流れる星の物語、あるいは危険な神器を捨てる旅の顛末   作:一星屋

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008 燈籠

 久しぶりに地面と触れたように思えて、サーヒラムナは一瞬驚いた。ほとんど丸一日を山歩きと川下りに費やしたばかりだと言うのに、これまで重力を感じていなかったような、そんな気さえしていた。

 

 けれども、それについて考えている暇はなかった。この感覚は心臓の急激な活動のためだろうと結論し動き出す。心も体も、考えるよりそれを望んでいるはずだ。

 

「レトウ!」

 

 自分の意思とはほとんど関係なく、サーヒラムナは叫んでいた。

 

 黒い鎌状の靄が振りかぶられ、その切っ先は間違いなくレトウを狙っている。肉体が反射的に思ったのだ、共に歩くと決めた少年を助けなくてはならないと。

 

 珊檎樹液の瓶を逆さにして中身を引き出し、全身に挿した珊檎樹液に訴える。瓶をこぼれた珊檎樹液が彼女の指先に触れると、それは直ちに彼女の意識に囚われて肉体の延長となった。

 

 紅い液体が鞭となる。微かな風切り音を立てて、姿なき影を狙う。

 

 太い木の表面で紅い鞭は弾けたが、手応えは無かった。仕損じた。神獣であれ神器であれ、珊檎樹液は飛沫でも浴びればその力を失う。影となる力だとすれば、実体へと引き戻されるはずだ。

 

 あるいは、影なることは力と関係ない姿であるのか。その可能性は捨てきれない。だがいずれにせよ、危険はまだ存在し続けている。

 

 レトウたちと二言三言交わしながら、サーヒラムナは蒸留器を火からおろした。もうこのまま掛けておくわけには行かなかった。相手が何者であれ、影のみを知れて姿を見ることは出来なかい。むしろ状況を見る限り、相手は影のみになって動くことさえ出来ると見れる。

 

 ならば火を守らねばならない。そうなると、火の上に大量の水を置いておくわけには行かないのだ。熱湯がぶちまけられれば、それもまた大きな危険となる。

 

「下ろしてくれたか、ありがとう」

 

「うん。それよりどうしよう、濾過器使う?」

 

「それも考えておく。今はまだ、いつでも掛けられるようにしておこう」

 

「つまり、それだけの時間を取れるあてがあるんだ」

 

「いいや、念の為さ」

 

 周囲を警戒しながら、レトウはサーヒラムナの対面に戻った。少し息が弾んでいたが、心ではなく体に由来するものと見える。サーヒラムナと同じように、急激な動きがそうさせたのだろう。

 

 感覚が泡立っていた。急激な緊張からの離脱症状である。心臓は未だ早鐘を打ち続け、中々止まろうとはしない。急き立てられた血液が全身を巡って、意識さえも明敏にする。

 

 ああ、なるほど。サーヒラムナはふと、得心した。

 

 この、久方ぶりに地面に触れたような思いはいわゆる、『冴えた』状態なのだろう。血の巡りがもたらした、肉体的な意識の高まりだ。

 

 そう考えると、サーヒラムナは少し安心できた。何が自分をそう思わせているのか引っかかって、落ち着いた気持ちになれなかったのだ。

 

 悪い考えは、錯覚に過ぎなかった。これまでの自分も、確たる自分だったのだ。漠たるままに受け答えする、生ける屍のようだったのではないかと思えて、それが怖かった。この冴えた状態になった時、ようやく自分は生き返ることが出来たのではないかと思って、息も詰まらんばかりだった。

 

 自分は、生きている。

 

 サーヒラムナはレトウに微笑みを見せた。意図したものではなかった。直後に差した翳りも、意図したものではなかった。冴えた頭が、サーヒラムナに己の虚無を気付かせていた。

 

 火へと目を逸らす。薪を差して、炭の位置を整える。

 

 しばらく火は絶えないだろう。だが夜明けまでではない。火勢を落とせば多少の長持ちは見込めるが、光は弱まるし消えるリスクも高まる。かといって森の中に薪を探そうとすれば、襲撃者の餌食になるとは目に見えている。

 

 何かしら、手を打つ必要があった。

 

「少し、気にかかる事がある」

 

 ニナイだった。レトウとサーヒラムナは同時にその目を見て、言葉を待った。

 

「奴の力は……神器であれ神獣であれ、影に関わり深いものであるのは確かだろう。ならば真っ先に火を狙うのが、妥当だとは思わないか」

 

「……奴は影の中に逃げた。つまり、光なくして在れない、というわけではない」

 

「そうなるな。だからこそ、腑に落ちん」

 

 じろりと見回す目に、火の揺らめきが宿る。金属の光沢ではない、生の目。生きて語ることの出来るモノが持つ、意思の水面の輝き。

 

 ニナイを見ていると、サーヒラムナは正直心がざわめく。神意の神器によって神獣へ戻りつつ有るモノ、そして共に歩むモノであり、神獣への回帰を約束されたモノ。そして、罪の象徴。

 

 共に歩むと定まったからには、その言葉に耳を傾ける用意は有る。それでもどこか遠ざけるように、サーヒラムナはニナイの言葉に臨んだ。

 

 冷静に考えてみれば、ニナイの言うことはもっともだった。影に潜む、あるいは影になることが出来るなら、その存在を知らしめる光が無ければ気づく余地はない。何が目的であれ、火の始末をした後なら圧倒的な有利をもってこちらに攻撃を仕掛けることが出来る。

 

「何か、理由が有るってこと?」

 

 サーヒラムナは言った。あえて有利を捨てるなら、それが無いはずは無かった。

 

「私はそう考えている。だが、単に阿呆だということだって有るものだ。そして案外、そういう相手だったりすることは多い。ともすれば、考えるだけ無駄なのかもしれんか」

 

 レトウが腕を組む。サーヒラムナは膝を抱えて、手元に目を落とした。カワビトの肌に火の光が照っていた。

 

 理由を考えても空回りするだけかも知れない。そう考えると、考えることさえ億劫になる。そしてどうにも、その事を否定しきれないのが無性に腹立たしかった。その矛先がニナイに向いているのか、ニナイの言う阿呆に向いているのか、あるいは否定できない自分に向いているのかは、わからなかったが。

 

「馬鹿げた理由、というのもありうるか」

 

 言ったのはレトウだった。

 

「いや、馬鹿げた、だけじゃない。ありえないと思えるような理由にも、目を向けるべきかも知れない。本人が理由に気付いていないということだってある。もう少し、考えてみよう」

 

 サーヒラムナは目に力を入れて、頷いた。

 

 考えを止めれば、この事態を脱する術はなくなる。例え落とし穴がある可能性は考慮されても、今はそれで足を止める場合ではない。

 

 まず、合理から離れてみる必要がある。それから、考える範囲を広げなければならない。とにかくなんでも良いから、考えに含んで検討する。

 

 サーヒラムナは森の中に目を凝らした。闇があった。そこに襲撃者の影を認めることは出来ず、あるいは気づくことが出来なかった。

 

 時間は、夜。火は必然的に目立つ。探していなくても見つけ出すことが出来ただろう。会敵は偶発的なものである可能性が高い。

 

 土地は、森の中。川から遠からず近からず、利便の面では妥当な所にある。それを目的として見ることは出来るだろうか。出来るだろう。誰かが利用しているところは、ある程度の利便を保証されているようなものだ。適当なキャンプ地を得られないがために命を脅かされる可能性もある以上、命をかけてみる価値は有るだろう。ましてやここは、北の冠なのだ。

 

 北の冠?

 

「あ、そっか……」

 

「! サーヒラムナ、何か、気付いたのか?」

 

「あ、うん。もしかしたらだけど……火、そのものが目的なのかも知れないと思って」

 

「火、そのものだと?」

 

「そう。ここは北の冠の奥深く。来るのは盗賊くらいで、入念な計画が必要なはず。でもつい最近、計画を破綻させうる出来事が起こった」

 

 レトウが、斜面の上を見た。そちらが北だった。

 

「山降りか」

 

「うん。山も川も動いて、盗賊が行く道も帰る道も失ったとすれば、物資もそのうち底をつく。それでついには、火を熾す事もできなくなった。推測に、推測を重ねてるけど」

 

 最後まで言い切る前に、自信は使い切ってしまった。それでも惰性で言い切り、聞いただけではそうとわからないように出来た。そのつもりである。

 

 レトウが薪で炭を突く。軽い音を立てて炭は崩れ、火の粉が気流に乗って宙を舞った。火に照らされて浮かびあがるレトウの顔に、サーヒラムナの意思は吸い寄せる力を覚えた。

 

「確かに、ほとんど推測で組み上がっている」

 

 レトウは言って、自分の背嚢を引き寄せた。

 

「だけど、試すべき道筋は見えてきた」

 

 保存食の包みが、光と闇の融け合う場所に置かれる。

 

 サーヒラムナは目を見開いた。露骨な罠とあからさまな挑発に、面食らってさえも居た。しかもそれがレトウによって行われたのは、意外に過ぎることだった。他にするものも居ないから、思いつきを実行に移しただけの事かも知れないが。

 

 だが、理解も出来る。これでなんらかの反応を見せたなら、サーヒラムナの推測が真に迫るか、でなくとも襲撃者が近くで聞いている事は確認できるのだ。そして何の反応も見せなくても、大きな損失にはつながらない。相手の怒りを呼んで、隙を作ることにさえ繋がりうる。

 

「聞こえているなら、食べると良い。飢えるのは辛いだろうからな」

 

 自分の推測が的はずれだったら、格好がつかない。そんなことを考える自分に気がついて、サーヒラムナは自嘲する。それはそれで良いのだ。外れている事がわかれば、別の道筋が見えてくる。格好を気にする必要など無いのだ。そんな場合でもないのだから。

 

 体面を気にするなど、昔の調子が出てきたのだろうか。村がまだ健在で、そこに暮らしがあったときの自分など、すっかり吹き飛んでしまったつもりで居たけれども、どうやらまだ残っている。自分が思っているより、自分は元気らしい。思えば、時間でいえばつい二日ほど前のことに過ぎず、そこに帰ろうとする意識が湧くのも頷けた。

 

「どうした、良いのか?」

 

 レトウが闇への呼び掛けを続ける。

 

 程なくして、がさりと茂みが音を立てた。針金のような緊張が走り、二人は戦闘態勢を取った。

 

 それ以上、動きはなかった。だが音の立った所に何かがいるか、いた事は確かだ。

 

 独特の匂いがした。人間の、オカビトの匂いである。レトウと共にいる内に覚えた匂いだが、数段きつい。恐らくは男で、身ぎれいなものではない。そこに草の茎が折れた時の、目覚めを催す緑の匂いが絡んでいる。

 

 サーヒラムナの説が、真実味を帯び始めていた。

 

「そうか」

 

 レトウが、一度は置いた保存食の包みに手を伸ばそうとした、瞬間。茂みの奥から現れた黒い刃が、保存食に突き刺さった。

 

 真っ先に、レトウが動いた。サーヒラムナはそれに続いた。

 

 刃の根元に柄が見える。鎌に違いない。その柄の根元を狙って、レトウの槍が茂みに突きこまれた。闇と光を分かつような、鋭い一閃だった。

 

 サーヒラムナの追撃は、時間にしてほんの一瞬の後である。右手の延長となった珊檎樹液が蛇のようにくねり、鎌の黒い刃を狙った。

 

 保存食を用いた挑発に乗ってくるなら、相手は腹をすかせている可能性は高い。判断力は鈍り、体の動きも鈍っているはずである。当たらぬ道理はない、はずであった。

 

 鍔広帽の男が飛び出した。頬のコケた、目のギラつく男である。茂みの枝葉が折れる匂いをたなびかせて、汚れた衣服から堆積した体臭を溢れさせていた。

 

 叫んでいる。音に意味がない。叫びあげること自体に意味が有るのだろう。レトウの槍が脇腹を掠めて、痩せた長駆がふらつく。振り上げた鎌は珊檎樹液の軌道を逃れ、黒い鋸刃が火に煌めいた。

 

 男は跳んで転がりながら、キャンプ地を横切っていった。初撃でふらついた体は横腹を地面に打ち付けていたが、それで止まることはなかった。

 

 珊檎樹液の蛇が、サーヒラムナの指先から男を追いかける。闇の向こうへ紛れようとも、肉体の延長に過ぎない液体ならリスクはない。キャンプ地の際の木を避けて森を縫い、可能な限り細くなって男の背を追う。あれが神器だとすれば、的が大きい。珊檎の巫子には有利な相手だ。

 

 踵を返したレトウが、男を追う道すがらにニナイを拾い上げた。そのまま直線上の木の根元へ斜めに突き立てると、距離を取って闇を見つめた。すぐにその意味は明らかになった。

 

 音が立つ。枝葉の折れる音だ。逃げた男の立てたものではない。ニナイが根元に挿された木の音である。

 

 ニナイが倒れていく。そして、木が根元から持ち上がっていく。木を始め、周りから重さを盗み、軽くなった木をニナイの重量で持ってひっくり返そうとしている。

 

 やがて、ニナイは完全に倒れた。軽い音がした。その頃にはもう木に重さを返して、自重でもって倒すことが可能だった。ニナイがたてるはずだった音を、いや、木はたてるはずの音を全うして、斜面に横たわった。

 

 耳をそばだてる。枝葉の折れる音に、人体の立てる音が混ざっているかどうか。骨の折れる音が聞こえれば、巻き込むことは出来たはずだ。

 

 だが、それらしいものは無かった。影になることが出来るのだとすれば、それを用いて避けた可能性が高い。木の倒れる速度も早いものでは無かったから、余裕を持って逃げる事はできただろう。

 

 珊檎樹液を引き戻す。倒木に巻き込まれるのを承知でやったから、ほとんど残っては居ない。あとで細かく回収する必要があるだろう。それでも大部分は地面に沁みてしまうだろうが、もう一瓶あるから手段はまだある。

 

「逃したか」

 

 ニナイが言った。レトウが拾い上げる間際のことだった。

 

 レトウは応えて言った。

 

「だが、驚かせる事はできただろう」

 

「そうだな、これで満足してくれれば面倒が無いんだが」

 

 確かに、何にせよ、襲撃者は相当に疲れたはずだ。

 

 腹が減っている所に挑発を受け、脇腹を槍が掠めて横腹を打ち、しかも木が倒れ込んでくる。

 

 引き換えに得たものは保存食一つだが、満足の閾値は必然的に下がったはずだ。これで満足しておこうと考えるようになるのは、充分に期待出来ることだった。

 

 虚無が帰ってくるのをサーヒラムナは感じた。そして思い出した。そうだ、ここのところは、この虚無がすぐ隣に居たんだっけ。

 

 半自動的に、サーヒラムナは元座っていたところへ戻ろうとした。常の一歩の半分ずつの歩み。

 

 衝撃を受けて、意識が再び冴える。

 

 レトウだった。抱きついて、押し倒そうとしていた。サーヒラムナは力負けて、頭を抱えられながら背中から地面に近づいていく。

 

 レトウの背中を、黒い靄が過ぎていくのをサーヒラムナは見た。

 

 珊檎布が裂け、斜めの浅い傷が走り、地面と接触するのと同時に開くのが見える。

 

 腕長く細い影が近くの木の面に現れ、サーヒラムナは手を伸ばした。転倒と共にこぼれた珊檎樹液が彼女の延長として木を打ち据え、影は闇に再び消えた。

 

 敵の諦めが悪いのか、それとも本当に阿呆なのか。それはまだ、わからなかった。

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