その人は、ずっと、そばにいてくれた
泣いていれば、すぐに見つけてくれて、抱き締めてくれた
幼い自分にとって、誰よりも温かくて、優しくて、強くて、大好きだった
自分よりもずっとずっと遠くで、一人で戦っていた人
自分がいつか追いついて、共に戦おうと思っていた人
あなたがいてくれたから、俺は戦ってきた
いつか、あなたのように、強くなりたかった
あなたのように、立ち止まることなく、弱き者を救い、命を護り、心を燃やし続けてきたのに――、
いなくなってしまうなんて思いもしなかった
◇◇◇
心地のよい風が、素肌を通りすぎていく。
上を見上げると、透き通ったような薄い空が広がっていた。
――どこからか、声が聞こえる気がする。
屋敷の縁側にて、煉獄杏寿郎は目を閉じた。
もういいかーい
まあだだよ
もういいかい
もういいよ
◇◇◇
煉獄杏寿郎は、小さな手で箒を持ったまま、顔を上げて、空を見上げた。風が門戸周辺の砂をさらさらと掃くようにして吹いている。空には薄い空が広がっていた。
今日の鍛練は終了したため、外に出て掃除を行っていた。もうすぐ父も帰ってくるだろう。母上のお手伝いをしに行こうか、と思い立ったその時だった。
「杏寿郎」
目の前に現れた人を見て、杏寿郎は声を上げた。
「姉上!」
姉が杏寿郎を見て、小さく笑った。
杏寿郎の姉、煉獄結火は美しい人だ。母にそっくりな凛とした顔立ち、真っ直ぐな艶のある長い黒髪が輝いている。今日は若葉の色の着物を身に纏っており、それがとても似合っていた。
結火が近づいてきながら声をかけた。
「掃除をしていたのか」
「はい!姉上、どこかに行かれるのですか?」
「いや」
姉はそう言いながら首を横に振ると、杏寿郎の手を取った。
「お前と遊ぼうと思って、な」
「え、で、でも……」
「掃除なんてサボってもいいさ。それよりも、一緒に遊ぼう、杏寿郎」
結火が笑う。その笑顔を見て、杏寿郎もパッと顔が輝く。そして大きく頷いた。
二人でかくれんぼをする事になった。
「じゃあ、私が探すから。杏寿郎は隠れるんだぞ」
「はい!!」
杏寿郎は大きく返事をして、その場から離れた。ソワソワしながら家中を駆け巡り、隠れ場所を探す。
「もういいかい」
姉の声が遠くで響いた。
「まあだだよ!!」
それに応えながら、広い部屋に入った。押し入れを開けると、大きな長持が目に入って、それを開ける。幸運にも、それは空っぽだった。
「もういいかい」
姉の催促するような声が聞こえて、杏寿郎は慌ててその長持に入った。姉の声に答えるように、大きく、
「もういいよ!!」
と叫ぶ。
そして、長持の蓋を少しだけ開けて、姉が見つけてくれるのを静かに待った。
しばらく待ったが、姉はなかなか来ない。緊張感が途切れて、力が少し抜ける。杏寿郎は長持の蓋を閉めてから、フッと息を吐いた。ひんやりとした暗闇に包まれる。なんだか喉が乾いた。姉が来たら、水分補給をしようと思いながら、長持の蓋に触れる。再び姉が来ないか確認しようと、蓋を開けようとした時だった。
「……あれ?」
長持の蓋が開かない。もう一度蓋を押し上げる。今度はもう少し強い力を出した。それでも、開かない。杏寿郎は血の気が引くのを感じた。どうしたんだろう。まさか、何かの拍子に鍵が閉まってしまった……?
「よ、よもや……っ」
慌てて必死に蓋をこじ開けようとするが、びくともしない。動揺のあまり、冷や汗が流れる。ざわざわと焦りが背筋を走った。
「あ、姉上……っ!」
大声で呼ぶが、誰も来ない。
「俺は、ここです!!姉上!!」
取り乱しながら必死に声を出した。なんだか息も苦しくなってきた。そうだ、閉じ込められたということは、空気は――、
「た、助けて!!」
胸が抉られるような焦燥感に、涙が出てきた。どうしよう。このまま死んでしまったら――、
「助けて……!姉上!!」
叫ぶように大声を出したその時だった。
「みいつけた!!」
突然光が見えた。蓋が開いて、凛とした姉の顔が現れる。
「杏寿郎、見つけた!ずいぶん探したぞ!」
「あ、姉上……っ」
ポカンとしていた杏寿郎は、直後に安堵のあまり涙を流して、泣きじゃくった。
「姉上……っ!」
「すまなかったな、杏寿郎。遅くなった」
「お、俺……、どうなるかと……っ」
泣いてはいけない、と分かっているのに、どんどん涙があふれてくる。そんな杏寿郎を慰めるように、姉が優しく肩を叩いてくれた。
「杏寿郎、もう大丈夫だ」
それでもまだ泣き止まない杏寿郎の体を結火がギュッと強く抱き締めた。強い口調で語りかける。
「案ずるな、杏寿郎!お前がどこにいても、この姉は必ず見つけ出す!だから、もう泣くな!泣いていては、前が見えん!さあ、顔を上げろ!!」
「……っ、はい!」
杏寿郎は大きく返事をして、涙で濡れた顔を上げる。それを見た姉が満足そうに笑って頭を撫でた。
そして、結火が杏寿郎の小さな手を取った。
「疲れたな。腹も減っただろう?何か食べよう」
ゆっくりと手を引かれて、長持からようやく出た。姉の手は、温かくて、大きな手だった。柔らかくて、優しくて、力強い。
「……姉上の、」
「うん?」
「姉上の手は、大きいですね」
その言葉に結火は笑った。
「すぐにお前の方が大きくなる」
「……そうでしょうか」
「当たり前だろう。お前は、煉獄家の長男で、炎柱になる男なのだから。すぐに私の背を追い越して、ずっとずっと大きくなるんだ」
そして、結火は立ち止まり、しゃがみこむ。杏寿郎と視線を合わせて、手を強く握りしめた。
「お前の手は、きっと父上と同じくらい、強く大きくなるんだ。鬼と戦い、人々を護るための手だよ、杏寿郎」
結火がまた杏寿郎の頭を強く撫でた。
「お前には、成し遂げなければならない責務が、使命がある。きっと、死ぬまで戦い続けなければならない。それでも、覚えておきなさい。決して忘れるな。私は戦えないが、――私の心はお前と共にある」
真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「今みたいに、怖い時や、悲しい時は――、思い出せ。お前は一人ではない。お前と同じ想いを持つこの姉がいることを、――覚えておきなさい」
きっと、杏寿郎はその時の姉の瞳を一生忘れない。
その時の、姉の瞳は、どこまでも強い意志が宿っていた。
◇◇◇
「兄上!兄上!」
「……ん?」
ふと目を開けると、目の前に弟の千寿郎の姿があった。首をかしげてこちらを見つめてくる。
「兄上、大丈夫ですか?」
どうやら縁側で眠ってしまったらしい。杏寿郎は大きく声を出した。
「……よもや!すまない、千寿郎!どうやらうたた寝をしていたようだ!」
笑いながら大声でそう応えると、千寿郎が安心したような顔をして、口を開いた。
「何か夢を見ていたのですか?」
「うん?」
「あ、なんだか、とても嬉しそうな顔をして眠っていらっしゃったので……」
その言葉に大きく頷く。
「ああ!お前が生まれる前の、俺が幼い時の夢を見た!!姉上の夢だ!!」
「姉上の……」
千寿郎が少し顔を暗くして目を伏せる。姉が行方不明になって数年。姉の事を思い出す度に、千寿郎は暗い表情をした。言葉には出さないが、心細いのだろう。自分もその気持ちは十分に分かる。そんな弟に、杏寿郎は大きく語りかけた。
「とても懐かしい夢だった!……そうだ!千寿郎、この近くに、新しく和菓子の店が出来ていたな!!」
「え、あ、は、はい。とても、美味しいと評判の……」
戸惑ったような千寿郎の頭を大きく撫でながら、言葉を続けた。
「もしよければ、その店でようかんを買っておいてくれ!!栗が入ったようかんだ!!姉上が戻ってきた時、きっとお喜びになるだろう!!」
いつだって、杏寿郎は、姉が帰ってくるのを待っている。死んだ、という噂は端から信じていない。絶対に、必ず戻ってくると、確信していた。
杏寿郎の言葉に、千寿郎が微笑みながら大きな返事をした。
「はい!じゃあ、兄上のお好きな芋のお菓子も買っておきます!!」
「それはいい!わっしょい!!」
兄弟は微笑み合う。そして、杏寿郎は立ち上がった。
「それじゃあ、俺は任務に行ってくる!!」
「もう発たれるのですか?」
「ああ、列車の任務なんだ!街の方に出なければならない!!」
「そうですか……」
寂しそうな千寿郎の頭を再び撫でた。
「列車が出発するまで、街で姉上を探してみるとする!!留守を頼んだぞ!!」
千寿郎はゆっくりと頭を深く下げた。
「行ってらっしゃいませ。御武運をお祈り致します」
その言葉に大きく頷く。
「では、行ってくる!!」
そうして杏寿郎は背中を向けて走り出した。
己の戦いの地へ向かって。
◇◇◇
暗闇の中、助けに来てくれた時の事を覚えている。
繋いだ手の温かさも覚えている。
大丈夫だ、と何度も言ってくれた優しい声を忘れない。
俺を一番に肯定してくれたのはあなただった。
だからこそ、今度は、
―――俺があなたを探さなければ。
絶対に諦めない。
あなたを探し出してみせる。
あの日、あなたが俺を見つけてくれたように。
姉上
一体どこにいるのですか
どうしていなくなったのですか
今、何をしているのですか
俺達の事は、忘れてしまったのですか
ああ、ちがう
そんなのどうでもいい
ただ、俺は、もう一度、
――もう一度、あなたに、会いたい