蝶屋敷の主人である胡蝶カナエは美しい人だ。
おっとりとした雰囲気の、優しい眼差しをしたこの女性は鬼殺隊の中でも大変な人気があった。その優しさと温かさに癒された者は少なくない。
なんでこの方は私のことが好きなんだろう。
煉獄結火はぼんやりと考えながら湯呑みを手にもち、頭巾の下から一口飲んだ。飲みにくい。飲みにくいが頭巾を上げるわけにはいかない。
「ねえ」
「はい?」
隣に座っていたカナエが声をかけてきた。
結火をお茶に誘ったというのに、縁側に並んで座ったまま、カナエはしばらく無言だった。ようやく口を開いたので、そちらに視線を向ける。
「……あの、ね。ちょっと聞きたいんだけど」
「なんでしょうか」
「……あなたの、本当のお名前は、なんというのかしら……?」
その言葉に頭巾の下で唇を噛む。言うわけにはいかない。
「胡蝶様が知る必要はありません」
しまった。思わず冷たい言い方になってしまった。
「……でも、知りたいの」
自分の言葉に内心後悔していると、カナエはこちらをじっと見つめてきた。
「……出会った時から、あなたはきちんとしたお名前を教えてくれないし……、他の隠の人に聞いても、誰もあなたの名前を知らないのよ。……ユウさん」
そう呼び掛けられて、結火は戸惑った。
隠として働き始めてから、誰にも名前を言ったことはない。そもそも鬼殺隊の剣士達に名前を聞かれることはほとんどないし、同じ隠の隊員に自己紹介する時は「ユウと呼んでください」と伝えている。元々は本名を誤魔化すために適当に考えた呼称だ。鬼殺隊の誰にもきちんと名前を聞かれたことはないし、不便に思ったことはなかった。
今の今までは。
カナエに恐る恐る尋ねる。
「他の方に、私の事を聞き回ったんですか?」
「あ、ごめんなさい。嫌だったかしら?」
「いえ、そんな事はないですが……」
そう言うと、カナエはホッと息をついた。
「あなたの事がもっと、知りたくて……あなたは、自分の事を何も話してくれないし……」
「……」
「あなたと仲良しの、あの隠の方……後藤さんだったかしら?彼にもいろいろ聞いたんだけど、ひたすら誤魔化されて……結局、逃げられちゃったわ……」
後藤さん、すみませんすみません申し訳ありませんありがとうございます。今度何かご馳走します。
結火は心の中で、頼もしい先輩への謝罪と御礼を繰り返した。
あれ、でも、これ、胡蝶様との事、後藤さんにバレた……?
考え込んでいる結火に構わず、カナエは言葉を続けた。
「お名前だけじゃなくて、年齢とか出身とか、あとは、好きなものとか……教えてほしいの。私、あなたの事、何も知らないのよ」
「……はあ」
「年齢は、多分、私と同じくらいだと思うんだけど……。誕生日はいつ?好きな食べ物は何かしら?」
「いえ、あの……胡蝶様」
結火は小さな声で呼び掛けた。
「……そんなつまらない事を知って、どうするおつもりですか?」
「つまらなくないわ」
カナエは心外だと言わんばかりの視線を向けた。
「だって、好きな人の事なのよ。全部、全部、知りたいの」
「……」
「あなたの全てを知りたい、というのは行き過ぎているかもしれないけれど……それにしたって、あなたは謎が多すぎるわ。誰もあなたの事を詳しく知らないし、あなたも自分の事を何にも教えてくれないし」
「……すみません」
「迷惑かもしれないけど……あなたに、もっと、近づきたいの」
スッとカナエが顔を近づけてきた。結火は内心ビクリとしながらも必死に冷静さを装い、静かに目の前の美しい人を見つめる。
「……今は十分近いかと」
「もう。そうじゃないわよ。分かってるでしょ?」
「……」
「ねぇ、教えて。あなたのこと」
「……そんなに知りたいですか」
「ええ。だって―――」
カナエはフワリと微笑んだ。
「誰も知らないあなたの事を、私が、私だけが、知ることができたら、……あなたを独占しているような気持ちになれる、と思うの」
「……」
「あなたが、私の事を何とも思っていないことは、知ってるわ。よく分かってはいるんだけど……」
カナエが結火の手を取り、強く握る。
「―――せめて、あなたの一番近い存在でありたいの」
結火の掌に胡蝶カナエはゆっくりと、その柔らかい唇を優しく推し当てた。
「……え」
カナエの突然の行動にさすがに戸惑いの声をあげる。
「こ、胡蝶さ……」
その時、大きな声が響いた。
「カナエ様ー!!どちらにいらっしゃいますか?怪我人です!!」
その声にびっくりしたのは結火の方だった。ビクリと肩を震わせて、声がした方を振り向く。一方カナエは残念そうな顔をしていた。
「今日はこれでおしまいのようね」
「……」
カナエは小さくため息をつくと、立ち上がった。そして口を開く。
「それじゃあ、ユウさん。またね。」
「はい。……お疲れ様でした。失礼致します」
動揺しながらもきちんと挨拶を返し、結火も立ち上がった。そのまま、湯呑みを返すために蝶屋敷の厨へ行こうとしたその時だった。
「ねえ」
「はい?」
再びカナエに呼び止められる。振り向くとカナエは物思いに耽るような顔をして、小さく呟いた。
「……やっぱり、私……、あなたと、……昔、会ったこと、ある、かしら……?」
その言葉に結火は冷静に微笑みながら答えた。
「何度か胡蝶様の任務にご同行致しましたよ。覚えていてくださり、光栄です」
「……そう」
「それでは、失礼致します」
首をかしげるカナエから逃げるように、結火は走り去った。
「……」
蝶屋敷の少女の一人に湯呑みを返却し、玄関へと向かう。
胡蝶カナエに、昔会ったことはあるか、と聞かれた時、顔には出さなかったが、大きく狼狽した。いつものように、態度は崩さず、冷静さは保てていた、とは思う。しかし、少し早口になっていたような気がする。
ダメだダメだ。落ち着いて。絶対にバレないようにしなければ。
結火が深呼吸を繰り返しながら屋敷から出ようとしたその時だった。
「煉獄くん。ずいぶん久しぶりね」
「すまん、胡蝶!任務中、少々怪我をしてしまった!不甲斐ない!!」
声が。
その明朗快活な声に思わず振り向く。少し離れた診察室から響く声に、目を見開いた。動揺して頭が真っ白になる。
一瞬の後、結火は、今度こそ逃げ足すために全速力で走った。一心不乱に走り、玄関から飛び出すと、とにかく蝶屋敷から距離をとる。十分に離れた場所でようやく立ち止まると、後ろを振り向いた。そのままじっと蝶屋敷の方を見つめる。
「……」
静かに、遠くを見つめる。そして頭を抱えて、大きなため息をついた。久しぶりに弟の声を聞いただけで、この様だ。情けない。不甲斐ない。
「……」
ふと頭を抱えていた手に視線を向ける。先ほどカナエが口づけていた掌をじっと見つめた。軽く唇が触れただけなのに、その時のことを思い出すと、なぜか掌が熱くなってきたような気がして、戸惑う。
しかし、その熱さが心地よくて―――、
「……よもや」
なぜか救われたような気持ちになって、結火は小さく呟き、目を閉じた。