それでも私は、誰かのために戦いたい
◇◇◇
それを最初に感じたのは、結火本人ではなかった。
「――煉獄、どうした?」
「はい?」
柱合会議の後、岩柱、悲鳴嶼行冥から突然声をかけられた。
「何が、でしょうか?」
「……お前、声が変わっていないか?」
「はっ?」
思わず手で喉に触れる。
「……声?」
「南無……、いつもと声が違う気がするのだが……」
結火は首をかしげた。自分ではよく分からない。しかし、盲目であるが鋭い聴覚を持つ悲鳴嶼が言うことならば、信用できた。結火は首をかしげたまま答えた。
「恐らく、風邪をひいて、喉がおかしいのでしょう。申し訳ありません。体調管理を怠った自分の責任です」
「……そうか」
悲鳴嶼はどこか納得できない表情をしたが、軽く頷くと、その場から立ち去った。
それからしばらくして、結火の身体は明らかな異変に襲われた。
最初に感じたのは異常な倦怠感だった。次に、ふらつきと眩暈に悩まされ、力が思うように出なくなった。いつものように、集中して呼吸をしようとすると、激しい胸の痛みに襲われた。咳も止まらない。声が出しにくく、自分でも声が掠れてきているのが分かった。
「――なんだ、これは」
結火は呆然と呟く。
「……否」
大丈夫。恐らくただの風邪だ。きっと季節の変わり目だから、調子が悪いだけだ。大丈夫。大丈夫――、
そう自分に言い聞かせていたのに。
「――あ?」
ある日の任務で、鬼に襲われたわけでもないのに、身体から力が抜けた。ガクリと膝を付く。
「え、炎柱様!?」
周囲の隊員達が、ギョッとこちらを見ているのが分かった。首をかしげたところで、一瞬息が詰まって呼吸が出来なくなった。直後に感じたことのないほどの凄まじい痛みを胸が襲う。
「――コホッ」
咳が出る。同時に、口から血が流れた。
「……これ、は」
何が起きたのか、理解する前に、その場に倒れた。
目が覚めたら、知らない場所だった。そばには医師や看護婦らしき人物が立っており、こちらを心配そうに見つめてくる。
「……?」
変なマスクを装着しており、腕には点滴をしていた。
目が覚めた結火に看護婦が、ここは鬼殺隊のための診療所だと教えてくれた。任務中倒れた結火はここに運ばれた。自分でも驚くほど長い時間、意識不明だったらしく、呆然とした。
「……え?」
覚醒した結火に医師が告げたのは今まで聞いたこともない病気だった。
「――非常に稀な病気です」
医師が冷静に語りかけるように言葉を発した。
「今後、甚大な体力低下を伴い、様々な症状が出るでしょう。安心してください。治療は可能です。しかし……」
「戦うことは、できない、と」
そう言葉を返した結火に、医師は悲しそうな目をして頷いた。
「――戦うこと自体は、可能です。しかし、あなたの肺は、恐らく長い戦いには耐えきれないでしょう。呼吸を使えば使うほど、あなたの寿命は縮まる、と考えられます」
炎が。
心の炎が弱くなっていく。
「結火」
ハッと目を開くと、目の前に産屋敷耀哉がいた。呆然と、辺りを見渡す。いつの間にか診療所から出て、本部を訪れていたらしい。
「結火」
もう一度名前を呼ばれた。
「お、館様……」
自分の口から、信じられないほど、細く震える声が出た。
「結火。今まで、ありがとう」
その言葉に、鳥肌が立つ。
嘘だ、そんな。
こんな、終わりなんて。
「――違います!!」
結火は大きく叫ぶと、その場に土下座した。
「違う、違います!まだ戦える!!戦わせてください!!こんな、こんな終わりだなんて、嫌だ!!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!せめて、せめて最後まで、柱として、戦わせてください!」
必死に掠れた声で叫ぶ。
「こんな事で、折れるなんて、絶対に嫌だ!!」
気がついたら瞳から涙が流れていた。
「………ふぅ、……ううぅ」
嗚咽が勝手にこぼれてくる。
「――結火」
耀哉が結火の肩に優しく手をかけた。
「それは、できない。君も分かっているはずだ」
「……お館様」
「任務中に、倒れたのだろう。今の君を柱にしておくのは、あまりにも危険すぎる」
「……」
「結火。残念だが、――君の戦いは、ここまでだ」
静かなその言葉に全身の力が抜けた。涙が止まらない。次から次へと溢れてくる。
「治療に専念するんだ、結火。大丈夫だよ。私と違って、君の身体は……」
「――どうして、なんだろう」
「結火?」
顔を上げる。呆然としながら呟いた。
「ただ、人を救いたかった。そのために、死ぬつもりで、ここに来たのに――、家を出てまで、剣士になったのに……」
目の前の耀哉の顔が涙で見えない。
「父を傷つけて……、弟たちから父親を奪ってまで、柱になったのに……、鬼に殺されることも覚悟してた。これが私の進む道だと、確信していたのに――」
また、涙がこぼれた。
「死を覚悟して、それでも、絶対に、後悔しないと思って、進んできたのに……私は、私の責務を、全うできない。こんな、こんな、終わりなんて……」
炎がどんどん弱くなっていく。
悲しみに飲み込まれて、もう燃やすことができない。
「結火……」
耀哉が呼び掛けるのが聞こえたが、結火は立ち上がりその場から逃げ出した。
数日間、自邸でぼんやりと過ごした。もう、結火の元へ鬼殺隊の任務が届くことはない。それが分かっているのに、悲しくて悔しかった。
父の言った通りだった。父の言うことは正しかった。結火は、剣士になってはいけなかった。弱い身体で、鬼殺隊に入ってはいけなかった。
こんなに中途半端に、戦いを終わらせる羽目になるなんて。
一刻も早く治療をしなければならない、と分かっているのに、診療所へ行く気が起きない。
縁側で静かに庭を見つめていると、鴉の鳴き声が聞こえた。上を見ると、鎹鴉が飛んでいるのが見えた。
「芯……」
芯はゆっくりと結火の肩に停まると、スリスリとすり寄ってきた。
その頭を優しく撫でる。
「……心配してくれたのか?ありがとう」
そう結火が囁くと、芯は大きな声で鳴き、しばらく結火を見つめた後、空へ飛んでいった。
「……」
結火はその姿を静かに見つめる。
この屋敷も、手離さなければならない。もう、自分は戦えないのだから――。
また涙がこぼれそうになって、それを堪えるように立ち上がる。
そして、門戸から出て、足を踏み出した。
「あ、姉上……!どうされたのですか!?」
「杏寿郎…」
気がついたら実家の近くに来ていた。
杏寿郎が駆け寄ってくる。
「この近くで、少し用事があって、な……」
「そうなんですか!よかった!姉上に会えてとても嬉しいです!俺は今、任務から帰ってきたところで……」
「そう、か」
「――姉上?」
杏寿郎が不思議そうに結火の顔を見てきた。
「どうされたのですか?なんだか、顔色が悪いような気が……」
「あ、ああ、少し風邪をひいたんだ」
「えっ、大丈夫ですか?」
「うん……すぐに治るから」
結火は誤魔化すように杏寿郎に向かって微笑んだ。
「杏寿郎、この後任務がないのなら、少し話をしないか。久しぶりに、この辺を散歩でもしよう」
そう切り出すと、杏寿郎は嬉しそうに笑った。
「はい!」
二人で肩を並べて歩く。チラリと隣の弟を見る。いつの間にか、杏寿郎の身長は結火と同じくらい伸びていた。きっとこれからもどんどん大きくなるのだろう。強くなっていくのだろう。
それが、たまらなく嬉しくて、同時に羨ましかった。
「仕事、頑張っているようだな」
「はい!」
結火が声をかけると、杏寿郎はいつも通り朗らかに笑った。
「少しずつ階級も上がっています!最近は、強い鬼も倒せるようになって――」
明るく話す弟の話を、結火は静かに聞く。弟の顔は輝いており、眩しかった。
「……そうか。よかった。安心した」
「姉上?」
「……すまない。杏寿郎。こんな姉で、本当にごめん――」
「姉上、どうしたのですか?」
杏寿郎が不思議そうに問いかけてくる。そんな弟にどう答えればいいのか分からず、結火は目を伏せた。
「……杏寿郎」
「はい、姉上!」
「私が、家を出る時に、言った言葉を覚えているか?」
「はい、もちろんです!!」
杏寿郎がハキハキと答えた。
「心を、燃やそう!一生、消えない熱い炎を、と仰っていました!」
「……ああ、その通りだ」
顔を上げて、少しだけ微笑む。
自分から弟にそう語ったのに、もう自分の炎は、消えかけている。
あんなにも燃えていた心は、もう小さくなっている。
……ああ、この弟に、自分の身体の不調を話さなければならない。
あんなにも、心を燃やせと言い続けたのに、自分自身が消してしまうなんて。
あまりの不甲斐なさに拳を強く握ったその時だった。
「姉上!俺はいつか、姉上のように強くなります!」
大きな声で杏寿郎がそう言った。結火はハッとして弟の顔をまっすぐ見つめる。
その瞳は、激しく情熱的に輝いていた。
「姉上は俺の誇りです!俺も姉上のように、立派な剣士になります!!」
「――私のように、か」
「はい!」
杏寿郎が力強く頷いた。
「心を燃やして、命を懸けて、誰かのために戦う、強く立派な、姉上のような人になりたいです!!」
「……」
結火はその言葉に無言で目を見開く。
消えかけていた心の炎が、再び燃える。
小さいけれど、温かい炎だ。
弟に向かってゆっくりと微笑んだ。
「――ありがとう、杏寿郎」
そう言いながら、杏寿郎を強く抱き締める。
「姉上?」
「杏寿郎……」
小さく声を出した。
「――繋いでくれ」
「え?」
「心に赤き炎を燃やせ。そして、煉獄の意思を繋ぐんだ」
「姉上?」
杏寿郎が不思議そうな声を出す。そんな様子に構わず、結火は杏寿郎から身体を離すと、頭を優しく撫でた。
「……そろそろ、時間だ。私は次の任務へ行ってくる」
「はい!ご武運をお祈りしております!」
「ああ。行ってくる」
そしてクルリと杏寿郎に背を向けると、結火は走り出した。
残された杏寿郎は首をかしげた。どうしたのだろう。久しぶりに会った姉の様子は明らかにおかしかった。風邪だとは言っていたが、体調がかなり悪いのだろうか?
そう思いながら、杏寿郎は走り去る姉の背中を見つめる。
それが、杏寿郎が見た結火の最後の姿だった。
◇◇◇
「結火」
「はい」
名前を呼ばれて、結火は顔を上げた。現在、鬼殺隊本部にいるのは、結火と耀哉の二人だけだった。
「大丈夫かな?」
「はい」
短く答えると、深呼吸をする。ゆっくりと口を開いた。
「――本日限りで、炎柱を辞させていただきます」
ゆっくりと頭を下げる。
「うん。ごめんね。今まで戦ってくれて、ありがとう」
「……とんでもございません。当然のことをしたまでです」
「顔を上げてくれるかな」
そう言われて、頭を上げると、耀哉はいつも通り優しい微笑みを浮かべていた。
「入院の準備はできたかい?」
「はい。なるべく早く治療に取り組みたいと思っております」
「うん。その方がいいね。槇寿郎や杏寿郎もきっとその方が安心するだろうから――」
家族の名前が出てきて、肩がビクリと震えた。結火はまっすぐに耀哉を見つめながら口を開いた。
「お館様。一つ、頼みがあります」
「うん?何かな?」
「――私の、病のことは、誰にも言わないで、いただきたいのです。他の隊員はもちろん、父や、弟にも……」
耀哉が驚いたようにこちらを見返してきた。
「え?何故かな?君は――」
「……身勝手な理由だとは、承知しています。しかし――」
言葉を選ぶようにしながら、口を開いた。
「……杏寿郎が、言ったんです。私のような、剣士になりたい、と。心を燃やし続ける強い人間に、なりたいと望んでいます。しかし、私は、私の責務を全うできませんでした。せめて、……弟達の中では、強い姉のままでいたいのです」
「……」
「身体の弱った姿を、見られたくありません。最後までわがままを言って、申し訳ありません……。どうか、お願いできないでしょうか……」
結火の細い声に、しばらく考えたあと、耀哉は頷いた。
「――分かった。でも、君のことは……」
「任務中に行方不明になった、と伝えてください」
「それでいいのかい?」
「はい」
結火が頷くと、耀哉はゆっくりと立ち上がった。
「――結火。こちらへ」
「はい?」
「こっちで、少し話をしよう」
耀哉が示したのは庭が見える縁側だった。耀哉が歩いてそちらへ向かった。結火も立ち上がりそれに続く。二人並んで腰を下ろした。
「……」
「……」
しばらく二人とも無言だった。まっすぐに静かな庭の風景を見つめる。若葉の匂いと日だまりに包まれた。温かい日だ。その心地よさに思わず瞳を閉じると、耀哉が口を開いた。
「懐かしいな。昔はこうして、二人でよくお話をしたね。覚えているかな?」
「……はい。もちろん」
目を閉じたまま答えると、耀哉が言葉を続けた。
「――君には、悪いけど、安心している自分がいる」
「……はい?」
不可解な言葉に結火は目を開けて、隣を見た。
「……君という優秀な剣士を失うことを、残念に思わなければならないのに。……今の私は、安心しているんだ。当主失格だね」
「何故、安心しているんですか?」
結火の問いかけに、耀哉が笑った。
「君が死ななかったから。生きているから」
「……」
「君が柱を辞めることを、私は安心しているんだ。死の危険から遠ざかる、ということだからね。実を言うと、君が隊員になる前、育手を紹介してほしいと手紙を書いてきた時も、断ろうと思っていた。結局根負けして、紹介したけどね」
「……なぜ」
短い問いかけに、耀哉が笑いながら答える。
「君は、鬼殺隊で唯一、僕の子どもである前に、――友人でいてくれた人だから」
「……」
「友人に死んでほしくない、と思うのは、当然だろう?」
「……そう、ですね」
その言葉に結火は泣きそうになりながら答えた。耀哉が自分を友人と思っていてくれる事、死んでほしくないと望んでいてくれる事が、何よりも嬉しかった。
「……耀哉様」
「何かな?」
昔と同じように呼びかけると、耀哉は笑ってこちらを向いてくれた。結火は同じように微笑む。
「……まだ、消えていません」
「うん?」
「私の戦いは、まだ終わっていない。心は、あなたと共に、そして鬼殺隊と共にあります」
『その心を、焼け爛れるまで、燃やし続ける覚悟があるのならば――何も気にする必要はありません。あなたは、あなたが選んだ道を進みなさい』
『心を燃やして、命を懸けて、誰かのために戦う、強く立派な、姉上のような人になりたいです』
そうだ。小さくても、私はまだ燃え続けよう。
あの日、点いた火は、絶対に消えたりはしない。
たとえ、小さな火でも、どんな形でも、燃やすんだ。
永遠に、絶えず、この心に―――!
「……もしかして、何かしようとしている?」
耀哉が首をかしげた。
「結火のその顔は、何か企んでいる顔だね」
「……なぜ、そう思うんですか?」
「分かるよ。昔から知っているからね。君の顔は、無表情に見えるけど、よく見ると目の辺りがクルクル変化しているから」
「よもや!本当ですか?」
「うん。昔から、変わらないね」
クスクスと耀哉が笑い、結火も同じく笑った。その顔を見た耀哉が、大きく頷く。
「――うん。いい笑顔だ」
「はい?」
「君の笑顔。とてもいい笑顔だ。昔は、君とこうやっておしゃべりをして、笑い合うのが一番の楽しみだったんだ」
「……ありがとう、ございます」
御礼を述べ、結火はゆっくりとその場に正座し、耀哉をまっすぐに見据えた。
「今後は治療に専念します。本日は、この場を儲けていただき、ありがとうございました」
「いや。治療は長くなるのかな?」
「恐らく。診療所にて投薬治療を中心に行いますので……治療が終わったら、ほぼ通常の生活に戻れるそうですが」
「ああ、それはよかった」
耀哉がホッとしたような顔をした。
「何か困ったことがあったら、すぐに言ってくれ。できる限り援助するからね……」
「はい。――あの、お館様、……治療が、終わったら、……」
「うん?」
結火は何かを言おうとして、それを押し込めた。
「――いえ。なんでもありません。」
そして、ゆっくりと頭を深く下げた。
「お忙しい中、あいさつのお時間をいただきありがとうございます。末永いご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます」
耀哉が頷いて、口を開いた。
「ありがとう。――さようなら、煉獄結火」
◇◇◇
「――は?今、何と……?」
煉獄杏寿郎は、目の前に呆然と佇む弟の千寿郎を見つめた。その場に屈んで、千寿郎の肩をしっかり持つ。そして、口を開いた。
「――姉上が、行方不明になった」
姉であり炎柱である煉獄結火が消えた。突然の失踪に、鬼殺隊の隊員達は、任務中鬼に喰われたと噂をしているらしい。杏寿郎はそんな噂は信じていない。あれほど強い姉が、鬼に喰われたなんて到底信じられなかった。しかし、流石にそんな噂のことは千寿郎に話せなかった。
「そ、そんな――!一体、どこに!?」
「分からん。突然消えた、という話だ。何も、情報がないんだ」
杏寿郎は弟を安心させるように無理やり笑顔を作った。
「案ずるな、千寿郎!姉上にはきっと何か事情があるんだ!俺が任務の合間に姉上を捜索する!すぐに見つかる!だから、心配するな!!」
「……は、はい」
杏寿郎が安心させるようにそう言ったが、千寿郎は不安そうな表情をしていた。
その日、父の槇寿郎に結火が行方不明になった事を知らせた。杏寿郎に背を向けて酒を呑み続ける槇寿郎は、話を聞いたあと、一瞬ピクリと震えたが、すぐに、
「――どうでも、いい」
枯れた声を出した。
「行方不明?死んだ?だから、どうしたというんだ。あの娘が選んだ道だ。俺には関係ない」
「しかし、父上――」
杏寿郎が言葉を続けようとしたが、酒瓶が飛んできた。ガチャン、と割れた音が響く。
「うるさい!これ以上、俺に話しかけるな!!」
杏寿郎は何も言えず、深く一礼するとその場から立ち去った。
「……」
背を向けたままの槇寿郎が、声を出さず静かに涙を流していたことに、杏寿郎は最後まで気づかなかった。
◇◇◇
結火は極秘に診療所へ入院し、治療を受け始めた。
診療所で医師の診察を受けながら、点滴を受け、薬を内服する。
徐々に体力が低下していくのを感じた。また、投与されたのは強い薬だったらしく、頭痛や貧血、発熱などの副作用にも苦しんだ。
「――コホッ」
精神的な不調や緊張、疲労を感じると、咳に悩まされるようになった。
苦しい戦いになった。病の影響で声が変わった。思ったよりも長い治療になったが―――、
「治療はこれで全て終了となります」
医師はにこやかな表情でそう告げた。
「お疲れさまでした。本当に、よく頑張りました。通常の生活に戻っても構いません」
「――はい」
「体力を戻していきましょう。それから、今後の生活について――」
「あの、」
結火は思わず口を挟んだ。
「……戦うのは、やはり無理、ですか?」
医師は顔をしかめて、首を横に振った。
「前にも申し上げましたが、戦うこと自体は可能です。しかし、あなたの肺は、それに耐えられません。戦うことは、寿命を削っていくことになります」
「……そう、ですよね」
小さく呟いた結火に医師は軽く肩を叩いた。
「――今後、いい薬が開発されるかもしれません。医学は進歩し続けています。……希望が有る限り、道は開けます」
「……そう、思いますか?」
「はい」
医師が安心させるように微笑んでくれた。結火もほんの少しだけ笑みを返した。
やがて診療所を退院する。耀哉が用意してくれた新しい住居で、落とした体力を戻すため、たった一人でひたすら身体機能訓練を続けた。呼吸はもう使えない。それでも、きっと自分にできることはあるはずだから。
◇◇◇
静かな夜だった。闇に支配された深い海の底のような、穏やかな夜が広がっている。
しかし、人通りのない暗い町中では異常な光景が広がっていた。鬼殺隊、花柱・胡蝶カナエは血を流しながら、地面に倒れていた。
「可哀想に。俺が救ってあげよう」
目の前にいるのは虹色の瞳を持ち、扇を持つ薄気味悪い鬼、上弦の弐だ。
ああ、これで自分も終わりか、とカナエは悟る。
痛い。悔しい。
まだまだやり残したことがあるのに。妹のしのぶや蝶屋敷の少女達、みんなの事が心配だ。
ここまでか、と目を閉じようとしたその瞬間だった。
「―――へ?」
目の前の鬼が奇妙な声を出した。
「……え?」
カナエは思わず顔を上げようとしたが、意識が朦朧としてよく見えない。
最後の力を振り絞って、目の前の光景を見ようとする。誰かが立っている。
――誰?
視界に入ったのは、激しい炎のように燃える瞳だった。
結火は夜にも関わらず町中を走っていた。
「――悪くない、な」
眠れないため、身体回復のための走り込みを行っていた。随分体力も戻ってきていた。もちろん柱だった時ほどではないが――。
護身用の刀を持っているとはいえ、女一人で走り込みをするのはあまり良くないことだな、と思いながら、自宅へと走っていると、見覚えのある鴉が見えた。
「ん?」
あれは、恐らく鎹鴉だ。きっと任務で飛び回ってるんだろうな、と思いながら、視線を外した時、その声が耳に飛び込んできた。
「北北東ニテ、花柱ガ単独ニテ上弦ノ鬼ト戦闘中!至急救援ヲ求ム!」
上弦、という言葉に足が止まった。
「……」
迷ったのは一瞬だった。直ぐに北北東へと足を向ける。
いや、何やってるんだ、と自分に問いかける。自分はもう呼吸を使えない。戦えない。今、駆けつけても何もできないどころか、足手まといだ。
――それでも、私は。
結火が必死に走っていると、目の前に異様な光景が見えた。
「――っ!」
不気味な鬼。その鬼の前に、女性が倒れている。恐らく彼女が花柱だ。
考える前に、護身用に持っていた大きめの刀を思い切り投げる。鬼の頭にグサリと深く刺さった。
「――へ?」
油断していたらしい鬼が戸惑ったように声を上げた。その隙に素早く花柱に近づくと、彼女を抱き上げた。花柱は一瞬だけ驚いたような顔をした後、気を失った。
呼吸は使えない。それでも、目の前の人を救わなければ。
花柱を抱えながら、必死に日の当たる方角を目指した。幸運なことに、朝は近い。
「え?ねえ、待ってよ。君も鬼殺隊?ちがうよね?」
鬼がしつこく追ってくる。
「――うぅ、」
呼吸が苦しい。戦っているわけでもなく、人を抱えて逃げているだけなのに、こんなにも体力が落ちているなんて。
まずい、このままだと追いつかれる――!
呼吸なしで戦う覚悟をしたその時だった。
陽光の気配がした。
「ありゃ、残念だけど、時間切れだね」
鬼の残念そうな声が聞こえたが振り返らなかった。
「また君に会えたら、今度こそ救ってあげるからね」
そして鬼の気配が消えた。
「はっ、はっ、……っ」
呼吸が荒い。ゆっくりと抱えていた花柱を下ろす。
「――怪我、は」
素早く全身状態を観察する。吐血している。顔が青白く、まだ意識は戻っていない。
しかし、生きていた。
「―――よかった」
安堵のあまり、その場に座り込んだ。その時、
「おい、こっちだ!」
「上弦の鬼が――」
「花柱様が――」
どうやら鬼殺隊が来たらしい。影からそれをしっかり確認する。今の自分を見られるのはまずい。結火は隊員達に見えるように近くの壁に花柱の身体を預けると、その場から素早く立ち去った。
「姉さん……」
上弦の弐との戦いで、大怪我をした胡蝶カナエは、長い間意識不明だったが、妹のしのぶが必死に治療をした甲斐もあり、意識を取り戻した。しかし、目が覚めたカナエは、あの夜、自分がどうやって生き残ったのか、思い出せず記憶がぼんやりしていた。
「姉さんが、戦ったんでしょ?」
「……そう、よ。でも、あの日、私はもう少しで、死ぬところだった。だけど――」
カナエは頭を抑えた。
何故、自分は助かったのだろう。
思い出せない。
「――何かを、忘れているような…」
「とにかく、助かってよかったわ」
ホッとするしのぶに、カナエは微笑み返した。心の中にモヤモヤした感覚が残ったまま。
◇◇◇
花柱は引退したらしい。上弦の弐との戦いで肺が弱ったためだ。今後は蝶屋敷と呼ばれる治療所にて、負傷者の治療や隊員の指導を中心に働くそうだ。そんな話を小耳に挟んで、結火は残念だな、と思った。上弦の鬼と朝まで戦ったのだから、強い剣士だったのだろう。本当に残念だ、と思いながら、黒い隊服に袖を通した。
ふと、自分が柱を辞めた時は、誰かが残念だ、と思ってくれたのかな、と考えた。
もしそうだったら、とても嬉しい。
やっぱり、誰かのために戦う人間になりたかったな、と思いながら結火は一人で笑った。
いや、ちがう。誰かのために、まだ自分は戦える。
真新しい頭巾を手に取り、見つめた。
柱を辞めようと決心した時から、この仕事をしようと決めていた。少しでも、鬼と戦う剣士達の力になりたい。刀は持てないけど、ちがう戦い方はできるんだ。少しでも、役に立てるように、頑張ろう。最後まで戦うと決めたのだから、たとえ、呼吸が使えなくても、刀を振るえなくても。
私の心は鬼殺隊とともにある
たとえ、小さくても、―――燃やせ
心を、燃やせ
慣れない手つきで頭巾を装着する。素早く走って現場にたどり着いた。
「おっ、お前が新入りだな?」
結火の姿を見た隠の隊員が声をかけてきた。
「俺がお前の指導係、後藤だ。この現場は厳しいぞ。覚悟しとけ、新人……おまえ、名前は?」
結火はその問いかけに頷いて、深く一礼した。
「――ユウ、とお呼びください。精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします。」
ちょっと解説
結火が入院した診療所は蝶屋敷ではありません。病で倒れた時、まだ蝶屋敷が出来ていませんでした。
結火が入院後、しばらくしてからカナエさんが柱になり、蝶屋敷ができたという設定です。二人が現役の柱だった時、面識がありませんでした。童磨との戦いで初めて顔を合わせました。
原作との矛盾があったら本当にすみません。これにて過去編終了です。次回から現在に戻ります。
百合を早く書きたい……。