風が全身を捉えて、滑るように水際まで押していく。

 

 大きな水音が背後に起こり、レトウは振り返った。痕石の神獣が居たはずの場所には、大きな波紋が残るばかりだった。

 

 それでようやく、レトウは気がつけた。

 

 ああ、終わったのか。

 

 顔の痛みに気がつく。傷はついていない。ただ、強張っていた。これまでしたことのない表情をしていたに違いなかった。

 

 水際で重さが戻り、レトウは立ち上がった。

 

 痕石の神獣が死んでも、その力が残したモノはそのままだった。

 

 石の小山を登り、崩れる斜面に足を取られながら乗り越え、山の斜面に足をつける。

 

 戦士たちは、一応無事なようだった。石山の中から這い出すものもいるが、少なくとも立っているし歩けている。多少ぎこちない素振りを見せるものもいるが、数は揃っているようだった。ぐらぐらと揺れる意識が不安でレトウは繰り返し数えたが、多分問題はないはずである。レトウの見ていない所で直接的な被弾がなかった事を願うばかりだった。

 

「なんとかなったか」

 

 ウシェンがカワビトの少女を抱えながら、レトウに近づき言った。父にも少女にも、目立った怪我はないように見えた。

 

「はい、どうやら、そのようです」

 

 冷めやらぬ興奮がまだ心をかき乱している。感情の渦の中に何が起こっているものか、レトウ本人にもわかるものではなかった。喜んでいるのか、ただ呆けているのか。それともなにか、もっと別のものが在るのか。

 

「おい。話していないで、早く私を拾え」

 

 呼び声にレトウは振り向いた。その声が誰のものか、もう惑うことはなかった。

 

 斜面を上り、ニナイを拾い上げる。重さに不安はない。もうその力を及ぼしているものがないとは、レトウもわかっていた。

 

 ニナイはレトウの目をまっすぐに見つめ、言った。

 

「よろしい。まずはそうだな、ご機嫌でも取っておこうか? いかに私の助力があったとは言え、あそこから仕留めた事は私としても驚くに値することだった」

 

「そうか」

 

「感動のあまり、言葉もないと言ったところだな。まあ、いい。さて、ご機嫌を取った所で話を進めよう。わかっていると思うが」

 

「そうだな……約束は守る」

 

「そうこなくては。それでは、早速やってもらおうか」

 

「そうはいかない」

 

 話に割り込んだのは、父だった。小脇に箱を包んだ珊檎布を抱えて、ゆっくりと斜面を登ってきていた。

 

「父上、しかし」

 

「しかし、ではない。神器を神獣に戻すことは、俺が認めない。ただそれだけだ」

 

「おいおいおい。貴様、イカレてるのか? 私の助力を得るだけ得ておいて、渡すべきものを渡さないとは。とんだチンピラまがいの所業をよくぞ自分の息子の前で出来たものだ」

 

「どのように言われても、俺は覆さんぞ。俺はまだお前を信用していないし、俺はお前となんの取引もしていない。お前が取引をしたのはレトウとだけだ。そして、肝心の手段は俺の手の中にある。レトウ」

 

「は、はいっ」

 

「あの時お前は、俺にどういうわけでこの箱を差し出した」

 

「それは、父上ならこの神器を保護するのに適切な人物だろうと思ったので」

 

「つまり、俺にこの神器の保護を委任した。そういうことだな」

 

「そう、ですね」

 

「然るに、現在時点においてこの箱の神器の扱いは俺が一切を取り仕切っている。これは発見したレトウの委任によるものであり、委任したからにはレトウ、お前にも責任の一端がある。俺のこの判断について、そう簡単に否とは言わせんぞ」

 

「わかり、ました」

 

「よって……諦めることだな神獣。いや、神器。レトウがうんと言っても、俺はうんと言わない。絶対にだ」

 

「貴様ぁ……! うぐっ!」

 

 ニナイの怒りが漲らんとした瞬間、ウシェンの手がニナイの刀身を軽く叩いた。赤い手形が、尾を引いて残っていた。

 

「レトウ、この娘はお前が連れていけ。この箱の神器の運搬には慎重を期したい」

 

「……そうですね。そうしましょう。おぶっていくことにします」

 

「そうしてくれ。お前の荷物は各員に分配して持っていくから、その少女を連れて行くことに専念しろ。少ししたら出発する」

 

 一度ニナイを置いたレトウが背中で少女を受け取ると、ウシェンは戦士たちのところへ歩き去っていった。

 

 ニナイが震えていた。地面とぶつかり合って小刻みに音を立てながら、猛禽の目を見開いている。

 

 レトウはニナイを再び拾い上げ、今度は自分から目を合わせた。ニナイは目を逸らした。

 

 父の言わんとすることも、わからないではないのだ。確かに今回はニナイの助力によって痕石の神獣を討伐するに至った。だが、ニナイの考えが明らかになったわけでは当然無い。いざ神獣に戻してみれば、一時の協力などなかったかのごとく暴れまわる可能性はある。

 

 だが、それでも。レトウはニナイとの取引を全うしてやりたかった。

 

 自分の良心が咎めるところも、もちろんある。だがそれ以上に、どこか憎めないところがあるのを少ないやり取りの中で感じていた。

 

 根源的な部分でつながったがため、というのも在るだろうか。そこまでいくと心を侵されている疑いまで持ったほうが良いのかもしれないが、そこで得た反応に悪いものを感じなかったのは事実なのだ。

 

 卵が先か、鶏が先か。反応を得たのが先か、心を侵されたのが先か。

 

 こうなるとレトウに出来るのは、自分に素直になる事だけだった。

 

「いずれにしても、お前を連れて行かないわけには行かないが」

 

 レトウは笑ってみせた。

 

「なんとかならないか、俺はやってみるよ。ニナイ」

 

 刀身の震えが、ゆっくりと収まっていく。そらされていた目が、そっとレトウの目に合わせられた。

 

 信じ切ったわけではない。

 

 そう言いたげな目だった。

 

「此処に居ても仕方ない。良いだろう」

 

 レトウは頷き。少女を背負い直した。それからニナイを握り直し。ウシェンの後を追った。

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