あなたの娘として生まれたのは、誇りだった
◇◇◇
物心ついた時から、煉獄結火が見ていたのは父の背中だった。
「行ってくる」
「はい、父上。ご武運をお祈りしております」
任務に行く姿を見送るのが、何よりも好きだった。
人を助けるために、護るために、鬼と戦う父を心から尊敬していた。
父を陰から支える上品で気高い母の事も、当然、心から尊敬し、愛している。
しかし、結火が憧れたのは、鬼を狩るために堂々と前に進んでいく父の姿だった。
父のようになりたい。人を救うために戦う剣士になりたい。誰よりも強くなりたい。いつか、いつか、父のように鬼殺隊で最も位の高い柱に――
『お前はそんなことをする必要はない』
結火の熱い思いを否定したのは、憧れたその人だった。繰り返すように言い聞かされた父の言葉が、脳裏に響く。
『お前は体が弱い。だから、無理だ』
鏡の中の自分を見つめる。父のような逞しい肉体は持っていない。肉付きが薄い。弱々しく、華奢な、細い身体だった。身長も低い。
父の言う通り、自分は鬼殺隊には向いていないのだろう。剣士としての素質を持っていない。柱なんて夢のまた夢だ。それに、父の後を継ぐために弟の杏寿郎が控えている。
――だが、
「……否」
それは、戦わない理由には、ならない。
結火はそう自分に言い聞かせるように、呟く。そして、こっそりと木刀を手に取った。父に隠れるようにそれを振るう。父と弟の稽古を盗み見て、見よう見まねでこっそりと鍛練を始めた。
『結火、やめなさい』
ある日、鍛練をしているのがバレて、父は困ったようにため息をついた。
『お前は剣士には向いていない。だから、やめるんだ』
何度も何度も言われた。それでも、
「……父上のように、なりたい」
結火はその一心で、隠れるように一人で鍛練を繰り返した。父にバレないように、家にある炎の呼吸の指南書を読み込む。そして、独自に炎の呼吸を習得していった。
父は結火がそこまで鍛練に入れ込んでいたことは知らない。精々木刀を好き勝手に振り回しているだけだと思っていたはずだ。独学で剣技や呼吸法まで習得していたことは知らなかったのだろう。
それでも、一人での鍛練には限界がある。弟と違い、結火は父からの指導は一度も受けていない。今のままで、鬼と戦えるとは思えなかった。
「……最終選別」
鬼殺隊に入るためには最終選別を受ける必要がある。結火は迷っていた。鬼殺隊に入りたい。黙って藤襲山へ行こうかと思ったが、決心がつかなかった。自分の実力が足りないのは、明らかだった。見よう見まねの鍛練では、全然ダメだ。今のままでは最終選別の突破は不可能だろう。剣士になることはできず、戦えない。
それに、結火が鬼殺隊に入ることを父は絶対に許さないだろう。
「……」
自分には、何もない。
才も、実力も、ない。
最初から、ダメなんだ。
それでも、それでも、私の心は――
「……母上」
行動を起こそうか迷う日々を送る中、母が亡くなった。
母が亡くなったのをきっかけに、結火は選択を迫られる事になる。
母が亡くなり、父の心はボロボロだ。酒を呑む量が増え、引きこもりがちの生活になっている。
それを支えるのは、結火の役目だったのだろう。
実際、結火は必死に父を支えていた。悲しみに打ち沈む父に寄り添い、時には慰め、時には励まし、支え続けていた。
『結火、お前は死なないでくれ』
槇寿郎の震える声が今でも、頭の中で響く。
結火が必死に言葉をかけた甲斐もあり、槇寿郎は少しずつ立ち直りかけていた。
槇寿郎の燃え尽きた心は、瑠火そっくりの結火の存在により徐々にまた燃え始めていたのだ。
それなのに――、
「……よもや、縁談とは」
立ち直りつつあった父から持ちかけられた見合い話。
「……」
槇寿郎が願っていたのは、子ども達の幸せだった。親ならば、当然の事だ。
だからこそ、結火に縁談の話を持ってきたのだろう。
いつも、そうだ。
人生は選ぶことの繰り返し。
「……否」
きっと幸せになれたのだろう。
父が願っていたように、母のように強く上品な、陰から支える女性となる道もあった。その選択肢が、結火には用意されていた。
「――――否!!」
それでも、結火は否定する。大きく叫ぶ。
それを、私は、選ばない。
『結火』
亡くなる前に、母に抱き締められた時の事を思い出す。心地のいい温もりだった。
『ずっと隠しているのは辛かったでしょう』
おそらく、母は気づいていた。
結火の強い願いに、気づいていた。隠れるように、無我夢中で指南書を読み込み、炎の呼吸を習得していたことも知っていたのだ。陰で必死に剣技を磨き続けている事を。
『……厳しい道となりますよ。強い炎が、業火の如く、あなたの体を、心を、焼き尽くすでしょう。それでも、あなたに覚悟があるのなら――』
母が耳元で小さく囁いた。
『その心を、焼け爛れるまで、燃やし続ける覚悟があるのならば――』
ああ、母上
『何も気にする必要はありません。あなたは、あなたが選んだ道を進みなさい』
母上、あなたの娘として生まれたことが、何よりの幸福でした。
誰かに賞賛されたかったわけじゃない。感謝されたかったわけでもない。
思いはたった一つ。
人を救うために、護るために、私は生きたいのです。
そして、結火の心に炎が灯った。
鬼殺隊に、入ろう。
決心してすぐに結火は行動を起こした。
父に反対されるのは分かっていたので、思い切って家を出た。
半年という短い期間で、育手の元で剣と呼吸を習得し、最終選別へと向かった。
◇◇◇
かつて家族と共に過ごした部屋が、今は凍りついたような空間へと成り果てている。結火はチラリと襖に視線を向け、すぐに前を向いた。正面には顔を強ばらせた父親が座っている。結火は槇寿郎に向かって深々と頭を下げた。
「……勝手に、家を出て――、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
槇寿郎は何も答えなかった。重苦しい沈黙がこの場を満たす。
「――頭を、上げろ」
ようやく父親の掠れたような声が聞こえた。結火は言われた通りに頭を上げ、真っ直ぐに槇寿郎の顔を見た。槇寿郎の顔色がさっきよりも悪くなっている気がした。いや、気のせいではないのだろう。その肩が微かに震えている。
「……今まで、どこにいた。その、服は、なんだ」
槇寿郎の質問に、結火は言葉を選ぶようにしながら答えた。
「――先の最終選別を、突破致しました」
槇寿郎が雷に打たれたような表情をした。その様子に構わず結火は言葉を続ける。
「この半年ほど、とある伝手を頼り、修行をしておりました。師より、剣術や呼吸を学び、体得致しました。此度の選別に合格し、日輪刀を頂いたので……、」
「――何故だ」
結火の言葉を遮るように、槇寿郎が呟くように声を出した。
「何故なんだ、結火……何故、お前が……鬼殺隊に――」
「人を救いたかったからです。護りたかったからです。父上のように――」
「――お前が!」
槇寿郎が叫ぶように声を出した。
「お前には、無理だと、何度も言ったはずだ!何度も!!お前は体が強くない、剣士として生きるなど、到底不可能だ――すぐに、すぐに死ぬに決まっている!!」
「だからこそ、修行をしたのです」
結火は冷静に父親の目を見つめながら答えた。
「鬼殺隊の隊員になるために、鍛練をしたのです。――申し訳ありません。ずっと、黙っていましたが、我が家にある指南書を拝読させていただきました。独自にですが呼吸も習得しました。」
「――なんだ、と」
「自分で、育手の方を探して、そこで修行を積みました。隠していて、申し訳ありませんでした。恐らく、今ならば、きちんと戦えます」
「……」
「父上、私は――」
結火が言葉を続ける前に、槇寿郎が絞り出すような声を出した。
「何故、黙っていた」
「……」
「何故、隠していた」
「――話していたら、許してくださいましたか」
「許すものか!!」
槇寿郎が卓袱台を拳で大きく叩いた。
「親に隠れてコソコソと――!お前という娘は!!」
「隠すつもりは、ありませんでした。しかし、父上がお許しにならないということは、分かっていたので……、隠れて、このような事をして、本当に、申し訳ありませんでした。それでも、私は――、鬼殺隊に……」
「くだらん!!」
結火を睨むように槇寿郎が怒鳴る。父親からそのような視線を向けられたのは初めてだった。
「くだらん、くだらん!!何が呼吸だ!何が鬼殺隊だ!!俺は大した人間ではない!!そして、お前もだ、結火!!」
「――父上」
「炎柱は俺の代で終わりだ!!くだらん夢を見るな、結火!全て無駄だ!!」
結火は槇寿郎の言葉に目を見開いて息を飲んだ。
父上、どうしてそんなことを――、
槇寿郎が言葉を続ける。
「さっさとその服と刀を捨てろ!!本部には俺から――」
「――嫌です!」
結火は槇寿郎と同じくらい大きな声で叫んだ。
「絶対に、捨てません!!絶対に!!私は、鬼殺隊隊員です!これから戦い続けます、――この命が燃え尽きるその日まで!!」
パン、という音が響いた。頬に衝撃を感じて、一瞬混乱する。すぐにピリピリとした痛みを感じた。手で頬に触れる。少し遅れて、槇寿郎に殴られたのが理解できた。
「お前という娘は――!!」
槇寿郎が乱暴に結火の襟元を掴む。また殴られると思って、思わず顔をそらした。その時、襖が開く音がした。
「父上、父上、やめてください!どうか、お気を静めて――」
杏寿郎の声が聞こえて、目を開く。部屋の外でコッソリ話を聞いていたらしい杏寿郎がそこにいた。必死になって槇寿郎の体を抑えようとしている。
「杏寿郎、お前は口を出すな!!」
「父上、どうか、どうか姉上のお話を聞いてあげてください!」
「うるさい!」
槇寿郎が怒りで顔を真っ赤にしながら叫ぶ。結火は唇を噛みしめながら、そっと襟首を掴む父の手に触れた。
「――父上、私、強くなりました」
「は?」
「最終選別を突破できるほど、強くなったんです。もう、弱くない。幼い頃の私じゃありません……」
結火は父親の手を襟元から強引に離す。そして、日輪刀を手に取った。
「――見てください」
そして、鞘から刀を抜く。
「……あぁ」
杏寿郎が小さな声を出したのが聞こえた。
「これが私の、日輪刀です」
その刃を父に見えるように示す。燃え盛る炎のように、赤い。
父と同じ、赫い刃。
「……」
「――誰かに賞賛されたいわけじゃない。感謝されたいわけでもない。私は、誰かの命を護るために、戦い続けるあなたの心に、憧れたのです。そして、私も、そんな人になりたい」
「……」
「才能や素質の有無は関係ない。どうしても、そうせずにはいられなかった……」
「――くだらない。本当に、馬鹿な娘だ」
槇寿郎がヨロヨロと後ずさり、その場に座り込んだ。
「――親に隠れてそのような馬鹿な真似をして、死に急ぐなど……、くだらない……」
「……父上」
槇寿郎が顔を伏せる。そして、小さく呻き、声を出した。
「――もう、知らん。勝手にしろ」
「……」
「お前など、もう俺の娘じゃない。勝手に、どこかで野垂れ死ぬがいい。どうでもいい。二度と――我が家に足を踏み入れるな」
その一言で、槇寿郎の心の炎が消えてしまった事が、理解できた。
結火は深く頭を下げる。
「――育てていただいたご恩は忘れません。今までありがとうございました」
「……早く、出ていけ」
「はい、すぐに」
結火は槇寿郎に背を向ける。杏寿郎が呆然としている姿が見えたが、構わずに部屋から出ていく。襖を閉める前に、小さな声を出した。
「――本当は、出ていったあの日から、……もうここに帰るつもりは、なかったんです。でも、もしや、今ならば、あなたの継子にしてもらえるかもしれない、と思って……」
「……」
「最終選別を突破した今ならば、私の事を認めていただけるかもしれないと、……そんな図々しいことを考えていました。申し訳ありませんでした」
ビュンと、何かが結火の顔の横を飛んでいく。ガチャンと音がして、槇寿郎が湯呑みを投げつけたのが分かった。
「――さっさと、失せろ!!」
「……」
結火はもう一度深く頭を下げると、静かに襖を閉めた。
そのまま素早く屋敷の門戸へと向かう。
「あ、姉上!!」
叫ぶような声が聞こえて、結火は振り返った。顔を青くした杏寿郎と千寿郎が駆けつけてきた。
「杏寿郎、千寿郎……」
「姉上!本当に、行ってしまうのですか!?」
「ああ」
「そんな……」
結火は屈んで杏寿郎の目をまっすぐに見つめた。そして、千寿郎の目も見つめ、口を開く。
「すまない。お前たちには苦労をかけてしまうな」
「姉上……」
弟達への罪悪感に、胸が押し潰されそうだった。
父は立ち直りつつあった。母が亡くなってから消えかけていた心の炎が、少しずつ燃えようとしていた。それを支えるのが結火の役目だったのに……、
その炎を、結火自身が消してしまった。
きっと、一生、槇寿郎は結火を許さないだろう。
それでも――、
「それでも、私は、……私が選んだ道を進みたいんだ」
二人の幼い弟を強く抱き締める。
「愚かな姉で、すまない。それでも、私は、折れたくないんだ。これだけは変わらない。――杏寿郎、千寿郎……私の可愛い弟。お前達のことを心から、愛している」
瞳から涙が流れるのを必死に堪える。
ダメだ。ここで、私が泣くのは、絶対にダメだ。
ゆっくりと身体を離すと、千寿郎が泣きじゃくっていた。杏寿郎がうつむいている。結火は二人の頭を撫でた。
「さあ、もう泣き止んで。涙は視界を遮ってしまう。前を向きなさい。下を向いていては、敵が見えない。――お前達が歩むべき、明日が――未来が、見えなくなる」
ゆっくりと微笑んだ。
「離れていても、お前達のことをいつも、想っている。心を、燃やそう――、一生、消えない熱い炎を――」
弟達が漸く顔を上げる。そっくりの濡れた瞳をしていた。それでも、
「はい!」
と大きく返事をしてくれた。
◇◇◇
それからの日々はあっという間だった。
鬼を、斬る。ひたすら斬っていく。容赦なく刀を振るう。鬼を斬り、人々を救う日々が続いた。
当然、実家には帰っていない。任務以外は藤の家紋の家に世話になっていた。
風の噂では、槇寿郎はあのまま仕事を拒否し、柱を辞したらしい。父や、弟達のことが心配だったが、もう結火にできることはなかった。
杏寿郎と千寿郎からは時々手紙が届いた。それを読み、返事を書くのが数少ない楽しみだった。
そして、何度かの季節が変わったある日、結火は鬼殺隊本部へと呼ばれた。
「やあ、久しぶりだね、結火」
久しぶりに会った産屋敷耀哉は、昔と同じ、優しい声で温かく迎えてくれた。
「お館様におかれましても御壮健で何よりです ――益々のご多幸を切にお祈り申し上げます」
深々と一礼する。
「いつも、頑張ってくれているみたいだね。本当に、ありがとう。感謝しているよ」
「……お館様のお陰でございます」
「私は何もしていないよ」
「いいえ……、私に、師を紹介してくださって、ありがとうございました」
「――ああ」
耀哉が苦笑した。
結火が鬼殺隊に入ることを決心した時、まず行ったのは育手を探す事だった。槇寿郎に隠れて耀哉と手紙をやり取りし、相談した。何故か耀哉は迷っていたようだが、最後は諦めたように育手を紹介してくれた。
「……後悔は、していないかい?」
「はい?」
「鬼殺隊に入ったことを、後悔したことはないかな?」
突然の質問に、結火は戸惑う。しかし、すぐに首を横に振った。
「いいえ。後悔なんて、しません。今までも、これからも……」
「……」
「心を、燃やします。私の炎は、小さいかもしれませんが、……それでも、煉獄家に生まれた者として、ずっと、ずっと、燃やし続けます。永遠に、この命が尽き果てるその日まで――」
「ああ……」
耀哉がそっと呟いた。そして少しだけ顔を伏せる。
「――そうだね。私は、知っている。そして、君も……。人の、想いは永遠で……、不滅……」
「お館様?」
結火がそっと声をかけると、耀哉は顔を上げて微笑んだ。
「結火。今日、君を呼んだのは何故なのか、もう分かっているね?」
「……はい」
「――結火、君を炎柱に任命する。これからは、柱として鬼殺隊を支えてくれるかい?」
結火は一瞬だけ目を閉じた。すぐに開いて、深々と頭を下げる。そして、しっかりと返事をした。
「はい。微力ながら尽力させていただく所存です。ありがとうございます」
この日、煉獄結火は炎柱となった。