目を覚ますと、知らない天井が見えて一瞬戸惑ったが、すぐにここが蝶屋敷だという事を思い出した。ゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。障子を開けると、青白い夜明けの光が見えた。随分と早く起きてしまったようだ。チラリと空を見上げてから、障子を閉めた。素早く隊服を取り出し、着がえる。昨日カナエからもらった白衣を身に纏い、部屋から出た。他の住人を起こさないように静かに廊下を歩く。洗面所で顔を洗い、身を整えると、まっすぐに厨房へ向かった。
厨房へ入ると、昨日紹介された少女の一人が既にそこで食事を作っていた。青い蝶の髪飾りで髪を二つに結んでいるこの少女は、確か神崎アオイと名乗っていた。
「おはようございます」
そう声をかけると、アオイが驚いたようにこちらを見てきた。
「お、おはようございます。早いですね……」
「手伝います。何をすればよろしいですか」
淡々とそう尋ねると、アオイは少し困惑しながらも、
「あ、それじゃあ、そこの野菜を洗って、切ってもらっていいですか?」
と言ったので、結火は頷いて、野菜を手に取った。
念入りに洗って、包丁で素早く切っていく。そのままアオイに指示を仰ぎながら料理を進めた。その様子を見ていたアオイが、感心したように呟いた。
「結火様、すごく手際がいいですね……」
結火は軽く肩をすくめた。
「一人での生活が長いので、これくらいは……」
そう答えてから、更にアオイへ言葉を重ねた。
「神崎さん、私に“様”はいりません」
「え、いや、それは……」
アオイが困ったような顔をする。
「私はこの屋敷の隊士としては一番下っ端になります。ですから、“様”はいりません」
「いえ、それはできませんよ。私よりずっと立場が上なんですから……」
アオイが戸惑ったようにそう言った時、
「おはようございます!」
と、他の少女達が元気よく入ってきたため、会話はそこで止まってしまった。
皆で手分けして料理を続けたため、朝食はすぐに出来上がった。食卓に美味しそうな料理が並べられる。
「おはよう。今日も美味しそうね」
カナエが楽しそうな様子で食堂へ入ってきた。その後から、しのぶとカナヲも追いかけるように入ってくる。
「結火さん、昨日は眠れた?」
カナエの問いかけに、無言で頷いた。
「朝ごはんの後に、早速お仕事の説明をするわね。分からないことがあったら何でも聞いてちょうだいね」
カナエがそう言葉を続けながら結火の隣に腰を下ろす。それを見たしのぶが顔をしかめた。
昨晩と同じように全員で手を合わせ、挨拶をし、朝食を食べ始める。結火はそんな環境にまだ慣れることが出来ず、落ち着かない様子で食事を食べ終わった。
食事の後、カナエが、
「それじゃあ、今日からお仕事ね!頑張りましょう!」
と言いながら拳を上げる。結火はやはり無言で頷いた。
午前中はカナエに付いて行きながら、隊員達の検温や問診、食事の介助、怪我の処置を行う。元々、隠だった時も怪我の手当ては日常茶飯事だったため、これくらいは問題ない。カナエの指示を聞きながら、素早くてきぱきと働き続けた。
昼食を取った後は、カナエとは別行動となった。
「これから私は、隊員の方々の診察をするから、結火さんはアオイのお手伝いをお願いできる?」
そう言われたため、アオイと共に洗濯や掃除、使用した道具の後片付けなどを行う。
「結火様、これから機能回復訓練を行いますので、訓練場へ行きましょう」
家事を中心に作業を終わらせた後、アオイに声をかけられて、結火は頷いた。アオイに付いて行きながら、説明を受ける。万全の状態ではない療養中の隊員たちに、体力を戻すための機能回復訓練を施しているらしい。訓練場へ到着すると、そこには既に数人の隊員達とカナヲ、そして、きよ、すみ、なほの三人娘が待っていた。
「いずれは結火様にもやっていただく事になりますが、今日は初めてなので、近くで見学をしててください」
と言われたため、訓練場の隅っこで正座をする。そのまま静かに機能回復訓練を見守った。
最初にきよ、すみ、なほによって、隊員達は身体をほぐされる。相当痛いのか、訓練場に呻き声が響いた。
次に湯呑みを使用して、反射訓練が行われる。湯呑みに入っているのはお茶ではなく、強い匂いの薬湯のようだ。アオイとカナヲは情け容赦なく薬湯を隊員にぶっかけていた。
最後に行われたのは全身訓練だった。簡単に言うと、鬼ごっこだ。隊員達は全力で身体を動かし、アオイとカナヲを追いかけていた。
「……」
結火はそれを黙って見学する。全てが終わり隊員達がヘロヘロになりながら訓練場から出ていった後、アオイが結火の方を振り返った。
「訓練はご理解いただけたでしょうか?何か不明な点があれば仰ってください」
そう言われたため、結火は少し考えてから口を開いた。
「……私は、肺の機能が低下しているので、……医者から激しい運動は禁止されています……、ですから、最後の全身訓練は、少し厳しいかもしれません」
そう言うと、アオイがなるほど、と言うように頷いた。
「では反射訓練の方は大丈夫ですか?」
そう尋ねられ、結火は頷く。
「では、今から私とやってみませんか?ちょうど薬湯も余っていますし……」
そう言われたので、結火は立ち上がってアオイの方へ向かった。薬湯を見つめながら、アオイと向かい合って正座をする。その時、
「あら、それじゃあ、私がお相手しましょう」
と声がした。結火が振り向くと、そこには笑顔のしのぶが立っていた。
「え、し、しのぶ様?」
アオイが驚いて声を出す。
「アオイは疲れているでしょう?結火さん、私がお相手しますから」
そう言いながら、羽織を脱いで、アオイに手渡す。そして、結火の正面に座った。結火は何も言わずその姿を見つめた。
アオイは困惑したように二人の顔を見ていたが、やがて審判をするべく口を開いた。
「では――」
しのぶは笑顔で湯呑みを見つめ、集中する。
「はじめ!」
アオイの声が響いた瞬間、二人の手が動いた。
数分後、仕事が一段落したカナエが訓練場を訪れたところ、そこには、
「し、しのぶ?」
全身薬湯まみれのしのぶの姿があった。先程の笑顔は完全に消失している。顔全体が引きつり、唇がピクピク痙攣していた。一方、結火には一滴も薬湯はかかっていない。涼しい顔で湯呑みを片付けていた。カナヲは冷静な顔でしのぶの顔を手拭いで拭いており、アオイと三人娘はオロオロしながらしのぶを見つめていた。
なんとなく何があったか察したカナエは苦笑した。
「――取りあえず、皆で後片付けをしましょう。しのぶは身体を洗ってらっしゃい」
しのぶはその言葉に何も答えず、素早く湯殿へ向かった。
「信じられない……一度も勝てないなんて……やっぱり腹が立つ……」
しばらくして、しのぶがブツブツ言いながら湯殿から出てきた。
「珍しいわね、しのぶが負けるなんて……」
外で待っていたカナエが声をかけてきた。しのぶは顔をしかめて悔しそうに、
「……油断していただけよ」
と小さく言った。
しのぶは速度に秀でた剣士だ。薬湯と湯呑みを使った反射訓練にも、もちろん勝つ自信があった。というか、負けるわけないと思っていた。少しくらい手加減してあげようかしら、とさえ考えていた。しかし、
「……病気で辞めたとはいえ、やっぱり柱だった人、なのね」
数回の勝負で、湯呑みを掴んでは抑え、掴んでは抑え、を繰り返し、最後に薬湯をぶっかけられたのはしのぶの方だった。結火の動きは目で追うのがやっと、と言えるほど素早かった。
全戦全敗、という結果に屈辱を感じて、しのぶはうち震える。
「まあまあ……、そんなに怒らないで、しのぶ」
カナエはそれを必死に宥めるが、しのぶは怒ったまま、
「――次は絶対負けない。あの人に飛びきり匂いの強い薬湯をぶっかけてやるんだから」
と、呟く。そして、
「姉さん、仕事に行ってくるわね。遅くなるから」
日輪刀を手に任務へと向かった。
「……負けず嫌いねえ、本当に」
残されたカナエは苦笑しながら呟いた。
夜、全ての仕事と夕食も終わり、結火は縁側に座っていた。初日は特に失敗はなく順調だったが、慣れない仕事に少し疲労してしまった。
今日は早めに床に就こうと思っていたのに、昨夜と同じくやはりなかなか眠れない。ぼんやりと縁側に座り、蝶屋敷の庭を見つめた。その時、誰かの気配を後ろから感じた。振り返らなくても、誰なのかすぐに分かった。
「やっぱり、眠れないの?」
カナエに声をかけられて、結火は頷く。
「何か飲み物でも持ってきましょうか?」
「……結構です」
結火が答えるのと同時に、カナエが隣に腰を下ろした。カナエの強い視線を感じたが、結火はそちらには顔を向けずに庭を見つめ続ける。
しばらくの沈黙の後、カナエが口を開いた。
「――綺麗ね」
「……何がでしょうか?」
「あなたの、お顔。瞳ももちろん綺麗なんだけど、……お顔も、想像していたよりずっと、ずっと、綺麗。凛々しくて、きりっとしていて……、そういえば煉獄くんとはあまり似ていないのね」
その言葉に軽く頷く。
「よく言われます。……弟達は父親似で、私は母親似なので」
「そう、お母様似なのね……」
カナエが呟いて、また沈黙が下りた。しばらくして、今度は結火が口を開いた。
「……胡蝶様」
「うん?」
「まだ、私のことが好きですか?」
「当たり前でしょ」
間髪入れず答えが返ってきて、結火は目を伏せる。カナエが不思議そうな顔を向けてきた。
「どうしてそんな事を聞くの?」
そう尋ねられて、微かに目を泳がせる。そして、途切れ途切れに結火は言葉を出した。
「……うまく言えないのですが……、胡蝶様は、……その、……ご自分の気持ちを勘違いされているのでは……」
「勘違い?」
「……四年前に……私と会っていたことを、お忘れになっていたようですが……恐らくは、無意識に分かっていたのでは、ないでしょうか。その事に対して……私に対して、……その、強い感謝の気持ちを持っているだけで……、それは、……恋、と……思い込んでいるのでは、ないかと」
それはずっと思っていたことだった。カナエが自分に向ける気持ちは、助けたことによるただの感謝であり、恋ではないのではないか、と。無意識に大きな感謝の気持ちを抱いて、それを自覚していないだけではないか。感謝の感情と、恋愛感情は違う。恋に無縁な結火にさえ、よく分かる。それは完全に別物だ。
「……ですから、……その……好きなのではなくて……」
「結火さん」
カナエが名前を呼んだ。それに反応して、顔を上げると、カナエが少し困ったような顔をしていた。
カナエが手を伸ばし、結火の手を優しく掴む。
「ねえ、触って」
そう言われて、眉をひそめた瞬間、カナエが結火の手を引いて、自身の胸に当てた。豊かな胸に手が触れて、動揺のあまり思わず声を出す。
「こ、胡蝶様――っ」
「分かる?ドキドキしているの」
慌てて手を離そうとするが、カナエがそれを許してくれなかった。強い力で、心臓の位置に手を当てさせられた。ドクドクと鼓動が伝わってくる。それを感じて、結火は震えた。
「ね?分かるでしょ?」
「……」
コクリと頷くと、カナエが微笑んだ。
「あなたと、一緒にいるだけで、こんなにも心臓が跳ねるの。自分でも、胸の高鳴りを抑えられないほどに。……だから、ね、感謝の気持ちだけでこうなったりはしないわ」
「……」
結火が黙っていると、カナエが今度はクスクスと笑い出した。
「どうして、笑うんですか?」
「あのね、ユウさん……私ね、冷静なふりをしているけど……あなたがここに来てから、ずーっと落ち着かないの。幸せで、……ソワソワしちゃってる」
「……」
「あなたがすぐ近くにいるってことが、嬉しすぎて……胸がギューっとなってね、何も手が付けられないくらいなのよ。必死に隠してるけどね」
「……そう、ですか」
やっとのことで短く答えると、カナエが結火の耳に唇を寄せてきた。
「――今この時も、……あなたと一緒の時間を過ごせて、どうしようもないくらいの幸せを感じてるの。でもね、足りない。あなたにもっと触れたい……これでも、必死に我慢してるのよ」
「……」
「あなたの事が、好きよ、結火さん。何度でも言うわ。世界でただ一人、あなただけが好き」
断言するように言われて、思わず耳を塞ぎたくなった。顔が熱くなる。顔を隠せる頭巾はもうない。唇が震えた。
認めたくなかった。しかし、たった今自覚した。
目の前のこの人に、“好き”と言われた事に対して――
心から、喜びを感じていた。