流れる星の物語、あるいは危険な神器を捨てる旅の顛末   作:一星屋

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007 北の冠

「外の世界って、どんな所だろうね」

 

 レトウが岸辺で全身を拭いていると、石に腰掛けるサーヒラムナがそんな事を聞いてきた。自身の膝に肘をついてあごを支えながら、半裸のレトウを見ないように曇天を見上げている。

 

 外の世界、か。レトウは考える。外の世界を見たことはもちろん無い。サーヒラムナもそれを前提として、想像を共に広げてみようと、提案混じりにその様な事を聞いてきたのだろう。

 

 だがレトウは、母の事を思い出していた。父やモディクの姿もそこにはあった。

 

 サーヒラムナが暗に提案する空想に付き合ってみるのも悪くはない。だが実を言えば、レトウは多少なりとも外の事を知っている。なまじ知っているばかりに、想像に付き合えるかどうかについては不安のほうが勝った。それにこれからの旅を思えば、早めの情報共有をしておいたほうがいいのではないか。そんな心配のほうが、レトウの中では強かった。

 

「実を言うと」

 

 レトウは切り出す事に決めた。

 

「少し知っている」

 

「えっ……そうなの?」

 

「ああ。父や、父の友人は外の世界に行ったことがあるんだ。それと……母は父が外から連れてきたらしい」

 

「あの人が? へぇ……ちょっと雰囲気が違うな、っては思ったけど」

 

「まあ、俺も小さい頃は驚いたよ。それで父や母、父の友人が時々聞かせてくれたんだ。ラマドナスより南には行かなかったという話だが」

 

「そっか……ねえ、どんなところ? 外の世界って」

 

「そうだな……」

 

 話すならやはり、北の冠を出た辺りからが適当だろうか。

 

 そうして話を選んだレトウの脳裏に、話してくれる両親やモディクの表情がありありと蘇った。

 

 幼い自分を寝かしつけるため、同じく横になって語ってくれる彼らの顔には影がある。それは薄明かりの揺らめきが作り出す、小さき日の幻影に過ぎないのかもしれない。けれどもそこに宿る熱は、火に照らされてもなおどこか冷たかった。それは間違い無かったように思える。

 

 思い返してみれば、こちらから積極的に外の話をせがんだのは幼い時分だけだったように思う。弟妹が大きくなり、長男としての自覚が芽生え、そして単に歳の長じていくにつれ、彼らの表情の冷たさが思い出されて外の話を求める事は出来なくなっていった。それでも、弟妹が自分と同じように寝物語としてせがんだから聞く機会はあったのだが。

 

「どうしたの?」

 

「いや、なんでもない。話すなら何が良いかと思ってな……いや」

 

「うん」

 

「外の話をする時、両親も、父の友人も、どこか影のある顔をしていたんだ。薄明かりの中でだったし、幼い頃のことだから、記憶違いというだけかも知れないが」

 

「つまり、暗い話ってこと?」

 

「そういうわけじゃない。そういうわけじゃないが。そういえば、どうして外に行ったのか、聞いたことはなかったな」

 

 その事に気がついた時には、もう子供なりに何か察していた。明確に何かわかったということはないのだが、やはり親しい人の暗い顔は見たくない。今の今まで忘れていたが、確かに自分は気付いていたのだ。それをたった今レトウは思い出した。

 

「そういえばあの頃、理由が分からない事に気付いていたはずだ。幼い頃は外の世界に思いを馳せて気付かなかったが、弟妹に話すのを聞いている内におかしく思えてきたんだ。結局、聞くには至らなかったが」

 

 珊檎布を手に取り、手の平から呼びかけて全身にまとう。珊檎布は水の切れに優れている。脱いだばかりだが、呼び掛けて振り払えば濡れることはない。上と下と、それと外套にあて、体を拭いた布は元のあった防水袋に戻した。ニナイを腰に差し、背嚢を背に負って、レトウは言った。

 

「この事は、もう少し考えておきたい。それよりも外の話をしよう。良いだろうか?」

 

「良いよ。それに、私も考えておく。でも聞かない事にはわかんないか」

 

「ありがとう。今から話すよ。歩きながら聞いてくれ。出来れば、ニナイもな」

 

「善処する」

 

 苦笑と共に手を取り合い、レトウ達は谷間の岸を発った。底知れぬ川の道は一筋縄でなかったが、既にかなりの距離を稼げていた。

 

 目下のところの問題は、ここからいかなる道を取るかである。

 

 川を泳いで下る手段は速さに優れるが、こと北の冠のような山地においては見通しが立たないという弱点も併せ持っている。

 

 そしてどうしても、岸に上がらなければならない状況に遭遇することとて有るものだ。まさに今が、そうだった。

 

「北の冠を出た後の話にしようかと思ったが、まずは北の冠の話をしておこうか。何か役立つ事を見つけられるかも知れないからな」

 

 傍らの低い山を登りながら、レトウたちは行く先にあった湖を眺めた。山々の間に突如として現れた空隙で、合流する川達が大きな渦を作っている。ゆったりとした流れではあるが大きく、持ちうる力を侮ること決しては出来ない。行く先の景色が特に歪んでいる事をサーヒラムナが見出し、山々と水の深みに沈む事を避けるべく岸に上って今に至る。

 

「外側の山裾の、少し上を見てくれ。白くなっているのが見えるはずだ」

 

「……うん、有るね。一体なんだろう」

 

「あれは多分、塩か石灰だろう。そしてあれは、この湖にかつて山があったことを示している。塩、あるいは石灰で出来た山だ」

 

「塩か、石灰。何かで聞いたことが有るような、無いような。もしかしたら本で読んだのかな」

 

「だとしたら、多分ラマドナスの書物で読んだんだろう。ラマドナスではこうしたことの研究が進んでいるんだそうだ。昔に、学者が北の冠に入る事が許される事もあったのかも知れない。まあ、内輪以外は俺たちもそこまでこだわらないけど、ラマドナスの方で気にしたろうからな」

 

「だんだん、思い出してきた。ミハシラから流れつく山はただ岩ばかりならず、そして一つばかりということもなかった。山々に塩や石灰の塊が列し、傍を流れゆく川に溶け出して下流の岸辺を尽く白くした」

 

「ああ。そしてそれは、人類史が始まる前の出来事だった。塩の時代、石灰の時代。その跡が今も残っている」

 

「あの白が無くなる事は、あるのかな」

 

「しばらくは、無いだろう。今はもう、川があそこよりずっと下の方を流れている。この辺りの水量が多い時代があったんだろうな。いつかは雨が流し去るかも知れないが、それはずっと先のことだ」

 

「そっか……こういうのも、お父さんやお母さんに聞いたの?」

 

「もちろん。こういう話が得意なのは、母さんだったな。聞く度に、ああ本当に外から来たんだなと思ったものだ。まあ、先も言ったような本がうちの村にもあるから、今となってはそれが根拠として弱いとも思うんだが」

 

 あるいは母こそが、あの本を持ち込んだのだろうか。

 

 そんな発想もひらめいたが、ラマドナスから買い取ったと考えるほうが自然だった。北極の民とて北極地帯の全てを知っているわけではない。そして北極砦の者達は、そうしたモノを売ることが許されている。外の書物は北極の村における娯楽の一つだし、実用の面でも価値がある。外の感覚を知っておくという点においても有用だ。

 

「ニナイは、そういう話を何か知っているか?」

 

 あの書物は北極砦由来だろうと結論して、レトウはニナイに言った。こうした話をするのなら、どうやら世界を巡った経験のあるらしい者の話は是が非でも聞いておきたかった。

 

 ニナイはじろりとレトウを睨め上げて、面倒くさそうにため息をつく。

 

「予め言っておくが」

 

 小さく身じろぎをして、ニナイは言った。その身じろぎがどうにも、肩をすくめたようだとレトウには思えた。

 

「私とてそこまで昔の事は知らない。私に記録されている限り、この大地に流れ着いたのは人類史が始まって以後のことだ。北の占有者の話は既に広く語られるモノだったから、長くとも千年以内のことだろう」

 

「北の占有者とは、なんとも気に入らない呼び方だな」

 

「それが南の方では普通なのさ。まあ、今の時代はどうなのか知らないが、当時はそうだった。何しろ神器を用いれば、国を興すのだって夢じゃないんだからな。そんなのし上がるチャンスを大概かっさらわれるんだ、面白いはずもないだろう。それでも、おこぼれに預かる連中はそこそこ居たようだがな」

 

「そうか」

 

「どうにも、今の話には息詰まる事が多かったようだな。まあ近代史について知りたければ聞け、教えてやろう。私があの村の神器蔵に収まる前には、もうラマドナスは存在していた。確か帝国暦で一五○年前後だったな……そういえば、今は何年だ?」

 

「確か、三○四年」

 

「あれから百五十年ばかりか。私より以前から収まっていた神器蔵の先輩諸君にお見舞い申し上げておこう。ははは」

 

 歴史的興味はそそられたが、レトウはひとまず黙っておくことにした。喉のひっかかりは下手すると吐き気を催すもので、それを味わいたくはなかった。味わったが最後、自分が何か違うものに変わってしまうような、そんな気がしたのだった。

 

 山の頂で周辺の地理が概ね分かると、レトウたちは湖に注ぐ川の岸へと下った。その川を渡り、湖を迂回できる道なき道を辿って、塩か石灰のこびりついた山を避けて進んだ。湖から流れ出す辺りは傾斜がきつく、歩くにも川にも入るにも適してはいないので、レトウ達は大回りな道を余儀なくされた。

 

 北の冠に列する山々は、その大きさも様々だ。幸いにしてこの辺りは低山が多いが、遠くには高い山も散見される。ものによっては、山下る最中でもその頂が見えるのだ。隣にある低山の頂の上に、特に高い山の頂を見ることが出来る。そしてその向こうに何が有るのか、見通すことは出来ない。

 

 それに低山であっても、山は山である。北極の民がいかに山歩きに慣れていようと、渡河も合わせてとなっては無理など断じてしてはならぬものだ。

 

「そろそろ、夜を明かせる所を見つけないとな」

 

 高い陽の下、サーヒラムナに疲れの色が見えてきていた。ニナイの力を使い、レトウはサーヒラムナの背嚢から重さをいくらか引き受ける。これで重量のバランスが変わり、両者ともに負担が少し軽減されたが、ほとんど地理も知れない場所で時間も考えると、これ以上距離を稼ぐことは出来ない。火の焚ける場所を探さねばならなかった。

 

 オカビトの感覚としては、濡れやすい場所はできるだけ避けたい。しかしカワビトのサーヒラムナとしては、可能な限り水辺のほうが良いだろう。となると、川から遠からず近からずの場所、という事になる。水の補給は必要になるのだから、それなりに近くてもレトウとしては構わない。濡れさえしなければいいし、下るための川はいずれにせよ見当をつけなければならないのだ。手がかりは手元に置いておきたかった。

 

「サーヒラムナ、少し聞いてもいいだろうか」

 

「なに?」

 

「カワビトは、肌で水質がわかったりとか、そういうことはあるか?」

 

「オカビトは、わからないの?」

 

「全く、とは言わないが。カワビトのほうがもしかしたら、ずっとわかるんじゃないかと思ったんだ」

 

「そう。比べた事が無いから何とも言えないし、自信の無さなら貴方と同じくらいだと思うけど。でも、他人を頼る必要は感じないかな」

 

「なら、次の川に行き当たったら少し見て欲しい。さっき見たように、石灰や塩が上流にある可能性もある。あるいはもっと別のなにかも」

 

「わかった。任せておいて」

 

「ありがとう。その時は、一応俺も手を入れる。感覚の違いについてすり合わせれば、見えてくるなにかもあるかも知れない」

 

 誤魔化し混じりのそれは、サーヒラムナにばかりさせるのは気が引けるために出た言葉だった。万が一にでも何かあった時、彼女だけが痛い目を見るのは居た堪れない。リスクを考えるのなら、ここでレトウが手を入れるのは悪手だろう。それでもどうにも、感情が許してくれそうにない。

 

 肉体の万全を取るか、精神の安定を取るかだ。

 

 結局の所、体が傷めば精神も安定しては居られないだろう。それでも心は、ありうる自らの未来に怯える。臆病がもたらす選択だとは、レトウも自覚していた。

 

「大丈夫?」

 

「……何がだ?」

 

「私達、助け合わなくちゃいけない。ご機嫌取りはいらないよ」

 

 サーヒラムナの眼差しが、レトウの意識を叩いていった。

 

 ご機嫌取り、ご機嫌取りか。

 

 多分。いや、まさにそうだったのだろう。今の自分は、サーヒラムナのご機嫌取りにご執心だった。臆病な選択は、そこに根を下ろせばこそ出てくるものだった。そしてご機嫌を取るという行いは、その人を信じていないからこそ為されるものである。あるいは不信自体を信ずればこそ、取られる手段だ。

 

 無論、レトウはまだサーヒラムナをよく知らない。僅かに見せられた輝きが刻みつけられているばかりで、その真偽さえ定かではない。

 

 それでも、既に旅は始まっている。迷う時間はない。もう、既に知っている部分を信じるしかないのだ。それが贖罪と逃避のどちらに端を発するか知れぬものでも。サーヒラムナが旅立ち、神意の神器をどうにかしようとする意志はあるのだと。故にまた、レトウを信じてみる意思もまたあるのだと、レトウの方でも信じなければならなかった。

 

 レトウは笑って言った。

 

「俺が入れるのはやめておこう」

 

「うん。それが良いと思う」

 

 彼女の手に何かあったら、その時出来る限りを尽くす。それでいい。

 

 彼女もまた、レトウに何かあったら出来る限りの事をしてくれるはずだ。

 

 レトウはそう信じてみることにして、サーヒラムナに任せることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 結局の所を言えば、特に問題が起こることはなかった。

 

 見つけた川をなぞって面する山を物色し、斜面のなだらかな場所を選んで森の空白にキャンプを張った。川に近過ぎず、遠過ぎもしない。求めていた場所である。

 

 水質にも問題なく、ひと泳ぎして気晴らししても良いくらいだとサーヒラムナは言う。疲れているからしないけどもと、そのすぐ後に言いはしたが。

 

 ともあれレトウ達は火を焚き、携帯式の蒸留器を火に掛けた。組み立てに用いる部品によっては濾過器ともなる、戦士たちが好んで用いる利器である。とはいえ大抵の場合、こうして蒸留器に用いることが多い。濾過装置は使用回数に限りがあって、火が使えるなら蒸留しない理由は無かった。

 

 川の水が沸くのを待ちながら、一行は火の揺らめきを眺める。山間の森は闇の足も早く、空はまだ明るさを残しているが谷間はすでに夜だ。陽の光も、程なくミハシラに隠れて失われるだろう。そうなれば、真の夜が訪れる。火影の踊りが、木々の間をさまよう。

 

「やれやれ、くたびれたな」

 

「お前は俺の腰に下がっていただけだろう」

 

「気疲れというものだ。お前たちが肉体的に疲れて散漫になるだろうと見込み、私は常に周囲に目を光らせていた。その点については主張させてもらおう。第一、私の力を使っていただろうが。それで腰に下がっていただけとは、随分な言い草だな?」

 

「ああ、わかったよ。すまなかった」

 

「物分りがいい所有者に恵まれて、私も助かるよ。実のところを言えば私もそこまで喋りたくはないのでな、手間が省ける」

 

「しかしそうまで言うなら、目の良さには相当な自信があるんだろうな」

 

「無論だ。何を隠そう、目の良さは私の自慢の一つ。お前たちの視力では足元にも及ばないだろうと断言することだって出来る」

 

「なるほど。なら、もう少し見張りをしておいてくれ。そろそろ夕食の準備をするつもりなんだ」

 

「ふん、始めからそう言えば良いものを。回りくどさにかけては、私もお前にはかなわんな」

 

「そうか」

 

 夕食と言っても、大したものではない。望ましいものではなかったが、おおむね保存食を蒸留水に溶かしたものである。それに食用できる植物種子を入れて煮込み、せめてもの足しにしたものだ。

 

 狩りや罠で獣を捕らえる事が出来れば保存食を節約できたのだが、生憎と適当な獣を見つけることが出来なかった。鼠でも、小鳥でも、何でも良かったというのに、それらの姿さえ見つけられない。

 

 獣たちもまだ、山降り後の状況に対応しきれていないのだろう。新たな安住の地を探して、こそこそ隠れながら動き回っているのだと思われる。

 

 北の冠の山々は、川によっていくつかの山地に区切られているものだ。川は明確な区切りとして山地と山地とを隔て、獣たちも自身らの領域を定める一つの基準にしているのだという。

 

 それが揺らいだとなれば、当然それらの領域も変わってくる。これまで接していなかった縄張りが接するようになり、あるいは水に没して全てが失われたところも有るだろう。獣たちもまた、緊張しているはずである。

 

「静かだね」

 

 汁椀を両手で支えながら、サーヒラムナが森の間を見て言う。塩気ある匂いの湯気が、木の低い梢に触れて消えていく。

 

 ミハシラの暖かで緩やかな風も、此処まで来ると颪になって冷えていた。木々の間を抜ければその速さを増し、葉の擦れは忙しく起こってむしろ騒がしいくらいだった。

 

 だがサーヒラムナの言うことは、そういうことでないのだろう。汁を一啜りして、レトウも木々の間に目を凝らす。

 

「なにか見えるか、ニナイ」

 

「森が見えるな」

 

 やはり、動物の気配はない。例え身動きをしないようにしているとしても、そこに感じられるものはあるはずだ。獣達の息の名残、彼らが秘める熱の感触、そして発する野生の匂い。それらの一つとて、この森には感じられなかった。恵み豊かで、過ごしやすそうな森だと言うのに。

 

 この山地が今回の出来事で広くなっていたとすれば、一斉避難からの移住が起こった可能性はなくもない。だがそれは、希望的観測から生じた妄想であると見たほうが良いだろう。

 

 良い土地に、しかし先住者の気配がない。余程のことがなければありえないはずのことである。

 

 まずい所にキャンプを張ったかも知れない。だが今から変えることなど出来るだろうか? いや、まず無理だ。居ないように感じられるだけで、居る可能性はまだある。夜陰に隠れる獣の間を縫っていくなど、自殺行為に等しい。松明の一つでも作っていけば多少はマシかも知れないが、いずれにせよ休息の時間が削られる事になる。

 

「ニナイ、お前は眠らなくても大丈夫だな」

 

「はっ、世話の焼けることだ」

 

 不寝番を立てて、どうにかここで夜を明かす。少し苦労するが地面に突き立てておけば視界が広がるし、ニナイなら十分に果たしてくれるだろう。見張りとしてこれほど頼りになる者はいない。

 

 鍋を空にして、また蒸留器を火に掛けた。簡単でも身を清める分と、水筒に詰める分を確保しなければならなかった。

 

 これが終わったら、とりあえず必要な事は終わる。あとは明日の簡単な計画を話し合って横になるだけだ。だがそれで安心できるかと言えば、もちろんそうではない。野宿はそれだけで危険にさらされる。ニナイが見張っていてくれるにしても、熟睡することは出来ないだろう。

 

 サーヒラムナが目を閉じている。眠っているのかと思えば、どうやらそういうわけでもない。火の前で膝を抱えながら、ただ目を閉じているだけだ。

 

 レトウも倣って目を閉じた。火は消え、薪の爆ぜる音が少し鮮明になったような気がする。蒸留器を水蒸気が抜けていく音と、川の水が沸き立つ音。水に戻った雫が小刻みに、規則正しく、それでも少しずつ早くなりながら、水筒に満ちていく音の中に、風と葉の音が交じる。

 

 薪が焦げる匂いと、暖かな水と冷たい水の匂いが同じ場所に集った。夕食の匂いが微かに残っている。それに蒸留器から立つ、熱された金属の匂い。それら森が放つ圧倒的なまでの緑の匂いを押しのけて、レトウ達を不思議と安心させてくれた。それは、人類種の領域の匂いだった。

 

 レトウは目を開いた。短い間のことだったが、既にいくらか心身は休まっていた。これ以上目を閉じたままでいれば、きっとそのまま眠っていただろう。蒸留器を火に掛けたまま眠るわけには行かない。誘惑を払い除けて、レトウは目覚めの世界に帰ってきた。サーヒラムナも、そんなふうな顔をしていた。

 

「おい」

 

 ニナイだった。安らぎの余韻を投げ捨て、レトウは顔を向けた。

 

「どうした」

 

「今、背後に妙な影が見えた。火の光の中を一瞬、大きなモノが横切っていったぞ」

 

 珊檎布を手に取り、槍に収束する。サーヒラムナも背嚢から珊檎樹液の瓶を取り出し、蓋を開いた。

 

 それぞれ位置を移し、火を挟んでレトウとサーヒラムナは向かい合う。これでお互いの背後を見張る事が出来る。ニナイは二人の側面が見える場所に位置し、刀身の両面で目を開いてそこからの前後を見張った。これで、四方を見張る態勢は整った。

 

「ニナイ、どれくらい大きかった」

 

「少なくとも、お前達を見下ろすほどは大きかった。細っこくて、長い腕があったように思う」

 

「それが、森の中を?」

 

「物音一つも立てずにな。もしかしたら、運の悪いやつが居たのかも知れん」

 

「今まさに、俺達が運の悪い目にあっているところさ」

 

 静寂が帰ってくる。だが、同じ静寂ではない。

 

 レトウは耳を澄ませた。物音を立てなかったと言われても、澄まさないでは居られなかった。変わらぬ音が聞こえる。夜の森の音、人類の領域の音。

 

「! 今!」

 

 目を見開いたサーヒラムナにレトウは頷きを返す。

 

 草の茂みを揺らす音が、確かに森の中から聞こえた。

 

 音のした方へ振り返り目を凝らしても、その正体を見極める事はできない。だが続いて木の倒れるような轟音が聞こえてくると、レトウはいよいよじっとしていることは出来なくなった。

 

 立ち上がり、忍び足で火から遠ざかる。森の際に歩み寄り、息を殺しながら左右に首を伸ばした。

 

 その時だ。

 

「レトウ!」

 

 反射的に、レトウは前へ跳ぶ。土の削られる音が後ろで起こり、珊檎樹液のぬるつく水音が続いた。

 

 転がった先でレトウは振り返る。

 

 ニナイが言った通りの、細っこくて腕の長い影が他の影に隠れるのをレトウは見た。そして空間にたなびく、黒い鎌状の靄が影に引かれて吸い寄せられるのも、レトウは見逃さなかった。

 

「見たか? サーヒラムナ」

 

「うん。黒い、鎌だった。鋸みたいにギザギザしてる」

 

「ニナイ、神獣だったと思うか?」

 

「どうだろうな。だがいずれにせよ……」

 

 ふっ、とニナイは笑う。

 

「ゆっくり出来るようにしないとな」

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