流れる星の物語、あるいは危険な神器を捨てる旅の顛末   作:一星屋

6 / 8
006 旅立ち

 人影が朝靄を割る。

 

 滲み出すこと六人が、木々の間の山小道を足並みもそれぞれに下っていく。

 

 手を繋いで決然と歩む若き二人を先頭に、その片割れの両親が渋々とそれに続き、長老二人は大が小をかばいつつその後を追って、いずれにも言葉はない。

 

 日が昇って間もない時間だった。可能な限り早くの出立を望まれていたが、いかんせん足元を知れぬことには山道を行くのは辛い。途中までは知れた道でも、先の出来事があってからは変化が有る。単純な歪曲や崩落も有るが、厳密な調査の結果、レトウの村はより大きな変移を被ったことが明らかになった。山そのものが東の方へ数度ばかり回転しているらしかった。

 

 日当たりの変化が、狩りを務める戦士たちに多少の混乱をもたらすだろう。だが今のレトウたちに及ぼす影響としては、村の夜明けがほんの僅かに早くなったくらいのものだ。レトウの心は漣も立たなかった。だがその凪を保ったという事実自体が、レトウの心を漣立たせていた。自分達はこれから旅立つ、よって村の出来事とは無関係になる。そう認知する自分がいることに、レトウは内心で驚いていた。恐ろしくは、無かったが。

 

「この辺りで良かろう」

 

 息切らしながら言ったのは、一の長老だった。モディクの支えと杖を頼みに歩いていたが、長老衆の長老ともなれば相当の老体である。北の冠は最も内輪の斜面こそ草地を多く有するが、頂一つ越えればそこからは概ね深い森が広がっている。年寄りが立ち入るには安全と言い難く、その身の安否を思えばこの辺りは妥当な地点と言えた。

 

 一同は立ち止まった。足音が尾を引いて、それから旅立つ二人の元に全員が自然と集まった。レトウとサーヒラムナは振り返り、ニナイはレトウの腰で興味なさげに残る四人を見ていた。レトウとサーヒラムナにとっては安心を残すべく万全を期すべき人々だったが、ニナイにとっては、もう関わることの無いだろう人間たちでしか無かった。

 

「もう、ですか」

 

 湿り上ずった声だったが、レトウには母が刃を帯びたように思えた。朝起きた時から纏わりついていた悲愴が、スッと鳴りを潜めた。

 

 モディクが一の長老を庇う。刃の環の外側、遠からざる絶妙の位置である。

 

 跡を濁さぬ旅立ちは望めぬようだとレトウは悟った。知れていた事では有る。母が今回の県を容認するはずもない。そういう人なのだ。父ほどには知らずとも、長男としてそれなりには知っている。

 

 レトウはサーヒラムナよりも前に出た。意識を誘わねばならなかった。母も分からず屋ではない。だが、感情の処理には時間がかかるものだ。サーヒラムナもまた、あまり穏やかな目では見られていなかった。母の雰囲気は時にこうして研ぎ澄まされるが、目に現れる時は溜水に似ている。診療所でサーヒラムナと合流した時、母はその目をしていた。

 

 父が黙って、母の肩を抱く。

 

 事が母に関わることなら、父はやはり頼りになる。刃の冷たさはゆるゆると失せて、朝靄の肌寒さに還っていく。母の開かれたままの眦で朝靄は朝露に結し、一筋の流れとなる。

 

 嗚咽があった。声でなく、ただの音とも言えない。暖かな呪わしさを孕む、心身に沁みていく感情そのものの表れだった。

 

 ウシェンがレトウを見る。ナシアの落ち着きを待っていては、いつまでも事が進まないだろう。話を進めようという合図だった。

 

 レトウはサーヒラムナに頷き、繋いだ手を一度離して父の前に進み出た。母を抱くのとは逆の手で、執拗なまでに封印された神意の神器が差し出される。レトウは受け取り、モディクを見た。

 

 モディクは一の長老を伴って間際まで進み出た。もう、ナシアの感情の刃を気にする必要はなかった。やはり支えるのとは逆の手で二つの背嚢を差し出し、サーヒラムナは背に負い、レトウは当座の食料や、戦士たちが用いる数々の利器、珊檎樹液の厚瓶をかき分け、その深みへと神意の神器をしまい込む。

 

 それで、終わりだった。旅立ちのささやかな儀式は粛々と終わった。

 

「それでは、行ってきます」

 

 レトウは母の手を取り、それから全員の顔を見て言った。「行って来い」と送り出す言葉だけが口々につぶやかれて、別れの言葉も再会の誓いもなかった。誰しもがそういう言葉を忌み、避けていた。そのいずれの言葉も、レトウ達の帰還を遠ざける様な、そんな気がしたからだった。ただの挨拶だけが、この場には相応しかった。

 

 母はレトウの手を強く握りしめていたが、レトウはするりと抜け出してサーヒラムナと再び手をつないだ。

 

 しばらくは山道になる。陸でもどこか泳ぐようなカワビトの歩みが障りになることはないが、それでもやはりオカビトのほうが上手い。手を引いて、導かねばならなかった。

 

 残る四人に踵を返し、二人は行く。駆けること無く、しかし早足に、追い縋る母の手を振り切って、朝靄に自分たちと彼らを分かたせる。

 

 山降りが世の川の流れを変えた時、自分の涙の道も移ろったらしい事をレトウは今になって知った。白い闇が目元に纏わりついても、熱く塩辛い流れが招きだされる事は決して無かった。

 

 レトウはふと、振り返る。二人の女がそうさせた。届くかと思われた母の涙声はこだまさえ無く、罪と疲労で重くなると思われたサーヒラムナの足取りは軽かった。

 

 サーヒラムナと目が合う。彼女は笑って見せて、レトウはその意味を計りかねた。不安をかけまいとしているのか、それとも振り返ったレトウに気遣いを見出したのか。

 

 レトウも微笑みを返した。そこに意図はなかった。それでも、なんとなく嬉しいのは確かだったが。

 

 その微笑みも、サーヒラムナに微かな陰が戻るまでのことだった。

 

「お父さんとお母さん、仲良いんだね」

 

 母の声に宿っていた湿りが、今はサーヒラムナの内にあった。

 

 レトウは戸惑いと共に言った。

 

「ああ、まあ。母さんは少し気難しいところがあるけど、弟も妹も一杯いるから、それは間違いないと思う」

 

 言いながらに気づき、危ういところで核心は口にせずに済んだ。サーヒラムナの両親はその安否が知れていない。状況だけを見れば生きている希望はないだろう。ただ確認されていないがために、死んでいるとは言い切れないだけだ。

 

 サーヒラムナが旅に対して前向きなのは、ともすると抱える罪悪感だけではないのだろうか。レトウは思う。その報を聞くことがなければ、少なくとも彼女にとって現実は確定しない。村人たちや家族の死に対する罪悪感を抱えながら、しかし逃げようともしている。贖罪にして、逃避の旅。それとも贖罪など、ごまかしに過ぎないのか?

 

 そうは思いたくなかった。深い理由は無い。ただただ、こうして手を繋ぐ彼女の事を信じたいだけだ。きっと時間を欲したのだろう。受け入れがたい出来事は、そう簡単に飲み込めはしない。あるいは単に、二つの欲求の行き先が同じだった。それだけのことかも知れないだろう。

 

 レトウの返事に対する返事は、ない。

 

 核心を口にしてしまったほうが、今の彼女のためになったろうか。吐き出してしまったほうが、却って楽になることもある。その端緒を欲していたのかも知れない。ならば、今からでも聞いてみるべきだろうか。いや、そんな無神経な事を出来るものか。愛する人達を失ったかも知れないのに、積極的に掘り返そうとするなど。

 

 何か、別の事を聞いてみたほうが良いのだろう。

 

 では、何が良いだろうか。

 

 レトウはあれこれ思い悩み。

 

 しかし、サーヒラムナが言った。

 

「その」

 

 呼吸を諮るような前置き。

 

「少し、羨ましいかな」

 

「そうか」

 

 なんと返すべきなのか、レトウは直ぐに出てこなかった。歩みと同じく気持ちが既に次の話題に行っていて、一度戻さねば応える事は出来そうにない。うっかり立ち止まりそうになって、努めて歩くようにするとそれも上手くいかなくなる。

 

 幸い、出来上がった呼吸はまだ続いている。サーヒラムナが返事に費やした分だけ、レトウにも考える時間がある。今の何気ない相槌が、サーヒラムナの中で返事になっていないことを祈るしかないだろう。

 

 レトウは大げさに地面を見たり、梢の間に空を見る素振りをしてみた。万が一に備えての時間稼ぎである。考えている事を目に見える形にすれば、サーヒラムナも返事を待ってくれるだろうと。

 

「お前たち、会話下手なのか……?」

 

 だがどうやら無用な努力であったようだ。見かねたニナイが口を挟み、苦悩は終わった。少なくとも口の回転に関しては任せられる相手である。その点については深い所のつながりを抜きにしても、経験として既にレトウはニナイを信用していた。

 

「聞かされるこちらの身になってくれ。一体何を話さんとしているのか、じれったくてかなわん。雑談がしたいのか、身の上話をただ聞いてほしいのか、それとも親睦を深めたくてちょっとでも話をしようとしているのか」

 

 ニナイに同調するつもりは無かったが、レトウは少し後ろを歩くサーヒラムナを見た。レトウと繋いだ手に少し力が籠もって、ニナイに対して少し非難がましい目をしている。

 

 口を挟まれたのが面白くなかったのだろうか。

 

 いや、話はもっと単純かも知れない。昨日の内に顔合わせは済ませたにしても、まだしこりは残っているのだろう。ああして篝火の明かりに談笑を交わしてみたところで、しかしニナイはサーヒラムナにとって象徴的な存在であるはずだ。ニナイは悪い奴ではないということも、サーヒラムナにはわからないだろう。レトウとしても、付き合いの歴史ではないそれを言葉で説明するのは難しい。

 

 それらを踏まえれば。自らの罪を思い出させる存在、というのがサーヒラムナのニナイに対する率直な評価であるはずだ。贖罪であれ、逃避であれ、目の前にぶら下がっていて気分のいいものではないだろう。

 

「おっと、女心がわかっていないとでも言いたげな顔をしているな? 私の目が曇っていなければ、そのように見える。生憎だが目の良さは私の売りの一つでね、まあ理解力について疑問を呈されたなら差し挟む余地については否定しない。多くのものを知ってはいるが、それらに対する認識が妥当なものかは自分だけで判断し得ないものだ。それで、私の疑問には答えてくれるのだろうか? 実際問題、私の認識は適切なのか?」

 

 ニナイが言ったからといって、即座にそこへ食いつくわけにはいかないだろう。しかし、やはり、異性としての心理について言及されたとあれば、その可能性について気にならないはずもなかった。

 

 だがしかし、ニナイのやり方は性急に過ぎる。ように、レトウとしては思える。そのように言葉をワッと浴びせかけては、応えられるものも応えられなくなりそうなものだ。まして事がこう、繊細な所に立ち入る可能性があるとあれば、ますますもって適切には見えない。

 

「ニナイ、よせ。あまりこう、な」

 

 良い言葉の出ない自分が情けなくはなるが、かといって止めずにいることも出来なかった。

 

「はじめが肝心だ。昨日も言ったろう。ハッキリ言うことだ。とはいえ、多少の手心が必要なのも確かかもしれんか。順序立ててこそ、辿り着けるという者もいるだろう。だが言っておきたい事があるなら、早めにしておくことだな。何しろ旅は既に始まっている。期限がいつかは知れずとも、それが確かに切られている事は忘れるな。脅威を前に、お互いが知れない事は無いようにしろ。私もお人好しを手放したくは無い」

 

 もう、サーヒラムナは非難がましくなかった。ただただ、煩悶に顔を渋らせていた。

 

 機会が必要なのだとレトウは思う。それか、導かねばならない。

 

 無数の道を前にして迷うなら、手引が必要だ。今度はレトウから、握る手に力を込めた。

 

「……そうだな。ニナイはこう言ってるが、とりあえず俺から言えることは一つ」

 

 レトウはサーヒラムナの目を見る。浮かべてみせる笑みは、これまでのような曖昧な微笑みではない。自然と作り出された、力のこもった笑みだ。

 

「共に持って欲しいものが有るなら、受け止める。そのつもりで居て欲しい、サーヒラムナ」

 

 レトウは、サーヒラムナを揺るがしたかった。

 

 眠りに濾されて落ち着いた気分が、むしろ多くの道を見せるのかも知れないと思えて、それらの余計なモノを振り落としたかった。

 

 彼女の表情に、劇的な変化はない。煩悶がほぐれた様子もない。

 

 それでも僅かに伏された目に、真っ直ぐな意思がある。

 

 レトウは手を少し強く引いた。そして、先行く足を早めた。

 

 サーヒラムナの顔に若干の驚きが浮かぶ。しかし嫌そうなものではなかった。

 

「聞こえるか? 水の音だ。話はもう少し後にしよう。君に頼む時間が近づいている」

 

 土を踏み、知れた道を行く。登り行く陽が朝靄を煌めかせながら退ける。

 

 草を分けて木々の間を縫い、道を逸れた場所から稜線の向こうを覗いた。

 

 此処からはまだ遥かに眼下、急な斜面を下った先に川があった。あれが見つかったという新しい川だろう。さほど広いものではなく、流れはやや早い。流入口が狭く、進むにつれて緩やかに広がっていると見える。

 

 だがそれは水面の出来事でしかない。あの狭小な川の下には、北の冠の礎となった山々が眠っている。ミハシラの際における川の正体とはそれら伏流であり、大地に注いで起こるミハシラの広がりそのものである。

 

「此処から見える分だと、オカビトには少し辛いかもね」

 

「そうだな。普段なら、泳いで下ろうという気にはならない」

 

「深く潜っていけば緩やかな流れも捕まえられるとは思うけど」

 

「必要があると思ったら、やってくれ。どうにか手を離さないようにやってみる」

 

「……もう少し、先に行ってから考えよ。ちょうど良いところが見つかるかも知れない」

 

「そうだな、そうするか」

 

 村から離れて行くにつれて、木々は太くいかめしくなる。道周りを飾る洒落た若木から、朴訥として泰然自若なる老木へ。木々さえも文明の影響は免れえない。開拓の選別を受けなかった土地では、今もなお古き世界の形が残っている。

 

 見張り小屋の前を過ぎると道は徐々に掠れ、砂利の間から生す草に埋まりつつあった。

 

 村の者で此処まで来るのは狩人か木こりくらいのものである。その行き来とて知れたものであり、周辺の環境如何によっては長らく使われない事も有りうる所だ。

 

 ここまで来ると、いよいよもって村の領域を外れることになる。

 

 戦士という身の上からすれば、村の領域を出ることは珍しくない。つい一昨日に居た珊檎の木立も、村の外だが通い慣れた場所だった。二年ばかりの経験で通い慣れた、というのも可笑しな話かもしれないが。

 

 だが巫子でありカワビトであるサーヒラムナは、こうした山道を通じて村を遠く離れた事は恐らくないだろう。

 

 幸いにして、水の音はだいぶ近くなった。探り探り歩かねばならないところだろうが、その距離は短く済むはずである。

 

 だがレトウの思惑とは別に、サーヒラムナは足早に先を急ぐ。

 

 レトウは努めて足取りを緩め、手の繋がりで戒めようとしたが、最後には折れてサーヒラムナの歩みに合わせた。

 

 レトウは言う。

 

「山歩き、慣れてるのか?」

 

「ううん、そういうわけじゃないけど。これくらいなら何も問題ないって、教えておこうかなって」

 

「そうか、わかった。まあ、息は少し切れそうになってるみたいだが」

 

「まあね。でも、大丈夫。それは本当」

 

 サーヒラムナの歩みにブレは無い。姿勢に乱れもなく、足を取られそうな様子もなかった。水際に村があっても、山に暮らしている事は同じであるということだろうか。

 

 多分、そうなのだろう。隣村であってもカワビトと暮らしたことはない。無知ゆえに観念が先行したということなのだ。志を同じくする北極の民として多少の交流はあっても、それだけでは十分に知れるものではない。

 

 レトウは己の偏見を恥じ、そして知れた事を喜んだ。それから少し、手を繋ぐ意味の薄まりを惜しんだ。

 

 とはいえ、山歩きの慣れも限度がある。

 

 人の腰ほどまで有る段差や、落葉に折枝で地面の隠れた場所、獣の隠れるに適した茂みは、レトウが戦士として先導しなければならなかった。そうした障害への職能と経験は、やはりレトウに一日の長がある。

 

 手を繋ぐ意味が、完全に失われたわけではない。レトウはその証明を求めたわけではなかったが、安心を覚えたのは確かだった。

 

 それから、少しの後。

 

「これなら、行けるかな」

 

 川を覗いたサーヒラムナが、振り返りながらそう言った。

 

 道なき道を進み、故郷の山を降りきったところで、レトウたちの姿は水のほとりにあった。むき出しの岩がそのまま張り出す、庇の様な場所である。川はこの庇の下を流れていた。川は山裾よりも下にあるのだ。

 

 北の冠の山々は流れ着いた岩土の巨塊に過ぎず、故にこういうこともありうる。レトウたちが立っているのは、この巨塊の一辺の際である。

 

 そのためもあり、遠目には狭く見えた川だったが、思いの外に広いことが明らかになっていた。川の広がりもまた同じく余裕があり、流れが穏やかになるための距離は短く済んで、もう飛び込んで問題ないようだった。

 

「おい、私をしっかり括り付けておけよ。ここで私だけ別々に流されたのではたまったものじゃない」

 

 意外にも、一番不安そうな様子を見せたのはニナイだった。

 

 ニナイは自力で動くことができるが、それは本当に細やかなものである。泳ぐことが出来るかといえば、断じて否だ。その点を思えば、当然の危惧ではあった。

 

「まだ水に入ると決めたわけじゃないんだが……そうだな、固定しておこう。先を急ぐなら、やはり川を下るほうが早い。サーヒラムナが大丈夫だというなら、ここらで決断したほうがいいだろう」

 

「行くんだね」

 

「ああ。頼りにしている」

 

 レトウは紐を絡め、ニナイをしっかりと腰に括り付けた。鞘でもあればもう少し融通が効いたのだろうが、ニナイの鉤型は独特の形状に過ぎて一晩で用立てることは出来なかった。なので、直接くくりつける事となる。柄と鍔を重点的に絡めた結び目は、解くことができるか正直怪しかった。

 

「じゃ、はい」

 

 ニナイをくくり終えたところで、サーヒラムナが川を背に両の手を差し出す。レトウは潜水面をつけるとそれぞれに手を重ねたが、サーヒラムナは手を進めてレトウの前腕を掴んだ。レトウもそれに倣い、サーヒラムナの細い前腕を手の内にした。

 

「戦士なら、泳ぎはちゃんとできるよね」

 

「そのつもりだが、カワビトに満足してもらえるものかはわからないな」

 

「良いよ、私の方で調整する。でも足を振るくらいはしておいてね」

 

「それはもちろん」

 

「うん……それにしても」

 

「どうした」

 

「潜水面って、もうちょっと気の利いたデザインにならないのかな」

 

「……そうか。そう見えるのか。これはこれで味があっていいんだが……」

 

「ふぅん、そういうものなんだ……ま、いいや。それじゃ、行くよ……!」

 

 サーヒラムナがレトウの手を引き、背後の川へと倒れ込む。

 

 飛沫を上げて一瞬の後、レトウは既に水の中にあった。

 

 全身を包む、水の張り付く感覚。押し流されながら押し付けられ、重力の軛は遠ざかり、レトウは潜水面の中で思わず息を大きく吸った。

 

 目の前に、サーヒラムナの顔がある。

 

 サーヒラムナが笑ってレトウごとくるりと回ると、それだけで上下感覚がレトウの意識から抜けていった。

 

 今、自分はどの様な姿勢になっているのだろう。レトウはどこか遠くの事のように今の自分を思う。

 

 サーヒラムナが後光を帯びている。どうやら今は、サーヒラムナの下にいるらしい。そして水面を仰ぎ見ている。サーヒラムナの顔が後光の下で影になって、せっかくの笑みが隠れている。

 

 その笑みが照れる形に移ろったことで、レトウは自分の行状に気がついた。あまりに目を凝らして見すぎていたようだった。

 

 ごまかすように目を逸らし、慌てて足を振る。自分たちの頭が何処を向いているのかわからなかったが、サーヒラムナに焦る素振りはない。先の回転で既に行く先へ向けていたのだろう。

 

 サーヒラムナが頷き、水を掻く足に自分のものでないうねりを感じはじめて、レトウの推測は確信に変わった。

 

 二人分の水のうねりが複雑に絡み合い、流れる水と共に二人を前に押した。

 

 その力強いうねりがレトウには照れ臭く、くすぐったかった。

 

 

 

 

 

 

 

「見えました、フォッドの部隊です」

 

 山地側の見張り台で、戦士が遠眼鏡を覗きながら言った。朝では有るが陽は十分に昇り、山々の陰は小さくなって足元も確かになった頃である。動き出すには適当な時間だろう。彼らの到着はギリギリ無礼にならない時間帯になるはずだ。フォッドらしい、絶妙の時間調整である。

 

「わかった。じゃあ、此処は任せる」

 

 モディクはため息を付き、村の入口へと向かった。

 

 フォッドがこの状況下でも自分らしさを保って尋ねてくるとあらば、それは間もなく到着するという事に違いない。ミハシラ側は開けていて人を見つけるのも容易いが、山地側は木々の覆いで見逃すこともある。フォッドはいつも巧みに木々の間を縫って、警戒網ギリギリのところで姿を見せるのだ。そして、見張り台に手を振ってくる。

 

 山降りでも、あいつの調子を崩す事はできなかったか。いや、一度は崩したのかも知れないが、この短い内に取り戻したということかも知れない。

 

 強かな男である。それでも人間であることに変わりはないから、一度は崩れたと見たいのが人情だ。しかし強かさに目を向ければ向けるほどに、あの飄々たる態度が崩れるようには思えない。人間味を間違いなく感じる男でああるのだが、しかしなお人間味を探してしまう。それがフォッドという男に対するモディクの評だった。

 

 モディクが村の入口で長老達、それにウシェンと合流してからしばしの後、フォッドの部隊が道を辿って姿を見せた。

 

 隊長を務める、波打つ赤毛の男フォッド。

 

 副官とされる、側頭からの二本角が額の上で結ばれる金髪の女ネミアロス。

 

 その麾下、十名の隊員たち。

 

 総員十二名が整列し、その先頭でフォッドが軽く敬礼を見せる。細いタレ目の下で、口元がニタリと笑っている。

 

「ご健在をお慶び申し上げます、長老方。どうやら村の方に大きな被害はなく済んだようですな」

 

 フォッドがまず言ったのは、定形の挨拶だった。親しみをもってくだける、距離を詰める意図の混ざった言葉である。

 

 一の長老が代表としてこれに応え、一歩前に出て言った。

 

「よくぞ参られた、フォッド殿。いかにもご覧の通り、幸いにして村は大過なく此度の出来事を乗り越えたと言えましょう。神器蔵は形を保ち、人の死ぬることもなく、多少の食器が砕けてもそれ以上のことはなかった。まあ、けが人のある事は避けられなんだが、命に別状の有るものではない」

 

「まさにそれをこそ聞きたいと思っていたところです、カラバルド殿。そうですか、それは素晴らしい。北極砦にも、良い報告を持って帰れそうです……時に、お願いが」

 

「申されよ」

 

「単刀直入に申しましょう、内輪部の調査をお許し頂きたい」

 

 長老たちが硬く顔を見合わせた。

 

 モディクとしては意図も理由も理解できたが、慣行が先に立って眉をひそめる。

 

「ほう……それはどうしてかな。北極の民でない者への禁足を、どうにか乗り越えねばならないだけの理由をお持ちなのか」

 

 フォッドは我が意を得たりとばかりに手を打ち、それから大仰に手を上げた。演技とわかる演技。本人が演技たることを意識している、三文芝居と見せかけるための素振りだった。

 

「もちろん、ありますとも。一昨日のことです。北極砦で見張りを務める部隊が、内輪部を出ていく飛翔体を確認しました。一人や二人でなく、何人もの隊員がね。我々はあれを神獣ではないかと睨んでいる。先の出来事も有り、何処かの村が崩壊の憂き目にあったのではないか、と……姫殿下はご心配あそばされ、その確認を我々に命ぜられた。そういうわけなのです、カラバルド殿」

 

「ふむ、なるほどな」

 

 今度は、一の長老が演技を見せる番だった。

 

 長老衆は沈黙し、それは老練が為せる黙秘であったが、しかし黙秘するならば肯定しているのも同じだった。それをごまかすために、一の長老が視線を集めねばならなかった。

 

「結論から申し上げるなら、許可は出来ない。しかしそれでは納得もいかぬだろう。我々が知る限りの事をお教えし、見張り場への立ち入りも許可する。それではいかがかな」

 

「せめて、隣山への稜線上を歩かせていただけたりは?」

 

「……今、我が村は復旧の途上に有る。貴方方へつけるべき見張りも惜しいのが実情だ」

 

「では、仕方有りませんな。それで手を打ちましょう」

 

 

 

 

 

 

 

「彼、いないな」

 

「何のことだ」

 

「ウシェン殿の長男さ。彼もそろそろ、ウシェン殿に同席して経験を積む年頃だ。だがさっきの場ではいなかった」

 

 モディクの案内で見張り場へ向かう途上、フォッドはネミアロスと囁きを交わしていた。

 

 周りを部下で囲み、密談を交わしているのは明らかにはしても、距離と足音で内容は決して悟らせないようにする。そういう隊列を敷き、部下たちにもわざと咳をさせ、ガチャガチャと装備を鳴らさせ、余人の耳に届かぬよう細心の注意を払った。それは何かに気付いたことを示しているのでも有り、村側の告白を誘う策でもあった。

 

「怪我でもしているんじゃないのか。カラバルドは、死人は出なかったと言っていたぞ」

 

「確かに、その辺りが順当なところだろう。だから、あとでお見舞いも申し出る」

 

「任務としての必然性に疑問が残るところだな。村の連中も、その辺りに気づかないとは思えないが」

 

「言葉に嘘がないことを示すのは、彼らとしてもやっておきたいはずさ。可能性はある。そしてウシェン殿の長男がいないようなら……」

 

「どうするんだ」

 

「探して、事情を聞く必要があるだろうな」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。